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中央本線 新桂川橋梁(2)

中央本線 新桂川橋梁(2)

ワーレントラス

中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。

周辺にある架橋記念碑について。
20110321-01.JPG橋梁の東側にある。この位置から列車を撮影した画像はネット上にもたくさんある。

「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。

20110321-02.JPG縦書きだが、横書きにして転載する。

この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な
姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります
国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を
投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました
而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄
四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦
を感謝して後生に伝へるものであります
昭和四十三年九月二十日
鳥沢工業区長 佐藤初男
鳥沢駅長    久島 薫
汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載)  竹中土木KK
建設塗装KK ○○工業KK
熊谷組KK   調布保正石材



すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。
20110329-oo.JPGわざわざ書き出さない。感じ取ってください。


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枡野浩一プレゼンツ 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1

枡野浩一プレゼンツ 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1

独言・日記

20110322-01.JPG

歌人・枡野浩一さんによる、丸田祥三さんのトークイベントに行ってきた。ゲストはおふたりの間をつないだ切通理作さん。会場はNaked Loft。


今年、丸田さんの著書が共著をふくめて3冊出るはずだ。そのうちの1冊は、枡野さんとの共著である。そしてもう1冊は、私が担当している、ヨッキれんさんとの共著、廃道の写真集だ。今回のトークは、一連の裁判を経た(継続中ではあるが)からこそ始まったともいえる新たな動きをきっかけに、丸田さんの作品を広くしってもらうためのものだ。


作品を大写しにしながら、作品に関するトークが始まる。1枚目は、新宿駅に佇むEF13と三井ビル。
(『東京人』2009年3月号の表紙に採用されたもの。原版横位置。amazonにリンク)

丸田さんは、「戦時決戦機関車」として作られたEF13と、1970年代の象徴である新宿三井ビルディングを対比して撮影したかったのだという。そのとき、小学生。その1枚を得るために、1ヶ月半、学校にも行かずに新宿駅に通った。当然、学校の先生が何度も訪問してくる。先生は丸田少年に言う。「大人になったら撮ればいい」。しかし、丸田少年は答える。「大人になったら、もう撮れない」。製造後30年たったEF13はいまこのベコベコの外板で佇んでいるが、1970年製のものが30年経ったとて、EF13のようにはなる保証はない、いや、ならない。それを見越して撮影しているのだ。

あるいは、新宿駅貨物ホームのEF13。「戦時中に作られた機関車を、戦時中のイメージで撮りたかった」と思った小学生(中学生?ちょっと失念)の丸田少年は、父(出征している)の友人に聞いた「戦時中は黄砂でほこりっぽかった」という言葉から、Y2フィルター(モノクロフィルムのコントラストを高める、黄色いフィルター)をカラーフィルム(ネガ?)に使用し、そのイメージを作り上げた。

そんなエピソードがどんどん出てくる。小学生にして、そんなことを考えているのか。話は写真論、そしていつのまにか「丸田祥三論」になり、『日本風景論』になり、また写真論になり、たまに脱線。そんな感じで、「休憩にします」と言っても話は続いてしまい、観客もほとんど席を立たない。


さまざまな論評も飛び出した。ひとつ、丸田さんの持論にして私も常々そう思っている、「フラット化」への反対は、それだけで1冊の単行本ができそうな内容だった。私も「酒で(問題を解決しないまま)仲直り」とかは大嫌いだ。


第1部終盤、ひとつ質問をした。丸田少年は、常にカメラを持ち歩いていたのか? これは、1970年代の都内の普遍的な光景を撮影した作品に対しての疑問だった。答えは否。ということは、「こういう写真が撮りたい」と決めて、カメラを持ち出しては撮ってたということになる。

