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銀座のニコンサロンで開催されている吉野正起氏の写真展『道路』に行ってきた。50点の作品が並んでおり、吉野氏ともずいぶんお話をさせていただいた。気がついたら2時間以上が経っていた。

20100925-02.JPG(許可を得て室内を撮影しています)


ニコンサロンの案内産経新聞の案内を見て、私はてっきり廃道の写真展だと思い込んでいたのだが、まったく違っていた。いやもちろん、伊豆の賀茂トンネル旧道の写真は代表作的に展示してあり、来訪者の多くはその作品をベストだと感じるようだが、作品の大半は「道」そのもの。関連した写真を撮る人たちにとって、当たり前すぎてシャッターを切らない光景が、そこには溢れていた。

交通量まばらな地方の幹線道。
夏の山間、1車線から分岐する1車線の強引な道。
ダートと舗装路の境界。
波浪が砕け、空から降ってくる日本海の道。
雪が積もり始めた、山間の除雪済みの道。
雪解けを待たずに作業が始まった、キャタピラ跡がある作業道。
……。


バイクにしろクルマにしろ自転車にしろ、道を走っていると常にこうした光景は展開しているはずだ。でも、当たり前すぎて立ち止まらない。我々がレンズを向けるのは、フォトジェニックな何かがあったとき。たとえば重ねた歳月を裏付ける標識や、美しい日差しに出会ったとき。そういうものではなく、当たり前すぎる場所を作為のないように切り取るのはおそらくとても難しいと思うのだが、そうして切り取られた「あるある!」という光景がひたすら静かに並んでいる。作品を見た人は、自分がこれまでに見てきた「似た光景」を一瞬で連想できる。そして、「いますぐ走りに行きたい!」と思うに違いない。


被写体となる道路は東日本のもの。雪景色も多い。鉛色の空も多い。新潟育ちの私にはとてもなじみ深い風景だったので、より強く共感できたのかもしれない。


作品はすべてスクエアフォーマットで展示されている。その意図などもお聞きしたのだが、それはここには書かずにおく。ぜひ実見して、直接吉野氏の道への思いを伺って欲しい。吉野氏はとても気さくに、道路への思いを語ってくださった。道路に魅せられ、もう夢中になっているというお気持ちが強く伝わってきた。

芳名帳には、荒川好夫氏や柴原直行氏のお名前があった。荒川氏は、私がもっとも好きな鉄道写真家。その作品は、本当に見惚れてしまう。『カシミール3Dで見る・自分で描く 空から眺める鉄道ルート』でお世話になった。柴田氏は、かつてバイク雑誌でものすごくお世話になった、バイクを撮らせたら世界でもトップレベルの方で、ツーリング取材で道とバイクの写真をひたすらお願いしたこともある。私が密かに尊敬する方々が、これら「道路」をご覧になって、どうお感じになったか、お尋ねしてみたい。

吉野氏のブログはこちら。作品が一部閲覧できる。

<関連情報>
吉野正起写真展『道路2011 -岩手・宮城・福島-』
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P8190172.JPG東京都写真美術館で開催されている「おんな-立ち止まらない女性たち1945-2010」を見に行った。きっかけは、ここに丸田祥三さんの作品が展示されていると聞いたからだ。もっとも、こうした写真展を見るのは好きだ。あらゆる意味で、うまい写真を見るのは楽しいし、勉強になる。


この写真展、副題は「
立ち止まらない女性たち」だが、展示がそれに従っているかと言えば大きな疑問を持たざるを得ない内容だった。


写真展の意図がなぞられていない

今回の「おんな」はパンフレットにある言葉で言えば「ビジュアル女性史」である。つまり、それぞれ別個の文脈で発表された211点の作品を、「ビジュアル女性誌」という文脈に沿うように集め、展示者によって作品の方向性が制御された展示である。各作品は、それぞれの時代を切り取った作品として扱われている。もしかしたら、中には「こんな扱われ方は困る」という写真家がいるのではないかと思ってしまったほど、強い文脈が働いている。

