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吉野正起氏 写真展『道路』

吉野正起氏 写真展『道路』

独言・日記

銀座のニコンサロンで開催されている吉野正起氏の写真展『道路』に行ってきた。50点の作品が並んでおり、吉野氏ともずいぶんお話をさせていただいた。気がついたら2時間以上が経っていた。

20100925-02.JPG(許可を得て室内を撮影しています)


ニコンサロンの案内産経新聞の案内を見て、私はてっきり廃道の写真展だと思い込んでいたのだが、まったく違っていた。いやもちろん、伊豆の賀茂トンネル旧道の写真は代表作的に展示してあり、来訪者の多くはその作品をベストだと感じるようだが、作品の大半は「道」そのもの。関連した写真を撮る人たちにとって、当たり前すぎてシャッターを切らない光景が、そこには溢れていた。

交通量まばらな地方の幹線道。
夏の山間、1車線から分岐する1車線の強引な道。
ダートと舗装路の境界。
波浪が砕け、空から降ってくる日本海の道。
雪が積もり始めた、山間の除雪済みの道。
雪解けを待たずに作業が始まった、キャタピラ跡がある作業道。
……。


バイクにしろクルマにしろ自転車にしろ、道を走っていると常にこうした光景は展開しているはずだ。でも、当たり前すぎて立ち止まらない。我々がレンズを向けるのは、フォトジェニックな何かがあったとき。たとえば重ねた歳月を裏付ける標識や、美しい日差しに出会ったとき。そういうものではなく、当たり前すぎる場所を作為のないように切り取るのはおそらくとても難しいと思うのだが、そうして切り取られた「あるある!」という光景がひたすら静かに並んでいる。作品を見た人は、自分がこれまでに見てきた「似た光景」を一瞬で連想できる。そして、「いますぐ走りに行きたい!」と思うに違いない。


被写体となる道路は東日本のもの。雪景色も多い。鉛色の空も多い。新潟育ちの私にはとてもなじみ深い風景だったので、より強く共感できたのかもしれない。


作品はすべてスクエアフォーマットで展示されている。その意図などもお聞きしたのだが、それはここには書かずにおく。ぜひ実見して、直接吉野氏の道への思いを伺って欲しい。吉野氏はとても気さくに、道路への思いを語ってくださった。道路に魅せられ、もう夢中になっているというお気持ちが強く伝わってきた。

芳名帳には、荒川好夫氏や柴原直行氏のお名前があった。荒川氏は、私がもっとも好きな鉄道写真家。その作品は、本当に見惚れてしまう。『カシミール3Dで見る・自分で描く 空から眺める鉄道ルート』でお世話になった。柴田氏は、かつてバイク雑誌でものすごくお世話になった、バイクを撮らせたら世界でもトップレベルの方で、ツーリング取材で道とバイクの写真をひたすらお願いしたこともある。私が密かに尊敬する方々が、これら「道路」をご覧になって、どうお感じになったか、お尋ねしてみたい。

吉野氏のブログはこちら。作品が一部閲覧できる。

<関連情報>
吉野正起写真展『道路2011 -岩手・宮城・福島-』
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『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)追記ほか雑感

橋梁一般

『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)に補足。佐々木葉氏による、この本の補足というか指摘がある。

同書は佐々木氏を「自説を述べるだけ」と描いており、私は氏に大きな不快感を憶えたが、その点について自ら下記のように書いているのだから、まあそうなのだろう。ちょっとこの態度(「楽観的」のあたり)はないんじゃないの、と思う。
地域の人々の暮らしの状況などまるで理解していない了見の狭い女学者、というように書かれている(僻みか?)。確かにそうだったのかもしれないなとも思うが、もう10年近く前のことだから、それから少しは成長しただろう、とあくまで楽観的。(ブログより)


なお、佐々木氏葉は、ハーコート製のボーストリングトラスを転用した、長野県のりんどう橋を設計した人だ。詳細はこちら。橋の名前に氏の責任は皆無だろうが、「りんどう橋」という名称は、全国各地にある。もう少しまともな(地域を象徴するかのような)名称はなかったのだろうか。「ふれあい橋」よりはマシか。



