北海道で豊浜トンネルといえば、積丹半島での岩盤崩落災害を連想する方も多いと思うが、同じ国道229号に、もうひとつの豊浜トンネルがある。こちらも災害に見舞われている。
写真は南から北を見たもので、右が現在の豊浜トンネル、左が旧道の豊浜1号隧道だ。こうして見ると、新道を作るに当たって大幅に山を切り開いており、知識がなければ1号隧道など端から必要ないような地形に改変されている。 反対側。左の空間は、現道である。ここで振り向くと、広大な空間があり、奥にはさらに廃隧道がある。。 これだけの空間があるのに隧道が穿たれるわけがないから、これには理由があるのだろう。 その理由を含めて「廃報アーカイブ」に綿密なレポがあるので、ぜひそちらをご覧いただきたい。 近寄る。このあたりは採石場だったと先のサイトにあるが、なぜ開鑿されていないのだろう? 2号隧道の北側坑口を少し離れて。 この先は、記憶では藪がひどく、道もなかったような気がしている。いや、でもあったのかもしれない。私は今回は探索ではないので、ここまでにした。 PR
来る6月9日(土)にカルカルで開催される『眠る鉄道ナイト』に向けて、出演者の丸田祥三さん(写真家、@malta_shozo)、江上英樹さん(小学館、@TETSUHEN)と、静岡県に出かけた。その道中に目にした道路付け替え跡の廃橋。
画像左が現道で、曲線鈑桁でなめらかに川を横切っているが、かつては画像右の旧橋のように、右岸の道路から直角に曲がる形で榛原川橋(旧橋)を渡り、こちら側に来ていた。 新しい橋は、昭和61年9月竣功。 旧橋へのアプローチを、右岸側から、しかも振り返って。 旧橋を渡り、右岸側から。ほとんど現役のように見える。 左岸側親柱「榛原川橋」。 左岸側親柱「昭和33年8月竣功」。ということは、現道に写るまで、たった28年しか利用されなかった桁。 コンクリート製の橋脚に、コンクリート製の桁。まるで鉄建公団規格の鉄道用桁のようだった。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) 長野隧道(3)昭和隧道西側坑口 (国道163号/三重県) のつづき。 ここで、現在のルート、新長野トンネルを見る。 東側。左に行くと、(2)で見た東側坑口に至る…のだが、もともとの道は画像左に見えている道ではなく、新トンネルの坑口すぐ左に入っていく道が本来のルートであった。それが、いま画像左に見えるルートに付け替えられたのだ。それにともない、祠が移設されていた。 . 新長野トンネル。坑口周辺の、地山の押さえつけがすごい。山を切り刻み、そこに坑口を穿ったような印象を持つ。坑門の形状の落ち着かなさは異常。向かって左は上も下も斜めにカットされてるし、向かって右は下だけがカットされ、とってつけたような翼壁がある。そして、上部のワッフル。坑門の意匠としては、相当「ダメ」なんじゃないか? 扁額は、肉筆のように見えるけれども銘はなし。 銘板。 新長野トンネル 2008年3月 延長1966m 巾7.0m 高さ4.7m 施工 株式会社大林組 清水建設株式会社 日本土建株式会社 冒頭の画像の左の道に入り、振り返った図。 画像中央に新長野トンネルの翼壁が見えている。 画像左の道が、本来のルート。これを、画像右のものにつけかえている。そして、このつけかえルートも、(旧)長野隧道廃止とともに主たる役割を追えた。いわば、仮設された国道。新長野トンネルが完成したら用済みとなる国道。とはいえ、橋がかけられ、画像右端のように山を切り崩した法面はコンクリート吹きつけで保護されている。 一足飛びに西口へ。 (旧)長野隧道西口坑口付近、南側に駐車場がある。そこに石碑が建っている。 道路開鑿紀念碑 明治十三年十一月十二日 起工 明治十八年六月十五日 竣功 つまりこれは、石造りの長野隧道(1) (国道163号/三重県)の記念碑である。しかし、この碑の周辺には旧旧長野隧道の案内はない。実際には、碑から道路を渡り、北側の斜面を登り、道なりに行くと旧旧隧道の西側閘門が土砂に埋没している場所に至る。そのあたりの経緯は『廃道本』をご覧いただきたい。 これは、さらに古い道。旧旧旧長野峠越え道とでも言うべき道。 