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神戸市に「神戸水道」という上水道用の導水ルートがある。水源は千苅(せんがり)ダム。武庫川の左岸川の支流、波豆川を堰き止めたダムで、そこから水路隧道で南東に向かう。途中何ヶ所か地上に顔を出して谷を水道橋で越え、また山にもぐっていく。やがて宝塚市生瀬付近で武庫川を渡り、上ヶ原浄水場(下記地図の緑のアイコン))に至るというルートだ。

概要は地図をご覧いただきたい。

より大きな地図で 神戸水道 を表示
福知山線の旧ルートにある分格トラス、第二武庫川橋梁を見に行ったとき、偶然、この神戸水道の水道橋を目にして驚いた。ボーストリングトラス!?(この橋を便宜上「レポートの(1)」とする。冒頭地図の黄色アイコン)。

20110102-01.JPG1本の下路トラス橋(写真左、水源地側)と1本の下路プレートガーダー橋(写真右、浄水場側)で武庫川を渡っている。

橋脚は石積み。この区間の建設工事は1914年(大正3年)以降である。なお、廃止となった福知山線(旧線)の開通は1899年(明治32年)。すでに稼働していた鉄道隧道の下に水路隧道を掘ったことになる。

ここは、写真に見えている隧道をくぐると第二武庫川橋梁にぶちあたるのだが、隧道は水路隧道と交差しており(鉄道が上)、鉄道隧道を抜けると水道橋のはるか向こうに行ってしまう。これ以上近づくには河原に降りるしかない(降りてる人はいた)。

20110102-02.JPGトラスを拡大する。これは曲弦プラットトラスなのか? そともボーストリングプラットトラスなのか?

実は両者を明確に分ける定義を私は知らない。両者は形態の差異による強度の違いでしかなく、荷重を負担する構造としては両者とも同じトラス構造である(と理解している)。

ボーストリングトラスだと考えてみた場合、その特徴(短所)である「橋門構を持たないので端部の強度が弱い」ということに外れる。橋門構はある。また曲弦プラットトラスだと考えた場合、あまりに扁平すぎないか(どこまでの扁平を許容するかは知らない)。端部の斜材は確実に45度以下だ。ワーレントラスでも45度程度が最小なのに。ここでは話を膨らませるためにボーストリングトラスということにして進める。


このあと、河原まで降りることはせずに第二武庫川橋梁まで往復し、停めておいたクルマをUターンさせようと武田尾駅に向かったそのとき、これが目に入った。

20110102-03.JPG2連のボーストリングトラス! 写真は東側(武庫川下流側)からのもので、写真左が水源地側、右が浄水場側。渡す水道管は、手前とその向こう側の2本、並列でなくて半分重ねて渡されている。これを便宜上。「レポートの(2)」とする(冒頭地図のマゼンタのアイコン)。

20110102-04.JPG西側から。ここで水道管はいったん頭上の高さまで上がる。その先はプレートガーダー(リベット結合)で道路を渡る。その持ち上げる部分の橋台は、橋脚と同じく石積みだ。

20110102-05.JPGこの水道橋はには意匠が凝らしてある。例えば端部の処理。こんな美しい曲線を描いている。

2011010299.jpgふたつ上の写真の一部をトリミングしたここなどどうだ。立ち上がる水道管を支える部材のRとその肉抜きの楕円。立ち入りを禁ずる柵は、まるで洋館(←なんと曖昧な言い方だろう)の窓の柵か花壇の柵のようだ。


さて、冒頭の地図のとおり、ここで紹介した以外にも2ヶ所、このトラスが架かっているようだ。一つ目は水源地側、千苅ダムの西、川下川ダムの堰堤の手前。冒頭地図の水色アイコンの場所だ。


衛星写真で見ると、ちゃんとトラスが見える。川下川ダムは1977年(昭和52年)竣工なので、古い航空写真を見るとまだ造成中だったりする。水道橋は推定標高140m(等高線から)、ダム水面は標高164m、ダムの放水路はおそらく水道橋の10m以上下。

