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上の地図、現在線と旧線の描き方がおかしく、拡大して南下すると収集がつかなくなっているのはご愛敬か。
20100920-01.JPG中央本線の大日影トンネルは、甲斐大和から勝沼ぶどう郷の間にあるトンネル。1997年に新しいトンネルが掘られたことにより使用停止され、いまは遊歩道として整備されている。3月に訪問した際、かなりの人手に驚いた。午後3時すぎから往復1時間以上歩いている間にすれ違った人の数は100人は超えている。かなりの人気スポットのようだ。写真の右端が遊歩道となったもっとも古い大日影トンネル(1903開通)、左端は1968年上り線として開削されたもの、中央が、右端の代替として1997年から使用されているものである。

この遊歩道自体はたくさんの方がレポートしているので、いまさら書いてもしょうがない。ここを歩いているときに煉瓦について思ったことをつらつら書く。

煉瓦があると、人はよく「どんな積み方か」を気にする。イギリス積みだフランス積みだというのはかなり知られてはいると思うのだが、トンネルの場合は、上も見上げて欲しい。左右の壁部分がどんな積み方をされていようと、天井は長手積みなのだ。ごく一部に例外もあるが、ほぼそう思って間違いない。

では、どこから天井か。下記に示す起拱線(ききょうせん、またはきこうせん)から上である。
20100920-02.jpg鉄道のトンネル断面は馬蹄形をしていることが多いが、ここ起拱線から下はすぼまっていようが側壁である。ここでトンネルは「上」「下」が別れる。

上の写真では、新しい下り線のトンネルのコンクリートが、翼壁を浸食している。それでもピラスター(坑口の左右にある柱。坑門が倒壊しないように押さえつけている)を破壊しないようになっているのは景観的な配慮なのか、それとも構造的な配慮なのか。

起拱線は、側壁を見るとわかりやすい。
20100920-04.JPG起拱線より上は長手積み。アーチにかかる力をアーチの軸方向、列車の向きで考えると左右の方向に振り向ける。起拱線より下はイギリス積み。単純に、上から下へ、重力方向に力を伝えていく。

起拱線という見方を知っていると、トンネルを見る目が変わると私は思う。側壁が長手積みであることはほとんどないので、簡単に見分けがつく。

起拱線の上下で部材が異なることもある。天井部が煉瓦で、側壁部が石積み、あるいはコンクリートであるような例だ。大日影トンネルを出たところから見える煉瓦精暗渠が、その例である。起拱線がわかりやすいので図示しておく。赤い線が起拱線で、側壁は石積みである。20100920-08.jpg
大日影トンネルでは、側壁の一部に石材が使用されているが、残念ながら起拱線は関係ない。

面白いのは、トンネルの前後の出口の意匠が異なることである。

20100920-06.JPG冒頭の勝沼ぶどう郷側は煉瓦で坑門を作っているが、こちら甲斐大和側は石積みである。どちらも盾状迫石(たてじょうせりいし)という、劔型の石が坑口から放射方向に配置されているが、その大きさも並べ方も異なるのが興味深い。

向かい合う廃隧道、深沢トンネルも石積坑門だ。20100920-07.jpg
大日影隧道とまったく同じ意匠である。この、坑口の頂点、アーチなら要石の位置にある横に3枚並んだ縦長の石が、サザエさんのようだ。

この両トンネルの間には橋がある。
20100920-09.jpg残念ながら、遊歩道を整備したときに架けた新しい橋のようだ。



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IMG_3893_R.JPG
関西本線は、開通時からの施設が多数残されていることで知られている。そのなかのひとつ、木津駅の東西自由通路に行ってきた。たまたまそこらへんに行っていたときに、小倉沙耶さんに「ここにこんなものがあるよ」と教えていただいたので立ち寄ったが、なかなかに感銘を受けた。写真は西口、Yahoo!地図の航空写真では、橋上駅舎化工事中のため、この写真のようにはなっていない。

木津駅において、線路は築堤上にある。写真ではわかりづらいが、バスからバス1台ちょっと分左側に、ぽっかり口を開けている部分がある。これが、東西自由通路である。もともとは、駅改札内の通路として利用されていたものを、橋上駅舎化するにあたって東西自由通路にして(もちろん橋上駅舎内を通り抜けることもできる)、保存したものである。

IMG_3885_R.JPG木津駅のレール面は地平ではなく築堤の上にある(水害対策らしい)ので、この通路はその築堤に穿たれている。レールの真下は煉瓦で組まれた隧道状になっており、それはたしか4線分(確証なし、違っているかも)、つまり煉瓦隧道が四つある。それぞれの間(写真では白い壁の部分)は別の方法で埋められている。この白い部分の真上はホームだろうし、塗り込められた壁の向こうには、ホームへの階段があったのだろう。

IMG_3891_R.JPG駅舎が新しいこと、この通路も清潔に保たれていることもあり、「古い隧道的な通路」であるわりに、不潔感はまったくない。路床がきれいなことや、異臭がしないこともそういう印象に結びつくのだろう。

なお、上から2枚目に見るとおり、断面は欠円アーチだ。

先に「以前は改札内の通路だった」と書いたが、こちらの『大仏鉄道研究会』内の「JR木津駅橋上駅舎化工事の経緯」ページに当時の写真があった。「大仏鉄道」って最近なにかで聞いたな、と思ったら、昨日kinias・近畿産業考古学会で見学会に行っていたやつだった。まったくの偶然で大仏鉄道の名がここでリンクした。

