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死ぬる

ゲシュタルト崩壊と言葉・文字

ORJ編集部録"より。

>これは・・・死ぬる!

「死ぬる」って西日本の言葉かと思っていた。私の初見は『はだしのゲン』だし。と思って辞書引いたら、「死ぬる」はこうだった。

已然:死な(ず)
連用:死に(たり)
終始:死ぬ
連体:死ぬる(とき)
仮定:死ぬれ(ども)
命令:死ね

ということは、「死ぬる」は連体形であり、文末には来ない。「私は死ぬる」という表現はおかしい。でも、現在でも違和感はないし、使ってる人もいると思う。現在において使われるシチュエーションを考えるに、少々大げさに「これ以上やったら死んでしまう~」と冗談めかして言うときに「死ぬる~」と叫ぶような気がする。それならば、単に語感がファニィだからとか、そういう理由で少しだけ形を変えて現代まで生き続けてきた文語とも思える。現在における使われ方を考えると、きっとそうだ。

しかし、『はだしのゲン』の中ではそんな雰囲気ではないし、普通に「死ぬ」という意味合いで「死ぬる」と言っている。そう思って「る」を調べても強調的な意味合いはない。「生きる」(カ行上一段活用)の真似をして「死ぬる」(しかし文語のナ行変格活用)なのか。


ふと思い立って、wikipediaで「広島弁」を見てみたら、こう書いてある。

しぬる【死ぬる】……死ぬ。「往ぬる」とともに、古語のナ変動詞の活用が現在に残ったもの。

「活用が現在に残ったもの」って、活用が残ったのなら終止形は「往ぬ」「死ぬ」なんですが。。。当然の如く、この誤りの拡大再生産が見られて少し悲しい。


結論:不明

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『東京鉄道遺産をめぐる』(小野田滋)掲載メモ

アーカイブ/資料/自分用メモ

『鉄道ファン』(交友社)に不定期で連載されている、小野田滋氏の『東京鉄道遺産をめぐる』。どの号で何が採り上げられたかを簡単にまとめた。人物記事と参考文献欄が特に素晴らしく、ネット上の情報ではここまで詳細なものはないものも多い。参考文献には「私家版」の資料などもあり、閲覧するべくもないが、そうした資料に基づいて正確に書かれ、かつ考察が加えられているので、興味のある方はぜひ各号を読んでいただきたい。

こうして見ると、小野田氏の著作として有名な煉瓦関係の記事は少ない。

今後も随時加筆し、ここを自分用メモ的に活用する予定。
===

◎=詳細記事(文学作品との関連は割愛)

●2006/6「空に浮かんだ並木橋駅 東横線渋谷高架橋と並木橋駅跡1」
・阿部美樹志→人物記事は2006/9
・cf)小野田滋「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」、2001年、『土木史研究』vol.21

●2006/7「空に浮かんだ並木橋駅 東横線渋谷高架橋と並木橋駅跡2」

●2006/8「インターナショナルスタイルへの挑戦 交通博物館」
・伊藤滋(1989-1967)東京改良事務所建築課技師 設計→人物記事は2006/11
・土橋長俊(1901-1959)東京改良事務所建築課技手 設計
◎土橋長俊 鉄道大臣・小川平吉の甥。ル・コルビュジエ門下。

●2006/9「都心に架かる大アーチ 外濠橋と神田川橋」
◎阿部美樹志(1983-1965)RC。広井勇の後輩。阪急百貨店、西宮球場他多数
◎大河戸宗治(1877-1960)RC。八ツ山橋

●2006/11「駅のモダニズム 御茶ノ水駅」
◎伊藤滋(1989-1967)凸版印刷創始者のひとり、伊藤貴志長男。岡山駅、兵庫駅、日野駅、池袋駅(現)、八重洲地下街(現)
・前川國男(1905-1986)土橋とともにコルビュジエ門下。紀伊國屋書店新宿本店他
・cf)平井喜久松「御茶ノ水・両国間高架線工事に就て」1932、『土木学会誌』vol.18、no.8
・cf)小野田滋「鉄道建築のモダニスト・伊藤滋」1997、『RRR』vol.54、no.9
・cf)聖橋=山田守
・cf)御茶ノ水橋=小池啓吉(東京市技師。広井勇門下。東京市時代の上梓は樺島正義)