もう一ヶ所は福知山線宝塚駅-生瀬駅間で武庫川を渡る場所(冒頭地図の朱色のアイコン)。ここはストリートビューで見ることができる。

大きな地図で見る

上のストリートビューは右岸から。そして、水道橋で武庫川を渡ると、神戸水道は地中に潜っていくのがこのストリートビューでわかる。

その後、国土地理院の地形図を見る限り、何回か谷や川と交差するのであるが、水道橋で渡っている部分はなさそうである。おそらく地下を通っているものを考える。



廃線跡で偶然見つけた水道橋が、思いも寄らずに神戸市民の上水として由緒のあるものだったことは感慨深い。惜しむらくは、上記「レポートの(2)」の写真をもっと撮っておくべきだったことだ。大きな反省点だ。

いや、最大の反省点は「ボーストリングトラスと扁平な曲弦トラスの違いを言えない」ことだろう。この点について、ご存知の方はぜご教示いただきたく、お願い申し上げます。

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20110101.JPG2010年。
twitterのおかげでさまざまな方と出会うことができました。交流を持っていただいた方、表面的には交流はなくてもツイートを楽しませていただいている方、すべて貴重な出会いに感謝申し上げます。

2011年。
旧年以上のおつきあいのほど、よろしくお願い申し上げます。
また、すべての皆様の健康を祈念いたします。
マナブの回復を心から祈る。

2011年1月1日 磯部祥行 廃拝

20101230-07.JPG

先日、駅改築による駅前広場の出現というポストで、鉄道路線の高架化で駅舎が改築され、さまざまなものが失われたことの例を、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅について書いたが、ここ糸魚川駅もまたそうなる予定である。しかし、いまはまだ、駅が駅らしい存在感を持っている。率直に言って、その存在感に驚いた。糸魚川駅と言えば、駅裏(あえて「裏」という)にあった煉瓦造りの矩形機関庫が取り壊されたことが話題に上るが、私はそっちよりも表側に関心を持った。

1957年(昭和32年)に改築されたという現駅舎は、向かって左手、分度器みたいな屋根の下が待合室。その右、白飛びしている3枚のドアがコンコース。ドアを直進すると改札口だ。そこから右すべては運営側の施設。向かって左手にコンビニが続いているが、基本的には国鉄時代と変わらぬレイアウトだ。

待合室にはイスがたくさんあり、列車を待つ人がいる。地元らしい、長ズボンに黒いゴム長靴を履いたおじさんもいれば、時節柄(訪ねたのは12月29日)帰省客もいる。中学生や高校生もたむろしている。

駅というのは人が集まる場所である。いつまでいてもいいような、でも監視の目もある公共の場。そんな場所だから、鋳鋼製中高生が帰らずにだらだら話をしていても、とくに嫌な光景にはならない。一方、先日書いたような高架駅では人々がとりつく島がなく、監視の目もあってないがどときなので、非常に嫌な光景になる。そんな意味で、この糸魚川駅は昔ながらの構造が非常に好もしい空間を作り上げていた。


駅前に出た。真正面を見る。
20101230-10.JPGこの真正面の道路を真っ直ぐ先に見えているのは日本海だ。そして、その直線道路の両側には、雁木のある商店会。それも、シャッター商店街ではなく、店店に明かりが灯っている。

駅前のタクシーはほどほど。こぢんまりしたタクシープールがちょうど駅の規模にあっているように見える。

左にカメラを振る。
20101230-12.JPG

駅前に書店があり、ホテルがあり、地元の旅行会社がある。それらが現役であることのうれしさ。さらに左には、アヤシゲな店が入る雑居ビル。その店も現役。

右に振る。
20101230-11.JPG

駅前ロータリーにありがちな標柱と、その向こうにはラーメン屋やら駅弁屋やらが、変にこぎれいにならずに築数十年の建物で営業している。

これをさらに右に振ると「ヒスイ王国館」というテナントビル(?)があり、ヒスイやお土産を売っていたり、いくつかの飲食店が入っていたりする。いなかびていて、とてもいい雰囲気だった。

上の写真で「ラーメンとん太」の看板が出ているのは駅前旅館だ。
20101230-02.jpg写真左の白い建物は建設会社兼県議会議員の事務所だった。いい感じじゃないですか?

