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澱川橋梁 近鉄京都線

澱川橋梁 近鉄京都線

プラットトラス

大きさも形も歴史的経緯もよく知られた橋である。場所はここ。

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歴史的鋼橋集覧」によれば、支間164.6m、1928年川崎造船所兵庫工場製。歴史的経緯はwikipediaに詳しいが、簡単に書くと
・猛急の工事であった
・陸軍の要請により、単径間となった
という曰くがある。それはともかく、1928年に製造されたこの澱川橋梁が、現在でも単純トラス橋としては日本最長であるという点が、橋梁史的に興味深い。

真横から見る。
20101031-06.jpg東に国道24号観月橋がかかっており、そこからだと実に美しく見えるのだが、いかんせん西向きになる。午後に行ったため、逆光だ。すみません。

これだけだといまいち大きさがわかりづらい。引いて見る。
20101031-05.jpg画面右に見える4車線の高架橋、京都外環状線や、左に見える電車(1両20m)と比較してみてほしい。部材1本が電車1両分の長さ…とは言い過ぎだが、肉眼ではそう見えてしまうほどだ。

こうして遠くから真横を見ると、華奢に見えるが、もちろんそんなことはない。南側から見る。
20101031-01.JPG見よ、このごつい橋門を。なんという重量感。使った鋼材は1810tだ。鋼鉄の比重を7.87と仮定すれば、その体積は9.3m×9.3m×164.6mとなり、断面9.3m四方の鋼鉄の塊がこの橋の長さにかかっている計算になる。この比重が正しいかどうかは知らない。

あれ? 端柱に接する斜材が…
20101031-07.JPGいちばん端の/型の部材が、ツルリとしている。これだけ交換されたのか? などとも思ったが、ガセットとの結合はリベットだし、レーシングもリベット留めだ。オリジナルだった。

20101031-09.jpg漢数字とアルファベットの大文字を交えて縦書きすると、まったくアルファベットに見えない。支間が、歴史的鋼橋集覧となぜ異なるのかは不明。

下に潜ってみる。
20101031-04.JPG

角度を変える。
20101031-03.JPGこうなると、もはやトラス橋の縦桁ではなく、支間18mのプレートガーダー橋だ。

そして、この重さを一手に引き受ける支承。
20101031-02.JPG思ったほどでかくない。そして、更新されている。こういうものを更新するとき、1810/4tをどう支えて支承を入れ替えるのだろうか。さがせば作業請負会社のサイトでも出てくるかな。

なんて思ったら、ちゃんと資料があるではないの。『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣   )。それによれば、昭和52年(1977年)に支承が水平移動しないことが判明し、昭和58(1983年)に更新されている。



では、その『澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-』(月岡康一、小西純一、和田林道宣   )を基に少し。

この巨大な桁は、のちに横河橋梁に転ずる関場茂樹が設計した。関場はアメリカン・ブリッジ帰りの橋梁技術者であり、個人的にはこれからもっと人となりをさぐってみようと思っている。

現在でもそうなんだから、当時でも日本最長のトラス桁である。では、当時、世界の単純トラス橋の長さはいかほどだったかというと、1位のメトロポリタン橋(支間219.5m、1917年完成)を筆頭に5位までと7~10位がアメリカの橋。6位にドイツのライン川にかかるDuisburg Ruhrort(デュイスブルク・ルーアオルト)橋(支間186m。リンク先は推定。ガセット結合の分格ワーレンであること、ライン川に架かる橋はこれしかないこと、実際に200m弱らしいことから推定)がランクインするくらい。橋王国・アメリカの面目躍如たるところだが、この澱川橋梁はその当時のランクでいうと世界第11位となる。

1位のメトロポリタン橋は、全長1958mの橋。このうちの南側の1径間が、最長のものだ。

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上記の衛星写真でストリートビューを選択すると、この橋の外見を撮影した画像が表示されるはずだ。この橋のディテールは、このサイトが詳しい。見れば、トレッスル橋脚+プレートガーダー部もある。雄大さは日本の比ではない。

元々はCB&Q(シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道。別名バーリントン鉄道)として開通し、いまはCNR(カナディアン・ナショナル鉄道)が保有している。蛇足だが、後者のリンク先は私が起こしている。



ああ、また海外のサイトを漁って時間を過ごしてしまった。キリがない。
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江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編

江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編

大協石油・丸善石油・キグナス・ガソリンスタンド全般

深川東京モダン館が開催している「江東ドボクマッピング 新観光講座」。先日は「橋編」に行ってきたが、本日、「ガソリンスタンド編」が開催されたので拝聴してきた。全6回とも拝聴したかったのだが、自分の都合もあり、今回が2回目だ。

