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蒲原鉄道 ED1 形式図(車両竣功図表)

蒲原鉄道 ED1 形式図(車両竣功図表)

鉄道

蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)の続き。資料性があるものとしてアップする。とくに記事はない。

ED1.jpg記載事項を転記する。



形式ED1 車両竣功図表
車種 鋼製電気機関車
記号番号 ED1

最大寸法 長サ…9180mm
 : 巾…2445mm
 : 高サ…3904mm
自重…25.00屯(トン)
連結器高サ…880mm
連結器ノ種類…シャロン上作用自動連結器
台車ノ種類…日車釣合梁式
車軸 軸頚…108×203
 : 車輪座…152×156

制動装置ノ種類…A.M.A.空気制動機 手用制動機
制御装置ノ種類…直接制御器 T.D.K Q2LT型(注:東洋電機)
電動機 種類…直流直捲電動機 T.D.K 31SC(注:直流直巻)
 : 出力…75HP(55.96KW)
 : 電圧…600V
 : 個数…4箇
歯数比…14:70=1:5
全負荷ニ於ケル引張力…3380kg
 : 速度…24KM
電動機(制動機用) 種類…直流直捲電動機DH-25
 : 出力…5.65HP(4.22KW)
 : 電圧…600V
 : 個数…1箇


製造所名 日本車両製造株式会社
製造年月 昭和5年5月
代価 21,501円43
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和5年4月9日監第1338号設計認可(注:第=略字)
記事

製造所名 蒲原鉄道株式会社(改造)
製造年月 昭和37年9月
代価 79,550円00
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和37年8月31日○陸鉄監第4047号設計変更(注:○=判読不能だが「新」か?、第=略字)
記事 F動作弁ヲA動作弁ニ変更





















 
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蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)

蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)

鉄道

20110102_000.jpg年末の掃除で書棚を整理していたら、1985年(昭和60年)1月2日に買った、蒲原鉄道のセットが出てきた。ダイヤ、形式図、レール文鎮、シートモケットのセットで、たしか3000円くらいだったと思う。



中学1年のその日、思い立って友人のH君とN君と、県庁前→新潟交通→燕→東三条→加茂→蒲原鉄道→五泉→新潟、というルートで回った。それまで、新潟交通はしょっちゅう見ていたにも関わらず、載ったことがあったのは東青山→県庁前の1回のっみ。蒲原鉄道も折に触れ目にしていたものの、乗ったことはなかった。

当時、少しずつ鉄道趣味から遠ざかりつつあったものの、出かけていった。コンパクトカメラを持って行ったのは、いまにして思えば貴重だった。

同行したH君とは何度も一緒に18きっぷの旅などをしていた。2年ほど前に20年近くぶりに再開できた。N君と旅したのはこのとき一度きり。彼は数年前に脳腫瘍で亡くなった。



さて、ダイヤの話に戻ろう。ここにアップする。
20110102_002.jpg
(クリックすると拡大画像となります)

このダイヤはJRの貨物大改革に対応するもの…だと思う。同時に蒲原鉄道の貨物列車は廃止されたはずだ(うろ覚え)。

注目したいのは右側、閉塞の欄。季節ごとに閉塞方式が切り替えられ、また、閉塞区間も変更される。そして、タブレットの形。国鉄~JRでは4種類(△、□、○、楕円)だったが、ここには八角形が描かれている。どんなタブレットだったのだろうか。

20110102_999.JPGダイヤと一緒にこんなものも同封されていた。実際に仕様された通券だ。前掲のダイヤで、2列車と4列車をご覧いただきたい。2列車、4列車が村松→七谷へと続行したあと、七谷→村松に進む9列車がある。通票を4列車に携帯し、それを9列車で持ち帰ってくるのだ。

また、レール文鎮だが、何kgレールかは不明。高さは約60mmなのだが、底面が約56mmしかない。レールにはまったく疎いので、どなたかご教示いただければ幸いです。


 

謹賀新年 2012年

謹賀新年 2012年

独言・日記

20120101_001.JPG
謹賀新年
2012年

磯部祥行

(朝起きてテントの入口を開けたら、そこに大地とバイク。猿払にて。始まりの朝)



