「カメラが常に持ち歩くのは、警官が拳銃をつねに手にしているのと同じだ」。という丸田さんの言葉も少し極端かもしれないが、でもまあ、そうだろう。私もよく「ここを、あのカメラとあのレンズで撮りたい」などと思うことが多々ある。結局はそれっきりになってしまうのだが、丸田少年は、そう思ったら必ず撮りに行っていただろう。そんな気概を、トークの節々に感じられた。


ここまでの話は、USTのアーカイブにあるのでぜひご覧いただきたい。ただし、いずれ削除される可能性があるのでお早めに。



20110322-03.JPG
22時30分頃から、第2部として、枡野さん・丸田さん共著の公開編集会議となった。

この本は、丸田さんの作品に枡野さんの短歌が載るもので、おもしろいのは、枡野さん、丸田さんがそれぞれ、それぞれの事情で単行本未収録だったり未発表だったりした作品が、偶然組み合わされ、桝野さんの言葉を借りれば「自分では硬いと思っていた短歌が、丸田さんの作品と組み合わさることで、風通しがよくなる」ということだ。大きな示唆をいただいたと思う。


そうこうしているうちに終電時刻。まだまだトークは続きそうだったが、中座してしまった。無念。また来月もあるだろうから、楽しみにしています。


写真について。
私は、個人個人の写真へのスタンスは異なるのが当然なので、思い切り「自分にしか撮れない」ものを追求するのも、没個性でフラットに撮るものも、なんでもいいと思う。私は前者を目指すけれど。後者は後者で、数がまとまればそれとて前者に近づいていくのではないだろうか。

また、カメラも、日常的に持ち歩けるような環境になったのだから、持ち歩いてもいい。私はよく「いまここに5Dと28mmがあればいいのに!」という後悔をしている。そういうときに撮れないと「また今度でいいや」になり、結局は撮りに行かない。ぼくがいま一番撮りたいのは、会社のビル1階にある、タワー式駐車場の前にあるターンテーブルだ。


中央本線 新桂川橋梁(1)

中央本線 新桂川橋梁(1)

ワーレントラス



20110321-04.JPGこの巨大な船底型のワーレントラス橋は、中央本線の撮影地としても名高い新桂川橋梁だ。3径間連続トラスで、もっとも長い中央支間は130m、左右はそれぞれ70mあり、計270mの連続トラスである。

「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。

20110321-08.JPGまあ、美しいこと。

少し左に振って……
20110321-09.JPG現代版余部橋梁と言っていいのではないだろうか。6連の合成桁。通常、架線柱は50mおきに建てられるが、合成桁部分では支間と同じ40m間隔となっている。トラス部分においては少し不揃いとなっている。

まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。
20110321-99.jpgここが中央径間の中央部。ハの字型のところと、逆ハの字型のところを見比べて欲しい。

20110321-05.JPG向かって右の部分。\方向の斜材は左右が結合され、/方向の斜材はスラリと鉄骨があるだけ。

そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。

猿橋側の端に、銘板が…
20110321-06.JPG遠い! これでも35mm判換算300mm相当。

P3203707-2.jpgトリミング。見えない…。

このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。


鳥沢方には塗装標記がある。
20110321-03.JPG(新桂川橋りょう)←うっかり写さなかった
位置 鳥沢~猿橋間81k848M60
支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス
塗装年月 2002年3月
塗装回数 4回塗
塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料
塗料メーカー 日本ペイント株式会社
施工者 建設塗装工業株式会社

これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。

さて、いよいよ下へ…。
20110321-10.JPG橋台の銘板。

新桂川橋りょう
設計 東京第二工事局
施工 株式会社熊谷組
設計荷重 KS-18
基礎工 鉄筋コンクリート工
基礎根入 天端から[11.0]M
着手 昭和42年7月20日
しゅん功 昭和43年7月19日