講師はガソリンスタンド・ノートの松村さん(@g_stand)。なお、今回のイベントに関するツイートはこちらにまとまっている。

20101030-03.JPG「江東ドボクマッピング」ということで、江東区の給油所についてのお話から。

給油所は消防署が管轄しているのだが、訪ねても何の資料も閲覧させてもらえないという。そして、給油所に関する趣味書などあるわけもなく、でも国会図書館に行ったら『東京都ガソリンスタンド現勢』という昭和30年(1955年)に行き当たった。これがamazonで検索できることは傑作だ。買えないけど。

実際に松村さんが目にしているだけでもどんどん姿を消している給油所。話の中に、ぽんぽん都内各地の姿を消した給油所の話が出てくる。きっと、見ていた人たちは、それぞれに記憶の糸をたぐりながら、ああ、あそこは知ってる、という個々の思いを新たにしたことだろう。私はと言えば、そういえば東京駅八重洲口に給油所があって、バイク雑誌の仕事をしていたときはよくそこを使ったなあ。などということを思い出した。

そうしたことをきっかけに、ブランド別といったらいいのか、看板別にいきなり切り込んでいく。JOMO、ENEOS(このふたつはENEOSに統合中)、出光、コスモ、ゼネラル、、ESSO、昭和シェル、SOLATO…。ブランドの架け替えの話。商売を終えてしまう話。そこに見る個人経営者の話。給油所ひとつひとつに、それほどの話があるとは空想だにしなかった。

看板だけではない。給油所の建物の意匠やキャノピー(天蓋)、計量器の土台にも、ブランドごとの特徴があったなどとは、まったく知らなかった。松村氏のサイトを拝見していれば、たしかに「○○(ブランド名)らしい」という記述があるのだが、つい読み流すというか、それを特徴として得心していなかった。こうして口頭で説明されるとものすごく深く納得できる。いままで漫然と見ていたものが、どんどん整理されて、自分の中でタグ付けされていく感じ。これがリアルイベントのおもしろさだ。

松村氏は、これらのブランドごとの特徴を「数を見る」ことで会得しているという。趣味的な教科書があるわけではない。観察眼と、あとは実際の給油所の人の話だという。いわゆるドボクの分野では、その手法によって年代をある程度特定できるが、それと同じことが給油所にもあてはまるという事実。それを見出したということに感動した。自分も精進しなければ。

最後に、美しい給油所を。

20101030-01.JPG美しい。こちらを参照。

20101030-02.JPG下灘駅か!

すばらしいお話だった。カルカルのようなハコでもぜひ!




以下は蛇足だ。

私の給油所にまつわる経験を書く。書きたいので書く。

(1)
最初に給油所を意識したのは、保育園の行き帰りだった。行きは母親に自転車で送ってもらい、帰りはひとりでバスで帰ってきた。その、帰りのバス停の前に、この給油所があった。いまもある。外装は変わったが、当時もキャノピーがあった。そして、そうだ、思い出した、ターンテーブルがあったはずだ。…でも、静電気防止のために床を濡らす必要があるとすれば、記憶違いかな? まあ、あったことにして書く。



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アポロマークは、おそらく1976年頃には意識していた。長らくあの横顔を麒麟麦酒の麒麟と同じテイストだと思っていた。保育園児のころは。

この給油所の特徴は、立体駐車場があることだ。上のGoogleEarthにも写っているが、これは垂直循環式の駐車場で、いつも、クルマが乗ったゴンドラが右から左へスイングしていくところが見えていた。観覧車のようだ、と思っていた。保育園児だったが。ターンテーブルも、立体駐車場の付属設備として機能していたのではないかと思う。

ついでにいうと、バスのディーゼルエンジンの排ガスの匂いが好きだった。まだ、ときどき半流線形のバスボディを見ることができた。まだ車掌が乗っていた名残があり、そこによく入り込んで乗っていた。背面部が丸く、背面のグリルがダイエーのマークのような欠円になっていた。そこからファンが見えた。マフラー端部は丸かった。角型ボディのバスは、マフラー端部が楕円形だった。下らないことを記憶しているものである。