 

上越線 第三利根川橋梁(群馬県)

上越線 第三利根川橋梁(群馬県)

プラットトラス

上越線 第一利根川橋梁(群馬県)
上越線 第二利根川橋梁(群馬県)の続き。



20121231_001.JPG左手が水上方、右手が高崎方。手前のプラットトラスが下り線、奥の鋼鈑桁+PC桁が上り線。

下り線の開通は1924年(大正13年)3月31日。上り線は1963年(昭和38年)12月20日。その間、約40年の差がある。その時間の感覚は、上り線開通から2011年12月末が48年間であることを思いたい。その40年の間に、大きなプラットトラスでなければならなかったスパン47mは、鋼鈑桁でいけるようになった。

橋脚も両者の時代の差が見て取れる。下り線は石積、上り線はコンクリート。このまま左を向く。
20121231_002.JPG右端の切れているのが第4連、以下左に第5連、6、 7、8連。第9連は見えない。

第7連と第8連の間の第7橋脚は白いが、石積を塗ったもの。その左、少しだけ見えている第8連と第9連の間の第8橋脚はコンクリート製だ。

もう少し前に進み、桁の下に行く。
20121231_005.JPG見えているのは第5・6・7・8橋脚。第6と第7の間に道路が通っている。

20121231_003.JPGこの位置から上り線のスパン47mの鋼鈑桁とPC桁を見上げる。

位置を変えて高崎方を見る。

20121231_000.JPG道路の上から。けっこうな高さに単線桁が2本かかっているのは、かなり迫力がある。特に、列車が通るときの轟音は、地元の方はたまらないかもしれない(慣れているかもしれない)が、何度でも見てみたい。

川岸に戻り、上り線のPC桁を。
20121231_004.JPGこんなプロフィール。


.


淡々とここまで。

『ダムと鉄道』(武田元秀著/交通新聞社新書)

『ダムと鉄道』(武田元秀著/交通新聞社新書)

鉄道の本

20111229_000.JPG(堤体に見立て…るのは無理か)

例えて言えば、純文学ではなく娯楽作品である。

内容は、数多ある路線別紀行文から、ダム建設と関連がある路線だけを集めたようなもの。、鉄道好きに「ダムって面白いよ!」とすすめる内容ではないし、それなりに鉄道史に詳しい人であれば、ここに書いてあることはほとんど知っているだろう。その程度の内容だ。何を目的にこの本が作られたのか、まったくはっきりしない。だから、それを「娯楽作品」と表現した。娯楽としての鉄道紀行を読みたい人には楽しい本かもしれない。


私個人は娯楽作品ではなくて純文学を求めているので、その観点で感想を書く。


最大の不満は、「ダムと鉄道」と銘打っていながら、その関係性を俯瞰した記述が一切ないことである。「ダム建設に関わる鉄道にはこうした傾向がある」とか「電力史とダム史と鉄道史と政治史はこう関わりがある」とか「河川管理と水利権」とか、そういうことはまったくない。電力史や水利権の記述がないままに、個別に、黒部峡谷鉄道がどうした、大井川鉄道がどうした、ということばかり書いている。その内容は、wikipediaの各路線の項目を見れば十分、という程度である。

電力史をご存じない方は、戦前の五大電力会社、戦時下の日本発送電、戦後の9電力会社についてwikipediaの項目を読むと、かなり補えると思う。日本発送電の項目だけでも流し読みして欲しい。


以下、指摘したい誤り及び意見。

●P73~75 立山カルデラの土砂量

「立山カルデラ内には、いまも2億立方メートルほどの崩落土砂が残る。放っておけば富山平野全体が、高さ2メートルの土砂に埋め尽くされるほどの量だという」とある。この数値は公的なサイトを引用したものだと思うが、この数値は実は異常である。かつて、この数値について考察したことがある。こちらをご覧くただきたい。

