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ORJ特製卓上カレンダー『隧』

ORJ特製卓上カレンダー『隧』

隧道・廃隧道

PC242739_R.JPG日本の廃道』による特製カレンダーが届いた。タイトルは『隧』。美しい隧道の写真を使ったカレンダーだ(説明になってない)。上の写真は、同じくORJ特製佐和山隧道マグカップと撮った、というだけ。それ以上の意味はない。

上のような隧道写真+縦長カレンダーの裏面は、このようになっている。
PC242742_R.JPG細かく書き込まれているのは、隧道の竣工年月日や着工年月日。これ、打ち込む手間を考えるだに恐ろしい。
本日、12月24日を見たら、なにも書いてなかったが、12月30日には「大崎隧道着工」とある。こんな日に着工したのか…。

このカレンダーは1000円で、私は廃道ファンである自宅のお隣さんの分とあわせてふたつ購入。もう、特設の販売サイトはなくなっているので、これから入手できるかどうかは不明だが、ご希望ならばORJ編集部に問い合わせてみてはいかがだろうか。

なお、これに記入するのはとてももったいないので、ニヤニヤしながら見るだけにしようかと思う。でもわからんよ。ボロボロになるまで活用するかも。カレンダーってそういうものだしね。

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丸田祥三氏「風景剽窃裁判」判決傍聴

丸田祥三氏「風景剽窃裁判」判決傍聴

廃道

PC222728_R.JPG

12月21日(火)16時、東京地裁627号法廷にて、丸田祥三氏が長年悩まされてきた「風景剽窃」を問うた裁判の判決が言い渡されると聞き、傍聴に行った。傍聴に行くのは初めてである。

10分ほど前に法廷に入ってみたが、だれもいない。ひとりもいない。そんなものか。いったん廊下に出ると、丸田さんの話し声が聞こえた。行ってみると、待合室のようなところで、同じく傍聴に来た方3人(それぞれ別個で来ていた)とお話されていた。5分ほど前に入室すると、徐々に傍聴人がやってきた。おそらく20人くらいはいたのではないかと思う。丸田さんは傍聴人席の隅に座った。原告側席につくのではないのかと驚いた。

裁判官入室。全員起立、黙礼。柵の向こう側、原告側席にも被告側席にもだれもいない。、裁判官(と事務の人?)しかいない。そんなことを思っていると、判決が読み上げられた。

「原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」(記憶による。細部が違っていたらすみません)

読み上げた直後、裁判官らは起立、黙礼をして退席。ほとんどの傍聴人も一斉に退席。この間、ほんとに一瞬であった。メモを取ろうとしていた私も呆気にとられた。ペンを持ち直す時間すらなかった。もっとも呆気にとられたのは丸田さんであろう。判決文のなかで「盗作」の基準を明示することもなかったのだから。私を含めた数人の傍聴者と丸田さんが、裁判官が去った法廷に残った。あまりにも呆気なかったが、傍聴していた栗原景さんのお話では、民事裁判では、刑事事件と違い、法廷では認定した事実は言わずに書面で出されることが多いらしい。その書面は後刻、弁護団が受け取ることになった。のちにわかったのだが、その書面は通常よりもずいぶんと分量の多いものだったようだ。(この段落、「傍聴していた」以降、一部事実と異なっていたので修正しました)


丸田さんに何を話しかけていいのかわからない。何しろ1998年に被告が本を出してから12年間、悩み続けたことへの答えが、数秒で読み終えてしまう単語しかなかったのだ。1998年、丸田さんはまだ34歳である。いまの私の年齢よりずっと若い。まだ「お兄さん」と言っていい年齢のころから、痛めつけられてきたのだ。考えれば考えるほど、気が遠くなる。

たぶん、丸田さんも実感がなかったのだろうと思う。場所を変えて、栗原さん、私、他の傍聴者おふたりと5人でお茶を飲んだ。18時半頃、丸田さんは記者会見に向かわれた。記者会見は「司法記者クラブ」所属の人たちしか(たぶん)入れないので、私にはどういうものだったのかはわからない。後刻、丸田さんにお聞きしたら、会見に来てくれたメディア各社は、カメラマンが同行しているということもあり、この問題の本質をきちんと理解されていたようだということだ。