そう考えると、新潟の信濃川河口の橋に疑問符がついた。。

・柳都大橋…「りゅうと」なんて、昔は言わなかった。柳の町であることは言われていたけれど。
・万代橋…佳字。
・八千代橋…佳字。
・昭和大橋…元号。
・千歳大橋…佳字。

寿命は、千歳大橋<八千代橋<万代橋、だな。

それに引き替え、関屋分水路の橋はすばらしい。

・新潟大堰橋(大堰そのものの名称)
・浜浦橋(地名)
・堀割橋(地名)
・有明大橋(地名)
・関屋大橋(地名)

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万世橋架道橋(初代)の解決

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚

本日発売された『鉄道ファン』2010年11月号の『東京鉄道遺産をめぐる21 帝都復興事業と万世橋付近 万世橋架道橋』(小野田滋)で、ついに万世橋架道橋が採り上げられた。場所はここである。



以前、このブログでも2回、適当なことを書き散らした。

鉄製橋脚 万世橋架道橋
この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928年(昭和3年)。関東大震災のためだろうか
(注:当時は「鋼製橋脚」と題していたが、鋳鉄じゃねえか!)

万世橋架道橋への期待
4月9日の記事『万世橋架道橋』を書いたときに気づいた、開通時と桁架設時の時期の違いの理由はいまだに不明だが、『鉄道ファン』の不定期連載「東京鉄道遺産をめぐる」が東京-万世橋間市街高架線を採り上げ始めたので、きっと明らかになるに違いない。wktkして待つ。


ようやく、その疑問が解決された。小野田氏の記事に寄れば、やはりというか、初代の桁は直線桁を角度をつけて接続し、その上に曲線の線路を敷いていたのであった。写真まで掲載されている。写真の出典は『市街高架線東京万世橋間建設紀要』。これは、国会図書館のデジタルライブラリーに収録されているのでざっと目を通したことはあったが、写真のスキャンが適当なため、正直なところ、写真は見るき気もしなかった。しかし、ここに初代万世橋架道橋が写っていたのだ。自分を恥じるしかない。もちろん『鉄道ファン』誌に掲載されているものは鮮明だ。

初代の橋はここに掲載されていた(下段)。


(リンク元=国立国会図書館デジタルライブラリー

よく見えないとは思う。画像はこちらの28ページに、資料全体はこちらにある。


ともあれ、すっきりした。初代の橋が3径間であったこと、橋台は初代のものを引き継いで使っていることが解説してあった。まだ、黒田武定についても、1/2ページを割いて解説している。今月の『鉄道ファン』は、この記事のためだけに買ってもいいし、これだけに倍の値段出してもいい。


ついでに。同記事に記載されていたのだが、水害で不通になり廃止となった高千穂鉄道の第二五ヶ瀬川橋梁は、こことは別の方法で曲線区間でプレートガーダーを使用していたという。なんでも、主桁(つまり両側のプレート)は直線のまま、縦桁を「階段状にシフト」させたものだそうで、どういうものかを知りたかったのだが、画像検索しても、残念ながら水害で流された後の悲惨な画像ばかりが出てきていたたまれたなくなった。こんな橋の裏側を撮っている方などいるまい。

大日影トンネル(中央本線)に見る煉瓦雑感

大日影トンネル(中央本線)に見る煉瓦雑感

隧道・廃隧道


上の地図、現在線と旧線の描き方がおかしく、拡大して南下すると収集がつかなくなっているのはご愛敬か。
20100920-01.JPG中央本線の大日影トンネルは、甲斐大和から勝沼ぶどう郷の間にあるトンネル。1997年に新しいトンネルが掘られたことにより使用停止され、いまは遊歩道として整備されている。3月に訪問した際、かなりの人手に驚いた。午後3時すぎから往復1時間以上歩いている間にすれ違った人の数は100人は超えている。かなりの人気スポットのようだ。写真の右端が遊歩道となったもっとも古い大日影トンネル(1903開通)、左端は1968年上り線として開削されたもの、中央が、右端の代替として1997年から使用されているものである。

