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求む 木製扉の形式の名称

求む 木製扉の形式の名称

木製扉の菱形・バツ形等

20110716.jpg北海道でよく見るような印象を持つ、この扉の作り方。この形式には、なにか名前があるのだろうか。建物の「下見板張り」みたいな名前が。

正方形に近い扉の枠を、
外周と、中央に十字型に取り、十字の部分を中心にした菱形(または45度回転した正方形)に板を貼っていく。

少なくとも数年以上前に、函館と足寄あたりで見た記憶がある。しかし、それらは写真に撮っていない。なにかひっかかるものがったのだ。以来、ずっと後悔していたのだが、先日、蟹田駅で見つけた。すばらしい。

この形式の名称をご存知の方、ぜひご教示ください。

<関連記事>
木製扉・木製戸の菱形・バツ形
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『DISCOVER JAPAN 40周年記念カタログ』(藤岡和賀夫)

『DISCOVER JAPAN 40周年記念カタログ』(藤岡和賀夫)

鉄道の本

ディスカバー・ジャパン。物心ついたときには、このキャンペーンの後半である「いい日旅立ち」も終わりかけ、「エキゾチック・ジャパン」が始まる頃だった。そのため、DISCOVER JAPANは「ひと世代前の、ちょっと古いキャンペーン」という印象を持っていた。会社に入ってからは、一回り以上上の旅好き上司のDISCOVER JAPANへの思い入れを何度か聞かされ、徐々にそれがどういうものだったかを、「旅のスタイル史」という文脈の中で位置づけるようになった。

本書は、DISCOVER JAPANの綜合プロデューサーだった藤岡和賀夫氏が語る「DISCOVER JAPANとはなんだったのか」という本である。氏によれば、DISCOVER JAPANは、DISCOVER MYSELF、つまり「自分発見」、広い意味での「自分探し」である。

20110715_000.JPG
私は「自分探し」という言葉が嫌いだった。しかし、それは多趣味な人間が嵌る陥穽だったかもしれない。「自分探し」とは、趣味性(ヲタ気質と言ってもいい)を持たない人が、むりやり趣味(らしいこと)を見つけるようなニュアンスに感じていた。それを、多趣味かつその方面に徹底して突っ込んでいく私は、「そんなんじゃないよ、趣味ってものは」みたいなふうに捉えていたのだと、今になって思う。

最近、写真表現について考えることが多く、「自分探し」については捉え方が変わった。とくに何をする必要もない、自分がしていることを集め、俯瞰してみると、「ある傾向」があることに気づく。自分はこれが好きだったのか、と気づく。それは「自分発見」であり、振り返る行為なんだけれども、それに積極性と将来性を加えれば「自分探し」だ。

このブログで例えれば、鋼製トラス橋や鋼製プレートガーダー橋の記事は多いが、鋼製アーチ橋、RC製の各橋はほとんどない。レインボーブリッジのような巨大な橋についてはもっとない。そして、鋼製トラス橋でも、ピントラスが多く、H型鋼を使用した近代的なものは少ない。自分がわざわざ写真を撮るか撮らないか、そこに傾向が出てくる。



本書は藤岡氏が書いてきた文章のアンソロジーでもあるのだが、その中で、藤岡氏は何度となく明言している。「旅に出て発見するのは畢竟自分だ、言うなればDISCOVER MYSELFが旅の極意だ」。

イメージ先行の、その時代の大人のアタマでは理解できない写真で若者を旅に誘うDISCOVER JAPANのポスター。時を同じくしてananとnonnoがブレークしていた。アンノン族の誕生だ。世の中の潮流を作る圧倒的な世代と、DISCOVER MYSELFの同時代性。旅に出た彼女たちは、あるいはDISCOVER MYSELFに成功し、あるいはそんなことをまったく意識せずに適当な旅を終えただろう。彼女たちが何度も旅に出て、自分の嗜好を知っていく。DISCOVER JAPANは、目的を果たした。

キャンペーン第1号ポスターは、日光の牧場で撮影された被写体ブレの写真である。これは強いメッセージ性を持っている。お節介というか、押しつけがましいとも思う。でも、これが選ばれているのも、時代なのだろう。そういうことに気づけたのも、本書を読んだからだ。