この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。

20110321-11.JPG支承。思ったよりでかくない。そして、橋台の垂直面でも結合されている。そして…

20110321-15.JPG中央にはこのような荷重を受けるダンパー(?)が鎮座する。

20110321-12.JPGでかい。…と、列車が通過する。

20110321-14.JPG恐ろしい騒音だ。恐怖を感じるレベルの音。いや、こんな場所に潜りこんでいるのが悪いのだが、本当にこのまま鉄骨がバラけて自分を潰してしまうのではないかと思うほどの恐怖。

外に出て、合成桁に戻る。

20110321-98.jpg
首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。

20110321-07.JPG箱桁の塗装標記。

支間40mということ以外はトラスと変わらない。


長くなったので一度切る。


阪急 新淀川橋梁に続く長柄運河の橋梁(大阪府)

阪急 新淀川橋梁に続く長柄運河の橋梁(大阪府)

プラットトラス



先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。

元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。

20110318-01.JPG中央桁。5格間の100フィートプラットトラスだ。おもしろいのは中央格間にハシゴがつき、上弦に登れるようになっていることだ。通常、この手の階段は端柱に刻んである。

20110318-02.JPG支承部分。

20110318-03.JPG中央桁の裏面。

20110318-04.JPG下流桁の裏面。

20110318-05.JPG右=中央桁、左=下流桁。

20110318-07.jpg20110318-06.JPG上流桁。これのみ、1958年(昭和33年)製造である。他のトラスは、1926年(昭和元年)7月3日開通となっている。

この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。

・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。
・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始)
・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始)

20110318-07.jpg上流桁のみ銘板がある。上り線の桁の東側、梅田方のもの。

京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重
支間 35.600M
重量 37.080T
汽車製造株式会社
昭和33年製作

「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。
「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。

もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。
20110318-08.jpgこちらは左上のネジが飛ぶのが仕様らしい(笑)


本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)

本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)

ポニーワーレントラス



有名な浜中津橋。詳細はwikipediaがあるので、そちらに任す。さらなる詳細は、土木史研究発表会論文集の1987年6月分にあったはずなのだが、ちょっとリンクが見あたらないのでわかったらリンクすることにする。歴史的鋼橋集覧もぜひ。大阪市のサイトにすらある。

20110317-07.JPG阪急各線が梅田を出て、中津を過ぎて新淀川を渡る直前、車窓左にこの桁が見えるはずだ。写真奥は1926年開通の阪急の新淀川橋梁だ。

水平がおかしいように見えるかも知れないが、画像右に向かって下っているから、これでいい。勾配は1/32。右が梅田方(大阪駅方)、左が新淀川方である。

浜中津橋の下は遊歩道である。もちろん最初からこうだったわけではなく、以前はここは長柄運河という独立した川だった。そのため、ここに架橋が必要だったのだ。


この桁は数奇な運命を辿った桁で、1874年に鉄道が開通した際、単線桁として使用開始された。しかし、複線化を織り込み済みであり、本来の姿は3主構(トラスが3つ、トラスの間に線路が敷かれる)であった。それの、「中央主構+側主構」のみでとりあえずは製造された。煉瓦積み隧道でいえば下駄歯仕上げにしてあるようなものである。

それが、後日複線化され、やがて道路橋に転用された。その際には最初からあった側主構が撤去され、中央主構と追加された側主構だけが転用されたのだ。土木学会をして「撤去の時期が来たら復元保存すべき貴重桁である」と言わしめる存在である。

あとは写真を並べるのみ。
20110317-09.JPG追加された端部の部材。また、裏側をよく見て欲しい。

20110317-10.JPG両サイドの水色のトラスが本来のもので、4本の縦桁は後生に加えられたもの。

20110317-11.JPG床版は、このようトラスの下弦からは浮いている。

20110317-03.JPG親柱1。梅田方・下流側。

20110317-04.JPG親柱2。梅田方・上流側。

20110317-05.JPG親柱3。新淀川方上流。

20110317-06.JPG親柱4。新淀川方下流。

20110317-02.JPG梅田方から。

20110317-08.JPG塗装標記。

20110317-01.JPG斜材の様子。

<参考文献>
冒頭にリンクを貼った各文献。


木津川橋梁 (京都府)