(2)
日石のコウモリマークも幼少の記憶にある。
柏崎に親戚がいた関係で、よく信越本線の列車に乗っていた。柏崎駅には日石の精油所(当時、どういう名称だったかは不明だが、とにかくそういう役割の施設)があったため、タンク車がゴロゴロしていた。そこに、カルテックス+コウモリマークがついていた。もちろん、幼少のこととてコウモリを図案化したなどとは知らず、筋骨隆々の骨人間(矛盾した表現だな)だと思っていた。小学生になって、コウモリマークが「日本」と読めることに気づいた。日石と柏崎の関係は深く、発祥の地は西山油田だったと思うが(尼瀬油田かもしれない)、柏崎駅近くに本社を置いていたことがある。


(3)
また、小学生になってからは共同石油のロゴが好きだった。きっかけは鉄道模型だ。KATOがDE10をリリースしたとき、広告写真でタキ43000を引いていた。それからだ。なぜか、長じて東京へ来てバイクに乗っても、近所の共同石油でばかり給油していた。1993年に日鉱共石がジャパンエナジーになり、その後JOMOブランドを使用し始めた。「joy of motors JOMO」というジングルや、新聞の全面広告は記憶にある。その後、1995年以降も時折、共石の看板を掲げた給油所を見ていたが、いつしか見なくなった。


(4)
そして先日、廃道撮影の取材で訪れた米沢で、気になる物件があった。しかし、自分のスタンスとして安易に撮影してアップして適当な感想を載せたり、松村さんに「こんなのがありました」とご連絡するのもおこがましく、写真すら撮らなかったが、我慢できないので書く。ここ。

(注;サービス終了につき地図削除)

怪しげな三角地帯。ここは、バイパスの開通により三角地帯になってしまった場所。もともとは「八谷街道」と書いてあるほうが昔からの道筋だ。いまでは西行きの一方通行になっているが、車線幅は2車線分あり、もちろんかつては交互通行だっただろう。いまは、その余った車線は、給油所関係とおぼしきクルマが堂々と駐車している。

Googleのストビューがないのが本当に残念だが、上記の地図を航空写真に切り替えると、セールスコーナーが円筒形をしているのがわかるだろう。個人経営らしく、サイトなどはないのだが、こんな記述はみつけた。私があえて撮らなかった写真も、小さいが、ある。
八角形の縁起の良い建物で、スタンド内はグルグル回れるよ!また、どこからでも入れるし、どの方向にも出て行けるよ!
くだらんこと考えずに、撮って、そこで給油すればよかった。実は夜と朝とのべ3回通過しており、非常に気になったままだ。なお、この給油所、昭和51年(1976年)の航空写真にもきちんと今と同じ形で載っている。ついでに書くと、その右側、羽黒川を渡る「万世橋」はその後、バイパス的に新しい橋に切り替えられ、その航空写真にある橋は「旧橋」として姿をとどめていたが、先週行ったら解体され、新橋への架け替え工事をしていた。



給油所。まだまだ書ける気がする。それだけ、日常的というか、密接に関わるものだったのだろう。またいつか書こう。

廃道取材(6)山形県道250号を例に

廃道取材(6)山形県道250号を例に

隧道・廃隧道

丸田祥三さんとの廃道取材レポの続きです。まずは前夜の話。

その日は栗子隧道を堪能し、夕方に(のちに『山さ行がねが』で公開された)菅野ダムを訪問したあと、米沢駅前のホテルに向かった。まだそれほど遅い時刻でもなかったので、「ホテルにチェックインして、駅前で夕食にしましょう」と話ながら駅に向かうと、アレアレ?という感じで駅に着いてしまった。駅ビルとかないのね…。

イメージとして、置賜地方の中心地たる駅前なんだから、山形駅前くらいの感じだろうと思っていたが、周辺には米沢牛の店ばかりが何軒かあるくらいで、普通の食事ができる店がなさそうだった。仕方なく、クルマで郊外のロードサイド店の多いところに行こうか、と思ったところ、カレーハウス園というお店からいい匂いがしてきたので入ってみた。アタリだった。

ふたりでジャンボカツカレーを注文。私は大盛り。…大盛りを後悔したが、なんとか食べきった。とてもいい雰囲気のお店で、満足した。食事をとる店がアタリだと、とても気分がいい。

翌日、朝6時半出発で行動開始。主目的は国道113号沿いに点在する旧道や廃道だ。

米沢から朝靄の国道287号を北上し、米坂線の羽前小松駅を横切り(踏切は「小松街道踏切」という名称だった)、県道250号へ。ふと右に目をやると、怪しげな道ががあった。「ちょっと止まりましょう」。


20101029-02.JPG既に廃道に入ってしまっているが、このように現道に直角に接続する道路があった。しかも現道との交差点には柵がある。明らかに、使われなくなった「旧道」である。