立山カルデラの土砂の量の不思議

●P134 アプト式

1968年(昭和43年)まで信越線で用いられていたとあるが、もちろん1963年(昭和38年)の誤記。交通新聞社の本なのに…。

●P151第4章のリードに異議あり

第4章は奥只見ダム・田子倉ダムである。その章扉に「電源開発の『発電所専用鉄道』から、国鉄に移管された政治路線。」(強調磯部)というリードがある。「政治路線」とはなんだろう? 鉄道建設計画には経済的事情と政治的事情があるのだが、政治的事情のある路線がそういう書かれ方をされるならば、東海道本線よりも先に信越本線が建設されたのも、東北本線が日本鉄道により建設されたのも、日本鉄道の設立そのものも、政治的事情となろう。私はこういうレッテル貼りが大嫌いである。

●P221~225場ダムに関する記述への大きな違和感

文筆家の竹内正浩氏が「交通新聞新書『ダムと鉄道』を読了。著者は骨の髄まで新聞社の文体が染みついている人。新聞記事ならツボを押さえたいい記事なのだろう、たぶん。ところが どの章も似た構成で、しだいに文章のあざとさが鼻に付く。致命的なのは鉄道ファンにとっての情報量が少なすぎること。着眼点がいいだけに惜しい。」(文字色調整磯部))とツイートしていたが、この章はまさにそうだと感じた。

これ以外の章は、単なる鉄道紀行文なのに、なぜかここだけ八ッ場ダム建設批判になっているのだ。ダムに沈む予定のJR吾妻線の新線、第二吾妻川橋梁(新)に関する記述は、無知ゆえとはいえ、許せない記述になっている。

「両岸に4本ずつ建つ主塔の高さは41.8メートル。10階建て以上のビルに匹敵するコンクリートの塊の、周囲を圧倒するほどの存在感は、単線のローカル線用の橋の姿とは思えない。」(強調磯部)

一方、ダムに沈む旧橋に関する記述。

「『下路鋼ワーレントラス』(鋼材を斜めに、三角形が連続する形に組んだ橋げた)』という細い鉄骨の組み合わせによるシンプルな構造だ。この程度が、単線のローカル線には分相応というものだろう。」(強調磯部)

第二吾妻川橋梁(新)は、このような形式で、橋長431mに対して橋脚(主塔)はわずか2本。中央スパン167m、しかも曲線桁(そうしたことも著者は書いている)。鹿島のサイトには明確に「『PRC斜版橋』という構造形式が採用されたのは,鉄道橋には乗客の安全性と快適性の確保が求められること,吾妻川をまたぐ大スパンを実現することの二つの理由による」と書かれている。一方、旧橋は、スパンが46.8mしかない単純トラス橋である。橋長は68.41m。こうした、規模がまったくことなるものを比較して何がしたいのだろうか。「豪華な橋を作りやがって」という印象をベースに書かれた、本筋に関係ない蛇足である。私はここに、竹内氏の言う「文章のあざとさ」と、新聞記者らしい「無理筋な主張をさも当然のように書く」という書き方を見る。

もし新線が、スパン46.8mで済んだら、現代なら、間違いなくトラス橋より安上がりなプレートガーダーが架かるだろう。著者にそういう視点は、ない。あらゆる土木事業は原則的にコスト最優先で作られているのだが、著者はそれを見ないフリをしている。そもそも、「単線のローカル線には分相応」とはどういう意味だろうか。これは「新聞記者らしい感想」だな、と思う。そういうレッテルを貼りたくなる。

また、橋の構造をとってつけたように解説しているが(ここだけではなく、他の箇所にも散見される)、そんな蛇足よりも、ダムの構造やスキージャンプ式を図で解説したほうがずっといいだろう。冒頭に書いたとおり、俯瞰した記述がないので、読者には、ダムや減勢工の構造はおよそどんな種類があり、それぞれがどんなものに適しているのか、というようなことは必要だ。


●P251 三弦橋は夕張だけではない

「国内にはこの『三弦橋』しかない」とあるが、もちろん誤記。道路橋はいくつもあるし、そもそも水管橋なら全国に数え切れないほどある。「鉄道の三弦橋は」という条件が抜けているのだ。なな爺さんが起こるのではないか。