木津川橋梁 (京都府)

プラットトラス



京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。

20110316-02.JPG下流側から。左が京都方、右が大阪方。

この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。

20110316-04.JPG上流側から。撮像素子のゴミが鬱陶しい…。

京都方(右)の2連は、塗装工事中である。

20110316-01.JPG
6連のトラスを側面から。

宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。

このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。

また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。
在りし日のの江ヶ崎跨線橋。川崎市のサイトにリンク)

コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。


20110316-03.JPG話を戻して、橋門構。向かって左が塗り替え中。ひとつ奥の桁は、左側のトラスの一部だけが塗ってあって、いかにも作業の途中らしくて好もしい。


この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。

(追記)
この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。

鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。

(*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。

大船渡線 第二砂鉄川橋梁(猊鼻渓にかかる橋)

大船渡線 第二砂鉄川橋梁(猊鼻渓にかかる橋)

鈑桁(プレートガーダー)


20110315.jpg
大船渡線の猊鼻渓にかかる橋梁である。名称は第二砂鉄川橋梁。砂鉄川は北上川の支流だ。猊鼻渓に至るまではかなりの急流である。

橋脚は石積みの円筒形。大正末期から昭和初期に見られる気がする。上越線の土樽付近などにもある。

銘板等を一切撮らなかったのが悔やまれる。ここ、クルマを停めてじっくり見物できるような場所ではなかったので…。


この橋梁に列車が走ることは当分ないだろう。地域が復興し、再び列車が走る日を心待ちにしている。


No Image

東北地方太平洋沖地震 当日ログ

記憶

東北地方太平洋沖地震当日、何をしていたかを忘れないうちに記録しておきたい。自分の記憶のためのものなので、お読みいただくほどのものではありません。あしからず…。なお、鶴川駅周辺やゴールポイントは、プライベートな情報であるため、一部曖昧にしてあります。


より大きな地図で 磯部祥行@tenereisobe を表示


その日は、丸田祥三さんとデニーズで10時から打ち合わせしていた。長丁場の打ち合わせも後半に入った頃、14:46に店内が大きく揺れた。窓の外の木も揺れている。「どうせすぐおさまるだろう」と思いながら「大きいね」などと話していたら、一段と揺れが大きくなり、停電した。そこで、テーブルの下に隠れなかったのは、気恥ずかしさがあったからだ。

貴重品だけ持って、とりあえずは店外へ。その場で私は家族にメール。とりあえず送信はできた。ついで、こういうときにこそツイッター。震源や震度などの情報を得る。震度6、という数字に驚く。

デニーズ店内は停電していたが、会計を済ます。ふと見ると、ぼくらの隣の卓にいたおじさんが、店外に出ずにずっと食べ続けていた。そして、いったん外に出たと思しき女性グループが、「なにか食べられない? 飲み物でもいいわ」などと、なにごともなかったかのように店員に尋ねていた。店員は「停電なのでなにもできません」と断っていたが、食い下がっている…。

地震の瞬間も、クルマは普通に走っていた。何度目かの揺れの時、左に寄せて停止したクルマがあった。道路は信号が消えていた。



しばらく、安全に見える屋外駐車場で待機したあと、15時30分頃、丸田さんのクルマで丸田さん宅へ。ご両親とともに待機する。しかし、余震がおさまらないため、戸外のクルマで待機することにする。私はクルマの中でワンセグ中継を見ていた。

少ししてから買い出しに。丸田さん宅から数十メートル離れたところでは、停電していないことがわかった。ちょっと悔しい(?)。ついでに公衆電話から災害用伝言ダイヤル(←「ダイヤル」…)にかけたが、自宅のある03地域は対応していないとのことに落胆し、セブンイレブンへ。セブンイレブンは停電しており、レジも使えないので手計算で販売していた。食材、パンは売り切れ。カロリーメイトが10箱くらいと、パンコーナーにあるお菓子類があったので、それらを2000円分くらい買っておく。

