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「かしわざきまちあるき」と題した、柏崎の街歩きに参加してきた。主催は柏崎市、主たるガイドは市民のNさん、そこに東京スリバチ学会・皆川典久さんと、路地連新潟の野内隆裕さんが加わり、みんなでいろいろな発見をしながら柏崎の街を歩こうというものだ。スタート地点は喬柏園、かつての柏崎公会堂だ。

参加者は、市民40人近く、東京スリバチ学会と路地連新潟から十数人といった大所帯になった。

当日の様子は参加者各位に任せるとして、柏崎の地形を。(以下すべてカシミール3Dを使用)
海に伸びる突堤が柏崎港、その根元の左が番神岬。番神岬があるために、地図中央やや左に扇形に砂丘が発達している。その間を鵜川が貫通しているが、おそらくこれは人工的な開削で、かつては砂丘にぶつかって北東、つまり柏崎駅前を線路に平行する形で流れていたらしい。標高が低い部分を茶色にしているが、まさにそんな感じだ。

柏崎は、駅から海に向かう駅通り、それと直行する形で旧北国街道だる本町通があり、駅通りを境に東本町(ひがしほんちょう)、西本町に分かれる。本町通は砂丘の尾根を少しはずれた部分につけられている。かつては東西には分かれていなかったとのこと。そのうち西本町周辺を歩いた。

さて、2時間ばかりの街歩きの途中で、偶然にも一級スリバチをみつけた。四方を高台に囲まれた完全な窪地だ。それをカシミール3Dを使って表示しよう。
窪地(水色のマルの内側)をわかりやすくするために、最初の地図とは色味を変えてある。もっとも濃い茶色は標高7m以下、そこから、7.3m、7.6m、8.0mまでは茶色。8.5mまでは薄茶。9mまでは肌色。9.5mまでは白。10mまではウグイス。12mまでが黄色だ。わずかな差ではあるが、見事に一級スリバチとなっている。なお、赤い線は歩いた軌跡、GPSログだ。

ここには、東から西に向かって歩いた。
 西。このときは、ああ、また登るな、というくらいにしか思わなかった。西、北、東しか開けていなかった。

 ふと北を見ると、高台がある。

南に路地があった。遠くが、登ってる!

東。いま来た方向を振り返ると、当たり前だが登っている。

一級スリバチだ!

喜び勇んで皆川さんに「一級です!」とお声がけしたら、当然ながら気づいておられた。そしてそこでは「砂丘間低地」のお話をされていたが、果たして市民のみなさんにはこのスリバチ地形のすごさが伝わっただろうか…?

この場所はGoogleのストリートビューもあるが、ストリートビューは超広角なため、たぶん一級感を感じられない。

* * *

柏崎は母方の実家があったのでよく行っていたのだが、その周辺数十m程度しか出歩いておらず、ここまで徒歩圏内にもかかわらず来たこともなかった。いま、大人になって地形のことも多少知るようになり、急に興味を感じている。

今回のことを母に話すと、なんと、小学校三年生まで喬柏園の近くに住んでいたそうだ。そんなことはいままで聞いたことがなかった。このまちあるきが縁で、母もいろいろと思い出したようで、覚えていることを話してくれた。それをガイドさんたちに伝えると、もちろんそれを肯定してくれた上でさらにいろいろなお話をしてくれた。とても貴重なまちあるきだった。

また機会があれば…というよりも、勝手にまた歩いて見たい。

●関連項目
与助架道橋(信越本線/新潟県)
番神架道橋・番神トンネル 橋なのかトンネルなのか

屋根が飛んだ話
昭和41年3月20日 柏崎駅
柏崎駅前の鉄道情緒喫茶店
柏崎駅の0番線と跨線橋
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国鉄民営化に向けてひた走っている、昭和61年9月に刊行された本。「刊行にあたって」には、すでに組合同士の対立や分裂が激しく、十以上の組合ができている中で、分割・民営化に反対する国労、動労千葉、全動労の三組合から集めた手記だ。