その文脈とは、なぜか女性が「お母さん」から「若年の女性」に変化していくというものである。チケットには、こうある(下線部筆者)。
敗戦後の困窮の中で日本の家族を支えたのは、まさにお母さんたちの「生きる 力」でした。さらに女性たちは、世界中が驚くほど目覚ましい日本の復興と発展に、大きく貢献しました。またその力は、高度成長とその担い手を支え、近年は 世界を舞台に多くの日本人女性が様々な分野で素晴らしい活躍をしています。
「お母さん」の写真が確かに多数を占める1940~1960年代に比べ、1990年代以降は若者の文化の上っ面しか展示していない。展示されている写真を見ると、20代前半の女性は、1950年頃には「貧しいお母さん」だったのに、それが2000年代になると「まだまだ子どもで社会性もない少女」になってしまった、というような流れなのに、能書きはそうなっていないのだ。

ということで、私は前半は興味深く写真を見ることができたが、後半、とくに1990年代以降は自分が生きてきた時代でもあるからか、なんだよこのステレオタイプな切り取り方は、と思いながら見た。中には、時代の習俗、風俗を取り込まず、単なる絵画的ヌード写真としか思えないものも複数あり、そんな写真が「その時代のおんな」を象徴しているとはまったく思えなかった。扇情的な写真が並ぶ一角では、「見るに堪えない」と連れの男性に言って通り過ぎてしまった女性がいたことから、そう感じたのは私だけではないだろう。

(注)扇情的な、「見るに堪えない」と評された写真の価値が低い、という意味ではない。この写真展のテーマにはそぐわないと考えている。


「生きる力」がテーマなら、「お母さん」に読み替えて、一貫して「お母さん」でいいじゃないか。「ケータイと鏡」(こちらにもあり)などは、作品としてはいいものだと思うが、この文脈(「素晴らしい活躍」云々)には当てはまらないだろう。



さて、流れを思い出しながら書く。
一枚目は、長崎に原爆が落とされた翌日に撮影された母子の写真である。これを見た人は、「おんな」として見ることができるのだろうか。また、水俣病の被害者の女性の写真もある。これも同様。ものすごく力のある写真だが、これが「立ち止まらない女性」の「歴史をビジュアルに辿(ったもの)」だとはとうてい思えない。

一方、1940年代から1950年代の、野良仕事、農村風景、工場での風景など働く女性たちというのは、いい写真だった。つらい写真もあれば希望を感じる写真もある。働きながら乳飲み子に乳を含ませる写真もいくつかあった。「生きる力」を象徴するような、いい写真ばかりだった。チケットに掲載されている木村伊兵衛の「農村の娘」(秋田県)など、何時間でも見つめることができそうだ。
ストリップ劇場や街娼が、米軍兵士との私生児を集めた教育施設の写真とともに展示されているあたりなども「生きる力」だ。

しかし、1970年代頃から、おかしな展示になる。1980年代になると竹の子族、うんこ座りのレディース、シンナー遊びをする少女、そんな写真。10代の風俗になる。1990年代になるとジュリアナ東京のお立ち台、2000年代になるとケータイやネイルアートなど、これもまた10代、20代の風俗の写真が連続する。これらは、決して「おんなが持つ生きる力」の写真ではない。

スポーツ選手の写真も何点かあったが、「ママでも金」の谷亮子は「生きる力」だが、野口みづきや高橋尚子は違う。3人とも「世界」ではあるが、それがオリンピックだけというのもなんだかな、というところ。そして、パンフレットには、1996年から2010年の時代を総括する説明としてこうある。
高齢化社会、広がる経済格差・・・。日本はどこへ行くのか。一つだけ確かに言えることがある。難局を切り開くだけの力を、女性は持っている。
そんな写真はひとつもない。ただ、軽薄、幼稚化した10代少女の写真が続くのみである。この、最後の展示が、2000年代のお母さんの姿や、それを見守っている前世代のお母さんだったらよかったのに、と思う。