再度、丸田さん宅で待機。その間、たびたび余震に襲われる。かなり暗くなってきたのと、家族から連絡が入らないこともあり、意を決して徒歩あるいは途中で自転車を買うなどなんらかの手段で帰宅することにした。丸田さんから「クルマ貸そうか?」との、これ以上はない言葉をいただいたが、道路の大渋滞が懸念される、というか買い出しの時点で、普段は交通量の少ない通りが渋滞していたほどだったので躊躇していると、ふと鶴川に住む友人を思い出した。彼のところに行けば、バイクか自転車を貸してもらえるに違いない!

丸田さんに話し、友人宅に送ってもらう。当然、電話が通じないので突然押しかけることになる。送っていただく道中、停電しているエリアもあればそうでないエリアもあった。停電エリアでも信号が機能しているところもあれば、信号ごと停電しているところもあった。鶴川の駅に向かっての渋滞がひどく、3kmほどを30分以上かかった。鶴川駅を見下ろすあたりでは、町全体が停電しているのに、駅と列車は停電していないことがちょっと不気味といえば不気味だった。



友人宅。近づくと、中でライトが動いていた! やった! 停電しているのでチャイムも鳴らないので、玄関ドアをノックしながら「いそべです! 突然スミマセン!」 すると、友人は驚きながらも出迎えてくれた。ここで、ここまで一緒に過ごし、送ってくださった丸田さんに感謝しつつ、お別れした。

友人宅は停電こそしていたものの、ガスと水道はOK。コーヒーをいただいた。なんとも厚かましい、バイクか自転車の貸し出しを申し出ると、快諾してくれた。本当に感謝。



そこから帰宅まで約1時間半。世田谷通りを上る。かなり渋滞している。バイクでよかった。都内に入ると突然空き始め、そのまま環七へ。環七外回りはそこそこの混み方。そして、大原付近からはガラガラになった。



20:45頃、帰宅。しばらくネットを見たあと、家族が広尾の帰宅支援センターにいるというのでクルマで迎えに行く。幹線道路が大渋滞していることは知っていたので、裏道、抜け道的なところを行く。R246が恐ろしいことになっているので迂回していたら、偶然青山墓地を通りR246の下をくぐるルートとなり、1時間半ほどで広尾についた。ふだんの夜中の倍くらいか。

そこで家族と再会し、帰宅しようとするも、R246の壁に阻まれて約1時間後にまた広尾に戻ってきた。改めて恵比寿から中目黒に出て、中野通りを主に使いながら練馬まで帰った。中目黒から練馬まで1時間20分かかった。



翌日、翌々日とも、自宅待機。何をする気にもならなかった。体調も悪くなった。



私の周囲にも、長時間歩いて帰宅した人がたくさんいた。そんななか、バイクという飛び道具を得たぼくはとてもラッキーだった。でもね、考えようですよ。

都心部でも、自転車は入手できる。ぼくの勤め先、銀座でいえば、ビックカメラで自転車は売っている。1~2万円でそれに乗って帰るか、家族と連絡がつかない状況で5~6時間歩くか。

あるいは、友人から自転車やバイクを借りる。図々しいことだけれど、ひとつの手段として知っておいて損はない。もし、またこういうことがあった場合、ぼくは自転車やバイクを貸しますよ。場合によっては、バイクで迎えに行ってもいいです。どんどん利用してください。



今回思ったこと。

ツイッター
・ツイッターの使い方が、如実に表れる
・RTの使い方がうまい人と下手な人がいる
RTの「うまい」「下手」から、つまり、ぼくの好みがわかった。
・不安を煽るツイートやデマを拡散する傾向の人がいる
ぼくの好むツイート、というものがわかった。

