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インプットがなかったり、書きたいことがあるんだけれども対象が大きすぎて数日かかってもまとめられなかったり、忙しかったりして更新ができずにおりますが、息抜き的にRMXの整備を。

先日、月刊ガルルの取材にRMXを持って行ったところ、石井正美さんに「メーターギヤの位置がおかしいよ」と指摘された。正しい位置から前方向に回転している、たしかにおかしい。たぶんこのままけっこう乗ってしまっていた。正常に動いているし。

後日、十数年ぶりに中津川林道などを走りに行ってきたのだが、走り出してすぐ、メーターが動いていないことに気づいた。石井さんに指摘されたときに直していれば…と思っても仕方がない。スピードメーターはなくてもほぼわかるが、走行距離を見ながら走るため、トリップメーターは必須だ。

帰宅後、どこが悪いかをチェックする。

メーターギヤそのものか、ワイヤーか。まずメーターギヤを見ると、ギヤの直上、ケーブルが不自然に折れ曲がっている。これか…と思ったが、とりあえずギヤそのものもチェック。こちらは正常に作動するようだ。







次に、ケーブル。ヘッドライトをはずし、その裏にあるメーターに突き刺さっているケーブルケースを外すと、ケーブルが出てきた。ケーブルは四角い断面をしている。ギヤを回しても、まったく動かない。ふとつまんだら、ズズズっとケーブルが出てきてびっくりした。どこかで切れている。

ギヤに戻ってケーブルとの接合部を取り外すと、ギヤのすぐ上でねじ切れていた。ここで初めて知ったのだが、メーターケーブルはスプリング状なんだな。それを、メーターへの差し込み口付近だけ、断面が四角になりように加工してある。なんどもメーターの脱着で抜き差ししているくせに、全く気づかなかった。




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(画像はamazonより。amazonにリンク)

八馬さんがオランダに滞在しているときはtwitterで、その後もブログ何かからはみ出した、もうひとつの風景で散発的にそのご覧になったドボクを拝見してきたが、それとこれとはまったく違う、というのが第一印象だった。見たこと感じたことをきちんとトータルでまとめることの大切さが、ここにある。

写真も真摯だ。それぞれ現地で可能な限り「それがかっこよく見える場所」まで歩き回り、周辺の人がいなくなるまで待ち、撮影されているものと思う。そして、移動中のエレベーター内や、高架橋を走る電車などのシャッターチャンスも逃していない。



それぞれの専門用語の解説はないが、流れるように文章に組み込まれていて、知らない人はそのまま読んでも話として通じるようになっている。その合間に時折、ざっくばらんすぎる表現が顔を出す。「胸焼けして気持ち悪くなっちゃう感じだ」などという日常感覚の比喩は、おそらく土木や建築の専門家が書くものとしては相当に冒険だろう。

例えば、デルタワークスや運河エレベーターのキャプションにある
「脳みそがしびれてしまう」
「説明することは難しいのだが、あまりにもばかげているので調べてみてほしい」
「水色と黄色のゆるキャラコーデ」
といった言い回し、私が担当する本で著者がこういう風に書いてきたらいろいろ悩むと思うが、これで押し切った編集者はすごいと思う。大きく勉強になった。



本書は「すごいから見て!」という姿勢で一貫している。先に「見たこと感じたことをきちんとトータルでまとめる」と書いたが、とはいえ、絶対に存在するはずの、著者の得た感覚や知見はかなり隠されている。本書らしいし、これはガイドブックのセオリーでもある。

実はいま、著者の主観こそが求められていて、そこにこそ本の商品価値があると私は信じているのだが、よく考えると、それを実現するにはそのジャンルの基礎的な本が相当充実していなければならない。ドボクのガイドブックが充実しているとはいいがたい現在、まずは基礎となる本書では、まだそこまでいかず、「すごいから見て!」という紹介が最適だと感じた。その上で、いつか主観ばかりのドボクガイドブックが出たら、そのときが、ドボクが一般性を得たときということができると思う。



