忍者ブログ

プロモーション

カレンダー

02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリー

twitter

twitter2

プロフィール

HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。

バーコード

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

since 2010.7.30

アクセス解析

フリーエリア

プロモーション

プロモーション


文部省も反省しろ

文部省も反省しろ

独言・日記

20100102.jpg飯田橋から水道橋、お茶の水、秋葉原と歩いた。道中に湯島聖堂があるので立ち寄った。綱吉が建てただか移設しただかの孔子廟である。神田明神と湯島天神と湯島聖堂を混同していたのはここだけの話でいい。そういうのがいい加減であるからこそ、こういうところを詣でるのが苦手なのだ。

上に掲げたのは、湯島聖堂の解説文である。昭和11年に文部省が書いたもの・・・を書き直したものだと思う。しかし、最後の一文に注目したい。

コンクリート
混凝立

おいおい、「」じゃない、「」だ。

検索すると、この文章を引き写したサイトがいくつかある。彼らは意図せず誤った知識の拡大再生産に荷担している訳だ。文部省(の看板を書き換えた官庁)も反省しろ。

PR

下淡水渓橋梁(旧屏高鉄橋)について台湾政府の姿勢を問う

下淡水渓橋梁(旧屏高鉄橋)について台湾政府の姿勢を問う

プラットトラス

1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間、台湾が日本領だったことは中学校で習うことである。この時代に、台湾総督府により、クーパートラスがいくつも架けられている。桁として珍しいものがあるわけではないが、200フィート24連1526メートルという、当時アジア最長の橋、下淡水渓橋(ピンインを無視して読むと、下淡水渓=シア・ダン・シュェイ・シー)があった。

写真はwikimedia commonsにある。
Kao-Ping_Bridge_01.jpgこのファイルは、クリエイティブ・コモンズ表示 - 継承 3.0 Unportedで提供されています。



大きな地図で見る
衛星写真で下淡水渓橋を見ることができる。下側が今回紹介する橋であり、旧橋である。「地図」に切り替えると、きちんと「高屏鐵橋」と記されている。画面上側に見えるのは、1987年から供用されているコンクリート製の新橋であり、橋脚の位置からして支間は100フィートのようである。土木図書館には、この新橋の建設に関するビデオ『高屏渓河川橋の建設 世界最大級に挑む』がある。

旧橋は西側に8連、東側に12連が残る。wikipediaによれば、2005年の台風で3連が損傷を受けたとあるが、現存するのは20連のようである。1連、数が合わないが、とりあえずは見ないことにする。その台風で損傷した直後か、トラスがクチャっとなっている写真が、このサイトにある。
そして、たぶん落ちた桁を再構成したものがこのサイトにある。


さてその旧橋。前掲wikimedia commonsの写真は8パネルのワーレントラスであるが、新潮社の『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 朝鮮 台湾』に掲載されているものは、いままでこのブログでも見てきたピン結合の200フィートの曲弦プラットトラス、いわゆるクーパートラスである。これがズラリと24連。さぞや壮観な眺めであっただろうことは、上記衛星写真でもわかる。日本国内の最長の例は、16連の東海道本線大井川橋梁上り線。国内設計桁では東海道本線天竜川橋梁の19連が最長である。


さて、いよいよ本題である。台湾の財政部台湾省南区国税局のサイトによれば、隣接する河川公園はヤングピープルにとって魅力的な場所であると紹介されているのだが、これの日本語版サイトが異常である。

 高屏(カオピン)鉄橋は、日本統治時代に建設された高屏渓にかかる鉄橋です。24個の鉄をアーチ状に配した構成で、橋げたには花崗岩を含んだレンガが用いられています。スタイルの美しいアーチ橋で、アジア最長の橋として有名になったこともあり ます。今では橋としての役目を終えていますが、大樹郷にとっては誇りの象徴です。
高屏鉄橋は長さ1526mの円弧形の鉄筋コンクリート橋で、高さ9.5mの橋台はケーソン工法を用い、御影石を人工的に積上げて造られました。 また橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています。以前は南北を結ぶ輸送路として利用され、役割を終えた現在はレジャー観光地として市民に親しま れています。
(引用:前掲日本語版サイト)