こうした雁木のある駅前商店街は、柏崎や六日町、十日町にもある。たぶん、ほかにもいっぱいある。

20101230-03.jpg糸魚川がいいなと思ったのは、こうした商店街がみな営業しているということだ。昭和50年代かと思うような玩具店が2軒もあり(左写真はそのうち比較的明るいほう)、洋服店やスーパー、ヒスイ店もあった。だいたい、奥でおばちゃんがちょこんと座って店番している。だから冷やかしで入るには勇気がいる店ばかりではあったが、地元の人たちはきっとそんなことは気にしていなくて、「ごめんください」と言って戸を開けて入っていくのだろう。

いま「戸」と書いたが、ドアではない。ほとんどの店は手動の引き戸。商店・住宅問わず、雪国では、ドアではなく引き戸が多い。ドアは外側に開くため、もし雪がドアの前に積もると開かなくなってしまうのだ。私の実家の玄関も引き戸だが、それでも雪が吹き付けると開きづらくなったものだ。

こうした商店街が残っているのは近くに大規模スーパーがないからなのか。上越市か富山市にはでっかいのがあるけれど。それくらいの距離感だからなのか。どこかそういう都市があった気がするけれど、思い出せない。


こんな糸魚川駅前が、再開発されてしまう。詳細はこちら(以下の画像はすべてそこから引用)。

現在、駅「裏」に建設が進む新幹線高架橋を中心に新しく橋上駅として作り直し、いまの駅舎は解体、その分駅前広場が広がるのだ。印象としては、例によって「駅が引っ込んだ」ものとなる。

「南口駅前広場」としてロータリーが描いてある部分、ここは民家が建っていた。それを潰してまで、駅前広場を設け、接続道路を造るのか。

かつての米原駅のように、新幹線ホームだけプラスしたような構造にすれば、いまの「駅前」の枠組みを変える必要もなく、街の表情を変える割合がかなり少ないのに。橋上駅舎化・高架化で、いま明かりが灯っている駅前商店は、間違いなく暗くなってしまうだろう。人が歩かなくなるからね。最初から、奥に引っ込んだ新駅に行ってしまう。

この糸魚川の雰囲気を感じることができるのもあと1~2年と思う。夏に再訪したいと思っている。

(2014年2月1日追記)

watanabejinさんが改築なった糸魚川駅と訪問されたレポートはこちら。駅前の雁木が! こういう変化の記録を個人ですべて残すことはできないけれど、連携すれば、何年後、何十年か後の人の役に立つのだろうなあと思う。
北陸新幹線糸魚川駅と煉瓦車庫 (糸魚川市大町)


(追記ここまで)



おまけのように跨線橋。
20101230-06.JPG古レールが使われたプラットトラスタイプ。

内部はこう。
20101230-05.JPG
清水国道開通時に架けられた「鷺石橋」をルーツとする旧橋


20101229-07.JPG



国道120号が利根川を渡る区間にある旧橋。現在の鷺石橋は1970年(昭和45年)に架けられたもので、その隣りに古い2連のプラットトラスが歩道橋として残されている。それが、今回紹介する鷺石橋である。

形状としては、端柱のないガセット結合のプラットトラス。
20101229-11.JPG写真は利根川右岸側(橋の南西側)。手前(画面右)、橋の路面の高さと現在の路面の高さに大きな差がある。歩道橋とはいえ、かなり強引に接続している。

その、南西側。
20101229-10.JPG手を伸ばせば届くような位置に、橋門構がある。路面は階段状になっている。

ざっと渡って北東側。
20101229-01.JPG手前にクルマが停まっているのが残念だ。

よく見ると、トラスの手前にコンクリート製の橋が見える…?

20101229-06.JPG横から見ると、こんなコンクリートアーチ橋が架かっていた。親柱がある。

左。
20101229-03.JPG
前橋まで三十四粁

右。
20101229-02.JPG<さ>=消えてる
<ぎ>=消えてる
(以)=い
(志)=し
(者)=ば
(し)


それにしても、この親柱の冷遇っぷりはどうだ……。

トラスに近づき、見上げると銘板がある。
20101229-14.JPG昭和四年
株式会社浅野造船所製作
○○○○ ○○○
東京 ○○○○○
東京 浅野小倉製作所(?)