●2007/1「橋梁技術のモニュメント 晴海橋梁」
・ローゼ桁=菊池洋一(1921-2005、国鉄施設局特殊設計室)飯田線天竜川橋梁、大阪環状線安治川橋梁、北陸本線新神通川橋梁など。
・ローゼ桁=友永和夫(国鉄施設局特殊設計室)
・PC桁=佐伯俊一(国鉄施設局特殊設計室)
・ローゼ桁はポンツーン工法で架設
#本項では、ポンツーンは1933年佐賀線筑後川橋梁を嚆矢としている
・国鉄施設局特殊設計室=鉄道技術研究所の構造物設計部門を1949に切り離したもの。1952年特殊設計室、1957年施設局から独立して本社付属の構造物設計事務所に。現在は鉄道総合技術研究所に継承。

◎PC桁の黎明期
◎国鉄におけるローゼ桁(実績と諸元表)
◎日本陸軍の置きみやげ-重構桁-(夕張岳森林鉄道)

●2007/2「御所をくぐったトンネル 旧御所トンネル・新御所トンネル」
◎菅原恒覧(すがわらつねみ、1859-1940) 仙石貢門下。東北本線、甲武鉄道(新宿-八王子)、九州鉄道他。鉄道請負業協会設立。

●2007/3「御所をくぐったトンネルその2 旧御所トンネル・新御所トンネル」
◎今井潔(1898-1973)東京第二改良事務所にて設計。吉田徳次郎(RC)門下
◎中山忠三郎(1893-1950)東京第二改良事務所にて設計。大河戸が引っ張る? 鉄道保安工業社長。
・堀内保(1893-?)東京第二改良事務所技手。

●2007/5「下町のターミナルデパート 東武鉄道浅草駅」
◎久野 節(くのみさお、1882-1962)

●2007/7「アキバをまたぐ高架橋その1 神田川橋梁・松住町架道橋・旅篭町高架橋」

●2007/8「アキバをまたぐ高架橋その2 御成街道架道橋・秋葉原駅・昭和橋架道橋」
◎東京第一改良事務所と東京第二改良事務所(第一=大河戸、第二=稲垣兵太郎)
・昭和橋架道橋=稲葉権兵衛(担当技師)、小城末喜(設計)、石井武一(照査)/田中豊指導
・cf)平井敦=田中門下
・cf)「座談会:わが国のれい明期における鉄橋(続)」『JSSC日本鋼構造協会誌』no.182

●2007/9「アキバをまたぐ高架橋その3 第一佐久間町橋高架橋、浅草橋駅など」
・御茶ノ水-両国間の高架線構造物一覧/諸元

●2007/11「PC建築のさきがけ 浜松町プラットホーム上屋」
◎PC技術を発展させた国鉄建築
・1955-1964年に完成したPC構造による国鉄の建築一覧/諸元
・井原道継
・前川修二
・山内誠二

●2007/12「隅田川の眺望 東武鉄道・隅田川橋梁」
◎秋山和夫(1903-1968)田中豊門下。山崎匡輔門下? シーメンス→東武鉄道→満鉄→華北交通→社)復興建設技術協会→関東復建事務所
・本来は田中豊に設計を委嘱→下部構造を秋山が担当。
・GHQが注目したアイバー
◎鉄道で最初の隅田川橋梁(日本鉄道=常磐線の、ハンディサイド製200ftプラットトラス)

●2008/1「進化するPC建築 千駄ヶ谷駅」
・島野邦雄(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・黒宮俊雄(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・本多柾夫(東京鉄道管理局建築課、駅設計)
・極東鋼弦コンクリート振興(PC構造設計)

●2008/3「山手線をまたぐ 東急電鉄池上線・五反田付近高架橋」
◎竹内季一(1876-1936)鉄道作業局→鉄道省→帝都復興局→三協土木建築事務所他
・谷井陽之助(東京市役所橋梁課長→東京鉄骨橋梁製作所)
・東京鉄骨橋梁の創立

●2008/4「学生街の玄関口その1 水道橋駅」
・今井 潔(設計・監督)
・支那及日本貿易商会(チャイナ・エンド・ジャパン・トレェーヂング・コンパニー・リミッテッド)

●2008/5「学生街の玄関口その2 新水道橋架道橋と水道橋架道橋」
・水道橋架道橋の拡幅工事と繰重車の活躍
cf)新永間高架橋=バルツァー(ドイツ)