本家サイトをそのまま和訳したわけではないのは明白で、恐るべき誤訳がある。

(1)前段では「鉄をアーチ状に配した構成」とあるのに、後段では「円弧系の鉄筋コンクリート橋」になっている。RCトラスなんてのは日本にも実験的なのしかなかったような。いや、そのまま言葉通りに受け止めれば、円弧の長さ(ないし弦の距離)が1526メートルあるようにも思えてしまう。瀬戸大橋以上の支間のコンクリート製アーチ橋か。
(2)前段によれば「橋げたには花崗岩を含んだレンガ」が用いられているという。煉瓦が桁になることがおかしいし、花崗岩を含んだ煉瓦というのもおかしい。これは橋台のことであり、橋台下部はコンクリート、上部が煉瓦、水切りに御影石、という使い分けである。
(3)「橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています」とあるのは、もちろん「200フィート=63.5メートルの桁が24連」という意味であるべき。wikipedia繁体字版には「橋身共有二十四孔」という文言が見えるので(日本語版にもそのまま転載されていたので直しておいた)、これをグーグル翻訳で英語にすると「the bridge deck a total of 24 holes, each bridge opening length of 63.5 meters.」となり、まさにこの日本語である。

ついでに書くと「対象年齢: お子様、若者、家族連れ」だそうなので、オタクは不可なようである。
こうした、政府のお墨付き文章が大ポカをやらかすと、それを孫引きする旅行関係サイトや旅行者がその大ポカを拡大コピーする。検索すると、おかしなフレーズがたくさん引っかかる。

屏東県政府のサイトでは、麗莎という女性が田中という男性にこの橋梁の魅力を語っている。



これらに引き替え、兵庫県の黒田庄町立楠丘小学校のサイトにある『高雄だより』の、なんと有用なことか。改築された新トラス桁の銘板の写真と考察や、設計者の飯田豊一の殉職碑の写真まである。なぜ地方の小学校に高雄のことがらの報告書があるのかは不明だが、交換留学というか、教諭が派遣でもされたのかもしれない。この遠藤先生には、銘板の写真を見せていただいたということで感謝せねばなるまい。遠藤先生の爪の垢を煎じて飲めよ、台湾政府。




鏡餅

鏡餅

独言・日記

20100101-1.jpgリンゴに対抗するつもりはないが、33年ものの餅搗き器で搗いた餅から作った丸餅が小さすぎたから、干し柿で。気持ちがあればいいのだ。

この丸餅。新潟では見たことも聞いたこともなかったが、諸般の事情で関西が混じる現在、餅は丸餅であり、魚はブリサワラであり、焼きそばにもスバゲティにもご飯がつく。以前はそれぞれ鮭と鱈、イタリアンであった。


西新井大師に詣でてきた。
子供の頃以来、30年ほどそうしたことをしてこなかったが、それには神社なのか寺なのか、祭神/本尊はなんなのかも知らずに詣でることにものすごく大きな抵抗があったからだ。西新井大師は「大師」なのだから弘法大師のお寺であり、別に中野区の新井薬師の西、というわけでもないのだが、そうしたことなど露ほども気にかけずに詣でるということができなかった。それが、いまでは詣でてから調べればいいや、くらいに思うようになったのは進歩なのか後退なのか。

新潟にいた頃は、白山神社と護国神社であった。白山神社の祭神はイザナギ・イザナミとククリヒメであるが、これとて俯瞰して見たわけではないので、古事記・日本書紀は読んだことがあるにしろ、どの神様がどの神社の系統なのか、それをつかんではいない。つかまないうちは、適当にお参りすることができなかった。