この、いま正面を左右に走っているバイパスは開通が新しいのか、電子国土で見てもここは旧道のままだ。カシミール3Dで切り出したものを張っておく。
20101029-01.jpg黄色いのが新設されたバイパスで、青いのが、上の写真の道。おそらく、青い線の南半分と北半部とで開通時期が異なるのだろう。本線にも、それらしき白線が写っていた。

20101029-04.JPG丸田さんがカーブ地点の撮影をされている間、私はひとりで旧道を歩いていた。車が入ってこない2車線の道は広い。坂を登ると、カーブミラーがあった。その向こうにはバイパス。

20101029-05.JPG路面には草。こういうものを見ると、植物の強さをものすごく感じる。そのうちアスファルトを割り、アスファルトを粉々にしてしまう。

20101029-03.JPGさらに坂道を登ると、舗装路はこんなふうに幅が狭くなっていた。現道に切り取られているのだ。それでもなお1車線分の幅はある。

なぜかというと、右に写っている電柱がヒントだ。電線(電話線)は道路に沿って延びていくのが普通だが、道路の経路が変更されても、電線の経路は変更しないことがある。変更することと比べて多いのか少ないのかはわからないが、かなり見かける。その、古い経路に沿って設置された電線の点検の「ため、旧道部分が維持されている場合がある。ここなどはその例だ。

振り返ると、丸田さんが撮影していた。
20101029-06.JPG藪中に標識がないか眺めたが、ここにはなにもないようだった。

この場所で30分ほど撮っていた。このようにして、予定していなかったところにしょっちゅう停まるせいで、撮影はいつも押せ押せだ。作品作りをしている写真家に向かって「すみません、そろそろ…」などと催促する不躾な私。申し訳ございません…。

この日はこの後、宇津峠や片洞門に行った。八ツ口も行くつもりだったが、事前にあまりに藪がひどく、しかもイバラだとトリさんからの情報が入ったので断念した。



米坂線第四荒川橋梁(三代目/アメリカン・ブリッジ)

米坂線第四荒川橋梁(三代目/アメリカン・ブリッジ)

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

IMG_0395_R.JPG


米坂線は1926年(大正15年)から1936年(昭和11年)にかけて開通した。この時期には既に橋梁は国産化されている。それなのに、この地に1910年代初頭を最後に輸入されなくなったアメリカン・ブリッジ製の200フィートクーパートラスが架設されている。それは、この地に架けられていた橋桁が水害で被災したためだ。かといって、流失した橋桁が初代かといえばそうではなく、初代の橋桁は1940年に雪崩で流失しているので、このクーパートラスは三代目ということになる。なんだかややこしいが、順を追って書こう。

初代の橋桁(開通時~1940年3月5日)

初代の橋梁がどういった形式だったかはわからないが、水量の豊かな荒川を横切るのだから、現在とスパン割は変わらない200フィートだったのではないかと推測する。1940年3月5日、雪崩が初代橋桁を押し流し、そこにさしかかった列車が荒川に転落するという事故が起きた。橋桁は4~5年の命だった。事故の内容はwikipediaにある。現地には慰霊碑があり、私が訪ねたときでも、まだ添えられて日が経っていない花があった。ご遺族だろうか、保線関係者だろうか。

二代目の橋桁(1940年~1967年8月28~29日頃)

一昨日のエントリにも書いたが、1967年8月28日から翌日にかけての豪雨が「羽越水害」を招いた。羽越水害については小国町のサイトに詳細があるのでそちらを参照していただきたいのだが、このときに二代目の橋桁が流失してしまった。流出したあと、下記の写真のような状態になった。
(小国町のサイト「壊滅した米坂線」より転載)

残された橋脚の位置からして、二代目橋桁は上路トラスで、左手の隧道につながる部分にはプレートガーダーかなにかが架かっていたことがわかる。しかも、現在はトラス橋が第2連だが、この当時は第3連だった可能性もある。あるいは上路ゲルバートラスだったか、などとも考えたが、流失した初代の桁を復旧するという急を要する時に、専用設計のようにゲルバートラスなど架けるとは考えづらいな。ということで上路トラスではないかと想像する。

興味深いのは、隧道坑門の形状だ。これは、後述のスパン割から、隧道坑門ではなく、それをそのまま延長した落石・雪崩防止のヴォールトであろう。そのヴォールト内には地盤があるわけではなく、プレートガーダー橋がある。同じような例は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)の東端部でも見られる。

三代目の橋桁(1968年7月~現在)