●2008/8「高架駅のアイデア 大久保駅」
◎立花次郎(1904-1979)田中豊門下。
cf)渡邊貫(とおる、1898-1974)
cf)桑原弥寿雄(1908-1969、青函トンネル)

●2008/9「房総半島への玄関口その1 両国駅」
◎坂本鎮雄(1895-1973)
・本間英一郎(1853-1927)日本人初のMIT卒業生。京都府→工部省→総武鉄道他

●2008/10「房総半島への玄関口その2 両国駅(電車駅)」
◎佐藤輝雄(宍戸輝雄、1906-1990)満鉄建設の佐藤應次郎の女婿。

●2008/11「房総半島への玄関口その3 両国駅構内とその周辺」
◎わが国最初の高架鉄道

●2009/1「牛の寝ているような橋 六郷川橋梁(三代目)」
◎太田圓三(1881-1926)広井勇門下。
・久保田敬一
・中村謙一
●2009/2「隅田川に映える 総武本線・隅田川橋梁」
◎田中豊(1888-1964)太田門下
・鉄道省大臣官房研究所第四科(科長・田中豊)設計
・稲葉権兵衛(担当技師)
・吉越康治(照査)
・黒田武次(田中武次)(製図)
・田部正志(製図)
・木村秀敏(製図)
◎幻の市街線隅田川橋梁
・磯部定吉(塗装)

●2009/3「運河をまたいだアーチ 豊洲橋梁」
◎清水治長(1905-1997)設計。友永門下。藤井と共に戦時中は中国へ。第二武庫川橋梁も。もしかしたら分格ワーレン好き?
・清水(設計計算)
・大野正二郎(設計計算、製図)
・日本で2番目・戦後初のランガー桁橋
・ポンツーン工法
◎国鉄におけるランガー橋一覧/諸元

●2009/5「ドイツ生まれのトラス橋 小石川橋通り架道橋(緩行線)」
◎ハーコート
・唯一のドイツ製上路トラス橋

●2009/6「鉄筋コンクリート橋梁の新境地 花見川橋梁」
◎江島淳(あつし、1927-1987)東京工事事務所次長。設計。→参議院議員
・村上生而(東京工事事務所次長)が補足、引き継ぎ
・五味 信(東京工事事務所次長)考案

●2009/11「横浜港の橋めぐり 港一号橋梁、港二号橋梁、新港橋梁」
・横浜港改修工事(第一期1889~、第二期1899~)
・ヘンリー・スペンサー・パーマ-(henry Spencer Palmer、1838-1893)
・石黒五十二(1855-1922)三池築港顧問。
・若槻礼次郎、古市公威、平井晴二郎他多数各方面の名前が出てくる

●2010/7「煉瓦から鉄筋コンクリートへ 東京-万世橋間市街高架線その1」
・新永高架橋から万世橋方向への延長について
・新永高架橋との決定的な違い(総煉瓦→鉄筋コンクリート+化粧煉瓦)
・常盤橋架道橋
・大手町橋高架橋
・銭瓶町橋高架橋
・龍閑河岸川高架橋
・龍閑橋架道橋
・外濠橋
・第一本銀町橋高架橋
・本銀橋架道橋
◎稲垣兵太郎(1869-1943)北越鉄道→台湾総督府臨時台湾鉄道敷設部→鉄道院北海道建設事務所→中部鉄道管理局(ここで東京-万世橋間市街高架線を指揮)→略→三信鉄道。cf)長谷川謹助、渡辺嘉一

六甲山の最新(?)キングポストトラス

六甲山の最新(?)キングポストトラス

橋梁一般

rokko_003_s2.jpg神戸観光壁紙素材集より)

六甲山に、キングポストトラスが!

といっても、画像検索してみると別にスパンが長いわけでもない、角材を渡すだけでも十分な強度がある気がするが、まあ、気分なのかもしれない。

米原駅構内のピントラス?

米原駅構内のピントラス?