以上。

交通新聞社新書は、キャッチが「軽~く読んで、長~く本棚へ」だから、多くを望んではいけないのかもしれない。しかし、『鉄道公安官と呼ばれた男たち』(濱田研吾)という本もある。また、『「動く大地」の鉄道トンネル』(峯﨑淳)は、「トンネルとは何か」という、俯瞰した記述がきちんとあった。結局は著者によるのだろう。別の著者による良書を期待したい。

『追憶の鉄路』(工藤裕行著/北海道新聞社)

『追憶の鉄路』(工藤裕行著/北海道新聞社)

鉄道の本

20111220_000.JPGオールカラー、416ページ、2625円。サイズは菊判に近い。

はっきり言って、安い。地方版元の刊行物は、往々にして安い。その理由はいくつかあるのだが、憶測で書くのもなんなので控える。

この写真集は、「買い」だ。刊行する意義がある本である。そして、あらゆる点で、私の編集コンセプトと大きく異なっているので、いろいろと考えるきっかけになった。



ここには、昭和60年前後の鉄道ファンの関心とその姿が色濃く掲載されている。

同じようなカットが続く。私の考える編集作業では、当然どれか1点に絞るべきところを、まったく絞っていない。なにしろ400ページ以上に1200カットだ。ホームで撮った列車の写真、写っているのは同じ形式、とくれば、自然と同じようなカットになる。それでも、その日その場所で記録されたものが発表されることには大変な意義があると考える。いや、これこそが編集方針なのだろう。私が作る場合とはコンセプトが異なるというだけのことだ。

この本は、写真集というにはあまりに製版と色が悪い。しかし、そこに掲載されている写真は、印刷とか色とかを吹き飛ばす、非常に貴重な記録である。いや、 欲を言えば、それらも完璧なものがあったらそのほうがいいのだが、この印刷や色は著者が満足しているのだろうから「好み」の問題と言うことにしておく。

いままで実際の商業印刷で試した結果から言うと、コンデジのデジタルズームを使用した画像やひと世代前の携帯電話のカメラで撮影したフルサイズの画像を使うとこんな品質になる。あるいは、2000年頃にネガプリントを家庭用のフラットベッドスキャナでスキャンし、自分でCMYKに変換して印刷原稿にして入稿すると、こんな色になった。2000年代前半の製版技術では、35mm判ポジをA4見開きにしてまったく問題ないくらいにはなっていたので、いまなぜこんな、という思いは大きい。著者の原版はもっときちんとしていて、製版・印刷に問題があったのか。著者は他の全国媒体でも仕事をしているのだから、この印刷が、その水準には達しないことは承知の上だと思うのだが…。

掲載内容は、サブタイトルの通り、北海道の廃止されたローカル線のスナップ集である。「車両をかっこよく撮った写真」ではない。たくさんの駅の、駅舎、ホーム、駅で働く人、鉄道で働く人の姿が収められている。たまに、鉄道ファンの姿も収められている。

雪景色も多い。私の郷里・新潟のかつての風景にも重なる。木造の建造物と気動車、雪景色。また、草いきれがにおってくるような夏景色。それらも、あくまでスナップだ。

本書に掲載されたようなものが、紙媒体として刊行されたことを嬉しく思う。掲載されている内容も、いつまでも、何度でも眺めていたくなるものだ。この本は、買いだ。

















 

”道”を拓いた偉人伝(永冨謙著/イカロス出版)

”道”を拓いた偉人伝(永冨謙著/イカロス出版)

道路史・道路の本

20111218_005.JPG『日本の廃道』『旧道倶楽部』の永冨謙さんが、すばらしい本を出された。こういう本を待っていた。まずは、この本を刊行されたイカロス出版および担当編集のOさんにお礼を申し上げたい。

この本で採り上げているのは次の5人だ。

・土倉庄三郎(紀伊半島・熊野周辺)
・天爵大神・水谷忠厚(愛知・岐阜・福井周辺)
・禅海和尚(青の洞門)
・増田淳(橋梁設計者)
・村田鶴(隧道設計者)