帰宅支援センターの状況
・19時頃には利用者もまばら
・19時30分ころにはかなり増え、毛布も足りない状態に
・人が少ない頃に来たオバチャンたちが毛布を7枚確保して隠していた
・体育館はとても冷える。どこかで段ボールを調達してから乗り込むといい
・暖房は、巨大なヒーターひとつ
・足の臭いがすごい。たぶんブーツのせい

情報
・「政府は隠している」という陰謀論を語る人がいる
・インフラの復旧が遅いことについて、怠慢だという人がいる→関係者がいちばん必死だよ
・原子力について、質問する記者も、答える総理も理解していない→どんな記事になるのだろう…
・「未定」という記者発表に対して「どのくらい未定なのか」というバカな質問をする記者がいる。
「検討する段階に至っていないということだ」という回答に食い下がってどうすんだよ。
・「1000マイクロシーベルト」ばかり広がり、それがどういう単位なのかの説明がない。
後刻、徐々にそれがどのようなものかの解説が出るようになってよかった。

ちょっと後悔
・カメラを持っていなかったこと。消えた信号機、真っ暗な住宅街、交通整理をする警官など、撮っておきたかった。

以上。追記するかもしれない。


No Image

心よりお見舞い申し上げます

独言・日記

東北地方太平洋沖地震およびそれ以来頻発する地震で被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

当方、幸いにも破損等の被害は皆無でした。
取り急ぎご報告まで。

交通協力会のアーカイブに『日本国有鉄道百年史』が!?

交通協力会のアーカイブに『日本国有鉄道百年史』が!?

アーカイブ/資料/自分用メモ

財団法人交通協力会という組織がある。ものすごく簡単に言うと、いまの『交通新聞』の前身、『陸輸新報』を発刊していた財団法人陸運協力会の後継組織である。陸運協力会というのは、『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に描かれた片岡謌郎が設立時の理事長、相談役を『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』でお馴染みの久保田敬一が勤めた組織で、主たる業務は鉄道の広報・連絡メディアたる新聞、『陸輸新報』の刊行にあった(前述『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』高坂盛彦著による)。

いま、この組織がなにをやっているのかはわからないが、電子図書館という名称でアーカイブを展開しようとしていることに気づいた。利用には、無料での登録が必要である。

現在、閲覧できるのは『交通年鑑』(1947~2009年版)だけであるが、「準備中」として以下のものがある。

『国有鉄道』
『国鉄線』
『交通技術』
『日本国有鉄道百年史』
『交通』

『日本国有鉄道百年史』だと…!? 


現在、交通年鑑だけが閲覧できるはずであるが、なぜか「全ページ閲覧」は元データを別階層に老いてあるらしく、エラーが出てしまう。検索して、当該ページだけを表示させることはできるので、その要領で1ページ単位で閲覧することは可能である。

検索は、本文をOCRで読み取ったらしく、かなりアレなようであるが、ないよりはずっと便利である。
7e215a2f.JPGここでは、「音更川」が「音夏川」「音更]J[」などとなっている。

早くすべての文書が閲覧できるようにならんことを! 有料でもかまわない!


以下まったくの余談だが、「電子図書館利用マニュアル」を見ると、なんとsafariの画面をキャプチャしてある。こういった組織ではWindows+IEが標準だと思っていたのだが、さにあらず。担当者の個人的な好みだろうか。



久保田敬一という名前を書いたので、さきの『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に書き忘れたことを書く。

橋梁好きにとって、久保田敬一といえば橋梁技術者として知っているだろう。私は上記の本を読むまで、鉄道次官まで上り詰めた人だとは、恥ずかしながら知らなかった。上記の本には、片岡と、豪放磊落な久保田のコンビのエピソードがいくつも出てくるが、久保田の橋梁技術者たる描写は一切ないというおかしさ(私にとって)。官という組織が非常に興味深く、いずれまとめたらwikipediaにでも久しぶりに書こうかとでも思っている。

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