まあいい。気持ちである。ご本尊のご尊名を口にせずとも、願えばよい。すべての人々に健康を。


謹賀新年

謹賀新年

独言・日記

20100101.jpg今年は「まあいいや」といって写真を撮らずに済ますことをやめよう。

謹賀新年。

御殿場線の橋梁群(4)第3酒匂川橋梁

御殿場線の橋梁群(4)第3酒匂川橋梁

プラットトラス



20091227-2.jpg第3酒匂川橋梁を国府津方から見る。下流川(海側)である。
手前が新トラス、奥が東海道本線天竜川橋梁から転用されたプラットトラスである。「転用された」と単純に書かれるが、それに必要な注釈をここで書く。

20091231-1.jpg上流川(山側)から見る。

20091227-0.jpg画面を圧縮するほど迫力は増す。

そんなことよりも、パネル数に注目して欲しい。8パネルである。上弦の水平部分は2パネル分しかない。

ここで転用元である天竜川橋梁について思いを巡らす。現在の下り線に、アメリカン・ブリッジ製の橋梁が19連架かっている。それは、本来上り線用の桁だったもので、1913年に二代目の桁として架けられた。1969年に現在の下り線に移設されている。

この第3酒匂川橋梁に転用されているのは、そちらの桁ではなく、ほぼ同時期の1914年に供用開始された当時の下り線用トラス桁であり、こちらは横河橋梁製であった。1968年に使用停止されてそのまま存置されていたが、御殿場線が水害に見舞われて三代目第3酒匂川橋梁が被害を受けた後、1973年に転用された。転用に際して、ピン結合を剛結合に改造している。鉄道院設計桁は、当初はピン結合のプラットトラスであったが、1916年頃のものよりリベット結合のワーレントラスとなった。なお、現在の天竜川橋梁の上り線にはワーレントラスの桁が架けられている。

ここでようやく8パネルの話につながる。その200フィートトラスは、アメリカン・ブリッジと横河橋梁がそれぞれ製作したということで、てっきり9パネルの、いわゆるクーパートラスかと思っていた。ところが、こうして第3酒匂川橋梁を見ると8パネルである。パネル間を延長するような改造などするものだろうか?

そう思って調べれば、アメリカン・ブリッジが製造したにもかかわらず、天竜川橋梁はクーパートラスではなかった。鉄道院による国内設計の桁であり、それを両者が製造したものであった。最大の違いは活荷重であり、クーパートラスはE29(最大軸重29000ポンド=約13.15トン)であるが、この国内設計200フィート桁はE45(最大軸重45000ポンド=約20.4トン)である。最大の見た目の違いは9パネルが8パネルになったことである。高さも34フィートから36フィートに拡大している。


いささか余談になるが、このE45という荷重は、最大軸重16.8トンであった(碓氷峠のみ18トン)のちの国鉄基準よりも大きい。このE45という活荷重は、広軌への改軌(と同時に軌道改良 で軸重を増大)を目的としたものである。広軌を目論んだ戦前の鉄道院~鉄道省の一派の動きが、この御殿場線に息づいているのである。

E45荷重の桁が何連あるのかは未調査だが、1912年に制定され、幹線筋でのみ採用されたのちに広軌化は中止、1921年にはE40を最大としたため、その数は多くないはずである。


20091227-4.jpg国府津方の銘板。
日本国有鉄道
1973 KS-18
TTR 862-5
滝上工業(株)半田工場



20091227-3.jpg沼津方銘板。書かれていることは同じ。この「TT-R862-5」というのは図面番号か。同タイプにして同様に転用桁である旧神岡鉄道の第二高原川橋梁には「TT-R862-1」と書かれた銘板がある。ここは何度も通っているが、つい写真を撮ってない。この態度を反省すべき>自分。

御殿場線の橋梁群(3)第5相沢川橋梁と長谷川橋梁

御殿場線の橋梁群(3)第5相沢川橋梁と長谷川橋梁

プラットトラス

(この位置が第5相沢川橋梁であるかどうかは、現地の確認をしていないため不明)

03027.jpg推定:初代第5相沢川橋梁。古写真『27.東海道線(水害) :東海道御殿場駿河駅間線路水害の惨状(四)』(土木図書館蔵)より。105フィート上路トレリストラスは3連が製作され、1連が第4相沢川橋梁に、2連が第5相沢川橋梁に使用された。この古写真で落橋しているのがトレリストラスかどうかは確認できないが、パネルの長さが存置している桁と同じように見えるので、2連が架けられた第5相沢川橋梁だと推定する。