記者会見の結果が最初にネットに載ったのは時事新報か。参考までにリンクを置く(どれも、いつまでリンクが生きているかはわからない)。
時事通信
朝日新聞
日経
読売新聞




PC222723_R.JPG

場所を阿佐ヶ谷の「よるのひるね」に移し、23時から、丸田さん(中央)に枡野浩一さん(右)と切通理作さん(左)がインタビューするような形でUSTREAMで「枡野書店ラジオ」が生放送された。思っていたよりも狭いスペースで、でも20人以上は来ていたと思う。この時刻なのに。夏の「盗作かもしれない」でご一緒した方や、廃道写真集製作取材でご一緒した方などもいらした。私は栗原さんといっしょに、お三方と上の写真の距離の席に着く。

このときのUSTREAMはアーカイブされているのでぜひご覧いただきたい。判決時には読まれなかった、廃十数枚分(七十数枚かもしれない)の判決文がどういうものであったか、どういう問題をはらんでいるかが話されているはずだ。
http://www.ustream.tv/recorded/11562832
http://www.ustream.tv/recorded/11563150
http://www.ustream.tv/recorded/11563628

結局、USTは0時半頃で終了。配信を終了したあと、終電の都合などで客は半分ほどになった。それでも12人ほどが残った。輪が小さくなった。そしてトークは続いた。USTとは違って、みんなでテーブルを囲んでいるような雰囲気の中で、丸田さんの表現というものに対する考えや、その発表、今回の争点の本質などが話題の中心となってきた。丸田さんは他人に気を遣うあまりほとんど主張しない方なのだが、徐々にそれがが解け始めたか、本当の気持ちがその場にいた人に突き刺さるように伝わってきた。

ここで私は書くのをやめる。その場の丸田さんのお話は、一字一句間違わずに文字にしたとしても、誤って伝わってしまうような気がするからだ。裁判にまで持ち込まざるを得なかった、丸田さんの気持ちを、もし私が誤って伝えてしまったら取り返しがつかない。その場の雰囲気があってこその、丸田さんや客(?)の発言なのに、それを棒読みされることの恐ろしさ。あるいは「私の丸田祥三論」になってしまう恐ろしさ。そういう懸念があるため、私は書かない。いつか丸田さんがご自身でお気持ちをお書きになると思うから、「UST後」を知りたい方も多いとは思うが、待ってほしい。

そのまま2時、3時、4時、5時…となり、まだまだ丸田さんを囲む話は続いていたのだが、私は中座し、帰宅した。朝から仕事であることが恨めしかった。その後、ほどなくして終了したようだ。

<ご参考>

駅を改築すると駅が引っ込んでしまう件

駅を改築すると駅が引っ込んでしまう件

地図・航空写真・分水嶺

12月18・19日と、若狭湾沿岸の鉄道路線に乗ってきた。小浜線と北近畿タンゴ鉄道宮津線、宮福線である。

いくつかの駅に降りた際、高架化された駅はどれも引っ込んでいて、やたら駅前広場が広いことに強い違和感を憶えた。なんとなく、町が嘘くさいのだ。そんな言い方をすると怒られるかな。

そう思ったのは、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅、福知山駅。まあ、「引っ込む」理由はなんとなく推測できる。かつては貨物扱い用に、あるいは車両基地的な役割をするために、大きな駅には多数の引き込み線があった。それが、高架化に際して抜本的に整理され、十数本が平行していた線路がわずか数本に縮小された結果、広大な空き地が誕生するのだ。

鉄道は町を分断する。そのため、よく「高架化して、分断された町を取り戻そう」みたいなかけ声と共に高架化が進められるが、実感として、地方都市では高架化されても分断された町が一体化するようには思えない。もともとの集客力が小さいうえに、前述のように高架化の際に駅前が異様に広くなり、それがさらに町の分断感をもたらすような気がするのだ。