本書には、当時の職場の雰囲気の一部、追い詰められた側の声が綴られている。これは本当にそういう考え方の人たちがいて、そういう雰囲気だったのだろう。穏健な意見もあるが、それ以上に「闘わねば労働者ではない」というような、目的と手段が完全に逆転した意見が多い。単語も極めて政治闘争風で、中曽根はファッショであり動労は犬と言う人のいかに多いことか。

読んで思うのは、こうした考え方についていけなかった人が多いのだろうなということ。言い換えれば、こうした考え方が、逆に分割・民営化を促進したんだろうなということ。もし、国労も主張を転換し、分割・民営化に部分的にせよ認める方向に舵を切ることができていたら、いまのJRはどうなっていただろうか。

部外者には伝わりにくい当時の雰囲気を色濃く感じさせてくれる本書は貴重な一書である。
大阪市の鶴見緑地西端にかかる緑地西橋。かつて心斎橋として使われていたボーストリングトラスの桁が保存されている。

歴史的鋼橋集覧
によれば、1873年(明治6年)に心斎橋として架けられたあと、1908年(明治41年)に境川橋、1928年(昭和3年)に新千船橋、1973年(昭和48年)にすずかけ橋と転用を繰り返され、1989年(平成元年)にここに保存された。

PDF同人誌『日本の廃道』の2008年4月号には詳しい紹介があるのでそちらをぜひご覧いただきたい。

ただし、桁は構造にはなっていない。プレートガーダーの横に意匠として貼り付けてあるだけだ。とはいえ、こうして保存されるのは非常に貴重なことと思う。


一見、きちんと構造物として使われているのかと思ってしまう。

  床版は反っているのだが、心斎橋時代はどうだったのだろうか?



南会津の、舘岩川が伊南川に合流するあたりにある郵便局。「大川」といえばここから七ヶ岳を挟んで東、阿賀川のことを指すと思っていたが、伊南川とて地元の人からすれば「大川」に違いない。

片流れ屋根なの局舎は珍しい気がする。

  少し高台にあるのだが、降雪対策だろうか。

高台にあるためか、ひとつ上の写真でポストに隠れる位置、階段の登り口に車椅子での利用者用の呼び出しボタンがある。このプレートは機械式彫刻で、通常は専用の書体が使われるのだが、そうした書体ではなく丸ゴシックだ。

郵便局名は郵政書体とは違うが、切り抜き文字を浮かせている。薄い金属なので歪んでしまっている。直してあげたい。



福島県の旧南郷村、いまは南会津町になってしまったが、南郷はトマトが特産品だ。国道沿いに共同選果場があり、9月にはひっきりなしにトラックが出入りしている。直販売店もあるが、それなりに大きい単位でしか買えないので、実はきちんとしたというか、箱詰めのトマトを買ったことはない。隣接する無人販売所で「1袋200円」というようなものを買っている。

「会津みなみ農協」の下に隠れている文字はなんだろうか。合併前の「JA南会西部」では文字数があわないし…。おもしろいのは「会津みなみ」という上塗りした文字と、「農協トマト共同選果場」という文字とか同じくらいの色褪せ方をしていることだ。また農協の「協」の略し方も、かつての看板用省略文字の流れを汲んでいておもしろい。

前日、バイク2台でこういう場所を下った。かつては道路だったところだ。前後区間はダートの林道の形をしている。かつてはこれほど水はなく、流れてはいても スーパーテネレでも登れた道だったのだが、ある年の台風以来、路面を洗う水の量が格段に増えた。今回は二人ということもあり、下った。こんな区間は1km くらいしかないのだが、そこを通過するのに2時間、へとへとになって下った。下った後、国道から入った路地の商店前でやっとありついた飲料を飲んでいた ら、トマトの収穫をしていたおばあさんが自宅から冷えたトマトを差し入れしてくれた。その甘くておいしかったこと!

























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