丸田さんの写真の位置

丸田さんの写真も、そんな文脈の中で展示されている。隣の作品は、文脈と無関係にしか思えないヌードである。そこに、荒廃した旧型客車の中に佇む少女の写真がある。展示者側としては、「過ぎ去った時代=旧型客車」の中に「無垢な、未来の可能性を秘めたもの=少女」を組み合わせたものとして丸田さんの作品をツナギ的に使ったのかな、と思った。だから、この作品以後、「過ぎ去った時代」をまとった女性の写真はなかったような気がする。丸田さんの作品は、移りゆく時代の、旧世代と新世代の両方を写し込んだ希有な作品であるからこそ、ここにこうして展示してあるのだろう。そして、もし仮に被写体が旧世代の女性だったら、ここには展示されなかったのではないか。テーマとはずれるが、被写体が男性だったら、確実にあり得ない。男性は、女性ほど、時代時代での変化を象徴しない。この作品は、被写体が少女であることに意味がある。

私は、写真展というのは組写真や写真集と一緒で、テーマがあり、順序があり、緩急があるものだと思っている。そして、ここに書いた感想は、そういう考えで写真展を見てしまう私の読み取り方に過ぎない。読み取り方は見た人それぞれ、作品の制作者(写真家)たちの見方や受け取り方もそれぞれのはずだ。どれが正しい、どれが間違い、というものはない。211枚もの写真を並べて、展示者側と閲覧者側の全員が同じ意識で見ることができるわけなどないのだ。

こんなことを考えたのも「丸田さんの作品を見に行った」からだと思う。「棄景IV」に掲載された写真が、どういう文脈で211点のうちの1点に選ばれたのか、ということに関心を持ってしまった。そうでなかったら、この写真展のテーマなどを考えることもなく、「いい写真だね」という鑑賞できたのかもしれない。



なお、図録。たしかにこれが図録なのかと言われると、なんか安いなあ、という気持ちになった。こういうのは2940円が3800円になってもいいから、もっと印刷ちゃんとしようよ。買う人は値段じゃないから。



DVC00257_R.JPG
8月11日(火曜)夜、新宿のネイキッドロフトで開催されたトークイベント「盗作かもしれない」に行ってきた。枡野浩一さんが司会で、丸田祥三さんと切通理作さんが話すというスタイルで行われた。

ロフトのコピーを転載すると、「廃墟写真の先駆者・丸田祥三が告白する、 “盗作かもしれない” 写真家・小林伸一郎との裁判のすべて!」とサブタイトルが付されていた。ある程度この問題に関心を持っていた人たちは、会場に足を運んだ人も、USTREAMで中継を見ようと思っていた人も、みなそうした話、もしかしたら暴露話や裏話、丸田さんの思いの丈を聴きに行き、それが話す丸田さんのカタルシスになれば……というように思っていたのではないだろうか。

テーマにある「盗作」とは、簡単に説明できないので、このまとめサイトをざっとご覧いただきたい。内容をどう考えるかは、読者諸氏にお任せする。
小林伸一郎盗作廃墟写真疑惑/アサヒカメラ記事捏造事件

私はこの件に関しては把握しているつもりだった。ところが、そんなのでわかっていたつもりになっていたのが恥ずかしくなるような結末だった。盗作が許せないとか、そんなことではなかった。作家性とはなにか、人とはなにか、という話であった。



トークライブのアーカイブ
USTREAM(前編)
USTREAM(後編)

UST中継を見ていた人のツイート
http://twitter.com/#search?q=%23masunoshoten



小林氏やその弁護士の行為がいかなるものかはUSTを見れば分かるので割愛する。
一部、立場が変わればそれもしょうがないでしょう、と思うようなこともあるし、印刷物の限界からそれはしょうがないんですよ、と思うこともないではないが、そうした個々は本質ではない。