20101229-12.JPGプラットトラスは、斜材が逆ハの字型になり、中央部分は交差するようになっていることが多い。この鷺石橋は、交差する斜材をボルトで結合している。ピントラスの場合はここにピンがjはいることがある。

また、この写真でわかるとおり、レーシングは目が粗い。

2連の桁が向きある部分。
20101229-08.JPGこの、向き合った部分の支承をのぞき込むと…

20101229-13.JPG連結されていた。これは地震対策かもしれない。


また南西側に渡り、支承を見る。

20101229-04.JPG20101229-05.JPGピン支承。


渡りながら、ふと上流側の真下を見ると、こんなものがある。
20101229-09.JPG
明らかに、さらに古い橋の橋脚の痕跡。通常、こういうものは河川の流れを阻害するので、相当きれいになるまで除去を求められるのに、なぜ残っているのだろう?

サイト「産業技術遺産探訪」さんでは、1885(明治18年)に清水国道として木製トラス橋が架けられたときの橋脚だと結論づけている。「1896年(明治29年)7月の利根川大洪水で流失してしまいました。」とある。しかし、トラスを木製にする時代に、ここまでの立派な石造りの橋脚を用意するものだろうか? また、
1929年(昭和4年)に下流側に「鋼プラットトラス橋」が竣工しました。」
とも書かれているので、1896年から1929年まで、この地に橋はなかったのだろうかという疑問が湧いてくる。

木製トラスを第1世代とすると、この橋脚を使っていたのが「第2世代」、今回紹介しているプラットトラスが第3世代、そして現役の国道120号の橋が第4世代となる。この橋脚は第2世代のものではないか…と考える。第1世代は時代的に写真が残っている可能性はかなり低いと思うが、第2世代はないこともなかろう。『ぐんまの橋100選』を見てみたいと思っている。


歴史的鋼橋集覧のページはこちら。
20101227.JPG自宅の、かっこよく言えば「書斎」、普通に言うと「自分の部屋」の片付けをする必要が生じた。あまり見返しもしないけれども捨てるわけにも行かない1000冊を越える鉄道雑誌、これらをどうするか、長年の悩みだったが、とりあえずひとつ自炊してみた。

RailMagazineの11月号をバラす。この、本をバラすという行為は、普通の人にはかなり抵抗があるかもしれない。私は仕事がらよく本の解体はするが、自分で買った鉄道誌をバラすのには抵抗があった。

表紙を剥く。するとノド(綴じてある側)側、しっかりと糊付けしてあるので、端部から5mmほどのところにカッターの刃を入れる。普通の小型のカッターを使用したが、おそらく100回以上、刃を走らせた。小型のものは、刃の薄さや強度の点でおすすめできない。大型のものをおすすめしたい。

バラした後、ADFつきのスキャナにかける。設定は200dpi。「両面スキャン」にしたら、なぜか天地方向がおかしくなったので、片面、偶数ページだけをスキャン。ついでもう片面、奇数ページだけをスキャン。スキャン後は1ページがひとつのPDFファイルになる。その後、それぞれファイル名をノンブル(ページ番号)につけかえ、同じフォルダにまとめて結合。結合後、横倒しになってしまった前ページを一気に回転させて終了。

最初から最後まで、30分以上はかかった。けっこう大変な作業だ。ファイル名変更やPDFの操作もけっこう煩雑。PDFをいじるソフトはフリーウェアを使用したため、いささか使い勝手が悪かった。


こうしてRM11月号が80MBくらいのファイルになった。
RMと、1990年以降のRFはすべてこれやりたいなと思っているが、問題はRMは大きすぎてA4のスキャナにかからないということだ。さてどうしよう。なお、テストはA3対応のスキャナを使用した。
小松駅が顕著だった。高架化されているのだが、あまりに駅前通りがガランとしている。貨物扱いや荷扱い、郵便扱いまでしていたかつての駅と異なり、旅客しか扱わなくなった駅は、改築される際にずいぶんとスリムになる傾向があると思う。よく、高架化で「町を分断している鉄道を高架にすることで、東西(←例)の交流のある街作りを進めます」みたいなことが謳われるが、大都市部でもない限りそれは幻想なんじゃないか。小松駅のような例を見るたびにそう思う。