この写真からはやはり推定できないが、前日に挙げた『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)に掲載されている図面や明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報) 国内設計桁』(小西・西野・淵上)掲載の写真を見ると、このトレリストラスは11パネルで構成されている。


このトレリストラス桁は1901年頃撤去され、鉄道院新橋工場にて下記の長谷川橋梁に改造された。写真で見ると、6パネルになっている。高さも大きくなっているようである。図面は前述小西・西野・淵上論文に記載があり、径間105フィート、高さ20フィートである。

下記の写真ではわかりづらいとは思うが、斜材や垂直材に、不自然な場所で添接している部分がある。いずれ、そういう場所をクローズアップした写真を用意せねばなるまい。これを撮ったときには、これらの経緯が頭に入っていなかったので「普通に」撮って終わってしまった。
20091231.jpg



No Image

国鉄トラス橋総覧と西村俊夫氏

橋梁一般

書名ではなかった。
財団法人研友社刊の『鉄道技術研究資料』1957年Vol.14、No.12に掲載された論文であった。

国会図書館にあるじゃないか!!!

以前訪ねたときは記事名をタイトルとして検索したことになる。
それでは見つかるまい。
おっと、1957年官公庁(に準ずる)刊だから、1957年掲載分なら著作権は切れているな。


著者の西村俊夫氏は、2009年10月27日に逝去された。89歳であった。
共同通信の配信が残っている。

御殿場線の橋梁群(2)5つの相沢川橋梁概説

御殿場線の橋梁群(2)5つの相沢川橋梁概説

プラットトラス


(上図は第3相沢川橋梁の位置)

酒匂川を遡ると、丹沢湖に発する河内川との合流点より上流を鮎沢川と名前を変える。そのまま御殿場市内を経て富士の裾野に至る。鮎沢川は相沢川ともいい、御殿場線の橋梁名は「相沢川」をとっている。もちろん、昔は「相澤川」という表記であった。

御殿場線は鮎沢川を合計8回渡るため、おそらく橋梁も第8まであると思うが、参考資料たりうる『勾配・曲線の旅』を別の場所においているためにいまは確認できない。そのため、今回は土木学会の資料や『鉄道ピクトリアル』に記載のある第5までを対象とする。第6~8は論文にないので鈑桁あるいは開渠ではないかと推測する。第1と第2は、戦前に単線化された際に撤去された「旧上り線」の橋梁なので、現存しない。第1~第4は谷峨~駿河小山間、第5は駿河小山~足柄間にある。

1901年、複線化と同時に荷重増加対応として橋梁も架け替えられた。マレー式機関車導入のためである。といっても、最初に導入されたタンク式の4500形の軸重は12t未満。国鉄時代でいう簡易線規格である。しかし、その後に導入されたテンダー式の9020形の軸重は15tを越えている。

第1相川橋梁(現存せず)

●最初に敷設された線。のちの上り線。現存しない。
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)では200フィートトラスは「天龍川ニ架セルモノと同型ナリトス」としており、また鋼鉄製としているが、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、天龍川橋梁は錬鋼混合桁とある。上下の弦材や端柱に鋼鉄を使用し、腹材などは錬鉄を使用したものである。これと同じであれば、この初代第1相沢川橋梁も混合桁である。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスE
1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線
橋梁は存在しない。

第2相川橋梁(現存せず)
20091229-3aizawa2.jpg写真は残されている橋台。

●最初に敷設された線。のちの上り線。現存しない。
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
第1相沢川橋梁に同じ。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスF
第1相沢川橋梁に同じ。1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線
橋梁は存在しない。

第3相川橋梁
20091229-1aizawa3.jpg現在線。かつて複線化の際に増設された「下り線」。


20091229-2aizawa3.jpg上写真の反対側。手前に撤去された旧上り線の橋台が見える。

●最初に敷設された線。のちの上り線
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
第1相沢川橋梁に同じ。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスG
第1相沢川橋梁に同じ。1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線(現在線)
・初代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスH
・二代 1978年(?) 200フィートワーレン。現在線。