この遊歩道自体はたくさんの方がレポートしているので、いまさら書いてもしょうがない。ここを歩いているときに煉瓦について思ったことをつらつら書く。

煉瓦があると、人はよく「どんな積み方か」を気にする。イギリス積みだフランス積みだというのはかなり知られてはいると思うのだが、トンネルの場合は、上も見上げて欲しい。左右の壁部分がどんな積み方をされていようと、天井は長手積みなのだ。ごく一部に例外もあるが、ほぼそう思って間違いない。

では、どこから天井か。下記に示す起拱線(ききょうせん、またはきこうせん)から上である。
20100920-02.jpg鉄道のトンネル断面は馬蹄形をしていることが多いが、ここ起拱線から下はすぼまっていようが側壁である。ここでトンネルは「上」「下」が別れる。

上の写真では、新しい下り線のトンネルのコンクリートが、翼壁を浸食している。それでもピラスター(坑口の左右にある柱。坑門が倒壊しないように押さえつけている)を破壊しないようになっているのは景観的な配慮なのか、それとも構造的な配慮なのか。

起拱線は、側壁を見るとわかりやすい。
20100920-04.JPG起拱線より上は長手積み。アーチにかかる力をアーチの軸方向、列車の向きで考えると左右の方向に振り向ける。起拱線より下はイギリス積み。単純に、上から下へ、重力方向に力を伝えていく。

起拱線という見方を知っていると、トンネルを見る目が変わると私は思う。側壁が長手積みであることはほとんどないので、簡単に見分けがつく。

起拱線の上下で部材が異なることもある。天井部が煉瓦で、側壁部が石積み、あるいはコンクリートであるような例だ。大日影トンネルを出たところから見える煉瓦精暗渠が、その例である。起拱線がわかりやすいので図示しておく。赤い線が起拱線で、側壁は石積みである。20100920-08.jpg
大日影トンネルでは、側壁の一部に石材が使用されているが、残念ながら起拱線は関係ない。

面白いのは、トンネルの前後の出口の意匠が異なることである。

20100920-06.JPG冒頭の勝沼ぶどう郷側は煉瓦で坑門を作っているが、こちら甲斐大和側は石積みである。どちらも盾状迫石(たてじょうせりいし)という、劔型の石が坑口から放射方向に配置されているが、その大きさも並べ方も異なるのが興味深い。

向かい合う廃隧道、深沢トンネルも石積坑門だ。20100920-07.jpg
大日影隧道とまったく同じ意匠である。この、坑口の頂点、アーチなら要石の位置にある横に3枚並んだ縦長の石が、サザエさんのようだ。

この両トンネルの間には橋がある。
20100920-09.jpg残念ながら、遊歩道を整備したときに架けた新しい橋のようだ。




関西本線第四大和川橋梁(大阪府)

関西本線第四大和川橋梁(大阪府)

鈑桁(プレートガーダー)



「ワーレントラスを踏み台にしている橋」として有名な、第四大和川橋梁。トランケートトラス・第三大和川橋梁は奈良県だったが、同じ駅間にあるこちらは大阪府になる。ディテールを記すが、根本的な疑問である「なぜビームではなくワーレントラスなのか」ということへの答えは見つけられていない。

全体はこのようになっている。20100918-02.jpg
魚眼レンズ持って行ってるのに、それで撮っていない愚かさよ。

この周辺は地滑り地帯で、この13径間の長大な橋が架けられたのも、周辺が地滑り地帯だからだ。下記リンク先に詳しいが、要はもともと敷設されていた路線が地滑りの被害を受けて換線せざるを得なくなり、ここに橋が架けられることになったのである。
亀の瀬地滑り(wikipedia)
亀ノ瀬トンネル(wikipedia)

まずは核心部分から。
20100918-01.JPG実に不思議な光景。桁受けにトラス桁を用いている。なぜだ? しかも、トラスの橋脚は河床に根を下ろしている。なぜ、これがプレートガーダー、あるいはラーメン構造ではなく、トラスなのか。その理由をご存知の方はご教示願いたい。

20100918-03.JPG国道から。線路を載せた鈑桁が、角度を持ってこのトラスに載っているのがわかるだろう。17mmでも引ききれん…。

20100918-07.JPG桁受け部のアップ。このリベットの数。

20100918-06.JPG少し引く。ワーレントラスなのだが、桁を受ける部分だけに補助的な部材が入っている。分格ワーレントラスと言っていいのかどうかはわからない。