それぞれ重要な人物なのだが、土倉庄三郎と村田鶴が、とくに永冨さんの琴線に触れるふたりなのではないかと勝手に考えている。私も、永冨さんに感化されて関心を寄せていた一人だ。



2008年11月、永冨さんと平沼義之さんの共著として『廃道本』を刊行した。読売新聞が著者インタビューを掲載してくれるというので、担当記者とともに永冨さんを訪ねた。11月20日のことだ。

どこでインタビューしようか。どういうインタビューにしてもらおうか。思いついたのは、村田鶴の話だ。『廃道本』でも村田鶴のページを設けている。利用者と工事関係者の『道に込められた思い』のうち、とくに後者の話に、村田鶴がうってつけだと思ったからだ。当時、村田鶴に関して、まだまだ未知の部分があったから、これをきっかけに何かが動いてくれるかもしれない、という期待もあった。また、「直接の設計者は無記名である」ということも、道路にとってはとても大切なことなのだという思いもあった。

そこで、大阪住まいの永冨さんに米原まで出張っていただき、永冨さんが「発見」した佐和山隧道をバックにお話を聞き、撮影をした。

20111218_002.JPG.
ほかにも永冨さんにご案内いただいていくつか隧道を回った。

20111218_001.JPG谷坂隧道。詳細は永冨さんのサイトにお任せする。11月だというのに雪が積もっていた。しかし、日も差していた。

20111218_000.JPG谷坂隧道開鑿記念之碑。

このときは知るよしもなかったが、のちに永冨さんが谷坂隧道竣功記念写真帖を見出し、そこで初めて村田鶴の写真と対面したという、記憶すべき隧道だ。



これらの取材が終わり、記者は一足先に東京に戻ったので、私と永冨さんで食事をした。そのとき、永冨さんがポツリと言った。

「どくらしょうざぶろう、って知ってますか」

私は知らなかった。聞けば、信じられないレベルの大金持ちで、自分の財産だけで数十kmの道路を造ってしまった人らしい。あまりにスケールが大きくて、全貌をつかむのも一苦労らしい。そういう理解をして、その日は別れた。

後日、『日本の廃道』で『熊野街道Odyssey』と題して怒濤の連載が続く。正直なところ、あまりに複雑で、いまだにうまく把握はしていない。地図と首っ引きで見ても、憶えられない。それだけのスケールの物語が、70ページ弱に凝縮されている。ぜひ2万5000分の1地形図を用意して、首っ引きで地図を舐めながら読むことをおすすめしたい。



話を村田鶴に戻す。

かねてより、永冨さんは「村田鶴のことを知る手がかりが、もしかしたら向こうから来るかもしれない」という気持ちで活動してきた。『日本の廃道』すらも、そのためのものである、という気持ち。それが、ついに実を結んだのは2011年になってからである。

2010年8月の『廃道ナイト2』の時点では、まだまだわからない点が多すぎた。その時に上演されたフラッシュがアップされている。村田鶴がどんな人か、永冨さんがどれだけ惚れ込んでいるか、それを知る者には涙なくしては見れないフラッシュだ。実際に、会場では泣いてる人が何人もいた。私を含めて。

http://www.kyudou.org/KDC/murata2+.swf


そして、このイベントが縁を結んだ。村田鶴のご子息と連絡がついたのだ。その成果がこの本に収められている。

黙して買うべし。
 

12月16日。国道452号切り替え・三弦橋と、「きたぐに」廃止によせて

12月16日。国道452号切り替え・三弦橋と、「きたぐに」廃止によせて

三弦橋

2011年12月16日。ふたつのできごとがあった。

ひとつは、北海道の国道452号線の、大夕張ダム工事に伴うルート切り替え。これによって、三弦橋が間近で見られなくなる。そして、三弦橋はやがてダムに沈む。

もうひとつは、急行「きたぐに」の廃止だ。


まずは三弦橋から。
20111216_000.JPGあまりにも有名なので、この橋についてかくことはない。個人的な思い出だけだ。

この夏、10年ぶりの北海道キャンプツーリングにどうしても行きたかったのは、三弦橋を見ておきたかったからだ。かつて、なんどもこの横は通ったし、いまは通行止めになっている林道から俯瞰したりもした。『廃線跡の記憶2』の表紙になっている地点にも、行こうと思えば行けた(が、行っていない)。当時は、とくに強い関心もなく、「ああ、三弦橋だ」くらいにしか思っていなかったからだ。これが見納めになるか、大夕張ダム完成後もなんらかの形で見ることができるのかは、まったくわからない。