もっと、こうしたポスターやキャンぺーンの裏方の様子を見せて欲しかった。なお、本書は前半半分が藤岡氏のアンソロジー、後半は「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」の話である。前半だけあればいい。


副港橋梁 留萌本線脇の廃橋梁

副港橋梁 留萌本線脇の廃橋梁

プラットトラス

留萌本線の下り列車が留萌駅を出るとすぐに、車窓右に使われていないトラス橋がある。それが副港橋梁だ。



20110713_000.JPGこんな感じで、本線(向こうが増毛側)に隣接して架けられている。写真は手前が留萌方、向こうが増毛方。右の副港橋梁は、このまま朽ちていくのだろうか。

歴史的鋼橋集覧」によれば、1929年櫻田機械製。銘板類は見えない。

20110713_001.JPG副港橋梁の端部は藪で覆われているので、近寄れない。そのため、これくらいしか撮れない。桁下にも潜れない。いや、どちらも、前身を藪に預ける覚悟があればいけないことはないだろうが。

スタイルは昭和初期によく見るパターンで、とりたてて部材の美しさなどは感じられない。

20110713_003.JPG興味深いのは、枕木が残っていることだ。隣の留萌本線の車窓に見えてあわてて撮ったのだが、枕木がわりときれいにあるのがわかろう。


留萌駅の周辺は、貨物輸送がなくなったことで、大きく変化している。たとえば、国土変遷アーカイブより。
20110713-998.JPG画像ほぼ中央が、この副港橋梁と留萌本線。単線並列だ。その右のヤード風が留萌駅、左が石炭桟橋。留萌港の石炭桟橋は、かつてはこんなだったようだ。(函館の絵葉書より)
20110713-199.JPG鉄筋コンクリート製である。そもそも留萌駅(当時は留萠)まで鉄道が通ったのが明治43年(1910年)であるから、まさに鉄筋コンクリートの時代が始まろうというときである。これがそのまま昭和50年代まで使われていたのかどうかは知らない。

留萌駅に、昭和28年(だったと思う)の市街地図が貼ってあった。
20110713_101.jpgいろいろ描き込まれていることだけでなく、「留萠」の「留」の省略形も興味深い。


==
==
2012.9.4追記

副港橋梁(留萌)脇にかつてあったアラントラス?
留萌本線の脇にかつてあったアラントラス?のつづき。



新・第4木曽川橋梁 上り線(中央本線)長野県木曽町

新・第4木曽川橋梁 上り線(中央本線)長野県木曽町

箱桁

以前書いた、トレッスル橋脚を持つ巴橋のすぐ近くにある中央本線の新・第4木曽川橋梁。複線区間であり、今回は上り線(名古屋→塩尻方向)の桁について書く。

場所はここ。


もともと中央本線は単線で開通しており、現在の下り線(塩尻→名古屋方向、東側)が明治43年(1910年)11月25日の開業当初からのもので、上り線(西側)が、昭和43年(1968年)9月30日の複線化時に増設されたもの。それは、すぐ北の隧道の坑門の意匠をみればすぐわかる。
20110707_005.JPG(左が今回書く上り線で、「しなの」が通過中。坑門は無地のコンクリート製。対して、右の下り線の坑門は石積をコンクリートで改修したもの?)

巴橋から見ると、こう。

20110707_000.JPG写真左が塩尻方面、右が名古屋方面。左から、46.8mの上路箱桁と、16mの下路鈑桁の2径間である。

まずは下路鈑桁。
20110707_001.JPG薄っぺらく見えるのは、たぶん目の錯覚。まあ、支間16mなので、高さもそれほどない。

向かって右の擁壁は、もちろん複線化時に作られたものだろう。「1967-11」という陰刻がある。

下路鈑桁の裏側。
20110707_006.JPG小さいなあ。という印象。

20110707_004.JPG塗装標記。

 橋りょう名 新第4木曽川橋りょう
位置 薮原~宮ノ越 266K246M
塗装年月 2005年8月
塗装回数 3回塗
塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント
及び塗料名 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料
塗料メーカー 大日本塗料株式会社
施工者 佐野塗装株式会社