20100918-04.JPG支承。

20100918-05.JPG河内堅上方面を見ると、トラスとは別に、桁受けの鈑桁が見える。

20100918-10.JPG真横から見るとこう。3主桁のプレートガーダーで、トラスと同じくリベットで接合されている。ここに架かる桁は、トラス桁が受ける桁よりも短い。

この第4大和川橋梁は13スパン、かつ複線。合計26の桁があるのだが、曲線を描くということもあり、各桁の長さはまちまちだ。複線だからといって、左右に並んだ桁が同じ長さだというわけでもない。桁の寸法を記した資料は見つけていない。『土木工学』Vol3、No2(昭和9年)にあるかもしれないので、いつか見てこようと思う。

20100918-08.jpg鈑桁についているプレート。塗装の皮膜により、もはや読めない。「鉄道省」だけかろうじて読める。

20100918-09.jpg
塗装標記。これを13スパン分撮影しておけば、下り線の桁長がわかったのに。うっかり。


トラス桁を使用した理由はあれこれ想像はできるのだが、結局はこれがいちばん経済的だったのだろう。知りたいのは、そう判断したプロセスだ。他にどういう選択肢があり、それらがどう消えていったのか。土木図書館に行くしかないか。


この第四大和川橋梁については『鉄道ジャーナル』2009年12月号で紹介されている。しかし、「なぜ桁受けがトラスになったのか」には触れていない。また、各桁長も掲載されていない。

記事中に第三大和川橋梁にも触れていて、新しいほうのトラスを「三郷駅側のトラス桁は老朽化か河川改修によって橋脚が河川構造上で妨げとなったのか、昭和61年(1986)に架け替えられた…」と書いてあるが、私の記事で検証しているとおり、トラス桁を架け替えたのではなく、鈑桁3連(?)をトラス桁1連に架け替えたものである。

関西本線第三大和川橋梁(奈良県)

関西本線第三大和川橋梁(奈良県)

ワーレントラス

20100915-06.JPG関西本線の第三大和川橋梁は、三郷駅の南西側、河内堅上駅との間にある。この橋が渡るのは、当たり前だが大和川。大和川はこのまま西へ向かい、大阪市と堺市の境界となって大阪湾に注ぐ。
(開放f2.8だとダメですねえ。適当に写すんじゃなくて、ちゃんと被写界深度見て撮り直しなさいよ、デジなんだから。)


.
20100915-01.JPG第三大和川橋梁は、2連のトランケートトラスと1連の鈑桁で構成されている。『歴史的鋼橋集覧』では、トランケートトラスのことしか書いていないが、三郷側に鈑桁が架かっている(後述)。

トランケートトラスとは、斜橋のトラス橋。左右のトラスがズレており、真上から見ると平行四辺形となる。鈍角側は端柱(端部の斜めの部材)が省略されている。

写真は上流側(東側)から撮ったもので、向かって右の並行弦トラスが三郷駅側、左の曲弦トラスが河内堅上駅側だ。この両者の間には、54年という歳月の差がある。『歴史的鋼橋集覧』に選ばれたきっかけとなったは左の曲弦トラスで、1932年、川崎車輌製。右の並行弦は1986年、横河橋梁製。それぞれ斜角は右55度、右70度と異なっており、2連のトラスは微妙に角度が異なるのだ。それにしても70度とはすごい。

20100915-05.JPG曲弦のほうに近づいてみる。真下へは行けない。

夥しいリベットが打たれている。とくに中央4格間の上弦にもびっしりと打たれている。この部分、上弦が補強されているのか?