自分としては、餞のつもりでこの写真をアップする。

ルート切り替えについては、サイト道道資料北海道が詳しい。



20111216_a001.JPG「きたぐに」は、新潟に住んでいた子供の頃、よく見ていた。だが、乗ったのは一度だけ。1987年8月、高校1年のとき、妙高山縦走の帰り、直江津駅で1泊して翌朝の「きたぐに」で帰ってきたときだけだ。既にその当時、鉄道趣味から離れていた。

この春、友人たちと「きたぐに」に乗ってきた。人と鉄道旅をするのは初めてに近い。新潟駅集合、大阪駅解散。不思議な旅だった。その時の写真が上のもの。

20111216_a000.JPG

20111216_a003.JPG乗車1ヶ月前の同日、窓口に行くと「下段は全部埋まっている」。本当かよ、どうせ団体枠だろ…と思いつつ、上段2枚と中段2枚を取った。当日、私は上段へ。

20111216_a002.JPGこの狭さ。身体が硬いので、狭いところは嫌いなのだ。でも仕方がない。硬直したまま眠った。



さて、ここから約30年前に戻る。

20111216_002.jpg14系時代の「きたぐに」の写真があった。新潟駅で撮ったもの。アルバムに収録してある前後の写真からして、越後線電化(1984年4月)前後らしい。

テールマークは「急行」である。今日、@shangri_la_19_oさんに教えていただいたのだが、かつて『鉄道ファン』誌にイラストのトレインマークが掲載されていた(ペンギンモデルのシールとして存在する)。それは、どうやら実在の物ではなかったらしいのだ。しかし、小学校高学年の私は、嬉々としてそのトレインマークを描いていた。まさか、「ウソマーク」だったとは。証拠に(なるかはわからないが)ここに写っているのは「急行」の2文字である。

20111216_001.jpg1982年11月14日まで、「きたぐに」は10系寝台車と12系座席車だった。新潟駅8時55分着ということもあり、明るい日差しの元で何度も見たことがある。柏崎に親戚がいた私は9時13分発の「赤倉」に乗ることが多く、これに乗ろうとすると「きたぐに」が見られるのである。そうした写真も撮っていたはずだが、ちょっと出てこない。

上の写真は、おそらく運転最終日、1982年11月14日のものである。おそらく、というのは、前後に、11月14日21時新潟着の181系「とき23号」の写真が写っているためだ。新潟発の上りは21時23分発なので、時間的にもつじつまが合う。

「きたぐに」は、1985年3月改正で583系になった。そのニュースを聞いたとき…『鉄道ファン』で読んだ時の衝撃のほうが、今日「廃止」と聞いたときよりも、ずっと大きい。それは、歳とともに鈍感になっていくから、というよりも、「廃止」は後ろ向きの話だが、583系化は前向き、グレードアップの話だからかもしれない。

思わぬところで29年前を思い出した。もう「きたぐに」に乗ることもないだろう…と思いながら2月あたりの平日に座席車に乗ってみたいものだ。

Mobilの波形の屋根

Mobilの波形の屋根

Mobil/ESSO/ゼネラル

IMG_5695.JPG9月のある暑い日、スーパーテネレで利根川の橋梁を撮って回った。行きがけの駄賃的にC61も見た。

岩本の北、左(西)から上越線、国道17号、利根川、と並走する場所。片品川との合流地点のすぐ上流には、国道17号から直角に曲がって利根川を渡っていく戸鹿野橋がある。そのすぐ北に、このMobilはある。

波のような屋根。それも、支柱が偏っている。電球はひとつだけ灯っている。これは、明るさのためではなく、クルマから「光っている何か=ガソリンスタンド」と認識してもらうためのサインだろう。

