丸田祥三さんとの廃道取材レポの続きです。まずは前夜の話。
その日は栗子隧道を堪能し、夕方に(のちに『山さ行がねが』で公開された)菅野ダムを訪問したあと、米沢駅前のホテルに向かった。まだそれほど遅い時刻でもなかったので、「ホテルにチェックインして、駅前で夕食にしましょう」と話ながら駅に向かうと、アレアレ?という感じで駅に着いてしまった。駅ビルとかないのね…。 イメージとして、置賜地方の中心地たる駅前なんだから、山形駅前くらいの感じだろうと思っていたが、周辺には米沢牛の店ばかりが何軒かあるくらいで、普通の食事ができる店がなさそうだった。仕方なく、クルマで郊外のロードサイド店の多いところに行こうか、と思ったところ、カレーハウス園というお店からいい匂いがしてきたので入ってみた。アタリだった。 ふたりでジャンボカツカレーを注文。私は大盛り。…大盛りを後悔したが、なんとか食べきった。とてもいい雰囲気のお店で、満足した。食事をとる店がアタリだと、とても気分がいい。 翌日、朝6時半出発で行動開始。主目的は国道113号沿いに点在する旧道や廃道だ。 米沢から朝靄の国道287号を北上し、米坂線の羽前小松駅を横切り(踏切は「小松街道踏切」という名称だった)、県道250号へ。ふと右に目をやると、怪しげな道ががあった。「ちょっと止まりましょう」。 既に廃道に入ってしまっているが、このように現道に直角に接続する道路があった。しかも現道との交差点には柵がある。明らかに、使われなくなった「旧道」である。 この、いま正面を左右に走っているバイパスは開通が新しいのか、電子国土で見てもここは旧道のままだ。カシミール3Dで切り出したものを張っておく。 黄色いのが新設されたバイパスで、青いのが、上の写真の道。おそらく、青い線の南半分と北半部とで開通時期が異なるのだろう。本線にも、それらしき白線が写っていた。 丸田さんがカーブ地点の撮影をされている間、私はひとりで旧道を歩いていた。車が入ってこない2車線の道は広い。坂を登ると、カーブミラーがあった。その向こうにはバイパス。 路面には草。こういうものを見ると、植物の強さをものすごく感じる。そのうちアスファルトを割り、アスファルトを粉々にしてしまう。 さらに坂道を登ると、舗装路はこんなふうに幅が狭くなっていた。現道に切り取られているのだ。それでもなお1車線分の幅はある。 なぜかというと、右に写っている電柱がヒントだ。電線(電話線)は道路に沿って延びていくのが普通だが、道路の経路が変更されても、電線の経路は変更しないことがある。変更することと比べて多いのか少ないのかはわからないが、かなり見かける。その、古い経路に沿って設置された電線の点検の「ため、旧道部分が維持されている場合がある。ここなどはその例だ。 振り返ると、丸田さんが撮影していた。 藪中に標識がないか眺めたが、ここにはなにもないようだった。 この場所で30分ほど撮っていた。このようにして、予定していなかったところにしょっちゅう停まるせいで、撮影はいつも押せ押せだ。作品作りをしている写真家に向かって「すみません、そろそろ…」などと催促する不躾な私。申し訳ございません…。 この日はこの後、宇津峠や片洞門に行った。八ツ口も行くつもりだったが、事前にあまりに藪がひどく、しかもイバラだとトリさんからの情報が入ったので断念した。 PR
10月4日(月)、休みだったので池袋から田端まで線路沿いに歩いた。いろいろ書きたいことはあるので、そのために写真を見返していたところ、気づいた。線路は山手線、向こうが駒込、手前は田端である。
古い航空写真を見ると、なんとなくこの部分に道路があるように見えるのだが、それ以外、手がかりがつかめない。こんな場所の写真など、もしからしたらあるかもしれないが、「ここに載ってたな」と思って見つけ出せるようなものではない。 場所はここである。後日、改めて周辺を見てみようと思う。 より大きな地図で 田端付近(富士見橋)謎の坑門 を表示 (追記) こちらのサイトに回答があった。すばらしい。 山手線が渡る橋・くぐる橋
10月2日(土曜)、丸田祥三さんの取材に同行。案内人としてトリ氏も同行。秋雨の合間の晴れの日、おそらく丸田さんは朝4時出くらいで取材に出撃されたようだ。
とある隧道内分岐。まあ、有名な場所。分岐部分は巻きたてが5cm厚くなっていることがわかった。また、この日は廃道部分の測量に作業者が3人入っていた。「写真撮りにきました~」とご挨拶。廃道部分、紅葉時にはさぞきれいだろう。 とある物件を求めて右往左往。GPSが、予想と異なる場所を示し続けたのであきらめて別の場所(確実にここからは行けるが、少し歩くのが長くなる場所)から目的地へ向かう。 この場所についたとき、とてもいい感じに日が差していた。しかし、すぐに日が動き、影になってしまった。その間に丸田さんがシャッターを切った写真をプレビューすると、パラパラ漫画のように日が蔭るのがわかる。この場所は、後日再訪してもいいと思った。 目的地付近では、エンジンチェーンソーの音がすぐ近くに聞こえていた。撮影中、作業の方々が3名+2名降りてきてここを通った。「少なくとも40年前にはあったね」(謎)。その後、私たちが最初に断念したルートとおぼしき方向へ歩いて行った。道あったのか!? みな、ビニール袋いっぱいにキノコを持っていた。浦山! この日は廃道でさまざまなキノコを見た。後刻、きのこ屋さんで見たナントカシメジと同じもの(だと思う)もあった。とっておけばよかった!! 本日の案内に、トリ氏。このあと2ヶ所を案内していただいた。うっかりオーバー。 銘板の読み方と、標識の読み方が異なるんですけど…。 次はいつだろう? またツイートします。