20100915-04.JPG並行弦のほう。画面左側の端柱がないだけで、全体が直方体に見える。それほどまでに、実は端柱というものは存在感を持っていたのだ。

20100915-07.JPG逆側。
どうですか、この右70度の橋脚の存在感。

橋門構はじめ、リベットに見えるのは、もちろん高張力ボルトだ。
20100915-10.JPG縦桁と横桁。

20100915-08.JPG鈑桁の裏はこう。

20100915-09.jpg製造銘板はこう。
昭和四年 (○○○1152)
川崎車輌株式会社製造
活荷重 E40
鉄道省
-------------
L. ○○○○○
材   ○○○○○○
料 ○. ○○○○○
   ○. ○○○○○○○

『橋の散歩道』によれば、「国鉄最後の竣工トラス」とのこと。最後の最後に、こんな妙な形のものを作ったのか…。




それにしても、なぜ2連のうちの1連だけ「架け替えた」のだろう? と思っていた。新しいのが架かるということは、架け替えだと思い込んでいた。ところが!

ckk-85-3_c18_9.jpg(1985年/国土画像情報閲覧機能より/ckk-85-3_c18_9)

1985年の写真では、トラスは1連ではないか!

写真から判断する限り、トラス1連+鈑桁4連に見える。そして、当然のことではあるのだが、トラスの下を大和川が通っている。鈑桁部分は河川敷。

冒頭の地図を航空写真に切り替えて欲しい。大和川の水量が豊かになり、かつての1連(曲弦のほう)の幅の1.5倍ほどにも川幅が広がっている。これに対処するために、鈑桁3本(推測)をトラス橋に変えたのだろう。こういう場合、架け替え費用は河川行政担当の役所が担当するのだろうか。


この第三大和川橋梁については『鉄道ジャーナル』2009年12月号で少しばかり紹介されている。新しいほうのトラスを「三郷駅側のトラス桁は老朽化か河川改修によって橋脚が河川構造上で妨げとなったのか、昭和61年(1986)に架け替えられた…」と書いてあるが、この記事で検証しているとおり、トラス桁を架け替えたのではなく、鈑桁3連(?)をトラス桁1連に架け替えたものである。


すぐ下流の道路橋のさらに下流側に、こんなものがあった。
20100915-03.JPG水道管の橋だった。廃橋なのか現役なのか、区別がつかない。






八幡橋と新田橋(江東区)

八幡橋と新田橋(江東区)

橋梁一般

P9110993.jpg
江東ドボクマッピングのあと、かの有名な八幡橋に行ってきた。

この橋については、ネット上にいろいろな言説がある。曰く、
「日本で初めての鉄橋」
「東京で初めての鉄橋」
「初めての国産鉄橋」……。

ちょっと待て。「弾正橋」として架けられたのが1878年(明治11年)。この時代、既に鉄道も走っている。ということは、鉄橋も既にあったはずだ。そういえば、大阪の浜中津橋は1874年(明治7年)の鉄道開業時の橋梁からの転用である…。

『新版日本の橋』によると、日本最古の鉄橋は長崎の「鉄橋(くろがねばし)」。1868年(慶應4年)。竣功か供用かは不明(以下同)。2番目は翌年の横浜の吉田橋、3番目が大阪の高麗橋。その「鉄橋」は「アーケード国道」こと国道324号にある。場所はここだ。


さてこの八幡橋、文化庁の重文指定には「東京に架けられた最初の鉄橋」とある。
それ以外で、公的に「日本初の」という記事はネット上にはなさそうだ。付近にある「来歴」にも「東京市最初の鉄橋」とある。つまりは「日本初」はデマである。



書きたかったのは八幡橋のことではない。すぐ近くに保存されている「新田橋」のことだ。
P9110985_R.JPGこんな感じで草に埋もれている。柵の向こう側にあるので、もちろん中には入れない。

このワーレントラス橋は、長手方向に何本か細い棒が渡してある。

P9110989_R.JPGその棒の端部はこのように回転可能のようだ。

これを見て、この棒はトラス変形時の修正用だと気づいた。古い客車の床下のトラス棒、アレである。

ターンバックルもあった。
P9110990_R.JPG
間違いない、これで歪みを調整していたのだろう。

それにしても、1932年開通。その時点で、こんな歪み調整用の棒を持つ橋がなぜ誕生したのか。予算か。町工場が作ったから新しい理論とは無縁だったからか。謎は深まるばかりだ。