写真は、周辺の状況等の事情により、超広角で撮ったものをトリミングしている。左には事務所、右は防火壁とポールサインがある。屋根の向こうには洗車機もある。これだけの広さだが、計量機は2基。

この日は快晴だったが、あの屋根に当たる雨音を聞いてみたい。雨の日にバイクで訪ねたら…やっぱりそそくさと退散してしまうだろうな。バイクの場合、雨の、こういう給油所はつらいから。


場所はここ。
 

中越地震 地形図への傷跡(マップMEMOから)

中越地震 地形図への傷跡(マップMEMOから)

地図・航空写真・分水嶺

新潟県中越地震。書きたいことは山とあるが、今回は、12月10日に開催された『地図ナイト2』会場で買った『マップMEMO』に関することを書く。

20111210_000.JPG『マップMEMO』とは、更新されて販売できなくなった地形図の裏をメモ用紙としたもので、75枚綴り。2万5000図、5万図、20万図が適当にばらけており、いくつか重複もある。地形図も「1枚」ではなく「部分」とすることで、またおもしろい発見があることを教えてくれる、とてもメモにも使えないものである。それでいて、100えん!

パラパラめくっていたら、山古志の地図があった。

20111210_002.JPGこの地図は見覚えがある。『山さ行がねが』で繰り返しレポートされていた地域だ。下部のため池は、地震でできてしまった「天然ダム」だ。南側に導水路を掘り、芋川(この地図の範囲外、南にある。それが南に流れ、魚野川に合流する)に結んでいる。

(周辺図)
20111210_005.jpg(赤枠が上の写真および後述する地図の範囲)


この『マップメモ』には、たくさんの×印がある(黄色で強調)。間違いなく、震災で通行止めになったことを意味している。一部を拡大してみよう。
20111210_001.jpgいろいろ比較してみると、どうやらこれは過渡期のものらしい。国土地理院のサイトから、図歴を震災の日付と共に確認してみると、次のようになる。

●2万5千分1図名: 小平尾 おびろう

・平成13年(2001年) 修正 平成15年(2003年)6月1日発行
 ・平成16年(2004年)10月23日 新潟県中越地震
・平成18年(2006年) 更新 平成18年(2006年)1月1日発行
・平成19年(2007年) 更新 平成22年(2010年)2月1日発行(現行のもの)

これから考えるに、『マップMEMO』に収録されたものは、平成18年更新のものに違いない。震災以前はこの天然ダムもないし、周辺の道路もまったく異なるから、平成13年修正ではありえない。

カシミール3Dの解説本に収録されている地図と「山旅倶楽部」の地図で見てみた。

●山旅倶楽部(改訂)
20111210_004.jpg平成23年(2011年)4月にリリースされた物である。おそらく、当時入手できる最新の数値地図を使用している。

冒頭の、×印が多々ある地図より、さらに最新の情報に更新されている。本図が収録されている数値地図25000「高田」は平成19年(2007年)10月1日に刊行されているので、紙の地形図の現行版に等しいと思われる。『山さ行がねが』で活用されたのも、この版であろう。

●『カシミール3D GPSで山登り』(平成19年<2007年>4月刊)収録の地図
20111210_003.jpgこれは震災前のものだ。数値地図が改訂される前のものなので、旧版となっている。カシミール3D解説本は、刊行時に「入手できる最新の地図」を使用しているのだが、数値地図25000高田の前回版は平成17年(2005年)9月1日刊行であり、そこに収録されているのは平成13年版であった。


あいにく、地形図の図式に明るくない。しかし、冒頭の『マップMEMO』にある×印は、通行不能箇所を図示したものだろうことは予想がつく。中越地震の傷跡を記録したものが、4年間、売られていたとは。そして、その版のものは、数値地図として売られていないとは。その版が、今後、売られることはまずないだろう。永遠に、その版は「旧版地形図」の中に閉じ込められてしまった。残念だ。

『マップMEMO』からの偶然の出会いで知った、中越地震復興の記録であった。


(写真に撮ったものは『マップMEMO』、それ以外はカシミール3Dと山旅倶楽部を使用した)

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