プラットトラス


大きな地図で見る

現在は、上記の通り、プレートガーダー橋になっている、米原駅北側の、駅東西を結ぶ跨線橋。これが、かつてはトラス橋だったのだが、その出自がわからないかという話。

資料整理で『鉄道ファン』2007年12月号をめくっていたら、「米原構内の東端駐機場で休むC62~」という写真が目に入った。背後には曲弦プラットトラスが写っている。斜材はごく細く、格点もガセットではないのでピントラスと思う。これの諸元を調べたが、ちょっとわからない。不確かだが、どこかのトラス桁を「米原駅構内に転用」といった記述を見かけたことがあるようなないような。

昭和50年度の交通写真はこうだ。
20100411ckk-75-9_c13_4.jpg
国土画像観覧システムより CKK-75-9をトリミング。)

見た記憶があるのに、どこにあるかを発掘するのが難しい。たぶん200フィートではないかと思う。記憶の引き出しに、このまましまっておこう。


【2016年5月16日追記】
出典は「明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1」だった。それによれば、出自は紀和鉄道紀ノ川橋梁、現JR和歌山線の岩出~船戸間に架けられている桁の、先代である。そこには250ftのペンシルバニアトラス2連+200ftのプラットトラス1連+プレートガーダー4連だったが、1930年に架け替えており、その際、250ftの1連は北陸鉄道能美線手取川橋梁に転用(もう1連は不明)、200ftが拡幅の上、ここに架けられ、1980年頃まで使用されていた。



鋼製ねじりまんぽ? 明治通り×目白通り 千登世橋

鋼製ねじりまんぽ? 明治通り×目白通り 千登世橋

鋼製上路アーチ


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今日、明治通りを歩いていて、目白通りとの立体交差である千登世橋を通ったとき、ねじれていることに気がついた。煉瓦積みなら間違いなくねじりまんぽである。ねじりまんぽは煉瓦積みでなきゃだめだと誰が言った。鋼材に顔があってもをねじっていてもいいじゃないか。

nagajis氏にとっての「ねじりまんぽの日」は2月14日だが、私にとってはこれに気づいた今日、4月10日を「ねじりまんぽの日」としよう。私の定 義に根本的な誤りがある場合は取り消します(:-p


ねじりまんぽは隧道に対する名称だが、そもそもねじりまんぽは「支間1m以上(国鉄基準)」なので橋梁である。逆説的だが、本当の隧道の場合は、坑口上部を欠き取るなりして坑道と坑口とを垂直にすることが容易であるため、ねじりまんぽ(隧道)にする必要がないのだ。だから、ねじりまんぽは橋梁にしか現れない。その上路に水道・鉄道・道路といった、どうしても斜めにそこを横断しなければならない場合にのみ使われる。

ということは、ねじりまんぽはヴォールト(アーチ構造の連続)の内側(通路)を守るためのものではなく、上路を確保するためのもの、ということができる。上路アーチの構造物を考えるとき、アーチはアーチの内側を守るものなのか、それともアーチの上を支えるものなのか、いや別に、内側を守りきれずに上を支えているなんてことはありえないのでアーチの役割は「両方」なのだが、主たる目的をどちらにとるかで、見方は変わってくる。支間長(隧道の場合は幅員)の内側を守るものが隧道ならば、外側を守るのが橋だと私は定義したい。


08da0fdd.jpg84776395.jpgみごとにねじれている。写真は携帯レベルなのでレンズの歪曲も相当あるとは思うが、桁がねじれながら向こうからこちらに渡されている。アンカーは橋台に対して垂直ではなく、もちろん斜めになっている。

確か、関東大震災後の帝都復興の一環で両通りが○○され(記憶曖昧)ここに千登世橋がかけられたということをどこかで読んだ記憶があるのだが、それならば設計は田中豊門下か。

そんなことを思いながら、帰宅後、歴史的鋼橋集覧を見たらちゃんと乗っていた。製作は桜田機械(現・サクラダ)、開通は1932年(昭和7年)である。しかし、ここでは図面は真横と断面しかなく、真俯瞰がない。検索すると、サクラダのサイト内にあった。

図面

そして、設計者は来島良亮だった。検索すれば、千登世橋の「上」、つまり目白通り側に記念碑があり、その下にレリーフがはめ込まれているらしい。この橋の上は、自転車通勤で随分通ったが、気がつかなかった。グーグルのストリートビューでもどこにあるかわからない。そしてまた、検索結果にドメインthe-orj.orgがひっかかる。素晴らしい。

検索していたら、こんなものがでてきた。東京都、というか公文書館はここまで公開しているのね。ひととおり閲覧して、考察してみたい気もするが、その前に鉄道組織の考察が先決だ。待ってろ、中川正左。