その顕著な例として、福知山駅を見てみる。

20101219-02.JPGまあ、これくらいのスペースがある。Googleマップを見ると、実はわかりやすい。衛星画像は高架化工事中、しかし地図は現在(より少し前)の姿になるからだ。「現在より少し前」というのは、北近畿タンゴ鉄道宮福線の位置が古いままになっているからだ。現在は高架化されている。

大きな地図で見る

高架化工事中の衛星写真でも、駅南側は既にロータリーになったり、だだっぴろい土地が遊んでいたりする。そこにはなにがあったのか。35年前、1975年の航空写真を見る。

20101220map.jpg国土画像情報のページから転載、トリミング)
どうだろう、この駅南側のすごさは。扇形庫とターンテーブルもあるそこは、福知山機関区である。のちに福知山運転所に改組され、さらに移転して現在の福知山電車区となった組織だ。これらの敷地がすべて不要になったため、駅前の広大なスペースができてしまったのだ。

もともと、北側が駅の「正面」であり、街もそちらに発達してた。南側は上の航空写真でもわかるとおり、畑ばかり。それが、現在では南側にも多少の住宅地が出来たが、高架化して1階を自由通路にしても、長年かけて構築された北側の商店街と、新興住宅地である南側の交流が得られるとは思えない。そもそも、南側には駅の出入り口が存在しなかったわけで、そうして形成された街の南北を、高架化と共に馴染ませようとして無理だろう。


こうした事例は、東舞鶴駅と西舞鶴駅にも確認できた。小松駅はこちらの調査不足で断定はできない。興味を持ったらぜひ比較していただきたい。


由良川橋梁(京都府/北近畿タンゴ鉄道宮津線)

由良川橋梁(京都府/北近畿タンゴ鉄道宮津線)

鈑桁(プレートガーダー)

12月18・19日と、小浜線・北近畿タンゴ鉄道に乗ってきた。ただただボケッと乗っていただけで、気になるものがあってもカメラを向けずにいたのだが、気づいたことも多かった。

由良川橋梁は、走行動画を撮った。


この由良川橋梁を、列車はゆっくりと走行した。そのため、普段は気づけないことに気づいた。枕木の加工である。

この由良川橋梁はリベットが多用されたプレートガーダーであり、フランジとウエブをつなぐのもリベットである。そのリベットは、当然上面、すなわち枕木が載る面にも出ているわけで、そこの処理がどうなっているのかなど考えたこともなかったが(なにしろ上面を見る機会よりも下から見上げる機会のほうがずっと多い)、こんなふうになっていた。

20101220ill.jpg枕木が、主桁の、フランジの幅だけ欠き取られているのは村田川橋梁の記事でも書いたが、ここのものはそれにプラスして(だったと思う)、リベット頭部が干渉する部分は枕木をえぐってあるのだ。

動画を撮影していたため、その証拠写真はない。

今度、他の古い鈑桁を見る際は、上面も見るようにしよう。
なお、歴史的鋼橋集覧の記事はこちら


富山駅東側の架道橋(橋梁名不明)

富山駅東側の架道橋(橋梁名不明)

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚

20101216-01.JPG山駅の東側、車道が鉄道をアンダーパスする部分にプレートガーダーと鉄製橋脚(鋳鉄か鋼鉄か不明なため鉄製と書くが、時代からしておそらく鋼鉄製)がズラリと並ぶ場所がある。画像上、裏側がのっぺりしているのは北側の歩道橋、その向こうのグレーのものはおそらく新設の桁、その向こうにプレートガーダー群がある。

場所はここ。上の写真は、apaホテルの前から南を向いている。


もう少し進む。
20101216-04.JPG橋脚が何本あって、桁がいくつあるかは数えていない。写真から読み取ろうとしたら、うまくいかない。まあだいたい11組くらいはある。でも衛星画像を見ると8線しかないんだよな…。

この場所で右を向くと、いちばん手前の新設の桁である。その真下にはこんなものがある。
20101216-02.JPG切断された鉄製橋脚。なんというか、グロ画像?