さて、橋桁が流失したからといって、さっと別の橋桁を作れるわけではない。他の例でいうと、他の場所に架けようとしていた橋桁を転用したり、橋梁の架け替えで不要となった橋桁を転用したりするものがあった。ここ米坂線には、東海道本線大井川橋梁としてかつて使われていた橋桁を、宮地鉄工所で改造して転用することにした。改造内容は不明であるが、図面番号は「TTR462-2」である。

転用元について、かつて書いたことがある。こちらをご覧いただきたい。
→アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪)


要するに、廃止したまま放置してあったトラス橋の転用先が見つかったのである。架設中の写真が残っている。
(小国町のサイト「復旧から復興へ」より転載)

隧道前に新しい橋脚を設置している。流失を免れた橋脚はあるが、既に足場扱いだ。帰宅してからこの写真を見たので、現地では、その存在を調べなかった。

IMG_0404_R.JPG
(塗装標記に誤記。「支間」が「文間」になっているような気がする。)

第四荒川橋梁は、冒頭の写真で奥(隧道側)から1、2…と連を数える。

・第1連 KS12 スパン12.9m
・第2連 KS14 冒頭のクーパートラス
・第3・4連 KS18 スパン22.3m
・第5連 KS18 スパン12.9m
・第6連 KS18 スパン4.19m
・第7連 KS12 スパン6.70m

ということは、第1・7連はオリジナル、第3~6連は、KS18ということは架け替え済み。第2連は上述のとおりだ。

現在の米坂線第四荒川橋梁は、三世代の桁が同居した橋であった。

海尻橋(栃木県五十里湖)

海尻橋(栃木県五十里湖)

ランガートラス橋


廃道取材(5)東北に掲載した橋。単なる偶然ではあるのだが、いろいろシンクロニシティを感じたので海尻橋について書く。

海尻橋は、五十里湖にかかる。五十里湖は、鬼怒川の支流である男鹿川(おじかがわ)に作られたダム湖だ。かつて、西側にキャンプ場があり、そこにゲリラ的に泊まったことが何度かある。いまは閉鎖されているようだ。


20101026-11.JPG西側(上流側)。右に見えるのは国道121号で、クルマで走っていてにこの海尻橋が目に飛び込んできたとき、思わず声を上げた。

ランガートラス。タイドアーチの一種で、タイをトラスに組んである。一般的に、タイドアーチの場合、タイには桁橋(いわゆる普通の橋)と同じ役割が与えられるが、だからこそ補剛桁がトラスなのか。んなわけないか。

ランガートラスはあまり例が多くないのだが、偶然にも今月の『日本の廃道』で「山家橋(やまやばし)」の現在線が、ランガートラスだと知った。

なお、似たような音の形式として「トラスドランガー」がある。そちらは、アーチとタイをトラス状に結んだ形式であり、タイをトラスに組んだものではない。

20101026-16.JPG下流側(南側)。長大すぎて木に隠れてしまう。

橋長117.4m、幅員6m。とにかく大きい。

20101026-15.JPG横構がアーチのようになっているのはもちろん「アーチ」ではなく、吊材と接続する部分のハンチが丸味を帯びているだけだろう。

20101026-13.JPG先にも上げたが、袂には公式に「こっちが旧道」という案内標識がある。

そして銘板。
20101026-14.JPG
昭和30年(1955)
建設省建造
内示(昭和14年)一等橋
松尾橋梁株式会社
東京工場製作

と書かれていた。


この橋について、もうひとつシンクロニシティを感じたことがあるのだが、忘れてしまった('A`)


これからはこのランガートラスも見に行くようにしよう…。

米坂線の橋梁の活荷重はKS12だった(玉川橋梁/杉橋梁)

米坂線の橋梁の活荷重はKS12だった(玉川橋梁/杉橋梁)

鈑桁(プレートガーダー)

米坂線の玉川橋梁と杉橋梁に残る銘板について記す。
玉川橋梁はここ。


開通したのは1936年8月31日。この小国~越後金丸間の開通を以て、米坂線は全通した。

この部分にかかる橋は、4連のプレートガーダー。
20101025-04.JPG左が坂町方、右が米沢方。正式名称は知らないが、起点側=米沢側から、第1連、第2連…とすると、第1連は短く、第2連は一番長く、第3連は短く、第4連はすごく短い。

20101025-21.JPGこれが第2連・第3連だ。

これらのうち、第2~第4連の銘板が見えた。まず、第2連。
20101025-07.jpg日本国有鉄道
1967(711530)
KS-16 DG631-1
DG 48.7T 51.7m
**(52)31 3.3*116*
トピー工業株式会社