来島良亮は、秋田県の雄物川の改修も行っている。
(2010.4.11一部修正



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モルガン家 by ロン・チャーナウ

独言・日記

ロン・チャーナウ著の『モルガン家』(日経)上と下の1/3くらいをようやく読み終わった。モルガン家3代を知ることができればそれでいい。以前、2~3章分だけ読んだことがあったが、今回、あらためて登場人物の人となりを確認しながら読んだため、2ヶ月近くかかった。通勤時の行きの30分しか読む時間がなかったという事情もある。帰宅時は眠りこけているのだ。

この本に手を出したきっかけは、1901年のノーザン・パシフィック鉄道の株価暴騰→1901年恐慌(wikipedia記事参照)、の流れをもっと広い視野から把握するためだったが、もともとモルガンは「鉄道王」でもありながら、同世代の「泥棒貴族(ラバー・バロン)」たちとは一線を画する存在だったということで興味を持った。日本で言えば、かなり違うが、政治家でないという点で渋沢栄一・五島慶太・小林一三といったあたりに興味を持ったと思ってもらって大筋は間違いではない。モルガン周辺のジェームス・ジェローム・ヒルや、エドワード・ヘンリー・ハリマンらについてもいろいろ読み漁った。

しかし、本書を読み直しても、以前ノーザン・パシフィック鉄道について読んだ章以外では、あまりアメリカの鉄道史理解のための記述はなかった。バン・スウェリンゲン兄弟(本書中ではヴァンスワリジャンと表記)の持つ鉄道網と株についてのことくらいか。といっても、スウェリンゲン兄弟の手中にあった鉄道網についての体系的な解説はない。スウェリンゲンは、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道やニッケル・プレート鉄道など、アメリカ東部の大鉄道をいくつも保有していたのにも関わらず、その解説がないというのは、一般向け図書としてはどうなのかと疑問に思う。これらの鉄道がアメリカにおいて、あるいは世界の鉄道史においてどんな役割を果たしたのかということは、一般の日本の鉄道ファンですらほとんど知らないはずだ。日本の鉄道ファンは日本、それも国鉄>JRが主流も主流なので、雑誌等で体系的に解説されているものを見たことがない。ましてや一般人においてをや、である。1920年代までのアメリカの株式市場において、鉄道株がどういう存在であったか、その解説がないので、スウェリンゲン兄弟はただの奇人として描かれているのは非常に残念だ。


本書は、外国人名の表記法が独特である。いわく(左が本書、右が私の認識)、
・シーアドア・ローズベルト……セオドア・ルーズベルト(大統領)
・マクダヌルド……マクドナルド(英首相)
をはじめとして、原音主義なのだろう、モロウがマロウ、トーマスがトマスになっていたりして、それらの人物の来歴を調べながら読むのに苦労した。

それにしても、本書に登場する人物の名前を見ると、アメリカ人といっても来歴がさまざまなので、名前の表記法はつくづく難しいと思わされる。昭和天皇が日露戦争時の借款に対して謝意を表明したことのある「ヤコブ・シフ」は「ジェーコブ」「ジェイコブ」とも表記されるし、ロスチャイルドだってロートシルトと表記されることもある。ラフォレットかラフォーレか、ラモントかラモンか、ファーディナンドかフェルディナンドか、、、

いましばらくこの時代の本を読み続ける予定だ。




鉄製橋脚 万世橋架道橋

鉄製橋脚 万世橋架道橋

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚

中央本線の万世橋架道橋である。今後長い時間をかけて、鋼製橋脚をめぐっていきたいと思う。ただ「見てきただけ」であり、写真を提示するだけで、考察はほとんどないと思う。



場所は、かつて交通博物館があった場所の神田寄りである。御茶ノ水-神田間の短絡線上にあり(という表現は「文字通り」ではないな)、中央通り(国道15号)をひとまたぎしている。神田川と、区画整理されていないような歪な区画に挟まれ、苦渋の選択のようにカーブしながら道路を跨いでいる。

IMG_2113_R.JPG中央通りから見るとえらく長い架道橋に見えるが、交通博物館だった地点から見るとあまりに雑然としていて、適当にあったものを桁に利用して架けてしまった、みたいに見える(んなわけない)。この雑然感は、交通博物館跡地と、シェル石油の広大な敷地+低い建築物が路地裏感を醸し出しているからかもしれない。

IMG_2115_R.JPG御茶ノ水寄りの橋台。写真撮ってるときには気づかなかったけれど、「石丸電気」の「気」の下に、舳先のような形の装飾がある。これ、なんだろう?