丸田さんが苦悩し、立ち上がったのは、自分の作品が亡きものにされようとすることへの抵抗だった。どこへいっても小林氏が先回りして「先駆者」と名乗っており、本当の先駆者である丸田さんが名乗り出ることが不可能となった。もちろん、丸田さんにとって「先駆者」であることに意味を求めているのではない。小林氏への評価が「廃墟の神にして先駆者」として固められている場合、丸田さんがそれより圧倒的に素晴らしい作品を持っていたとしても、もはや二番煎じになってしまっており、発表の機会すら奪われてしまっている。そうしたことに起因するさまざまなことへの抵抗だったのだ。

版元を通じて抗議をした丸田さんは、小林氏の代理人である弁護士からの「1ヶ月で連絡する」という回答ののち、1年待っても連絡などない間に写真業界からディスられ、写真家の名簿的なものから、名前も作品も削除されてしまう。かつて開いた写真展を、裁判の過程で、小林氏に「図録もないようなものは写真展ではない」と、存在しなかったことにされてしまう。

その写真展は、たしかに存在した。若き切通さんが受付をし、町山智浩さんがそこから丸田さんを見出した。そして丸田さんは世に出た。それが、変な立ち回りをされるおかげで、こうした人間関係と、関係者の思い出すべてが亡きものとされてしまう。これが許せない。盗作されたから感情的にむかつく、というようなことでは絶対にない。

丸田さんは言う。「作品を知って欲しい」。
「名作は無記名である」という、誰かの言葉を引用し、丸田祥三という名前など憶えてもらわなくてもいいと言い切る。かつて、写真集の色味が、自分が納得いかないように調整された(*)とき、「名前など見えなくなってもいいから、作品のこの部分の色を出してほしい」と訴えたような人だ。この場面で、会場の人も、UST視聴の人も、ああ、そういうことだったのか、と思われたに違いない。

(*)あくまでわかりやすい例で言えば、モノクロ写真で、真っ黒な日陰部分と光源で色が飛んでしまっているものがあるとする。その場合、製版処理(写真をどのように印刷するかを決める工程。「印刷」というのは、「印刷」の限界を最大限に利用するために、原版に対してさまざまな調整が行われる)としては白地が飛ばないように、黒地がつぶれないように、コントラストを下げるなど、さまざまな調整をする。しかし、撮影者は意図して黒と白とのコントラストを出し、白飛び部分はわかってて白飛びさせているため、そのような修正をされることに不満を持つ場合がある。撮影者と印刷担当者の意見は対立することがあるため、そこを取り持つのは仲介者である編集担当者ということになろう。編集者が撮影者の意図をくみ取ることができ、写真のことや製版の処理、いまではデジタル処理のことがわからないと、この問題をまったく理解できず、仲介などできない。




丸田さんの作品を形容するのは「圧倒される」「圧巻」といった、「圧」という言葉だ。普通の写真集と異なり、ほとんどが広角で撮った作品ばかり。自分でも写真を撮るし、かつてはグラビア的なページ展開などもかなり担当していた私の印象では、
題材にもよるが、基本的に望遠で撮ったもの を中心にすると組みやすく、さらに望遠を広角的に使ったものがあるとおさまりがいい。反対に、広角の写真ばかりでページを組むと、通常は散漫にしかならなかったり、まとまりがなくなったりする。ところが、丸田さんの写真集において、そんなことはまったくない。望遠で撮ったものが「圧」を持って迫り来る作品は多くあるが、広角で撮ったものがそうなるというのは、よほどのことだ。私はその作品を「見る」のではなく「鑑賞」する。作品の隅々まで読み取りたくなる。