9月27日、取材で丸田祥三さん、平沼義之さんと伊豆の廃道をめぐってきた。午前4時自宅出発、午前0時帰着。久しぶりのハードスケジュール。それでも、現地では全然時間が足りなかった。
もともとは9月24日(金曜)の予定を組んでいたのだが、あいにくの雨予報。やむなく延期し、晴れと予報されていた27日(月曜)に変更した。しかし、前日夕方から雨。そして当日も雨。予報では回復方向ではあった。そんな中、伊豆に到着。まずはここから。 昨年6月に開催された「廃道ツアー」の「和歌山隧道巡り」で行った、新和歌浦を彷彿させるロケーション。高さ3.8m制限の、普通車の離合も困難な隧道。廃道ではないが、R135の旧道である。R135は、ネットの地図を見るだけで多数の旧道があるのがわかる。写真の右側、青い作務衣が丸田さん、左が平沼さん。 近くの旧道。『廃道本』で蔦の絡まった電光掲示板の写真を掲載したが、蔦は既に枯れていた。 断面が五角形の「キクチ」の隧道。手持ちで1.6秒、手ぶれ失礼。置くが閉塞している。天井の黒い塊は蝙蝠。 この隧道は、写真を見るだけで蝙蝠の糞の臭いを思い出して少し鼻が曲がる。カビ臭くもあり、湿気もあった。 この日は長靴装備の平沼さん。歩き出してすぐに「右足が浸水している!」。どうやら靴底に穴があいていたらしい…。 西伊豆で幽体離脱中。ではなく、ながまった(←方言)平沼さんに呼びかけたら起きたところ。「40高中」の路面標示を目指していったが、葛に覆われていて、当初予定どおりにはいかなかった。 こんな感じでみっちりと3人で回った。道路の写真撮るの、めっちゃくちゃ面白い。 上の地図、現在線と旧線の描き方がおかしく、拡大して南下すると収集がつかなくなっているのはご愛敬か。 中央本線の大日影トンネルは、甲斐大和から勝沼ぶどう郷の間にあるトンネル。1997年に新しいトンネルが掘られたことにより使用停止され、いまは遊歩道として整備されている。3月に訪問した際、かなりの人手に驚いた。午後3時すぎから往復1時間以上歩いている間にすれ違った人の数は100人は超えている。かなりの人気スポットのようだ。写真の右端が遊歩道となったもっとも古い大日影トンネル(1903開通)、左端は1968年上り線として開削されたもの、中央が、右端の代替として1997年から使用されているものである。 この遊歩道自体はたくさんの方がレポートしているので、いまさら書いてもしょうがない。ここを歩いているときに煉瓦について思ったことをつらつら書く。 煉瓦があると、人はよく「どんな積み方か」を気にする。イギリス積みだフランス積みだというのはかなり知られてはいると思うのだが、トンネルの場合は、上も見上げて欲しい。左右の壁部分がどんな積み方をされていようと、天井は長手積みなのだ。ごく一部に例外もあるが、ほぼそう思って間違いない。 では、どこから天井か。下記に示す起拱線(ききょうせん、またはきこうせん)から上である。 鉄道のトンネル断面は馬蹄形をしていることが多いが、ここ起拱線から下はすぼまっていようが側壁である。ここでトンネルは「上」「下」が別れる。 上の写真では、新しい下り線のトンネルのコンクリートが、翼壁を浸食している。それでもピラスター(坑口の左右にある柱。坑門が倒壊しないように押さえつけている)を破壊しないようになっているのは景観的な配慮なのか、それとも構造的な配慮なのか。 起拱線は、側壁を見るとわかりやすい。 起拱線より上は長手積み。アーチにかかる力をアーチの軸方向、列車の向きで考えると左右の方向に振り向ける。起拱線より下はイギリス積み。単純に、上から下へ、重力方向に力を伝えていく。 起拱線という見方を知っていると、トンネルを見る目が変わると私は思う。側壁が長手積みであることはほとんどないので、簡単に見分けがつく。 起拱線の上下で部材が異なることもある。天井部が煉瓦で、側壁部が石積み、あるいはコンクリートであるような例だ。大日影トンネルを出たところから見える煉瓦精暗渠が、その例である。起拱線がわかりやすいので図示しておく。赤い線が起拱線で、側壁は石積みである。 大日影トンネルでは、側壁の一部に石材が使用されているが、残念ながら起拱線は関係ない。 面白いのは、トンネルの前後の出口の意匠が異なることである。 冒頭の勝沼ぶどう郷側は煉瓦で坑門を作っているが、こちら甲斐大和側は石積みである。どちらも盾状迫石(たてじょうせりいし)という、劔型の石が坑口から放射方向に配置されているが、その大きさも並べ方も異なるのが興味深い。 向かい合う廃隧道、深沢トンネルも石積坑門だ。 大日影隧道とまったく同じ意匠である。この、坑口の頂点、アーチなら要石の位置にある横に3枚並んだ縦長の石が、サザエさんのようだ。 この両トンネルの間には橋がある。 残念ながら、遊歩道を整備したときに架けた新しい橋のようだ。 |
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