この区間の複線化は1968年なので、2005年前には一度は塗り替えられたか、というところだろう。

南側橋台には銘板があった(北側は接近できないので確認をしていない)。
20110707_003.JPG新第四木曽川橋りょう
設計 岐阜工事局
施工 佐藤工業株式会社
設計荷重 KS-16
基礎工 くい打R.C.くい7m20本
木曽根入 天端から13m55
着手 昭和42年4月20日
しゅん功 昭和42年6月24日


「橋りょう」「くい打」「しゅん功」いずれも、カナ部分には傍点が伏してあるのが興味深い。このエッチング銘板の原稿を作った人は、交ぜ書きに抵抗があったのか。

橋脚と、上路箱桁の全景。塗装が光っていて美しい。古めの橋ばかり見ていたので、箱桁のような近代的な桁を見るととても新鮮だ。
20110707_002.JPGなぜ橋台よりもきれいなのだろう?

上路箱桁の裏。

20110707_008.JPG桁の下面ののっぺり感が、なんともいえない。

『鉄道構造物探見』(小野田滋)によれば、国鉄が箱桁を初めて採用したのは昭和33年(1958年)で、東海道新幹線の工事で大量に用いられ、昭和42年(1967年)に、「在来線用上路プレートガーダの標準設計でも、支間三六・四メートル以上の桁はボックスガーダとすることが基本となった」とある。とすれば、この箱桁は、その最初期にあたるものだ。


この区間の動画がある。



この前面展望は上り線であり、1分11秒あたりから、この橋を渡っている。鈑桁のほうにはバラストが敷かれ、箱桁のほうにはないようだ。とくに後者は音でも、冒頭の写真でもわかろう。

次回は下り線について書く。




白川橋(岐阜県白川町)その2

白川橋(岐阜県白川町)その2

吊り橋

白川橋(岐阜県白川町)その1の続き。

中央径間の右岸側の銘板は「その1」に書くべきだった…。
20110704_008.JPG右岸上流側。

上は、左岸下流側と同じ。

大正十五年製作
大阪
日本橋梁株式会社

下は、

修繕工事
1978年12月
岐阜県
道示(1972)
使用鋼材 SS41
製作 日本橋梁株式会社

というもの。日本橋梁の銘板は、54年を経て少し大きさ等が変わったようだ。

20110704_009.JPG右岸下流側の「請負」も、左岸のものと同じ。同じ銘板が、中央径間中央部を支点にした点対称でついているというのは珍しいのではないか。

20110704_012.JPGさて、もう一度、右岸側に戻る。右側にある中日新聞販売店の前から、橋の下に降りることができる。

その前に、こうやって立っていると、新聞販売店からおばちゃんが袋を持って出てきた。そして、橋を渡り始めた。どこへ行くのだろう、日常的に使われているのはいいな…などと思っていたら! おばちゃんは、その袋を川に投げた。ゴミ袋を投げ捨てたのだった('A`)

ちょっとげんなりしながら桁裏へ。

20110704_014.JPG主塔が建つ橋脚は、円形ウェルを2本並べ、上部を結合したもの。大正15年(1924年)開通だというから、当時からあるものだろう。ただし、開通当時、補剛桁の床版は木製だった。それをコンクリート製に改装したのは、銘板のとおり昭和53年(1978年)。それまで54年間、木製床版でがんばっていた。もちろん、適宜、床版はとりかえていたことだろう。

20110704_015.JPG補剛桁の裏側をアップにする。鋼矢板のように見えるのが鋼デッキプレート、その上にコンクリートで床版が敷かれている。
から上が、昭和53年の改装時のもので、補剛桁そのものは開通時からのものである。


アンカーがどうなっているのか、見てきてなかったなー…と思ったら、うさ★ネコサンドさんに驚愕の実態があった。これを見てないなんて。無念(そんなのばっか)。


白川橋(岐阜県白川町)その1

白川橋(岐阜県白川町)その1

吊り橋

20110704_018.JPG(左岸・下流側より)

JR高山本線白川口駅の近くにある、飛騨川を渡る橋。鋼製主塔を持つ吊橋で、85年が経過している。現在は歩行者用となっている。場所はここ。


飛騨川と、支流・白川の合流地点である。白川はここから東に遡上し、東白川村、中津川市加子母に至る。その道筋を「白川街道」という。現在の県道62号と国道256号の一部である。同じ岐阜県ではあるが、白川郷とは関係がない。同じ県内に「白川町」と「白川村」があるのはよそ者には混乱を招きそうだ。