DVC00267_R.JPG

ライブは休憩をとらずに2時間半ぶっ続けとなった。あっというまに22時だ。会場では写真集『棄景V』『棄景origine』が売られており、丸田さんは何人もの方にサインを記していた。帰宅してからUSTのツイートを見ると「写真集買うよ」というものがものすごく多く、amazonをチェックしてみたら、定価6892円もの『棄景origine』
635位、3990円の『棄景V』が1303位となっていた。これはすごいことだ。


ライブ終了後、会場は普通の居酒屋となり、丸田さんはじめ何人かの方とお話をした。終電まで、イコール残った客の最終グループとなるまでいて、いろいろな話をうかがった。冒頭でカタルシス云々、でもそうじゃなかった云々、などとは書いたが、丸田さんもいろいろとお話をされたからだろう、すっきりされたようにお見受けした。



最後に、終了後も会場にいた人が誤解をしているといけないので、説明したいことがひとつある。この写真だ。
DVC00268_R.JPG三頭山の例の場所に写っているのは中筋純さんだ。

中筋さんは、かつて『アウトライダー』の編集者であり、私が会社に入った頃には独立してカメラマンになっていた。1980年代か1990年代前半に、ツテをたどって堀淳一氏に会いに行ったような方であり、廃墟の先駆者の一人である。1990年代後半から『廃墟本』はじめさまざまな本を出されており(いまamazonで見えるのは、リニューアル版の別商品である)、いまでもロードムービーさながらにクルマで適当に走りながら被写体を見つけ、撮影してはまた走るというようなやり方を、1週間以上続けるような方である。一昨年に『廃墟チェルノブイリ』という、これまたものすごい写真集をものしたが、これも「チェルノブイリを撮りたい」という執念から、現地への立ち入りを手配し、単身乗り込んで、ガイガーカウンター片手に撮影に臨んだような方だ。

そんな中筋さんの写真が画面に出ていたので、私は「中筋さんも、丸田さんの写真を盗作したのだろうか?」と思ってしまった。中筋さんは、上述のとおり編集者からカメラマンになった方であり、誰かの弟子などではない。もし師に相当する方がいたとしても、時代的に小林氏では絶対にない。その頃の小林氏は、バブル的カタカナの物撮り風の作風だったのだ。

擁護が長くなったが、この中筋さんについては、先のとおり、常人には発想できない行為を多々見ており、くだらない盗作のような企てをしたり、それを隠したりするような方ではない。

ではなぜこの写真が大写しになっていたのか。それは、「この写真のアングル」が極めて丸田さんの作品に似ているのだ。中筋さんは被写体であり、撮影者ではない。つまり、この近影を写した人が……というニュアンスで大写しにされていたのだ。私はホッとした。


(2010.8.12一部修正)

昨晩出発で、先週行き損ねた新潟県の山に行こうと思っていたが、ここ数日風邪っぽいので自粛。今日は9時半まで寝てた。相変わらずだるいが、そのまま家に引きこもってるともっと重くなりそうなので18きっぷ持って外出。先週、サブカメラを粉砕したために、今回はあえてカメラを持たずに出た。以下の写真はすべて携帯である。携帯ってすごい。jpeg化しなかったら、もっと画質がいいのだろうか。

涼しいところへ向かおうと思い、とりあえず常磐線で北上する。道中、ひたちなか海浜鉄道や磐越東線の時刻を調べ、ひたちなかに行くことにした。目的地は那珂湊駅。

あいにく、今日はDMH17シリーズ搭載の車両は走っておらず、キハ3710形とミキ300形が使われていた。
DVC00239_R.JPG


駅の裏手には、ステンレス製のケハ601の車体が鎮座している。これを見て、カメラを持ってくればよかったと少しだけ後悔したけど、まあいいや。
DVC00235_R.JPG
この、駅裏手は日陰となっていて、風も通る。今日は思いの外過ごしやすい。

那珂湊駅のホーム上屋。天井が高い。
DVC00242_R.JPG

ここから鹿島臨海鉄道大洗鹿島線のどこかの駅までバスかなにかで出ようかと思ったが、あいにく地図を持ってこなかった。いま見てみれば常澄駅まではおそらく徒歩1.5kmほどなので、歩くか、バスを利用してもよかったかもしれない。知らなかったので、そのまま勝田に戻り、水戸へ行った。