IMG_2116_R.JPGそのまま前進し、北西から南東を見る(地図で言えば左上から右下を見る)。見事に微妙に曲がっている。こちら側はふたつの桁が離れているが、向こう側はくっついているのに注意。写真は、左が上り線(東京行き)、右が下り線(新宿方面行き)。

そして、中央通りの中央分離帯に立てられた橋脚はトラ塗りになっている。両側に柵があるので、ここにぶつかるのは至難の業なのに。

IMG_2119_R.JPG上り線の裏側。

この桁は1928年横河橋梁製で、設計は黒田武定による。黒田は田中豊と同年代の人で、昭和14年には『鉄道工学』という書物を著している(共著)。通常、橋桁は直線状とするが、ここでは橋台の位置からして曲線桁を架けなければならなかった。そこで、黒田が設計したのが、日本初(であるらしい)の曲線鈑桁であった。

黒田はおもしろい人で、国鉄の「操重車」、クレーンを持つ業務用車両として、橋桁架設用の車両を提案し、実現している。その発展形というべきソ300は、碓氷峠の麓の横川鉄道文化むらに保存されているし、ソ1形が稼働している写真は土木学会の中にたくさんあったと記憶する。

この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928円(昭和3年)。関東大震災のためだろうか、文献には心当たりがあるのでこれは後日。

IMG_2121_R.JPG御茶ノ水側橋台。

IMG_2123_R.JPG

そのまま北東に歩き、振り返って撮影。万世橋架道橋の北東面。

IMG_2133_R.JPG道路を渡り、神田方から御茶ノ水方を見る。

この橋脚が、この時代にして鋳鉄なのである。圧縮力がかかるだけであり、鋼鉄にするまでもないとでもいうのか。鉄製橋脚はもっと古いものかと思っていたら、意外に新しかった。

IMG_2138_R.JPG神田側の橋台。上り線は歩直線状に突っ込んでいるが、下り線は橋台がスキューしている。

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支承部上り線。

IMG_2140_R.JPG支承部下り線。

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クーパー荷重の解決

橋梁一般

クーパー荷重の不思議のつづき。

もはやクーパー荷重の不思議を調べているのか、単なる鉄道ネタを追いかけているのかわからなくなりつつあるが、引き続きクーパー荷重の基準の検証である。

前回のエントリではwikipedia英語版を漁って車軸配置別の製造両数をざっと調べたが、手元の本に全部書いてあったので修正の意味をこめて再掲する。両数の出典は『蒸気機関車のすべて』(久保田博、グランプリ出版)である。この本と著者は国鉄目線で国鉄の黒歴史を賛美しているため、本来の設計のまずさを乗務員の決死の行動や取り扱いで解決することを美談として紹介したりしてどうにも腑に落ちない文脈も多いが、こうした数字は間違いなかろう。と思ったら間違ってるじゃねーか!

同書に「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数10万5650両」と題して下記のような表(製造初年は筆者が加筆)がある。しかし、これは生産量数ではなく、「アメリカ国内での使用両数(アメリカの鉄道会社が購入した両数)」だと推測する。前回のエントリに書いたとおり、、1Dは3万3000両製造され、うち1万2000両が輸出されたという記述がwikipediaにある。それを差し引くと久保田氏の数字に近づく。日本人が聞きかじった(と邪推したくなる)記述よりも、アメリカのヲタのフィルタを通して書かれたものを信じたい。久保田博氏が、数字の前提を取り違えて発表してしまったのだということにする。アメリカで製造されたものは、カナダとメキシコにも大量に輸出されるのだ。カナダにはディーゼル機関車メーカーはあるが、メキシコにはない。

「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数使用両数10万5650両」
(年号は製造初年。wikipedia英語版を斜め読みして拾ってきたものなので誤ってたらスミマセン)