かつての大きな駅は、旅客の他に、貨物や荷物、郵便も扱っていた。まだ、車両折り返し用の基地も併設していた。そのために広大なスペースを有していたのだが現在の駅は旅客しか扱わないので、その他の設備を撤去してしまった結果、駅前商店街の位置はそのままに、駅が引っ込んだ形になる。そうして、商店街と駅との間にだだっ広いスペースが生まれる。

とはいえ、小松は古い航空写真と見比べても顕著にわかるわけではない。訪れたときは土砂降りで写真撮る気にもならなかったし。そこで、東舞鶴駅と西舞鶴駅を見てみる。

●東舞鶴駅
20101224-03.JPGもっと広範囲に撮ればよかった。駅の周囲には広大なスペースがある。Googleマップを見てみよう。

大きな地図で見る


対して、昭和50年度の航空写真。
20101224-01.jpg(出典:国土画像情報閲覧システム)
見よ、この西北側の変貌ぶりを。東南側の側線を。

西北側。
かつては貨物側線があった。そのスペースをベースにしていまの西口駅前ができた。元々あったロータリーがあった場所を近代化している。また、一部暗渠化と水路の付け替えが行われているようだ。

東南側。
こちらは貨物測線を撤去した後、広場になってしまった。高架化された駅の両側に広がっていがちな広場がかつての線路を撤去した痕跡であることの証左である。

●西舞鶴駅
20101224-04.JPGこの広大な空き地。これこそ、かつての国鉄主要駅の名残だ。

Googleマップではここ。

大きな地図で見る

対して、やはり昭和50年度の写真。
20101224-02.jpg(出典:国土画像情報閲覧システム)
なんと大きな駅だろうか。Googleマップと比較すると、駅西側は貨物側線がそのまま駐車場になり、駅東側は同じく貨物側線が引っぱがされ、単なる空き地と化している。

なお、写真には、西舞鶴駅から東南に向かって180度の弧を描く専用線が描かれている。


これ以外にも福知山もなかなかすごかった。扇形庫まであったものが、すべて撤去された現在。ただし、Googleマップが提供する現在の航空写真は福知山駅改築中なので、ここに図示できないのが残念だ。


PC242739_R.JPG『日本の廃道』による特製カレンダーが届いた。タイトルは『隧』。美しい隧道の写真を使ったカレンダーだ(説明になってない)。上の写真は、同じくORJ特製佐和山隧道マグカップと撮った、というだけ。それ以上の意味はない。

上のような隧道写真+縦長カレンダーの裏面は、このようになっている。
PC242742_R.JPG細かく書き込まれているのは、隧道の竣工年月日や着工年月日。これ、打ち込む手間を考えるだに恐ろしい。
本日、12月24日を見たら、なにも書いてなかったが、12月30日には「大崎隧道着工」とある。こんな日に着工したのか…。

このカレンダーは1000円で、私は廃道ファンである自宅のお隣さんの分とあわせてふたつ購入。もう、特設の販売サイトはなくなっているので、これから入手できるかどうかは不明だが、ご希望ならばORJ編集部に問い合わせてみてはいかがだろうか。

なお、これに記入するのはとてももったいないので、ニヤニヤしながら見るだけにしようかと思う。でもわからんよ。ボロボロになるまで活用するかも。カレンダーってそういうものだしね。

PC242739_R.JPG『日本の廃道』による特製カレンダーが届いた。タイトルは『隧』。美しい隧道の写真を使ったカレンダーだ(説明になってない)。上の写真は、同じくORJ特製佐和山隧道マグカップと撮った、というだけ。それ以上の意味はない。

上のような隧道写真+縦長カレンダーの裏面は、このようになっている。
PC242742_R.JPG細かく書き込まれているのは、隧道の竣工年月日や着工年月日。これ、打ち込む手間を考えるだに恐ろしい。
本日、12月24日を見たら、なにも書いてなかったが、12月30日には「大崎隧道着工」とある。こんな日に着工したのか…。

このカレンダーは1000円で、私は廃道ファンである自宅のお隣さんの分とあわせてふたつ購入。もう、特設の販売サイトはなくなっているので、これから入手できるかどうかは不明だが、ご希望ならばORJ編集部に問い合わせてみてはいかがだろうか。