第4相川橋梁

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
上路プラットトラスは、端部の斜材がハの字形になるが、トレリストラスはすべての斜材が逆ハの字形になる。『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)に掲載されている「図十四」がその図面である。設計は原口要。日本人設計による鉄道用トラス橋としては二番目のものであり、第5相沢川橋梁とあわせて3連が作られた。。一番目のものは幌内鉄道の入船町陸橋がその嚆矢とされ、設計は平井晴二郎。掛け替えの際に撤去されたこの橋梁の材料を利用して創られたのが、現在の磐越西線長谷川橋梁である。
42b7155c.jpg長谷川橋梁。このトラス部分に第4相沢川橋梁のトレリストラス桁の部材が転用されたとのことだが、まったく原型をとどめていないらしい。

・二代 不明 現在はプレートガーダー。

●上下不明
・初代 不明

上下どちらが残されたのかは不明だが、 現在は上路プレートガーダー。


第5相沢川橋梁
02_04_0253.jpg
(土木図書館蔵。関東大地震震害調査報告掲載写真)

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
第4相沢川橋梁と同じ。1914年に水害で撤去。
・二代 不明 

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
第4相沢川橋梁と同じ。1914年に水害で撤去。
・二代 不明 

上下どちらが残されたのかは不明だが、 現在は上路プレートガーダーである。
(写真の参考:『自転車放浪記』の記事


第4、第5の経路や変遷については、後日調べるつもりではある。


御殿場線の橋梁群(1)3つの酒匂川橋梁概説

御殿場線の橋梁群(1)3つの酒匂川橋梁概説

プラットトラス


(上記地図は酒匂川第3橋梁)


御殿場線には、開通当時としては長大であった橋梁が多数架けられた。酒匂川に三つ、鮎沢川(相沢川)に五つ。

これらの橋梁は、まだ東海道本線ルートが御殿場経由だった頃に複線化され、丹那トンネル開通後に単線化され、1970年代に水害に見舞われ、などするうちにそれぞれが複雑な経緯をたどっている。各種文献には、「その橋」についてのみ書かれているので、なかなか全貌を把握できない。

今回は、山北-谷峨間の酒匂川の3橋梁について書く。
この区間の開通は1889年(明治22年)、複線化は12年後の1901年(明治34年)である。
以下は、混乱を避けるために橋桁製造年ではなく、開通年である。

現在の状態をアニメ化したサイトがあった。すごい。

第1酒匂川橋梁
20091227-s1.jpg(左が国府津方)
●のちの下り線
・初代 1889年 200フィートダブルワーレン
・二代 1901年 200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスA
・三代 1984年 200フィート平行弦ワーレン
(小西純一・西野保行・淵上龍雄氏による『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)』では二代を1983年撤去としているので要調査)

●上り線。のち撤去、転用
・初代 1901年 200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスB
1944年廃止。そのまま放置。のち樽見線揖斐川橋梁に転用し、1953年開通。こちらを参照。

第2酒匂川橋梁
20091227-s2.jpg(右が国府津方)
●下り線。のち撤去。
・初代 1901年 100フィートポニーワーレンの3連。鋼鉄
・二代 1915年 1944年廃止。
1875年ハミルトン製の二代六郷川橋梁の複線桁を単線化して3連を転用。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著)によれば、戦時中に下り線を単線化した際、うち2連をクワイ川橋梁に転用したとある。


●のちの上り線
・初代 1889年 100フィートポニーワーレンの3連。錬鉄
・二代 1915年?
1875年ハミルトン製の二代六郷川橋梁(100フィート6連)の複線桁を単線化して1連をここに転用。また、この二代目の撤去後の桁のうち1連がJR東海三島研修センターに、1連が明治村に保存されている。