一番長い桁は、支間51.7mでトピー工業製だった。

次いで第3連。塗装標記から、支間19.2m。
20101025-06.jpg鉄道省
活荷重KS12 *で*219
川崎車輌株式会社製作
昭和十年 (*** 1163)
-------
**
L 日本鋼管株式会社
****株式會社
******
********

第4連。塗装標記から、支間9.8m。
20101025-05.jpg鉄道省
活荷重KS12 ***209
東京石川島造船所製作
昭和*年(***1534)
-------
L.八幡製作所
L.****会社
* ********
鉄 浅野小倉製鋼所

土木学会誌22巻9月号(1936年)の時報に「全通近き今坂線」(今坂線=今の米坂線)という記事がある。その中に、「第2荒川橋梁 101.3m」とある。これが、この玉川橋梁だと思う。追記:第2は、越後金丸のすぐ北に架かるものだった)米坂線の「第○荒川橋梁」という名称は、上り方・下流側である坂町側から「第1」「第2」と付番されている。また、同書には「丙線」と書いてある。丙線とは、軸重13tの規格である。それなのに、活荷重はKS12だ。

トピー工業製の第2連だけが、KS-16であり、また桁製作が1967年となっている。これは、1967年8月28日から翌日にかけての「羽越水害」で、この桁だけが傷んで交換せざるを得なくなったということだろう。羽越水害については小国町のサイトに詳しい。

なお、第1連の銘板や塗装標記は確認していないが、上記「101.3m」から類推するに、第1連の支間は19.2m(第3連と同じ)ではないかと思う。



次に、杉橋梁。この区間(手ノ子~羽前沼沢)の開通は、1933(昭和8)年11月10日。場所はここ。


20101025-19.JPG左端が米坂線の杉橋梁。真ん中はR113号の旧道。右は現道。

こんな感じで銘板がある。
20101025-20.JPG20101025-13.jpg
鉄道省
活荷重KS15*(で出519)
株式会社●●
松製作●●
昭和八年***1379
-------
**
L.八幡製鉄所
L.日本鋼管株式会社
●:●●●●●●
●:●●●●●●




鉄道用橋梁は、一定の範囲でテンプレート的に設計済みのものを各地に据え付けていく。ここ米坂線でもそれは例外ではなかった。玉川橋梁は活荷重KS12、杉橋梁はKS15。開通時期が異なるため、杉橋梁が架設された時期(米坂東線建設時)はKS15だったのが、全通区間(伊佐領~越後金丸間)はKS12で敷設されたのか…などとも考えてみたが、その差は3年しかない。そのため、杉橋梁がKS15である理由は謎である。

一方、玉川橋梁の第2連の活荷重がKS16であることは、単に、桁が1967年に作られたからに過ぎない。当時はKS16とKS18でしか桁を作らなかったはずだ。

なお、こうした活荷重は、クーパー荷重の解決」に書いたとおり、1D+4軸の機関車が重連で走ることを想定している。そのため、桁そのものが負担できる荷重としては、総重量から考えると、軸重が多少上回る機関車でも入線は可能だ。実際、そうした経験値で特例があった例はいくつか聞いている。

いつか、米坂線の全橋梁を調べてみたい。



廃道取材(5)東北

廃道取材(5)東北

廃道

週末を利用して、引き続き、丸田祥三さんの廃道撮影にくっついて来ている。道案内役兼運転手。今回は、先日回りきれなかった栃木~福島から、山形に入り、明日も山形だ。決め撃ちで撮影するもののほか、車中から旧道や廃道を見つけるとクルマを停めて撮影したものもかなりの数にのぼる。時間の制限もあるため、すべてを撮影できないのが残念だ。なにしろ、17時すぎにはほぼ真っ暗になるのだ。

20101023-05.JPG大峠道路で見つけた旧道。もしかしたら、工事用道路かもしれないが、舗装された上に藪が繁茂していた。路肩にはガードロープの支柱。そして、入り口はガードレールが塞いでいる。


20101023-01.JPG栃木県の竹ノ上橋。吊橋は、廃止になるとケーブルだけを撤去し、主塔は存置されることが多い。ここは、ケーブルと、腐った床が残っている。もちろん、渡ることなど不可能だ。どんな橋かは、『廃道本』巻末グラビア参照。