なお、これに記入するのはとてももったいないので、ニヤニヤしながら見るだけにしようかと思う。でもわからんよ。ボロボロになるまで活用するかも。カレンダーってそういうものだしね。

PC222728_R.JPG

12月21日(火)16時、東京地裁627号法廷にて、丸田祥三氏が長年悩まされてきた「風景剽窃」を問うた裁判の判決が言い渡されると聞き、傍聴に行った。傍聴に行くのは初めてである。

10分ほど前に法廷に入ってみたが、だれもいない。ひとりもいない。そんなものか。いったん廊下に出ると、丸田さんの話し声が聞こえた。行ってみると、待合室のようなところで、同じく傍聴に来た方3人(それぞれ別個で来ていた)とお話されていた。5分ほど前に入室すると、徐々に傍聴人がやってきた。おそらく20人くらいはいたのではないかと思う。丸田さんは傍聴人席の隅に座った。原告側席につくのではないのかと驚いた。

裁判官入室。全員起立、黙礼。柵の向こう側、原告側席にも被告側席にもだれもいない。、裁判官(と事務の人?)しかいない。そんなことを思っていると、判決が読み上げられた。

「原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」(記憶による。細部が違っていたらすみません)

読み上げた直後、裁判官らは起立、黙礼をして退席。ほとんどの傍聴人も一斉に退席。この間、ほんとに一瞬であった。メモを取ろうとしていた私も呆気にとられた。ペンを持ち直す時間すらなかった。もっとも呆気にとられたのは丸田さんであろう。判決文のなかで「盗作」の基準を明示することもなかったのだから。私を含めた数人の傍聴者と丸田さんが、裁判官が去った法廷に残った。あまりにも呆気なかったが、傍聴していた栗原景さんのお話では、民事裁判では、刑事事件と違い、法廷では認定した事実は言わずに書面で出されることが多いらしい。その書面は後刻、弁護団が受け取ることになった。のちにわかったのだが、その書面は通常よりもずいぶんと分量の多いものだったようだ。(この段落、「傍聴していた」以降、一部事実と異なっていたので修正しました)。


丸田さんに何を話しかけていいのかわからない。何しろ1998年に被告が本を出してから12年間、悩み続けたことへの答えが、数秒で読み終えてしまう単語しかなかったのだ。1998年、丸田さんはまだ34歳である。いまの私の年齢よりずっと若い。まだ「お兄さん」と言っていい年齢のころから、痛めつけられてきたのだ。考えれば考えるほど、気が遠くなる。

たぶん、丸田さんも実感がなかったのだろうと思う。場所を変えて、栗原さん、私、他の傍聴者おふたりと5人でお茶を飲んだ。18時半頃、丸田さんは記者会見に向かわれた。記者会見は「司法記者クラブ」所属の人たちしか(たぶん)入れないので、私にはどういうものだったのかはわからない。後刻、丸田さんにお聞きしたら、会見に来てくれたメディア各社は、カメラマンが同行しているということもあり、この問題の本質をきちんと理解されていたようだということだ。

記者会見の結果が最初にネットに載ったのは時事新報か。参考までにリンクを置く(どれも、いつまでリンクが生きているかはわからない)。
・時事通信
・朝日新聞
・日経
・読売新聞




PC222723_R.JPG

場所を阿佐ヶ谷の「よるのひるね」に移し、23時から、丸田さん(中央)に枡野浩一さん(右)と切通理作さん(左)がインタビューするような形でUSTREAMで「枡野書店ラジオ」が生放送された。思っていたよりも狭いスペースで、でも20人以上は来ていたと思う。この時刻なのに。夏の「盗作かもしれない」でご一緒した方や、廃道写真集製作取材でご一緒した方などもいらした。私は栗原さんといっしょに、お三方と上の写真の距離の席に着く。

このときのUSTREAMはアーカイブされているのでぜひご覧いただきたい。判決時には読まれなかった、廃十数枚分(七十数枚かもしれない)の判決文がどういうものであったか、どういう問題をはらんでいるかが話されているはずだ。
http://www.ustream.tv/recorded/11562832
http://www.ustream.tv/recorded/11563150
http://www.ustream.tv/recorded/11563628