そのまま立ち位置を左にずらすと、ズラリと並ぶプレートガーダーの裏側を見られる。この対傾構(これも対傾構と呼んでいいのだろうか)、なんの根拠もないけれど、ほんとに昭和17年製?という印象(製造年については後述の銘板参照)。

20101216-05.JPG橋脚に載る部分の補強がなかなか。

この、対傾構もフランジもスティッフナーもぶっとい気がするのは、桁高さを抑えるためにそれぞれの部材に強度を持たせているのかもしれない(←当てずっぽう)。

また、プレートガーダーの上に載る線路を桁裏から見ることができないことから、この上には砂利が敷かれていることが分かる。地図を衛星画像に切り替えてもわかることだが。

真後ろを向く。
20101216-06.JPG橋台との部分はこう。

実は、この向きで11枚、似たようなカットを撮影している。橋脚の本数からいって、プレートガーダーが11本、平行に架けられているような気がする。数えていなかったので正しいかどうかは分からない。また、衛星画像で見ると、線路は11組もないので、どうなっているのかはよくわからない。

銘板。
20101216-03.JPG鉄道省
活荷重KS-15 ○○○519(3)-1
株式会社横河橋梁製作所大阪工場製作
昭和拾七年(○○○第1393○)
-----------------人人仝仝仝仝
C:材料 八幡製鉄所
L:仝上
L:○○○○株式会社
○:○○○○○
○(鋲?):○○○○○○所

以上、JRの橋梁群。以下、少し離れて富山地鉄の桁。
20101216-07.JPG歩道部分にはこのような短いIビーム桁が架かり、車道部分にはプレートガーダーが架かる。

この画像は、富山地鉄の2本の桁のうち、北側(JR線寄り)。

プレートガーダーはこう。
20101216-08.JPGスティッフナーの位置からして、明らかにJR線の桁とは製作時期が異なる。

そしてもう1本の富山地鉄の橋梁のうち、Iビーム部分はこうなっている。
20101216-09.jpgよく見て欲しい。4主桁になっている。Iビームの大きさをよく見ると、高さが先のものの3分の2程度しかない。桁下高さ確保のためか。そのために、主桁が2本ではなく4本となっている。

一見、同一の桁かと思いきや、根本的に異なる桁であった。もっとも、もしかすると、後年の補強かもしれないという可能性はある。

不思議なのは、古く見えるJR線の桁と、それよりは新しく見える富山地鉄の桁の見た目のことである。電鉄富山駅に乗り入れたのは1931年(昭和6年)10月3日 。冒頭で見たJR線の桁が1942年(昭和17年)とすると、なぜJR線の桁のほうが、富山地鉄よりも古く見えるのだろうか。もしかしたら、富山地鉄のプレートガーダーは、それ以降に架け替えられたのかもしれない(←まったくの当てずっぽうです)。

そもそも橋梁名すらチェックを怠っているので、そんな経緯を探れるはずもなく、今に至っているが、念頭に置いておこうと思う。

熊ヶ根橋(国道48号/宮城県)

熊ヶ根橋(国道48号/宮城県)

鋼製上路アーチ



上記の場所に、「なんでこれが歴史的鋼橋集覧に収録されてんの?」と思ってしまう橋がある。

20101215-04.JPG熊ヶ根橋。1954年(昭和29年)開通の、上路のスパンドレルアーチ。「普通の鋼製アーチ橋じゃん」と思うかもしれないが、実は現在の姿はかなり改修されてしまったものである。

その秘密は断面を見ればわかる。
20101215-02.JPG中央のアーチが初代の部材。そこから左右に添えられているのが、新しい部材だ。初代の部材は基本的にリベット留め、左右の新しい部材はボルト留めなので、すぐに見分けがつく。

斜めから見る。
20101215-01.JPGこの角度にすると、元からあったアーチの部位がわかるだろう。手前(画像左)はプレートガーダーだ。上のアーチ内部の写真は、この鈑桁の下にもぐって撮った。

この改修がどういうものかというと、いまでも資料が残っているので引用する。
国交省のサイトより。

寸法もある。


国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)から。

左右に張り出すのだが、片側(東側、下流側)を車道、片側(西側、上流側)を歩道とする。車道幅は、6mから10.9mに広がる。旧橋は東側に歩道が張り出していたことが上の図からもわかる。張り出し方はこんな感じ。