江東ドボクマッピング 新観光講座 橋編

江東ドボクマッピング 新観光講座 橋編

橋梁一般

20100912-01.JPG

深川東京モダン館
で表題のイベントが開催されたので申し込んだ。講演は八馬智氏、北海道はじめ各地の橋梁デザインに関わった方だ。講演は2時間を超え、内容は多岐にわたったが、私が感じたことをひとことでいうと「デザインというのは、さまざまな考え方との戦いなのだ」ということ。自分が確たる考え方を持っていないと、デザインはできない。これは、先から引用している『近代日本の橋梁デザイン思想』で述べられている内容とも一致する。

日本語で「デザイン」というと「見た目」と捉えられがちだが、本来の英語ではむしろ「設計」のニュアンスを強く感じる。しかし、術語としての「design」の解釈が私自身非常にあやしいので、ここらへんでとどめておく。


20100912-03.JPGたとえば、こういう例が出た。なぜ、橋台部分と擁壁がこの形になったのか。それを、ここに至るプロセスや他の案も交えて解説があった。視距や心理的負担を考えてのことだという。そのあたりを自分で煮詰めていき、「この案でなければならない」というところへ持ってきて初めて、デザインを提案できるのだと思う。狭苦しい下路トラス橋が嫌われるのもむべなるかな。

20100912-05.JPG「自分のデザイン」というものがないと、他の例について論理的にコメントすることができない。その例がこれだと思う。



この「橋は(というより、長期間、場合によっては100年間以上も使用され続ける土木構造物は、利用者に選択権を与えない/好むと好まざるとに関わらず、そこに存在する」というコメントは、八馬氏が「どこまでがデザインなのか」を明確に定義している証拠だ。

この「かえる橋」は「勘違いのデザイン」の例としてあげられている。これは何度かツーリング中に見たことがある。これを地元の人は数十年、もしかして100年以上見続けなければならないのか。そういうものなのに、こんなデザインでいいのか。そこまで重要でなくても、橋の名称が「ときめき橋」とか「ふれあい橋」でいいのか。つまりはそういうことだ。

八馬氏は「勘違いのデザイン」を、1980年から2000年の間の歴史に位置づけている。全力で納得する。実は「勘違いのデザイン」がなされたのは橋だけではない。鉄道が好きな人なら、国鉄末期に「地方色を出す」という三重目で、地方の車両工場や関係者が「勘違いデザイン」した、珍妙なカラーリングの車両たちを思い出すことができるだろう。「車両」という直方体という特性も、利用者の視点もないままに施された狂気の色。いまでも統一感をまったく欠いた、JR西日本の痛々しい地方色(順次ソリッドカラーに塗り替えられて消滅する運命にはあるが)はその例のひとつになると思う。



八馬氏は、秋田の臨海大橋のデザインも手がけた。欄干、照明、親柱も氏の手になる。特徴的なのは親柱だ。

20100912-04.JPG欄干との間に隙間があり、パイプが柵の役割を果たしている。これは、桁が伸縮する際に親柱と欄干の間隔が変化するのを、パイプが欄干側に刺さるのではなく、スイングすることで変化させないという方法をとるものだ。秋田県に行った際にはぜひチェックしてほしい。


この講演のustはこちら。



関西本線下の川橋梁

関西本線下の川橋梁

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚


20100908-06.JPG
先に紹介した笠置橋のすぐ近くに、トレッスル橋脚を持つ橋がある。関西本線下の川橋梁である。いろいろ不思議だ。

まず、橋脚。ここは鈑桁2連で全長約35m。一またぎできる距離でもあるが、間にトレッスル橋脚を立て、その前後に12.68mの桁と22.3mの桁をかけている。これが不思議。

反対側から見る。
20100908-05.JPG

ふたつめ。どちらも魚腹型、しかも端部が斜めにカットされている。

みっつめ。トレッスル橋脚。
20100908-02.JPG川の流路を見ると、橋脚のある場所で川幅が狭くなっている。まあ、どうせすぐ木津川なので、ここを狭くしたのを原因としてなにかあっても深刻な影響など出ないだろう。




















よっつめ。対傾構の組み方。
20100908-03.JPG
どうにも目で追いきれないような組み方をしている。部材が直方体の平面上だけを行き交うのではなく、その内部を対角線上に結んでいたりする。「ねじれの位置」という単語を思い出した。




