地図を見てわかるとおり、ここに白川橋がかけられたのは、白川街道の重要性と、国道41号(1953年より)の重要性からである。文章で説明するとまどろっこしいが、川が合流するところで橋を2本かけて済ませられるようになっている。

1960年、下流に飛泉橋(ランガー桁)が架けられて国道が換線され、こちらは県道となった。白川街道から国道41号に出たい人にとっては、飛泉橋を経由すると遠回りになるため、この白川橋が現役のころは重宝されたに違いない。

この白川橋がどんな橋であるかは下記に譲り、ここではディテールを見て行くだけにする。

wikipedia(写真がどこかで見たことがあるのは偶然ではない)
歴史的鋼橋集覧


まず、東側からアプローチする。

20110704_000.JPGこの手前は鈎形になっている。画像右には電気店がある。左の掲示板のようなものは、この橋が選奨土木遺産になったことをきっかけに掲げられた解説である。

20110704_001.JPGいろいろ書いてある。拡大してご覧いただきたい。

さて、一歩踏み込む。
20110704_002.JPG古めかしい送電鉄塔のような出で立ちの鋼製主塔。「白川橋」という扁額も掲げられている。補剛トラスは径間ごとに区切られている。

20110704_017.JPG隧道の扁額は石材だが、橋梁は金属製である。装飾的要素としてだと思うが、額縁のように、リベットが文字を囲っている。

20110704_003.JPG中央径間の補剛桁に製造銘板がある。まず左(下流側)。

大正十五年製作
大阪
日本橋梁株式会社

とある。扁額は右書きなのに、銘板ひ左書きである。

20110704_004.JPG右側の銘板は…

請負
飛州高山
山本宗兵衛(と読める)

請負が銘板を残すのか!

20110704_007.JPG主索とハンガー。主索がもっとも低くなる部分では、主索は補剛桁の上弦より低い位置に来る。主索が何かに巻かれているように見えるが、主索は錆びないようにコートされているのが普通。現代の長大吊橋では、その中に乾燥空気を送り込んでいるはず。

20110704_005.JPGハンガーが補剛桁を吊っている部分。補剛桁側にU時フックのようなものがあり、それで吊っている。

20110704_006.JPG渡ってきた方向を振り返る。主塔の裏側(?)もよくわかる。興味深いことに、表側(?)とアングル材の見え方も同じだ。

(続く)




『電車に乗って、東京散歩』池内紀氏×丸田祥三氏トークイベント

『電車に乗って、東京散歩』池内紀氏×丸田祥三氏トークイベント

独言・日記

ジュンク堂で開催された【「東京人」創刊25周年記念 「私は、東京人」BNフェアイベント 電車に乗って、東京散歩】というトークイベントに行って来た。本日発売の『東京人』の8月号の特集「なつかしの鉄道」に合わせたもの。『東京人』は定期的に鉄道特集を組むが、12ページから96ページ、つまり85ページにもわたって鉄道の記事が続くのは初めてではなかろうか。

20110702.jpgそのなかで21ページにわたって原稿・写真を提供している丸田祥三さんと、『東京人』レギュラー執筆陣のドイツ文学者、池内紀(おさむ)さんが鉄道と東京について語るこのイベント、1時間という枠では全然おさまらない、とても楽しいイベントとなった。司会進行は編集長の高橋栄一さん。

いままで、丸田さんのイベントはほぼ見てきたが、今回は「文章作家・池内紀と写真作家・丸田祥三」の対談、というような印象の進行。池内さんのファンの方にも、「丸田さんとは写真作家である」ということが十分に伝わるような、正当な(?)イベントだった。いわゆる写真論もないので、写真のことを知らない人が聞いてもとてもわかりやすいものだったと思う。
(表紙画像は公式サイトより)


話は、池内さんの鉄道の旅から始まる。高校生の時に鉄道で日本一周した話、学生時代に「実家のある姫路→天王寺→紀勢本線→関西本線→名古屋→東京→高崎→信越→中央→名古屋」という経路で旅した話。後者は、そのきっぷを持参されていて、昭和40年当時で1365円(記憶、誤っていたらすみません)だったという。

