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2013年に開通した房総半島の圏央道。対面通行の2車線道路を東金から南下し、茂原長南インターチェンジを降りると,真正面には「左:行き止まり」の青看。そのままハンドルを右に切って…というところだが、ふと左を見ると、すぐに行き止まりだった。

 こんなふうに。真っ先に思ったのは「しゃもじ」だ。「クルドサック」は住宅街に使う言葉だが、機能的なイメージとしてはここではそう使っておく。

奥に見えている高架橋が圏央道。たかがUターンのために、こんなに立派な…と思うが、ここは国道409号の枝線である。向かって左、この先には細い道があるが通行止め。右には、工事用道路と思う細道が続いている。GoogleMapsの衛星画像を見ると、この先も道路工事をしているので、いずれ南東方向に延長されることだろう。このクルドサックはそれまでの命だ。

Uターン路の頂部。何軒の家が建つのか…というような内部のしゃもじ状のところの表面は平滑で、縁石には太陽電池で発光するもの(なんというのだろう)が設置してある。

こんなUターン路、利用する人がいるのだろうか…とも思うが、ここにいた15分くらいの間で1台利用者があり、ランナーが一人1周していった。

ふと今来たインターチェンジ方面を見ると、そこにも見かけ上はしゃもじ状に見える形状があった。



【同日追記1】
oomatipalkさんから、この場所の青看の写真をいただいた。なぜ私はここを後にしたとき、振り返らなかったのか…。(リンクで拡大します)



【同日追記2】
無人快速さんから、先日ここのリバースを走らされたとご連絡をいただいた。なぜかというに、上のoomatipalkさんの写真でいうところの左の一方通行出口から出ると右折ができずに左折→リバース、という経路をとらされるようです。














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九十九里浜に、閉店してしまった給油所があった。防火壁やサービスルームが白く塗られているのはブランドに関わらず同じだが、それでもツートンカラーになっているのは、真っ白だと違和感が大きいからだろうか。斜め向かいの商店が経営していたようで、その商店の意匠もすてきだった。

 
 
防火壁には、うっすらとツバメが浮き出てきた。よく見ると、Maruzenという文字も。現地では目をこらさないとわからない、ペンキに塗り込められたそれは、写真の彩度をアップすれば、きれいに浮かび上がってくる。

 
 

防火壁には「コスモ石油」の文字が例によって浮き上がっているので、「じゃあ丸善の痕跡がないだろうか」と探すきっかけにもなるのだが、ところどころ白ペンキが剥げてコスモ時代の緑や青が見えている防火壁の根本を見ると、そこには丸善の紅色が見えていた。
 













人があるくところは、路面が摩滅する。駅の構内を見渡すと、それが如実に現れている場所がいくつもある。柱の近く。壁の近く。障害物の近く。

柱に向かう「歩かれない部分」は、道路標示の「路上障害物に接近」に似ている。また、ホームの線状ブロックのすぐ横が踏まれないのは、またがって踏むと段差を感じることを避けるためだろう。

●関連項目
階段の上り・下りの可視化


 板橋区の路地にあった、交差点の表示。道路標示の一種だろうが、正式名称をなんというのか知らない。「ここに交差点がありますよ」というのを知らせるために路面に書いてあるのだと思うが、この先、自転車ですら突っ込むのを躊躇する巾しかないのに、きちんと交差点扱いされている。これまた律儀に「普通車は通れません」とも書いてある。


その近くには、これまた珍しくL字型の表示があった。「この先、直角に曲がってますよ」。




一見、鉄道の本かと思ってしまうが(書店では鉄道書コーナーに置かれていたが)、内容は「行商」の文化史。近鉄の「鮮魚列車」を利用する伊勢の漁師・商人たちの話と、鳥取県の「カツギヤ」を主軸にしている、貴重な聞き取り調査の記録だ。

魚行商がどうやってなりたっているのか。いつから始まったのか。どういう人たちが担っていたのか。現状はどうなのか。そうしたことが、わかりやすく、実例とともに挙げられていく。もちろん著者が調査してここに掲げる実例は、膨大な数の行商人の…すなわちさまざまな手法がある行商のわずかなパターンだけだろうが、それでも、それをリアルに見せてくれるのは、掲げないまでも背後に膨大な調査結果を持っているからに違いない。帯にある「ワン&オンリーの民族誌」という言葉に間違いはない。

本書には、新潟県の直江津周辺の話も少し出てくる。犀浜(犀潟周辺)、西浜(糸魚川から直江津あたりの広域地名としての西浜なのか、能生の西浜なのかは不明)からあがったものが直江津に廻り、高田の商人が独占して信濃に送る。松本や上田に支店のようなものを出すほどだった。直江津と高田の関係を知る人にはなお興味深く読めることだろうし、いまは長野・新潟の交流は少なくなったと感じるが、1990年頃までは新潟-直江津-長野-上田を結ぶ急行列車が毎日2往復していたことも、もしかしたらこんなところに地域交流史の秘密があるのかもしれないと思った。

* * *

 
 
かつて、地方のローカル鉄道には、車両の前後にバケットを持つ車両があった。それは、鮮魚などを載せるためだった。実際にそのように使用されたのか、頻度はどれくらいだったのかはわからない…逆にあまり使用されていなかったのではないかとも思うが、ともあれ大荷物を背負う行商の人たちは確実に鉄道利用者の一人だった。

私の子供のころの記憶としても、新潟県の越後線にかつて走っていた新潟駅発4時50分の柏崎行き126D、これには行商の人が乗っていた。信越本線の新潟駅発5時55分の直江津行き1322列車もだ。新潟ではカンカンではなく、大きな行李を二つ担いでいた気がする。行李は風呂敷に包まれていた気がする。しかし、子供のころに見かけた記憶…程度なので、はっきりしない。

また、子供のころは、よく、リヤカーを引いて蔬菜を売りに来るおばあさんがいた。私の生まれ育ったところは新潟の本町市場まで歩いて行けるところなのだが、そんなところへも、来た。実家は兼業で雑貨店をしていたので、その店先に停める。子供の私が出ていく。おばあさんは梨を剥きはじめ、私が食べる。母は買わざるを得ない。そんなやりとりは何度もあった。私はといえば、リヤカーに全てが乗っているのがキャンピングカーみたいで見ているだけで心躍ったものだった。

本書によれば、行商にはまだ60歳前後の方もいるようだ。あとしばらくは、そういう姿を見ることもあるだろうが、いずれ消えるものと思う。偶然にもまたどこかで出会うためにも、港町から始発列車に乗ってみたいものだ。


<参考>
【論文】北総の行商にみられる地域的性格(久貝和子)PDF
【論文】新潟県巻町沿岸地域における出稼行商について(丸山克二)PDF


庄内浜のあば 悲哀と快活と歴史と(庄内日報)1~47
・ある「イサバ」の一代 (庄内日報)
 (なんと、終戦後の大阪発青森行きの急行列車を使う行商について書いてある)
  ↑【同日追記】
甘木@欅道居士さんから、下記のご指摘をいただいた。私もなんとなく「そんな『急行』あるのかなあ」と思っていたが、検証できず。ご指摘に感謝申し上げます。









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