20101023-03.JPGこれも吊橋の主塔。この吊橋は、なぜここに架かっているのかがわからない。しかも小さい。人道橋かもしれない。

20101023-02.JPG五十里湖にかかる海尻橋で見つけた、公式の「旧道」。

この橋は、実は珍しい形式で、走行中、思わず声を上げてしまった。ランガートラスという形式で、タイドアーチの一種。アーチリブ(いわゆるアーチの部分)の両端を結ぶタイがトラス形式になっている。しかも、トラス部分は箱状に組まれており、路床はその上にある。これを中路アーチか、と書いてあるサイトもあるが、路床はアーチ下端と同じ高さであるため、下路だと考える。

ばかでかい橋で、スパンは110mを超える。


丸田さん撮影中。なぜか逆光の場面ばかり。後ろ姿が多いのは、私が前から丸田さんを撮ってしまったら、丸田さんが撮影できないからだ。当たり前か。とくに丸田さんは超広角を多用するので、真横にいることすら不可な場合も多い(はずだ)。
20101023-06.JPG20101023-07.JPG2枚とも、福島・山形県境にある栗子隧道(国道13号旧道)の山形側ルート。栗子隧道は落盤で閉塞しているので、福島側から、または米沢側からのピストンとなる。個人的には福島側は行ったことがあるので、今回は隧道坑門がふたつ並んでいる山形側に行った。丸田さんのすぐ左に、明治時代の坑口。画面左に明確に見えるのが昭和に改修で生まれた坑口だ。

米沢側は採石場内を通過しなければならないが、事務所に挨拶すればおk。「クマが出るからね」と言われ、用心しながら歩き始めた。採石場から少しクルマであがると簡単なゲートがある。危険なので徒歩で行け、と保存会の張り紙がしてある。ここから栗子隧道まで約4km。秋らしい、真っ青な青空のもと、紅葉真っ盛りの栗子山を左手に見ながら歩いた。丸田さんも、心身ともにリフレッシュされたようだ。栗子隧道の前では風が冷たく、吐く息がときたま白くなった。

なお、作務衣で撮影されている丸田さん。上の画像ではわからないが、足下はモンベルの登山靴で固めている。また、インナーは発汗製の高いもの、アウターは別に持参している。私はいつもの登山スタイル。違うのは、背負うものがカメラバッグで、三脚を手に持っていることだ。片道1時間強、まあ、ガチガチに固めるまでもない。

今晩は米沢泊。明日も米沢周辺を取材する。


十勝三股の地形

十勝三股の地形

地図・航空写真・分水嶺

仕事で、ノースライナーみくに号やらなにやら調べていて、結局私が取材に行くことはできなくなたのだが、そんなことをツイートしていたら何人かの方が反応してくださったり、ブログにアップしていただいたりしたので、ここでは十勝三股の地形について述べたい。

mitsumata6.jpg(DAN杉本氏のカシミール3Dで作成。高さは2倍に強調)

十勝三股は、北海道の帯広市から北北西に約67kmいったところにある、扇状に広がった地域である。その南に周囲は石狩山地に囲まれ、それらの南面から流れ出た水が十勝三股を潤し、音更川となって糠平湖を形成する。音更川は十勝川の支流である。

音更川を遡る形で説明すると、十勝「三股」というとおり、音更川はこの扇状地に入ると三俣地区で三つに別れる。本流は西へ向かい、ニペソツ山の北側の峰まで遡る。北へ向かうのは中の川。東へ向かうのは十四の沢。これらをして「三股」といったのかどうかはわからないが、おそらくそうだろうと思う。

この三股の周囲はぐるりと山に囲まれている。そして、峰に向かってどの方向へも緩い傾斜をもって向かっている。その不思議な地形は、平面の地形図ではなかなか実感できない。このような鳥瞰図をもってして初めて理解できる。


よくぞこんなところまで鉄道を敷いたものだと思う。もともと、北海道の鉄道は開拓の最前線という側面があるので、現代の観点で簡単に判断してはならないのだが、それにしても、と思う。糠平まであったことでさえ驚きなのに、さらに十勝三股まで。もうすぐ三国峠、その向こうは層雲峡、そして上川だ。


十勝三股の扇状地を拡大して真俯瞰するとこんな感じだ。
mitsumata11.jpg(DAN杉本氏のカシミール3Dで作成)

これだけ広大な土地に生活していた人たちの心はいかばかりか。学校や神社まであったらしい。



十勝三股の北西に、石狩岳がある。20年ほど前、この山に登ろうと思っていろいろと情報を集めていたことがある。「シュナイダー尾根」というコースの名称に惹かれたのだ。なぜこんな奥地にドイツ名(だと思う)が!? しかし、アプローチがどうにも難儀な気がして、断念した。そして他の山に向かった。トムラウシ(テント泊2泊3日)、利尻岳、大雪山(こちらはお手軽に)に行った。いまならレンタカーを借りて…なんて思うが、当時はそんなことは思わなかった。石狩岳は幻の山だった。このエリアは、十勝三股から徒歩で三国峠に向かい、途中で砂利道になったので、そこからヒッチハイクで上川に抜けた。

