その道路の終端部が、ここ。防波堤と民家に挟まれたところで切れている。健康そうな子どもたちが何人か遊んでいた。 このような切り通し。周辺には密漁禁止の看板が立ち、密漁監視の看板を掲げたクルマが頻繁に往復している。バイクを止めてここらへんを歩いている私は、彼らから見たら密漁者に見えるだろうから、カメラで写真を撮っていることをおおげさにアピールした。 日蓮宗のものだった。関係ないが、北海道では多くの天理教の施設、それも地域に根付いている建物を見かけた。
* * *
小谷石には、ローカルバスが3本、通じている。web上には、その乗車記もある。冒頭の小谷石の写真を撮って引き返したら、バスがやってきた。LEDによる行き先表示は「すみません、回送中です」。とっさのことで写真を撮れなかった。 小谷石は、1973年に土砂災害に見舞われている。そのレポートがここにある(PDF)。 http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/74_02_01.pdf PR 写真は南から北を見たもので、右が現在の豊浜トンネル、左が旧道の豊浜1号隧道だ。こうして見ると、新道を作るに当たって大幅に山を切り開いており、知識がなければ1号隧道など端から必要ないような地形に改変されている。 その理由を含めて「廃報アーカイブ」に綿密なレポがあるので、ぜひそちらをご覧いただきたい。 この先は、記憶では藪がひどく、道もなかったような気がしている。いや、でもあったのかもしれない。私は今回は探索ではないので、ここまでにした。 画像左が現道で、曲線鈑桁でなめらかに川を横切っているが、かつては画像右の旧橋のように、右岸の道路から直角に曲がる形で榛原川橋(旧橋)を渡り、こちら側に来ていた。 コンクリート製の橋脚に、コンクリート製の桁。まるで鉄建公団規格の鉄道用桁のようだった。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) 長野隧道(3)昭和隧道西側坑口 (国道163号/三重県) のつづき。 ここで、現在のルート、新長野トンネルを見る。 扁額は、肉筆のように見えるけれども銘はなし。 新長野トンネル 2008年3月 延長1966m 巾7.0m 高さ4.7m 施工 株式会社大林組 清水建設株式会社 日本土建株式会社 冒頭の画像の左の道に入り、振り返った図。 画像左の道が、本来のルート。これを、画像右のものにつけかえている。そして、このつけかえルートも、(旧)長野隧道廃止とともに主たる役割を追えた。いわば、仮設された国道。新長野トンネルが完成したら用済みとなる国道。とはいえ、橋がかけられ、画像右端のように山を切り崩した法面はコンクリート吹きつけで保護されている。 一足飛びに西口へ。 道路開鑿紀念碑 明治十三年十一月十二日 起工 明治十八年六月十五日 竣功 つまりこれは、石造りの長野隧道(1) (国道163号/三重県)の記念碑である。しかし、この碑の周辺には旧旧長野隧道の案内はない。実際には、碑から道路を渡り、北側の斜面を登り、道なりに行くと旧旧隧道の西側閘門が土砂に埋没している場所に至る。そのあたりの経緯は『廃道本』をご覧いただきたい。 これは、さらに古い道。旧旧旧長野峠越え道とでも言うべき道。 さて、ちょっと外れてR163の道路改良跡。 こういう地図にも道路改良跡が反映されているのもすごい。 旧ルート部分、ぶった切られた黄線が生々しい。そして、現道との段差部分の法面、これはきっと土を入れて斜めに突き固めてあるんだと思うのだが、そのまま草も生えずにあるのが、いかにも突き固めた跡に見える。 そして、オニギリは旧ルートにあるまま、移設していない。なぜだ。 なお、一連の記事のうち、2010年撮影のものは『廃道 棄てられし道』の撮影のために現地を訪れた丸田祥三氏に乗せていっていただいたものだ。深く感謝申し上げます。
長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県) の続き。 こちらでは、シャッターに近づいて見る。 最後に、2008年の現役当時の姿を。 |
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