20101215-99.jpg国交省のサイト( 一般国道48号 熊ヶ根橋補強・補修)掲載の画像をつなぎ合わせた。

なんか、歩道部分、三弦トラスに見えるんですが、ちょっと検索しても分からなかった。

この改修にあわせて橋台も改築された。銘板がある。
20101215-03.jpg熊ヶ根橋 A2橋台
2002年7月
東北地方整備局
道示(1996)B活荷重
基礎構造:直接基礎
躯体コンクリート:24N-8-20
施工:後藤工業株式会社

この橋についても、とくに発見はない。


なお、歩道からは仙山線の第二広瀬川橋梁が見える。こんな橋だ。
これは歩道のフェンスによじ登って撮っている。フェンスを全面的に信頼していいのかという疑問を持ちつつ、恐怖感に駆られながら撮った。かなりの高さだ。この橋については上記リンクをご覧いただきたい。


身延線 第三上手河原架道橋

身延線 第三上手河原架道橋

Iビーム桁

20101212-08.JPG先のポスト、身延線芦川橋梁の続編。すぐ南西にある架道橋。写真は南から。場所はここ。


この場所に、わずか支間4m15cmの架道橋がある。支間がコレということは、道の幅はそれよりもずっと短い(狭い)。測ってくればよかった。

北側に回ってみる。
20101212-10.JPG太陽の位置の都合で飛んでしまっているのがお恥ずかしいが、南側とほぼ同じように見える。コンクリート製の橋台、練り石積みの翼壁。一瞬、橋台はコンクリート製に改築されたのかとも思ったけれど、開通したのが1928年(昭和3年)なので当初からのものだろう。

上の写真でもわかるが、こんな小さな桁にもきちんと銘板と塗装標記がある。
20101212-06.JPG分厚い塗膜ゆえに文字が判別しづらいが、芦川橋梁などと同じく

東京
株式会社
桜田機械製造所
昭和二年製作

と書いてあるように読める(すべて右書き)。塗装標記はこうだ。

橋りょう名 第三上手河原架道橋
位置 市川本町~芦川間 71K001M60
支間 4M15
塗装年月 2003年8月
塗装回数 3回塗
塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止ペイント
及塗料名 中・上塗 長油性フタル酸樹脂塗料
塗料メーカー 大日本塗料K.K
施工 佐野塗装K.K

銘板類は北側についている。


北側から少し裏側を。
20101212-07.JPG桁の手前(画面の点方向、北側)に1本アングル材があり、枕木を貫通しているレール固定器具を固定する鉄の棒が、そのアングル材を握っている。南側にはその部材はない。

また、このようなIビーム桁だが、時代の要請でリベットが打ってある。溶接ではない。

桁の裏側を見てみる。
20101212-09.JPGどうも、レールは桁に対して北側(画像の天方向)に1本分ほどずれているように見える。レール面を見たわけではないので、もしかしたら補助レールがあるのかもしれない。とにかく、桁の真上にレールがあるわけではない。


Googleマップの衛星写真を見ていると、身延線の橋梁の写真をアップしている方がいる。殆どが鈑桁だが、すべてを網羅してみるとなにか見えてくるかもしれない。


今回も、芦川橋梁と同時に廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。タイムスタンプを見ると、芦川橋梁とここで15分もお待たせしてしまった。すみませんでした…。なお笛吹川橋梁は、それだけで20分も…。重ね重ねスミマセン!