橋台。
20100908-04.JPG
こちらは西側の橋台。隅石がこんな上まである。もしかしたら当初は下を通る道路がなく、川の水が洗っていたのかもしれない。航空写真を見たが、古いものはよく見えないし、1974年のものは未舗装路だったようだ。

この橋梁がいつ造られたのか、『歴史的鋼橋集覧』にも出ていないが、この区間の開通は1897年。規模こそ違えど、余部橋梁が開通したのは1909年。こ の橋より10年後だが、それでも橋脚用の鋼材は輸入していた。そのため、この橋の橋脚は外国製かもしれない。木津川橋梁はほぼ同時期の開通で、パテント シャフト製(イギリス)である。…などと考えるといろいろ楽しい。

今回は考察なしです。ただ見てきただけ。





インドネシアのトレリストラス+ランガー(?)+トレッスル橋脚

インドネシアのトレリストラス+ランガー(?)+トレッスル橋脚

プラットトラス

米屋浩二さんがツイッターに投稿したこの写真を拝見して、のけぞった。インドネシアの橋だという。ポニーワーレントラスにアーチ型の補強をしてランガー桁にしてしまった関西本線木津川橋梁の逆+トレッスル橋脚。しかも、元は上路プラットトラスではなく上路トレリストラス。上路プラットトラスと異なり、端柱がハの字型ではなく逆ハの字型になっている。日本でも黎明期に採用されており、『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)の62ページに図面がある。

木津川橋梁は、これだ。
IMG_3762_R.JPGこの形状では、トラスの上弦に働く圧縮力と下弦に働く引張力をアーチが分担し、元々のトラスにかかる負担を軽減しているのだと思う。

しかし、このインドネシアの橋は上路だ。力学的にはどうなっているのだろう。下向きのアーチは上向きのより弱いのではなかったか。

米屋さんの写真はCikubang Bridgeのようだ。検索してみると、けっこう似た画像はあるのだが、アーチの数が違ったり、ワーレントラスだったりで、米屋さんの写真そのものはなかなか出てこなかった。いろいろあってやっと埋め込めるものを見つけた。

 Image Hostingこのサイトより転載)


しかし、橋の名称はどれもこれも微妙に違う。Cikubang BridgeだのCibisoro BridgeだのCikurutug Bridgeだの…。そうしたたくさんの写真を見てわかった。

インドネシアには、この型式の橋は、たくさんあるのだ。

トラスはトレリスもあればワーレンもある。長さも高さも全く違う。
場所を探すのは少し難儀したが、ここだ。

大きな地図で見る

この場所はインドネシアのジャワ島(地図でいうと右側のほう)の西部、バンドンとジャカルタを結ぶ路線上にある。ほかにも多数の古い橋梁があるが、ここCikubang Bridgeはとりわけ有名なようだ。上の地図を別ウインドウで表示し、線路に沿ってスクロールさせながら衛星画像を拡大すれば、トレッスル橋脚の長大な橋がいくつも見えるはずだ。ストリートビューに切り替えれば、ストリートビューこそないものの、沿線で撮影された写真が埋め込まれているのを見ることができる。

wikimediaに、アーチで補強する前の写真があった。
File:COLLECTIE TROPENMUSEUM De spoorbrug over de rivier Tjikoebang TMnr 60052239.jpgThis file is licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported license.

以前は普通の上路トラス橋だったのだ。それを、補強したのだ。

「インドネシア鉄道遺産」というサイト(www.indonesianheritagerailway.com)によれば、長さ300m、高さ80m。1906年から供用されているインドネシア最長の橋(ほんとか?)。アーチ状の補強が成されたのは1953年、ディーゼル機関車の運行を開始するにあたっての補強であった。サイト右側の「construction」をクリックすると、隧道や橋梁の情報を見ることができる。廃線隧道もある。


上記の橋の名前で検索すれば、youtubeに動画もいくつかあがっている。そのようにしてリンクをたどっていくと、日本では見られない異形の橋の数々に出会える。

これもなかなかすてき

海外の橋、日本の常識では捉えきれない。

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