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焼尻島で見かけた木造の家屋。鉤型になっていて、おそらく手前は作業スペース。潮風に吹きさらされた木の色がなんとも言えず、郷里の新潟の海沿いの家屋を見ているようだ。

どこもサッシ化されておらず、引き戸も、窓も木桟。窓ガラスは小さく区分けされているのは価格的なものと破損時の対応のためだろう。それでも採光スペースはとても大きくとられている。ふと、床屋のような気がしてきたが、なにか電動の機械が覗いているので違うだろう。側面に窓がないのがちょっと不思議。

屋根は金属葺きに、垂直方向に抑えの材が付け足されている。風対策か。手前のみ、吹き替えられている。

この建物もそうだが、周辺は、海に向かって風よけの木の壁がある。別のところではこういうものも見た。
 


●参考
西山の潮風よけ




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北海道の日本海側、羽幌沖に浮かぶ焼尻島。島内を一周する道路があり、レンタサイクルで1時間もあれば一回りできる。港(下記写真右下)から一周道路に上がり、反時計回りに回り始めたところで早くもひっかかった。

(地理院地図空中写真「現在」を加工)

 
 
「工兵街道記念碑」と、その前に旧道。直上の写真、メインで写っているのがその旧道、右に路肩表示標だけ見えているのが一周道路である。見るからに旧道。1974年の空中写真を見てみる。

 
(地理院地図空中写真「1974-1978」)

当時はこの「旧道」がメインで、いまの一周道路は存在していない。

さてこの道。碑の裏を読んでみると…

--


(グレーは読み取りづらいので誤っているかもしれないもの)
(赤は誤字、ママ)

焼尻島東浜と西浦を結ぶ道路を「工兵街道」と命名
 このたび島民の熱意により記念碑を建立して/
末永く関係者のご苦労を称えることになりました/
顧みるとき昭和九年焼尻島に派兵された旭川工兵第七大隊第三中隊長
 柴崎●三将校十三名隊員百一三名/
の一箇小隊の手により東浜と西浦を結ぶ道路造成に着手
 機械力ののぼしい時代に隊員が一致協力した●石の●●を/
爆砕するなど●難な作業を遂行 延長百メートル 員五メートルの
 道路の完工をみたのであり/
又鷹の巣、至る難所とされていた道路も施工しており
 現在の道々焼尻島線の基盤となったものであります/
さらに現在の焼尻港東防波堤突堤の浅を水中爆破により破砕
 船舶の安全航行をはかり又船だまり港内も浅瀬があり当
時深さ四十センチメートルのところを一・二メートルの深さに掘り下げて
 小型船の出入を可能にするなどのちの焼尻港の拡張につながったのであります
以上の功績は当時の島内の交通の利便を著しく増大し
 かつまた港の利用を容易にし漁業生産の向上と島民の福祉増進に寄与/
いたしましたことは誠に多大であります/
ここに記念碑建立にあたって工兵隊のみなさんに心から敬意を表するものであります

昭和五十四年八月七日建立
羽幌町長藤沢一雄

--

…「旧道」のようなことは一切書いていなかった。

 





国道からこのように見える中越信号場。もちろん、かつては「駅」だった。手前右側に「第二次中越官設駅逓所跡」の碑が見える。

石北本線の建設時、一時的にはこの中越駅が終着駅となっていた。1929年11月20日に上川から延伸してきたときで、1932年10月1日の白滝延伸までの間だ。2001年、旅客扱いを廃止し、信号場となった。末期は1日1往復しか停車しなかった。

現在、出入り口は塞がれているが、その形がT字型になっている。信号場化は比較的近年のため、現役当時の写真もたくさんネットにアップされているが、とくに庇の部分になにかあったようには見えない。

1972年の姿を下記に転載する。
(『日本の駅』1972年鉄道ジャーナル社刊より)

屋根は吹き替えられている。また、線路の向こう側と思しきところに建物がある。


 
ホーム側、改札口は塞がれている。もちろんホームも切り崩されてはいるが、かつての雰囲気は十分にわかる。




石北峠の西側にある信号場。もともと列車交換を主たる目的として設置された駅だろうが、1975年に信号場化された。駅に至るには留辺志部川をこの吊橋で渡らなければならない。