ところが2年前、廃道の本を作っているときに、nagajis氏から「十石峠を自転車をかついで越えた」と聞いた。まさかまさか。後日、写真を見せてもらった。本当に、十石峠に自転車が写っている。その写真は『廃道ナイト』でも使われたような気がするが、おそらくそのすごさに気づいた人はいないか、いてもごく少数だと思う。まさかまさかの峠越えである。


十勝三股は、もう8年ほど行ってない。いま、猛烈に行きたくなっている。いまこうして地形図を見ていて、置戸に抜ける勝北峠を走ってみたくなった。なぜ、自由に行けた時代に行かなかったのだろう? 知らなかったのかもしれない。


<参考>
賑やかなりし十勝三股駅界隈@golgodenkaさん)
・ツイート(@dodoshiryoさん)
十勝三股あの頃。(編集長敬白)

<関連項目>
糠平、昭和24年の20万図と昭和30年の5万図

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-2)山形鉄道最上川橋梁

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-2)山形鉄道最上川橋梁

橋梁(パテントシャフト&アクスルトゥリー)

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-1)山形鉄道最上川橋梁というポストの続きを書いていて、うっかりブラウザを閉じちゃって書いた文章が無に帰したことがあった(こちら参照、するほどでもない)。そのことをすっかり忘れ、別件でこの山形鉄道のダブルワーレントラスについて触れようとしたら、記事そのものを実はまだ書いてないことに気づいた。まあ、あと20橋くらいネタたまってるんだけれど。

さて、その文章を消してしまったときに何を書こうとしたのかはまったく憶えていないので、ここではディテールを紹介する程度にする。この橋の経緯等、詳細説明は、上記「番外1-1」のリンク先をご覧いただきたい。

20101018-11.JPGさて、この最上川橋梁は、非常にいい立地にある橋である。県道の荒砥橋から、このように見える。背景は、出羽山地の一部、葉山などである。写真に見える山の向こう側方向に稜線が延び、その稜線は朝日連峰に連なっている。

寄ってみるとこうだ。
20101018-01.JPGこの、3連のダブルワーレントラスの存在感が大きいが、この最上川橋梁は対岸に向けて溢流部に12連のプレートガーダーがかかっている。そして、こちら側、つまり北側の下弦に、連番号がペイントしてある。ここに見えているダブルワーレンは、右から順に13、14、15と書いてある。

20101018-03.JPG上流側から。戦後すぐの、といっても62年前の航空写真を見る限り、本流部と溢流部の割合はほとんど変化がないようだ。最上川は、当時すでに手が入っていたのか、それともいまだに手が入っていないのか。きっと前者だとは思う。

真横から。
20101018-07.JPG美しい、9パネルのダブルワーレン。私はこれをトリミングにしてスクリーンセーバーにしている。

20101018-08.JPG20101018-09.JPG上弦と下弦のピンはこんな感じだ。


ここまで写真をご覧になった方は、この橋はきれいだと感じることだろう。昔のワムハチの色、すなわちとび色2号に似た色合いの塗料が塗られたばかりのようだった。このときの撮影行では、塗り替えしたばかりの橋に出会うことが多々あった。ラッキー。

肝心の横桁。
20101018-06.JPG
このように、直線的な横桁が格間に2本ずつ渡され、その横桁を繋ぐように縦桁が2本、設置されている。岐阜県の初代東海道本線揖斐川橋梁もパテントシャフト製で、このような横桁を持っているので、これがパテント・シャフトの流儀なのかもしれない。

また、この写真では橋台付近をご覧いただきたい。ダブルワーレンの端柱部、つまり∠となる部分の先端、横桁のようなものがリベット留めされている。そして、その横桁のようなものと橋台の間に、レールが4本、まるで端を支えるかのように配置されている。なぜなのかは不明。

20101018-04.JPG支承。ピン支承をローラーが受けている。

20101018-05.JPG横桁の断面。どういう過程で横桁が作られていくのかを知りたくなってきた。


20101018-02.JPG正面。

20101018-10.JPG右岸には、このような説明板があったが、もうこれでは意味を成さないだろう…。


以上、一切、新発見とかナシ。繰り返すが、このポスト上部の「番外編1-1」をご覧いただきたい。


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