まったく枝葉末節の話で恐縮だが、現地でカメラを更新したのではないか。掲載されている写真の画質が2パターンある気がする。

 
JR羽越本線三瀬駅に向かう人をインターセプトするように立ちはだかる、日本海東北道の三瀬ICの看板。駅に向かっていた優先道路を行くと、うっかり高速道路に入ってしまいそうだ。

…と思いきや、右折してもこのとおり。この先、対向車の行き違いもちょっと困難な細い道を通り、三瀬ICにつながっている。

駅と、この距離で高速道路の入口を案内している看板はないのではなかろうか。

三瀬駅は、かつての国鉄新潟鉄道管理局管内にあったカプセル駅舎を想起させる。これで各部にRがあれば「兄弟」なのだが。建物財産標などを確認してくればよかった。

<参考>
カプセル駅 古津駅
カプセル駅 妙法寺駅
カプセル駅 上下浜駅

 


spcl.thnx 丸田祥三さん
「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」(内田祥士)
電柱のない仮想空間の続き。

東洋大学朝霞キャンパスの、ライフデザイン学部創立10周年を記念したシンポジウム、仲綾子准教授による「建築写真には、何故、人が居ないのか」というテーマが写真論的におもしろく拝聴した。

http://www.toyo.ac.jp/site/hld/72468.html

仲さんは、学生の頃から、なぜ「建築写真」には人が写っていないのかを疑問に思っていたそう。「建築写真」とは、建築雑誌に載っているような、竣功写真やそれに近い写真をいう。そこに写っているのは「作品」であり、ほとんどの場合は人が写っていない。



個人的に、「建築」というのはとても特殊な世界に感じていて、よく趣味者が「鉄道趣味は怖いから手を出さない」というように、私 は「建築が怖い」。私が知っている建築界隈の方々の持つ視点や洞察に圧倒されるということもあるが、あるいは「建築鑑賞」には世界の芸術史にすら通じてなければならない気もする。

後者のそんな敷居の高さを感じる象徴が建築写真の存在だ。人が写っていない、無機質な、説明的な写真。心を揺さぶるような「作品性」のある写真ではない、絵葉書のような美しい写真。内輪のロジックで作られた世界。そんなイメージだ。

このことは、仲さんに限らず、他の建築関係者も、建築雑誌関係者も意識している人もいるのだ、ということを知ることができた。私はなんとなくしか建築写真を知らないので、ここでは「パースが補正された、人が写っていない、竣功写真」を「建築写真」として話を進める。的外れなことを書くかもしれないが、そのあたりはご容赦いただきたい。



仲さんの気づきと考察がいくつも展開されたのだけれど、特に印象に残ったのはプロポーザルと竣功写真の話。それは、こうだ。

建築コンペがあるとする。その建築のプロポーザルはイラストであり、そこには、建築内を闊歩する人が描いてある。しかし、描かれた人物には個性も人間性もなく、ただスケールの参考、使用例として放り込まれているだけだ。そしてそのコンペを勝ち取り、実体化したあとの竣功写真には人が写っていない



また、仲さんは「建築家は、建築家のために建築を考えてきた」(伊藤豊雄。『対談集 つなぐ建築』隈研吾著)という言葉を引き、建築雑誌を見るのは専門家であり、独自の文脈があるからこれでよい、建築雑誌は、その文脈に乗っているから、これでよいと思われていることを解説する。この説は、建築誌の編集長だったという観客の方(お名前は覚えているが、どの媒体化わからないのでここでは肩書きとする)からの
・竣功写真は人がいないのは「できた瞬間が最高の状態、あとは劣化していくだけ」だから
・建築家は受注の時点で巨額(=パトロン)を得て自分の思想を入れていく。自分に仕事が来る仕事作りをしているので、「作品の写真」を残す
・人がいないと「作品」、いると「作品ではない」。人の存在のインパクトは建築を超える、建築がかすんでしまう
というような話で補強された。



ほかにもいくつもの気づき、そこからの考察があったのだが、つまりは「写真論」に収斂していく。それはそうだ、建築写真「家」が何人もいるのだから。

現在、建築界隈は、「建築写真家」の写真論のみで展開しているようだ。しかし、『CASA BRUTUS』等に掲載される建築は、人がたくさん写っている。これは、『CASA…』に携わるカメラマンが「建築写真家」の配下にいないために起きたいい例だ。