身延線芦川橋梁

身延線芦川橋梁

プラットトラス

20101212-01.JPGさきのエントリ、『身延線 笛吹川橋梁』と同型のトラス橋。写真は北側(下流側)。場所はここ。



この橋が渡る芦川は、笛吹川の支流。遡ると、いまは合併して笛吹市となったが、かつては芦川村という自治体が存在した。源流はその芦川村の中、「富士山は月見草がよく似合う」の御坂峠から西に連なる尾根の北面である。

建設経緯や時期は『身延線 笛吹川橋梁』とまったく同じ。おそらく笛吹川橋梁と同時に櫻田機械で四つの同型154フィートトラスを製作し、そのうちのひとつがここに架けられたのだろう。

ここには北側(芦川の下流側)左岸からクルマでアプローチした。川の上空は開けているので、周囲の建物よりも高さのあるトラスはけっこう遠くから見えていた。トラスを横から見るとスッキリした台形である。

桁の裏。
20101212-03.JPG河原に降りづらく、河原も枯れ草がすごかったので、ここに行くまでにひっつき虫で大変なことに。

トラスの部材と横桁(左右のトラスを結ぶ部材)、縦桁(レールの真下の桁。横桁同士を結ぶ)を見比べてほしい。横桁の高さに驚く。もちろん必要に応じてこの大きさなのだろうが、それにしても。

縦桁の少し内側にレールが見えている。つまり、レール幅よりも縦桁幅のほうが広い。これは、子どもの頃に読んだ鉄道模型の本にも書いてあったような気がする。

また、縦桁と横桁の接続部分、縦桁のフランジが一部欠き取られている。横桁の補剛材を避けるためだ。
20101212-91.jpg左だけ黄色でなぞってみたので、右と見比べていただきたい。フレアが入っているのは御容赦。

20101212-02.JPG橋台。現在、あらゆる桁に落橋防止措置が講じられているが、この芦川橋梁はコンクリートブロックがその役割を果たしている。おそらく、ブロックと兄弟との間に幾本もの鉄筋が通じているのだろう。

20101212-04.JPG南側(上流側)。右側の端柱、横の縞模様がついている。下記の銘板部拡大をご覧いただければ後付けだというのがわかるが、これはハシゴの役割だろうか。

20101212-05.jpg銘板拡大。

東京
株式会社
桜田機械製造所
昭和二年製作

と読める(すべて右書き)。


先の笛吹川橋梁もそうだが、身延線にはあまりトラス橋がない(北半分では、おそらく善光寺駅すぐ南の、濁川を渡る橋梁のみ。橋梁名は手元の資料では不明。会社にはあるのだが)ので、このふたつは乗っていても分かるだろう。斜材が同じ方法に続き、ついでバッテン、そして逆向きになったらこのふたつの橋である。

今回も「見てきただけ」になってしまった。

今回も、笛吹川橋梁に続き、廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。最後になりましたが感謝申し上げます。

『明治鉄道物語』(原田勝正)

『明治鉄道物語』(原田勝正)

鉄道の本

PC112540.JPG鉄ヲタではなく歴史ミリヲタの同僚から、この本がついに文庫化されたと聞いて、買った。仕事のための知識習得という面もある。いま、脳内でもわもわしている企画が結実するといいのだが。所収は講談社学術文庫。すばらしい。しかし、定価は文庫らしくなく、272ページで920円+税である。部数は推して知るべし。

いままで、原田勝正氏の文章は、編者としての文章しか読んだことがなかったので、本書を読み始めて驚いた。小説のようではないか。冒頭、いきなり明治5年9月12日(当時;太陰暦)の情景の描写から始まる。そう、この本はドキュメントの手法も取りつつ、事実を重ねて著述していくのだ。

内容は、なにからなにまですばらしい。さすが『日本国有鉄道百年史』の執筆者。

しかし!残念な点が多々ある。これは著者の責任ではなく、版元の責任といえるものなのだが。本書が最初に刊行されたのは1983年(昭和58年)。まだ国鉄が存在していた時代である。文庫化は2010年(平成22年)。その間、27年が経過している。なのに! 記述が当時のままで、注釈が一切ない! 刊行当時の事実が書いてあるので、今もその通りだという誤解を生みかねない。これは、版元の責任で注釈を入れるべきだと考える。

もうひとつ残念な点は、本書が日露戦争後で終わってしまっていることである!