・三代 1965年 100フィート3連上路プレートガーダー。

橋脚は複線用である。


第3酒匂川橋梁
20091227-2.jpg(手前が国府津方)
有為転変の第3である。
●下り線。のち移設。便宜的に、沼津方を(1)、国府津方を(2)とする。
・初代 1889年 ←沼津100フィートポニーワーレン(1)+200フィートダブルワーレン(2)国府津→
・二代(2) 1901年、200フィートダブルワーレンを200フィート曲弦プラット(A&Pロバーツ)に架け替え…トラスC
・二代(1) 1916年、100フィートポニーワーレンを98フィート平行弦プラット(川崎造船)に架け替え
・三代(1)(2) 1967年 旧上り線の線形を利用して、腹付で架け替え。98フィート平行弦プラットは流用。200フィートは平行弦ワーレンに架け替え。旧200フィート曲弦プラットは存置。両者を並べた写真が鉄道ピクトリアル1971年5月号にある。二代、三代の桁ともに1972年7月12日に水害で流失。
・四代(2) 流失した三代の(2)を引き上げ、補修して使用。
・四代(1)天竜川橋梁で廃橋となっていた1914年横河橋梁製205フィート10インチ曲弦プラットを剛結合に改造して流用。

●上り線。のち撤去
・初代 1901年、100フィート(川崎造船)+200フィート曲弦プラット(A&Pロバーツ)…トラスD
1944年廃止。1953年に2連とも樽見線に転用。

引き続き漫画/『カレチ』

引き続き漫画/『カレチ』

独言・日記

20091226.jpg『モーニング』に不定期連載中の『カレチ』が単行本化されたので買ってきた。読みながら、参考文献として壇上完爾氏や坂本衛氏の著書があげられており、内容もそうしたものなので、まあそうだろうな、と思っていた。

ところが、本書の巻頭に、参考文献として『出発進行!』萩原良彦著、とある。

やられた、と思った。
そして、著者の池田邦彦氏は「知っている人」である、と強く感じた。

読んだことのなかった(たぶん掲載時は読み飛ばした)ちばてつや賞受賞作『RAIL GIRL』では、よりによって藤井松太郎の名まで出てくる。こちらの作品は、ここで終わりか、と思わせておいて実はまだ物語り半ば、そこからまた盛り上がりにつながるという非常に凝った、素晴らしい作品である。


かつて漫画編集の末席の末席を汚していた私は、もしまた漫画編集になったなら、萩原氏の著書を、某漫画家に漫画化してもらいたいと思っていた。国鉄の現業が書いた作品は数多あり、現在でも交通新聞紙上で作品が掲載されたりしているが、内容、文章ともに壇上氏と萩原氏がダントツだと思っている。萩原良彦氏についていえば、著書の中でも『臨時停車』と『発車5分前』が抜きんでていると思う。後年、ドキュメントの分野も手がけ、『上越新幹線』なども手がけたが、残念ながら吉村昭にはなれていない。


『カレチ』に戻る。
これになんとなくのシンパシーを感じるのは、舞台として北陸本線が多く出てくるからだろう。第1話からして、大阪(以遠)から「白鳥」に乗った乗客が東三条で弥彦線に乗り換えるのである。一人の乗客のために、列車を30分遅らせる話である。いまであれば「タクシーで行っても数千円だろ」ということにもなろうし、そもそも大阪から新潟へは飛行機だろ、ということにもなろう。でも、当時はそうでなかった。大仰な言い方になるが、これは、同時代に生き、中長距離に鉄道を使っていた者でなければ理解できない感覚であると思う。

『カレチ』は、今風の浮ついた鉄道漫画ではない。いい意味での昔気質の漫画作品である。通常、漫画で鉄道車両やバイク、クルマなどを描くときは写真をトレースする人が多いものだが、本作品では完全に心象から絵を起こしている。作品中に出てくる構図は、カメラでは撮影できないパース、アングルだったりする。鉄道車両のスタイルを完璧に頭の中で組み立て、それを絵にしている。そこが素晴らしい。もちろん、物語もテンポも素晴らしい。

絵は、定規を使わずに直線を描いている。スミはほとんどなく、各種斜線の濃淡で陰影を表現し、トーンは最小限しか使っていない。それゆえに絵が優しい。

表紙はED74である。


[PR]