注:以下、記憶で書くので、ニュアンスの取り違いはないと思うが、言い回しや発言の順序は違っている。その点、ご容赦いただきたい。

「当時の駅は、割と旅人に寛容で、水とトイレとベッド(椅子)があるので、寝袋ひとつで旅ができました。駅員さんがお茶いれてくれたりしてね」(池内さん)

「私も同じように紀勢本線を1週間くらいかけて旅しました。ただし、ユースホステルでした。おもしろいのは、紀伊半島は時計回りかその逆かしかないので、泊まる先々で、以前会った人にまた会うのですよ」(高橋さん)

次いで、丸田さんがなぜ鉄道を撮るようになったかという話。「好きな鉄道は」(ではなかったけれど、そういうニュアンスの、とても答えづらい)質問に、

「都電、ですかね。生まれたのが新宿区で、都電と、それにとってかわった地下鉄と、両方を見た世代です。1980年代に映画会社に勤めていたとき、『都電がなくなり、都電で通勤しなくなって、日常を感じなくなって、面白いものがつくれなくなった』という会社の先輩方がいた。」(丸田さん)

「かつて、都電は都民の足だった。終戦後、復興が進んだのは、まず都電の復興が早かったからだ。都電は、あの速度がいいし、風景が見える。風景の変化がわかる。都電のスピードは遅いけれど、とってかわった地下鉄と、都電とで、出発地から到達地までの時間を比較した人がいて、それを見ると、都電のほうが実際は早い。階段もないし、すぐ乗れるからだ。都電はとてもいいものだった。かつて、デートの帰り道、都電で去る彼女が自然に小さくなっていく風情がよかった。地下鉄にはそれがない。」(池内さん)


『東京人』の紹介をしながら、過去を含めて誌面に掲載された丸田さんの作品を、その意図と共に解説していく。

「普段からカメラを持ち歩いているのですか? それとも、いいなと思ったら構図を決めて、後日撮影に行くのですか?」という高橋さんの問いには「普段からカメラを持ち歩くことはしません。私は超広角で引いて撮るので、他人と撮影すると干渉してしまうのです」と丸田さん。

また、「丸田さんの作品は、非常に特徴的な色彩をしていますが、その意図するところは?」という高橋さんの問いには、以前、 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1にも書いたが、戦時中の新宿のイメージを「黄砂が舞っているようだった」と聞いたことから黄色いフィルターを使ってみたという話、あるいは尊敬する脚本家(M・S氏のことかと推察するが違うといけないのでイニシャルで)が「色」を認識できないのに素晴らしい作品を作るので、色について考える話など(ちょっとこのあたり、記憶が曖昧…)が披露された。



トークはわずか1時間。いくつかのテーマがあったが、それぞれを話の流れにまかせて展開していくには、全然足りない! とはいえ、冒頭に書いたとおり、丸田さんの写真家としての話は十分に池内さんファンにも伝わったと思うし、丸田さんファンにも伝わっていると思う。また、丸田さんファンにも、飄々としながらも体験に基づく考察から考えを話す池内さんのお話に、池内さんの本を読んでみたい!という気持ちが生じたと思う(私がそうだ)。こんどは、時間など気にせずに話を流れで展開できるようなイベントをぜひ!


Mobilのキャノピー ペガサス21型

Mobilのキャノピー ペガサス21型

Mobil/ESSO/ゼネラル

雨の朝、えちぜん鉄道沿いをクルマで走っていたら、すてきなモービルが現れた。


20110628_001.JPG憧れの、2連の円形キャノピーベース…? ガソリンスタンド・ノートのsgmさんのお話を聞いてから、モービルにばかり目が行くようになった。キャノピー(天蓋)にもいくつもの話があって、モービルが手がけたこの円形の意匠がとても好もしく思えたからだ。