結局、USTは0時半頃で終了。配信を終了したあと、終電の都合などで客は半分ほどになった。それでも12人ほどが残った。輪が小さくなった。そしてトークは続いた。USTとは違って、みんなでテーブルを囲んでいるような雰囲気の中で、丸田さんの表現というものに対する考えや、その発表、今回の争点の本質などが話題の中心となってきた。丸田さんは他人に気を遣うあまりほとんど主張しない方なのだが、徐々にそれがが解け始めたか、本当の気持ちがその場にいた人に突き刺さるように伝わってきた。

ここで私は書くのをやめる。その場の丸田さんのお話は、一字一句間違わずに文字にしたとしても、誤って伝わってしまうような気がするからだ。裁判にまで持ち込まざるを得なかった、丸田さんの気持ちを、もし私が誤って伝えてしまったら取り返しがつかない。その場の雰囲気があってこその、丸田さんや客(?)の発言なのに、それを棒読みされることの恐ろしさ。あるいは「私の丸田祥三論」になってしまう恐ろしさ。そういう懸念があるため、私は書かない。いつか丸田さんがご自身でお気持ちをお書きになると思うから、「UST後」を知りたい方も多いとは思うが、待ってほしい。

そのまま2時、3時、4時、5時…となり、まだまだ丸田さんを囲む話は続いていたのだが、私は中座し、帰宅した。朝から仕事であることが恨めしかった。その後、ほどなくして終了したようだ。

<ご参考>
12月18・19日と、若狭湾沿岸の鉄道路線に乗ってきた。小浜線と北近畿タンゴ鉄道宮津線、宮福線である。

いくつかの駅に降りた際、高架化された駅はどれも引っ込んでいて、やたら駅前広場が広いことに強い違和感を憶えた。なんとなく、町が嘘くさいのだ。そんな言い方をすると怒られるかな。

そう思ったのは、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅、福知山駅。まあ、「引っ込む」理由はなんとなく推測できる。かつては貨物扱い用に、あるいは車両基地的な役割をするために、大きな駅には多数の引き込み線があった。それが、高架化に際して抜本的に整理され、十数本が平行していた線路がわずか数本に縮小された結果、広大な空き地が誕生するのだ。

鉄道は町を分断する。そのため、よく「高架化して、分断された町を取り戻そう」みたいなかけ声と共に高架化が進められるが、実感として、地方都市では高架化されても分断された町が一体化するようには思えない。もともとの集客力が小さいうえに、前述のように高架化の際に駅前が異様に広くなり、それがさらに町の分断感をもたらすような気がするのだ。


その顕著な例として、福知山駅を見てみる。

20101219-02.JPGまあ、これくらいのスペースがある。Googleマップを見ると、実はわかりやすい。衛星画像は高架化工事中、しかし地図は現在(より少し前)の姿になるからだ。「現在より少し前」というのは、北近畿タンゴ鉄道宮福線の位置が古いままになっているからだ。現在は高架化されている。

大きな地図で見る

高架化工事中の衛星写真でも、駅南側は既にロータリーになったり、だだっぴろい土地が遊んでいたりする。そこにはなにがあったのか。35年前、1975年の航空写真を見る。

20101220map.jpg(国土画像情報のページから転載、トリミング)
どうだろう、この駅南側のすごさは。扇形庫とターンテーブルもあるそこは、福知山機関区である。のちに福知山運転所に改組され、さらに移転して現在の福知山電車区となった組織だ。これらの敷地がすべて不要になったため、駅前の広大なスペースができてしまったのだ。

もともと、北側が駅の「正面」であり、街もそちらに発達してた。南側は上の航空写真でもわかるとおり、畑ばかり。それが、現在では南側にも多少の住宅地が出来たが、高架化して1階を自由通路にしても、長年かけて構築された北側の商店街と、新興住宅地である南側の交流が得られるとは思えない。そもそも、南側には駅の出入り口が存在しなかったわけで、そうして形成された街の南北を、高架化と共に馴染ませようとして無理だろう。


こうした事例は、東舞鶴駅と西舞鶴駅にも確認できた。小松駅はこちらの調査不足で断定はできない。興味を持ったらぜひ比較していただきたい。

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