鋼製の小さな主塔がある吊橋。当然、関係者以外立ち入り禁止とされている。周囲は蕗が生い茂る。

とはいえ、現在もいくつかの列車がここで交換している。信号場としての機能は立派に果たしているのだ。

『日本の駅』(1972年、鉄道ジャーナル社刊)より、現役時代の上越駅。写真左は吊橋のケーブルだろう。木の櫓のようなものはなんだろうか。駅前に頑丈な橋はなかったと思われるので、駅の建設資材は鉄道で運ばれてきたのだろう。

現在は出入り口は閉鎖して窓がつけられ、外板は更新され、窓も外側にサッシを付加されている。

駅として現役時代、この吊橋部分がどうだったのか、見てみたい。

* * *

(2015年9月27日追記)

このブログをご覧になった、私が生まれる前から鉄道趣味誌をはじめ各方面でご活躍されている大先輩・寺田牧夫さんから、「『日本の駅』の取材に参加していました」とご連絡をいただいた。上に引用した(※)写真はまさに寺田さん撮影のものとのことで驚いたのだが、さらに、「架け替え前の吊橋」のお写真をご提供いただいた。



寺田さんによれば、取材のときのお話が、『毎日グラフ』1972年10月15日号で特集されているとのこと。そのなかの「シンドかった駅」の一つとして、上越駅が掲載されている。これは『日本の駅』とは別カットで、この項目冒頭の鋼製主塔の吊橋の先代の吊橋がみごとに写っている。

主塔は丸太、π型に組んで斜めに補強を入れている。床版はきちんと板が敷き詰められ、手すりもしっかりとついている。当時とて周辺には民家は皆無のようだ、もっぱら職員がクルマで街へ出るときに使ったものか。また、川側の柵もよくわかる。これは動物よけか、冬に囲いを作るためのものか。

この貴重なお写真をご提供いただいた寺田さんには心から感謝申し上げるとともに、次回お目にかかったときにはその取材のお話などをぜひおうかがいしたいと思う。1970年代の北海道の道路事情というのも、ものすごく興味がある。


●寺田牧夫さんのサイト---『轍楽の道』

貴重な写真が無数にあるのでぜひくまなくご覧いただきたい。個人的には、大好きな9600の全機の写真が掲載されているところがとても嬉しい。なお、サイト内の写真等への直リンクは禁止されているのでご留意を。また、『カメラと機関車』はデザインの観点でもとても貴重なページ。友人のデザイナーが、偶然にもこのページを話題にしていてとても嬉しかったことがある。

(※)「引用」と「無断転載」の線引きはいささか難しく、私は主たる自分の文章をさらに説明するために「引用」したと解釈していますが、この掲載についてお目こぼしいただいたことにも心より感謝申し上げます。


入口があるべき場所に入口がない、のっぺらぼうともいえる建物。2001年に信号場化された奥白滝駅だ。

 
『日本の駅』(1972年、鉄道ジャーナル社刊)より、有人駅時代の奥白滝。無人化は1983年。

同書に掲載されていた駅スタンプ。こういう時代があったのだ。


wikipediaより、2009年の姿。PD。入口は閉鎖され、車寄せの屋根は撤去。入口左の窓は小さなものになり、窓枠はサッシに更新されている、というよりも外側にサッシを重ね、二重窓化している。屋根も更新されている。これと比べると、現在はさらに外壁が覆われている。

外板がどれくらいきれいかというと、このように周囲が写り込むほどに、だ。窓のサッシは内側窓が木桟のまま、これは1972年刊の本の写真と同じだろう。なんとなく、うれしい。

 

 
ホームは線路側が崩されている。これは信号場化された駅ではよくあることだ。かつての改札口は塞がれているが、改札の柵は残っている。新しい電話ボックスはJR専用の「作業用電話」だ。

現在、この駅で列車交換はなされていないようだ。


国道からちょっと入り込んだ駅前は無人。写っているのは私のバイクだ。このような場所だが、旭川紋別自動車道の奥白滝ICがあり、道の駅でもあるPAが併設されている。




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