これがいつできたのかはわからない。朝日新聞によると「大正時代ではないか」とある。『とれいん工房の汽車旅12ヶ月』(JTBキャンブックス『鉄道未成線をあるく』の著者、森口誠之氏のサイト)は、資料は見つからなかったとしながらも根拠を推測しながら明治時代と推測している。木津駅の開業は1896年(明治29年)。そのころ、わざわざ金のかかる地下通路などを設けたのかどうか、気になるところではある。

もののついでに、昭和49年の航空写真へのリンクを貼り付けておく。→こちら
左上(北西)、国道24号泉大橋のカンチレバーっぷりについては後日。

これを廃道にカテゴリするのはいささか抵抗もあるが、
関心を持った根っ子は同じである。

bd59d6ed.jpg

























先に断っておくが、上野英信について、私はなにも知らない。知らなかった。

先月、まったく偶然に立ち寄った早稲田の古書店で見つけたのが
『地の底の笑い話』である。
まだまだ学術書ばかりといっていい時代の岩波新書なのに、地の底。
背取りというほどのことはないが、背表紙を見て炭鉱の民俗譚であろうことは想像がついた。
400えん。
買った当日、まだ読むべき本が山積していたので、
その日のうちに会社の同僚に貸してしまった。

別の日、図書館で三木健『西表炭鉱写真集』をかり出してきた。
パラパラと興の赴くままに眺める。
ふと巻末近くに、上記の写真と記事が目に止まった。
一通り読んだはずであるが、今から思えば「読んだ」とは言えまい。


後日、『地の底の笑い話』を読了した。
著者が誰なのかさえ意識しなかった。

今日に至り、改めて『西表炭鉱写真集』をすべて読み直した。
再び上記の写真のページを読んだ。
写真は見てはいるが、まだ目に入っていないに等しい。
本文にはこうあった。
「そんな村田さんが帰郷を果たし得たのは、まさに天の配剤というほかない。
一九六八年、東京の出版社の編集者が、たまたま村田さんの境遇を知り、」
お節介なのがいるんだなあ。
「それを筑豊の作家」
そういえば『地の底の・・・』の著者も筑豊だったな。
「上野英信さんに通報したことから、」
・・・!

あわてて写真を見る。
「筑豊の上野英信さん(右)一家に迎えられホッとする村田さん(1970年5月)」
というキャプションがあった。

先に、パラパラと本を繰ってこの写真を見たときは、
親戚だろうか、なぜこの人の元に身を寄せたのだろうか、
などと思っていた。
ところが、これがこの上野英信だったとは。

『西表炭鉱写真集』最終章、「掘り起こされる歴史」では、
「西表炭鉱史を語る集い」に出席する上野氏の写真が掲載され、
『常紋トンネル』の著者、小池喜孝氏が掲載され、
ガチャガチャとパズルのピースが組み上がってくる。
そうか、こういうつながりだったのか。


そして、上野英信は山口の阿知須の出だという(『地の底の・・・』に記載はない)。
阿知須といえば、小学校のころ、もっとも仲のよかった友人の一人の
ご両親の生家があるところだ。

まったくの偶然で手に取った2冊の本がつながった。
そして小学校の頃の思い出もつながった。
こうなると、きっと、その友人と上野家もなにかつながりがあるのではないかと思えてくる。
だが、それを調べる術はない。
県道124号を南下する。
この先は行き止まりのはずだ。
しかし、かなり道が改良されている上、
御巣鷹山への案内がしきりに出ている。

とはいえ、慰霊碑のために道が整備されたわけではない。
ダム工事のためである。
最新の『ツーリングマップル』では、県道124号は
浜平より南側は新たなトンネルで一気に駆け抜け、
従来の道は消され、代わりにダムが描いてある。

とりあえず、行ってみると、浜平温泉の旧道に、それはあった。
位置は、下仁田森林軌道(1)の地図参照。
20090702shimonita.jpg







先のは北側からで、素掘りの坑門口があまりに巨大であった。
大型トラックすら通れそうであった。
それはすなわち、崩落が続いているということであろう。

これは南側から見ている。
写真の右に見えるのが現道である。
ここまで、車道からすぐ。

内部はこう。
20090702shimonita2.jpg








もうひとつ、廃隧道があった。
20090702shimonita3.jpg






こちらは、隧道手前左上の岩を見ただけで近寄りたくなくなった。


この先、ダム手前で通行止めとなっていた。
クルマから自転車を降ろし、行ってみるとまだあった。
20090702shimonita4.jpg







一般車通行止めとはいえ、ダム関係車両は通行するだろうから
現役である。
現役ゆえに、安全対策も施されているし、なによりきれいである。

この隧道をくぐり、左に曲がってまっすぐ行ったところで終了。
旧版地形図では、もうひとつ隧道があるはずだが、
それとおぼしき位置はダムの堰堤であった。

ここはこれで引き上げた。

が。
帰宅後、地図を見直すと、新たなトンネルを使えば、
下仁田森林軌道の最奥部には行けたようだ。
行ったところで同様の隧道があるかどうか、というところだが、
行っておかなかったのは悔やまれる。
またの機会に。


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