2B 2万5000両(アメリカン)1831~
1D 2万1700両(コンソリデーション)1864~
2C 1万7000両(テンホイラー)1847~
1C 1万1000両(モーガル)1860~
1D1 9500両(ミカド)1884~(当初「カルメッツ」、1897より「ミカド」)
2C1 6800両(パシフィック)1900年代~
2D1 2400両(マウンテン)1911~
1E1 2200両(サンタフェ)1903~
2B1 1900両(アトランティック)1900年頃~?
1C+C1 1300両(マレー)1919~
2D2 1000両(ナイアガラ)1927~
1C1 1000両(プレーリー)1885~(テンダー機)
1D2 750両(バークシャー)1925~
1E 700両(デカポッド)1867~
1D+D1 700両(マレー)1909~
2C2 500両(ハドソン)1927~
1E2 450両(テキサス)1919~

上記の数字には説明したいことが山ほどあるが、それをやると枝のほうが幹より太くなってしまうので必要最小限のことを非常に大雑把に書くだけで我慢する。

・輸送量の増大に応じて、後年のものは大型化し、それ以前のものを置き換えている(例:2B→1D)
・20世紀に入ると客車が木造から鋼製になり、重量が増大したためより大きな出力が要求された
・アメリカでは1930年代にはすでにディーゼル機関車が製造され始めていた
・大型の車両ほど製造両数が少ないのは、短期間のうちにディーゼル機関車に置き換えられてしまったため

そう考えると、クーパー荷重が制定された1894年頃に幅をきかせていた車軸配置は、やはり1Dの機関車だということになる。


20世紀に入ると蒸機機関車の製造両数が減っているが、これは、小型の機関車で軽い列車を牽引するよりも、出力を増大した大型の機関車で重い長い列車を牽引したほうが、人件費が安くなるからであろう。アメリカの蒸機機関車が極端に大型化し、走行装置を2組組み合わせた関節式蒸機機関車(いわゆるビッグボーイやチャレンジャーなど)が開発されたのも、人件費節約のためである。2両の機関車を運用するより1両でまかなえたほうがいい。そして、機関車が超大型化すれば火室内への投炭は人力では不可能であり、ストーカーを使用することになり、これも省力化になる。

遠からず、ディーゼル機関車が爆発的に普及し、1両あたりの出力こそ大型蒸機機関車には及ばないものの、一人で4重連の機関車を運転できるようになれば、やはり人件費がものを言ってくる。その上、20世紀前半には、消耗戦や経営の異常さから、早くもアメリカの鉄道は斜陽化している。これらさまざまな要因が絡み合い、大型蒸機機関車の製造は19世紀の小型のそれよりもずいぶん少なくなる。


そんなこんなで、クーパー荷重からKS荷重は1D+4軸の炭水車、という基準となってしまった。後年、実際の電気機関車の車軸配置に即したEA荷重や、ボギー旅客車に即したM荷重が制定され、ようやく現実を反映したものとなり、ここに私は一安心して筆を擱くというか、PCの場合はどう表現すればいいのだ一体。

クーパー荷重の不思議

クーパー荷重の不思議

橋梁一般

KS荷重だのクーパー荷重だの書くくせに、その根本を問うたことがなかった。それらの活荷重は、車軸配置1D+4軸テンダの蒸気機関車が重連で使用される ことを前提としているが、そもそもなぜその車軸配置を基準にしているのか。日本では、「1D+4軸テンダ」は、絶対にメジャーな車軸配置ではないのに。

テンダーの4軸を無視して書けば、車軸配置1Dのアメリカ式呼称は「コンソリデーション」といい、日本では9600形機関車が代表的である。代表的というのは適当に言っているわけではな く、大正時代に、国鉄の機関車として初めて、同一形式として大量生産がなされた車種のひとつであり、784両もが造られ、しかも日本における最後の蒸気機関車になった(=当時の使用状況において、使い勝手が よかった)というものだからである。他の車軸配置1Dの機関車は、テンダーの車軸配置を問わず、10形式計154両である。

ここでテンダーの4軸を無視した報いが来る。その9600形のテンダーは3軸である(初期にはあえて2軸の小型テンダーを連結した車両もあった)。4軸テンダーを備えるのは、 9200形(47両、ボールドウィン製)、9300形(12両、ボールドウィン製)、9400形(12両、アルコ製)の計71両のみである。この少数派の 車軸配置が、1946年に最大となる6000両弱もあった蒸気機関車使用線区における橋梁の活荷重の基準なのである。これは、あきらかにおかしい。もっとも、おかしいと いっても、これら3形式71両のそれぞれの軸距は、これまたクーパー荷重と合致しない。9600形はほぼ一致するが、炭水車の輪軸が1本少ない。