大洗鹿島線の醍醐味は、高規格の路線を気動車がかっとばすところである。世が世なら、北越急行もこのようになっていたのかもしれないが、あちらは首都圏対北陸のバイパスとして電化され、寿命限定ながら大幹線となっている。

水戸駅のホームで列車を待っていると、2両編成の気動車が、前後の車両で大幅に違う揺れ方をしながら入ってきた。これは、実際に乗ってもそう感じたのだが、構造物の規格が高くても、線路の保守の公差が大きいのだろう、車両が尻を振るように走る。地方私鉄に乗るとよく体験する乗り心地だ。車両のせいではない。

通学客を含むけっこうな数の客を乗せ、水戸駅を発車。この路線のハイライトは、常澄-大洗間の左カーブなのだが、立ち客もそれなりにいて、前面展望は望めなかった。無念。



しかも、大洗から、助士席(ロープで立ち入れなくしてある)にイス持ち込みで添乗の方(?)が乗ってきたので、最後尾に移動。新鉾田ー北浦湖畔間で、なんとかこんな写真を。
DVC00247_R.JPGこの高架橋、下から見上げてみたい。全橋脚のプロフィールを見て見たい。



鹿島神宮から乗った佐原行きの電車。ふとしたことがきっかけで、おなじボックスに座ったおば(あ)ちゃんと会話が始まった。(あ)とするのは、お孫さんがいるからである。ふとしたこと、というのは、鹿島神宮折り返しの列車が到着したときに、車内で眠りこけていた部活帰りの高校生を私が起こした、というだけのこと。高校生は「酔っぱらいかよ!」と思うくらいに深く眠っていて、ゆすっても叩いても目を覚まさず、かなりしてからようやく、起こされたことも意識できないままに立ち上がり、電車を降りていった。もしそのまま折り返したら、1時間に1本しか電車がないので大変な目に遭うと思ったので、起こした次第。そのやりとりを彼女が見ていて、そこから会話が始まった。

彼女は、大人の休日倶楽部パスで、ひとりで大津港の鵜ノ子岬に行ってこられたという。大津港は行ったことはあるが、鵜ノ子岬というものは知らなかった。

いろいろと波長の合う方だったので、結局、その方とずっとお話ししながら、東京駅まで帰ってきた。偶然にも、ちい散歩やゲゲゲの女房の話が出たので、そこらへんの話もした。


出かけてきて、少しはだるさは消えたが、まだ残っている。明日には治ることを祈りつつ。

5時間前に自宅を出て、今頃はもう新潟県でテント張って寝ているはずだったが、なぜかいまPCのある自宅にいる。上越国境の山に登るためにスーパーテネレで出たのに、あろうことか、積んでいた荷物を関越で落としてしまったのだ。

「落とした」「大変だったね」で済ませられるものではなく、落下物で後続車が事故を起こすことが一番怖い。幸い、nexco東日本まであがってきている事故はなかった。それを聞いて一安心したのだが、わかるまでの約1時間、非常に不安だった。

落としたのは、買ったばかりで初めて持ち出したカリマーのデイパックと、これまた5年くらい前に雪中撮影用に買った菅笠。気がついたのは15kmポストを過ぎたところ。nexco東日本のパトロールカーの方には、菅笠を11.6kmポスト付近で発見し、デイパックは見つからなかった言われた。事前に、貴重品が入っていないか確認されたので、入ってないと答えたため、まあいいか、となったのかもしれない。それは仕方のないことだ。落とした位置はほぼ特定できたので、デイパックは自分で回収できないかと思い、再度関越を走った。