そのときのようすは江東ドボクマッピング 新観光講座 ガソリンスタンド編をご覧いただくとして。

20110628_000.JPGその円形キャノピーも、経年によって建て替えが進んでいるようだ。そんななかでこれを見つけたので、「これは!」と思ったのだが…事実は違った。

sgmさんによれば、「円形キャノピーが不評だったため、後に登場したペガサス21型というタイプで、改修したものではなく、まったくの新造です。」とのこと。残念。

「ペガサス21」とかググっても、給油所のことなど出てこない。いや、「ペガサス21○○」というモービルの給油所は出てくるけれど。こういう意匠の流れは知りたい。さて、どこから攻めるかな…。


小舟渡橋 その2 (福井県)

小舟渡橋 その2 (福井県)

プラットトラス

小舟渡橋 その1 (福井県)の続き。

20110626_009.JPG今回は、画像左側の短い平行弦プラットトラスのほう。いま写真を見返していて、この小さい桁の拡大写真を撮っておくのを忘れているのに気がついた。

200フィートクラスの曲弦プラットを通り、小さい桁のほうへ。
20110627_002.JPGおや、なにかスッキリしている。この橋の向こうはPC桁橋で、その向こうが開放感を与えてくれるのか。それとも、このトラス桁の小ささか。

20110627_003.JPG実に軽快。曲弦のほうよりも部材も細い。もっとも、個人的にはあまり好きな形ではない。

20110627_004.JPG曲弦トラス側、かつ上流川の斜材。/が引張力がかかる部材、\が補助部材。両者の太さや補強は同じだ。両者を結びつけるプレートは、/にリベット4個、\に6個で留めてある。ということは、\に依存する部材、ということか?

20110627_005.JPG圧縮力がかかる縦材は、細いながらもしっかりとレーシングが施されている。

20110627_006.JPGその裏。

20110627_007.JPG抜ける。車道の幅が狭いため、PC桁になるとすぐに、下流側に待避所が設けられている。一目見れば、これが後付けであることがわかる。
欄干が違う。そして
20110627_009.JPG橋脚が違う。

20110627_002.JPG振り返る。こちらの表情もなかなか。小さいのに、気取ってる。そして、扁額がある。

20110627_001.jpg(右から)古ふなとばし(こふなとばし)

燕だろうか、巣をかけている。

あれ? 駅名は「こぶなと」…。まあ、どちらでもいいのだろう。かつて同級生に小舟渡くんと小舟渡さんがいたけれど、どちらも濁らない「こふなと」さんだった。小舟渡という地名は全国至る所にある。

20110627_008.JPG右岸には親柱。何か文字が書いてあるようにも見えるけれど、よくわからない。

20110627_010.JPG引き返して、曲弦との隣接部。左が小さなトラス、右が大きな曲弦トラス。その両者がロッドでつながっている。落橋対策だろうか?


この小舟渡橋を撮ったときは雨が降ったり止んだりで、さらに先を急いでも居たので、河川敷に降りての撮影をしていない。ちょっと後悔しているが、また行けばいいさ。


ガーミンGPS用 「日本地形図25000全国版 microSD版」by TKA

ガーミンGPS用 「日本地形図25000全国版 microSD版」by TKA

地図・航空写真・分水嶺

(小舟渡橋より先に…)

昨年、ガーミンのdakota20を購入後、地形図はカシミール3Dから切り出して転送して使用していた。不便な点はサイズに制限があることで、2万5000分の1地形図なら、東京都全部をdakota20に入れることはできない。便利な点は無料である、ということだ。

旅行時でも、PCを持参することでなんとかしていたのだが、10年ぶりに北海道ツーリングに行けることになり、対策が必要になった。そこで、TKAから「日本地形図25000全国版 microSD版」を購入した。地理院の2万5000分の1地形図が全国分入って、2万4800円である。なお、dakota20は、イギリスの自転車屋から購入している。そのほうが安かったからだ。当時222.12ポンド、現在のレートなら2万8000円ちょっとだ。当時は3万円を切る、くらいだったと思う。アメリカでは349.99USDだ。

さてこの「日本地形図25000全国版 microSD版」(以下「本地図」とする)。予想以上にすばらしかった。以下、キャプチャ中心に。

20110626_001.pngまず、セットして[Setup]→[Map]→[Map Information]をタップすると、このようになる。

Enabledとなっている、「TopographicMap25k」というのが2万5000分の1。その下の数字(2011068286)は、おそらく「2011年6月版」ということだろう。ほかに「RoutingMap」「Topo50m」が同時に利用できるようになる。