内容で興味深かったのは、日清戦争後に鉄道投資熱があったというくだりだ。著者に依れば、熱に浮かれたのは1896年(明治29年)から1897年(明治30年)。1896年に設立申請のあった鉄道会社の総数は推定450以上。1886年から1890年までの5年間での起業は39社であるから、それと比べると数字のすごさがわかろう。出願の大部分は計画が杜撰すぎたり実現性が低かったりしており、ほぼすべてが却下された。江ノ島周辺では7社がほぼ同じルートで出願し、すべて同日に却下されている。申請の実例は、『日本の廃道』49号所収の「大峰電気鉄道」、同53号「山上軽便鉄道」などに見て取れる(これらは日露戦争後のものであり、あくまで計画性の杜撰さの例である)。

アメリカの鉄道投資ブームから約50年経って日本に現れた鉄道投機熱。アメリカの投機熱は、銀行が(当時は銀行が証券も扱っており、分離する規制はなかった…はず)西部開拓への夢を煽り文句に人を騙し続けたようなもので、また、実際の事業としては、競合路線を敷設し、競合したあとでその鉄道をライバル会社に高値で売りつけるなどということもしている。日本も、あとで国鉄に買い取らせればいい、という近い投機もあったようだ。ただし、日本では、鉄道を敷設しようとする地元の人たちによる費用面や労働面での奉仕もこれまた多かっただろう。その点ではアメリカと事情は異なる。


鉄道史とは、単なる路線ごとの年表の集合体ではない。さまざまな社会、経済、政治情勢を絡めて理解しなければならない。その入門書的な存在である。交通史というフックにひっかかる方には、ぜひご一読をおすすめしたい。


根室本線 新富士駅付近

根室本線 新富士駅付近

地図・航空写真・分水嶺

『鉄道ピクトリアル』2011年1月号を見ていたら、根室本線新富士駅の1967年の写真が掲載されていた。それを見て驚いた。まるで函館本線森駅のように、線路のすぐ脇が海ではないか。現在はこんな状態であり、現地を何度もクルマや列車で訪れている私の認識も、下記のとおりであった。



釧路の工業地帯であり、駅北に日本製紙、南に各社油槽所がある。かつて、東京都の間に近海郵船がカーフェリーを運航していたときは、このすぐ南に着岸していた。地図を拡大すると「近海郵船西港ビル」がある。何度かバイクで利用したが、最後の年、1999年も東京行きに乗船した。

比較は航空写真による。1961年度の1万分の1である。国土変遷アーカイブで表示させたものを切り貼りしている。
20101210map1.jpg黄色い矢印が差している場所が、新富士駅。北西に分岐するのは鶴居村営軌道、北東に分岐するのは製紙工場への引き込み線である。

続いて1967年の写真。こちらは国土画像情報に掲載されているもの。
cho-77-46_c16_4.jpgやはり黄色矢印が新富士駅。

わずか6年で、現在とほぼ同じ形にまで埋め立てられている。画像右、新釧路側ににょろにょろしているのは、船が何かを引っ張っているように見えるのだが、なんなのだろうか。

これらを見比べると本当に興味深いのだが、その感じ方は個人個人で異なるだろうから、ここまでとする。



最後に。
「新富士」の駅名の由来はその日本製紙の前身の富士製紙にちなむ。と書くと簡単だが、いささか経緯は複雑である。製紙会社の合従連衡を整理してみる。カッコ内は、この地の製紙工場の名称である。

1887年 富士製紙創業
1888年 前田製紙が創業、この地に工場開設(前田製紙釧路工場)
1920年 富士製紙が前田製紙を吸収(富士製紙釧路工場)
1933年 富士製紙が王子製紙と合併(王子製紙釧路工場)
1949年 王子製紙が3社に分割される。十條製紙創業(十條製紙釧路工場)
1993年 十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙となる(日本製紙釧路工場)

製紙会社の統合・分割、工場の統廃合の経緯は、同じ名称を用いた会社があったり似たような名称だったりして本当に複雑なのだが、その流れの中で工場として生きながらえていることに感動する。その工場人生(とでも表現しようか)の後半で、駅の南が埋め立てられて釧路港ができ、オイルターミナルができた。願わくばこのまま地方都市の工業が盛況であらんことを。


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