デイパック内に貴重品はないとはいえ、高価なものは入っていた。全部同等のものを買い直せば15万円くらいになる。
・EOS Kiss Digital N(買ったときは高価)
・雨具(3万超)
・キャメルバック
・歴史的鋼橋の位置をすべてメモしたツーリングマップル
・眼鏡、洗面用具
・loweのフリース(買値は安かった)
・靴下
・頭用タオル
・明日用の食料(パン2つ、ウイダー風ゼリードリンク4つ)
・新品のカリマーのデイパック。

もし、単純に落として転がっているだけなら無事。もし、クルマに踏まれたりはじかれたりしたらアウト。ダメもとで、他のクルマに気をつけながら、追い越し車線に目を凝らした。すると、12.5kmポスト付近の、追い越し車線よりさらに外側(ガードレール付近)に、パックリ口を開けたデイパックと、カメラ、スーパーの袋などがあった。詳細は省くが、目に見えるものだけ回収した。回収中に、べとべとしているな、と思った。これは、ウイダー風ゼリーが破裂したためだ。回収していると、先に菅笠を届けてくださったのと同じnexcoのパトロールカーが停止した。


さて、回収したものである。デイパック。
IMG_5889_R.JPGこれが、新品おろしたてのデイパックだ。中身はゆるく入れておいたので、時速100kmで走行中に落としたとはいえ、ここまでボロボロになることはない。また、引きずられた訳でもなさそうだ。やはり、後続車に踏まれたか、弾かれたかして破裂したんだろう。

一部、縫合部が破れている。ファスナーはすべてもげていて、上気室も下気室も開放されていて、さらには上下の仕切りはファスナーこそ大丈夫だったが、背面側の縫合部は破けていて、1室になってしまっていた。中も外もウイダー風でべたべただった。無事だったのは正面のポケットだったが、その中にはなにも収めていなかった。


とはいえ、本当に、他車が事故に遭わなくてよかった。









問題のカメラ。グロ画像かもしれない。
IMG_5895_R.JPGこの状態で転がっていた。これもべとべと。水滴のように見えるのが、ウイダー風ゼリーの滴である。

近くに、不思議と無傷かつべとべとになっていない電池が転がっていた。

IMG_5909_R.JPG上面。


IMG_5902_R.JPG背面。CFカードの蓋はあけて撮った。


IMG_5898_R.JPG右側面、CFカード収納部分がゆがんでいる。蓋を開けるとCFカード(8Gを入れていた)は無傷のようだったが、このように歪んで入っている。
IMG_5901_R.JPG
そのため、押し出しボタンを押してもまったく反応しない。やむなく、背面を解体して取り出した。


そしてレンズ。付近にはレンズの破片が転がっていた。右側はカメラ側のマウント。
IMG_5904_R.JPG


前玉こそ残っているものの、中の8群分のレンズは行方不明。そして、前玉はべとべと。

ということは、デイパック内でウイダー風破裂→中身が外へぶちまけられる

という順序だったのだろう。


幸い、カッパは無事のようだった。入れている袋は破けたが、カッパが大丈夫でちょっと嬉しい……。
IMG_5913_R.JPG


そのほか、キャメルバックとツーリングマップルは回収した。前者は洗えば使えるが、咥える部分のパーツが紛失していた。後者は、拾ったはいいが、べとべとなので買い換えなければならない。


そんなことで2時間近くこれに費やされたこともあり、明日はなにもできない日になった。これらは菅笠を入れていたビニール袋に入れて持ち帰ったが、蟻がおそらく数十匹くっついていた。

あいにく、眼鏡等の入ったポーチは見つからなかった。見つける気力もなかった。


落としてしまった荷物は十分なパッキングをしたつもりであったが、「もしゴムがはずれてもいいように」という積み方をしようと思う。カメラバッグを積むときはそうしている。

昨日の「乗りつぶしナイト」ですごくいい気分でいたのに、いろいろ残念な気分になった。これは、明らかに「他車を事故に巻き込まなかっただろうか」という不安に起因する。とにかく、事故にならなくてよかった。


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