これで、スケールを変化させると、それにあわせて省略された地図が表示されるようになる。TKAによれば

5m~200mスケールまでは25000分の1の地形図、300m~800mスケールまでは空間データ基盤(25000)を元にした地図、1.2kmスケール以降は広域地図が表示されます。

となっている。

これまで「カシミール3D」からマップを切り出し、[CustomMap]として利用していた人もいるだろうが、そのままの設定では、CustomMapのデータがある部分では、本地図より優先されてそちらが表示されてしまう。


20110626_002.png80kmより大縮尺だとこんな感じ。(800kmスケールが限界)

















20110626_003.png50kmスケールからは、高速道路だけが表示される。12kmスケールからは国道と500m刻みの等高線も表示される。左画像は5kmスケール。

左の地図になぜ500m刻みの等高線があるかといえば、標高0mと1mとの境に等高線があるためだ。以下同じ。












20110626_004.png3kmスケールから1.2kmスケールまでは、どういう基準かはちょっとわからないが、細かな市街地の道路が出てくる。等高線は200m刻みとなる。















20110626_005.png20110626a_003.png800mスケールからは、ほぼすべての道路が表示される。この段階で見えている道路は元データから機械的に拾ってきたものらしく、夕張のシューパロ湖にかかる三弦橋までが「ルート」に選択できる(たぶん)道路として描かれてしまう。

なんでそんなことに気づいたのかというと、地図入れて真っ先に見たのがここだったからだ。

等高線は50mごと。





20110626_006.png20110626a_000.png200mスケールから、いよいよ国土地理院の2万5000分の1地形図となる。2万5000分の1は、市街地で利用するには大雑把すぎる。自宅周辺では、道路はおよそ半分がはしょられている印象だ。わりとよく、道路のない場所を歩かされる。

等高線は地形図と同じ10m。だたし、50mごとに、別データによる等高線が重なるので、多少の見苦しさがある。これを消すためには、[Setup]→[Map]→[Map Information]で、「Topo50m」を「Disabled」にすればいい。これを「Disabled」にしても、800mスケールより大縮尺の地図での等高線の見え方は変わらない。


20110626_011.pngちょっと戻って。カシミール3Dから切り出したカスタムマップも「Enabled」にしておくと、このようなハイブリッドな表示となる。右下のごちゃごちゃした画像が、カスタムマップだ。山手線内北半分を、jpeg品質3で使用していた。














20110626_012.pngカスタムマップとの境目。左の、R254が黄色く表示されているのが本地図、肌色表示なのがカシミール3Dから切り出した地図だ。後者がjpeg低品質としてあるからだろうか、粗い。














20110626_013.pngもっと拡大するとこうなる。どちらも元データを数値地図に取っているためどちらも「紙の地形図」の区切りにあたる部分で画像がうまくつながらない部分がある。

左の、本地図のクッキリ度がよくおわかりいただけると思う。川がきちんと水色になるのが嬉しい。











20110626_007.png20110626a_001.pngここからは、本地図のデータ。

2万5000分の1地形図としての使いやすさは、200mスケールから120mスケールまで。その次の80mスケールでは、周辺がわからなくなる。そして50mスケールではこんな。紫色の破線は、地下鉄駅の表記。わかりづらいからか、電子国土では、地下鉄駅は破線ではなく塗りつぶされた四角になっている。

等高線は、ここまで拡大すると、「50mごと」の黒い線との誤差がはっきりとわかるので、やはり「Topo50m」は「Disabled」にしておくのがよさそうだ。

赤いトラックデータが絡まっているのは、本日買い物をした池袋のエルブレス。買ったものはこれ

20110626_008.pngさらに拡大して20mスケール。実用性は既にない。なにしろ、網目が全く別のものに見えてしまうほどだ。道路ももはや道路の体をなしていない。
















20110626_009.png最小縮尺、5mスケール。もし仮に地形図が正確だとしても、GPSの受信精度がそれを越えるかどうか。
















以上、Dakota20とTKA「日本地形図25000全国版 microSD版」の相性というか表示についてのレポートである。

結論:この地形図、早く買ったほうがいいですよ。









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