私が思ったのは、建築写真も、後述する土木構造物写真も、「写真に記録して、そこから読み取る」ことが主眼だから、人を排除しているのではないかということ。被写体だけを見つめたいという状況は、確実にあるのだ。



「建築写真」というのは、鉄道写真でいえば、竣功写真と同じ文脈を持つ、完成された形だ。



これは西尾克三郎の代表作のひとつで、汽車製造会社(現・川崎重工)による竣功写真だ。鉄道写真というのは長らくこうした「車両の姿を記録するもの」が正統とされていて、いまの鉄道趣味誌(車両を対象とするものが多い)もその多くは形式写真ないし「編成写真」で占められている。

形式写真にはいくつかセオリーがあって、高曇りの日に、足回りまで明るく、「シチサン」で、1エンド(「前」と定義される部分)が左、蒸気機関車であればメインロッドが一番下にある、電気機関車や電車であればパンタグラフが上がっている、窓が全部閉まっている、など、まさに建築の竣功写真と同じ感覚だ。

鉄道写真は、その趣味人口の多さから、さまざまな「鉄道写真」に分化した。「作品」を撮る個性的な写真家も数多く、web上でもいろいろな写真を見ることができる。しかし、建築については、関心を持つ人の多さに比べて、あまりにも、愛好家の間での写真が発展していないのではないか。



このように、遠近感が生じることを端から諦めているのは、いかがなものか。



などと考えても、建築は、被写体が大きすぎ、動かすこともできないし自分の立ち位置も限られるというように、制約があまりに大きいから、鉄道写真と同列に言うのは酷だろう。これは、私が橋や土木構造物の写真を撮るときにも常に感じていることで、どうやっても、やはり、「もっとなんとかならないのかよ」と悶絶するような撮り方しかできていない。

 
 

建築写真は「土木写真」とも通じる、写真表現としては、ひとつの完成した型はありながらも、まだまだ愛好家による「これから」が期待できる分野だと思う。そのためには、ダムや道路の写真のように、写真から読み取るのが目的「ではない人たち」がたくさん出てこなくてはならない。そういう写真が、もう少し、建築写真の中で勢力を持ってもいいのかな、と感じる。

建築写真の手法を他のものに応用する手法は、近年、多く見かける。いまや、アオリができる撮影システムでなくても、PCで簡単にデパースでき てしまう。デパースしたものを羅列して眺めると、本来のパースを捨象できるので、新たな気づきも出るし、その表現そのものが新鮮だ。もちろん、そこには人影はない。そんな写真の流れがあるのに、本家である建築写真に逆行しろというのも妙な感じがしないでもない。

いま、鉄道マニアではないごく普通の人も、「電車の写真」は日常的に撮っている。建築や土木も、そういう被写体になったら、もっと、建築の敷居は下がるのかもしれない。


「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」(内田祥士)の続き。

大変興味深いバーチャル空間の存在を教えていただいた。それは、GoogleEarthの世界である。

見慣れた日常。Googleのストリートビューは、もちろん電柱も電線も写っている。ところが。

同じ場所を、GoogleEarthでポリゴン表示させたものだと、こうなる。人もいなければ電柱もない。電線もない。上空は、イメージとして青空になっている。どこまで歩いて行っても、人はいない。

「電線がない世界」はよい景観だと言われることが多いが、こうしてシミュレーションできるとは思いもつかなかった。



内田氏は、もう一つ、おもしろい観察を披露していた。それは、「電柱は建て替えるたびに背が高くなる」というものだ。よんますさんに、水戸芸での展示に「電柱は電信が先、電線はその20年後」というふうに書いてあったとお聞きした。電柱が多目的になれば、背は高くなる。ましてや最近のいろいろな自由化で、電柱を利用する会社は増えているだろうし、配電の電圧も高くなっているかもしれない。

先日、椎名町あたりだったかな、で見つけた3段のテーパー状になった電柱。高くなるとさまざまな改良が進むのかもしれない。








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