「従是 旧長野峠道 大山田村」という石柱がある。これは、明治の旧旧長野隧道より以前に使われていた長野峠越えの道だ。もちろん、これをたどれば東側に到達する(はずだ)。 さて、ちょっと外れてR163の道路改良跡。 こういう地図にも道路改良跡が反映されているのもすごい。 路肩もない国道163号、それを直線的に改良し、余ってしまった(?)部分は歩道にもせず植栽部分と、意味不明な部分に分かれている。 旧ルート部分、ぶった切られた黄線が生々しい。そして、現道との段差部分の法面、これはきっと土を入れて斜めに突き固めてあるんだと思うのだが、そのまま草も生えずにあるのが、いかにも突き固めた跡に見える。 そして、オニギリは旧ルートにあるまま、移設していない。なぜだ。 なお、一連の記事のうち、2010年撮影のものは『廃道 棄てられし道』の撮影のために現地を訪れた丸田祥三氏に乗せていっていただいたものだ。深く感謝申し上げます。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) の続き。 「通行止め」の看板が出ている。この先に、昭和隧道がある。 坑門右上に直方体の石が載っているのが西側。 こちらでは、シャッターに近づいて見る。 もともとあった配管パイプが取り外され、新たに別のものが配管されている。 路面を見ると、横に三分割されたシャッターの支柱を埋め込んでいるのがわかる。 最後に、2008年の現役当時の姿を。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)の続き。
上記の明治隧道は東側であり、西側は強制的に埋没させられている。それはまた後日書くとして、東側の坑口のすぐ「左下」に、昭和の隧道があった。2008年に訪れたときには。そして、2010年に訪れたときも、当然、まだあると思っていた。 しかし。 驚いた。 塞がれていた。 ちょっと手前から。 この「右上」に、明治隧道の坑門がある。そして右側に、なにかの事務所がある。 画面右端に見えている石碑は隧道改修記念碑である。その向こうには、明治隧道から取り外された扁額がある。 隧道改修記念碑。「昭和十四年三月/膵臓が奇襲記念碑/衆議院議員 馬岡次郎書」と刻まれている。「改修」とはいうものの、昭和隧道すなわちここに掲載した閉鎖された隧道の工事を記念したものだろう。昭和隧道は、nagajis氏の記事によれば昭和16年の完成である。 「其功以裕/従三位勲四等岩村定高」と刻まれた扁額。西側のものか東側のものかはわからない。 「補造化/内海忠勝書」とある扁額。このふたつの扁額の解題は、やはりnagajis氏の考察に委ねたい。 2008年に訪ねた際、明治隧道へは、向かって右の斜面をむりやり進んでいった。明治隧道の坑門前に行ったらチェーンソーの音がすぐ近くで響いており、しばらくすると山仕事、というか周辺整備の仕事をしている方が歩いて行った。 しかし、2010年の再訪時には、左に通路ができていた。 整備されるのは嬉しいような、そうでもないような。。。 ここで振り返ると、こう。 路面の状態はこんなだった。これは、台風の後だったからということもあるが、もし昭和隧道が閉鎖されていなければ泥はすぐに撤去されたことだろう。 再度、「寄る」。 この昭和長野隧道の扁額は、なおもnagajis氏の記事に頼れば、当時の三重県知事・佐藤正俊の書である。この写真では、「道」の左に何かしら文字が刻まれているのがわかるが、かろうじて「事」は判別できるものの、ほかは苔が埋めており、判読不能だ。 2008年の東口。左に落石注意の標識がある。拡大 してみる。 ▲の左側に落石がある。現実とは逆側に…。 そして、2010年のもの。 標識が更新されている。支柱が新しくなり、▲の右側に石が落ちている。2008年7月の撮影後、12月に閉鎖されてしまうのに、なぜ標識を新しくしているのだろう? もしかしたら、隧道を塞ぐ際に更新したのかもしれない。その手前までは道路として管理しなければならないためだ。設置年月を確認していないのが悔やまれる。 |
カレンダー
最新記事
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|