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(この図における、エンジンとテンダー間の距離は、元となる形式図から読み取れなかったため、クーパー荷重以外は誤っている可能性があります)


さて、ではアメリカでクーパー荷重が考案された1894年という時代を考えよう。wikipedia英語版によれば、車軸配置1D(AAR=アメリカ鉄道 協会の呼称では2-8-0。以下、アメリカでのことは2-8-0と書く)の蒸気機関車はなんと3万3000両も製造され、うち1万2000両が輸出された という。前駆たる2-6-0は1860年代に登場し、この2-8-0はペンシルベニア鉄道(PRR。「アメリカの鉄道の標準」たることを自称していた大鉄 道)にまず登場した。一説に依れば、1866年にリーハイ・アンド・マハノイ鉄道(のちのリーハイ・バレー鉄道、PRRの北東に位置する)が登場させたと いう主張もある(Swengel, F.M., The American Steam Locomotive: Vol.1 , the Evolution of the Steam Locomotive, Midwest Rail Publishing, Davenport, 1967.グーグル・ブックスでも検索できず)。ボールドウィンが提案したこの車軸配置は、当初は導入する鉄道が少なかったが、1875年にPRRが採用 して一気に普及した。従来、4-4-0が引いていた貨物列車の倍の重量の列車が牽引できたためである。

4-4-0はそれまでのアメリカでもっとも成功した車軸配置であり、1872年の時点でボールドウィンが製造する蒸気機関車の60%(年間製造両数は不明 ではあるが、数千のオーダーだろう)であり、かつアメリカ全土で使用されている蒸気機関車の85%を占めていた。一大勢力ではなく圧倒的勢力を誇った車軸 配置であった。この4-4-0にとって変わったのが、2-8-0なのである。

アメリカの機関車は日本と比較することが無意味なほどにバカでかいが、アメリカにおける、車軸配置別の製造両数を簡単に記す。すべてwikipedia英 語版による。

・4-4-0(2B) 相当な両数があったはず
・4-6-2(2C1) 7000両(北米)
・2-8-0(1D) 3万3000両(うち輸出1万2000両)
・2-8-2(1D1) 1万4000両(うち輸出4500両)
・2-8-4(1D2) 700両
・4-8-2(2D1) 2200両
・4-8-4(2D2) 2500両

冒頭の疑問に戻ろう。なぜ1Dを基準にしているのか、という問いに対する答えは、制定当時のアメリカで相当多数の貨物用蒸気機関車がこの車軸配置だったか ら、ということになろう。アメリカの鉄道は基本的に貨物主体であり、それは今でも変わらない。


日本でクーパー荷重が公式に制定されたのは1909年。1Dの機関車はあるにはあったが、まだお試し期間である。過熱式はまだまだ製造できず、飽和式だった頃で、ちょっとこの時期の蒸気機関車の運用事情には疎いのだが、車軸配置C1の2120形(268両、ダブス他)が同一形式としては最多両数だった時代である。

1928年に制定されたKS荷重は、単にクーパー荷重をメトリックに修正しただけだが、その時点で貨物用機関車の主力は1Dの9600形から1D1の D50形に以降しているため、なぜ1Dのまま活荷重を再設定したのか、意味を計りかねる。とはいえ、こういうものは経験則でなされることも多いだろうし (イギリス式橋梁の活荷重の考え方がそうだ)、あるいはこの活荷重を解析する術もなかったのかもしれない。国鉄技術陣の彷徨は大正時代に始まっているが、 こうしたメトリックへの変換時に「前例を踏襲する」ことも含めて、国鉄解体まで尾を引いた技術陣の非常に硬直した、後ろ向きの雰囲気というものを嗅ぎ取ってしまうのは、あながち穿った見方でもあるまいと思っている。

クーパー荷重の解決に続く。

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上板橋の古本屋

独言・日記

先日、ふらりと立ち寄った。古本屋独特の、トイレに行きたくなるにおいの中を見るともなしに見ていると、堀淳一氏の『地図の楽しみ』(河出書房新社)。のちに文庫になっているものだが、これはハードカバーの第4刷である。奥付を見ると、1972年1月初版で5月で4刷。当時は本が売れた時代だとはいえ、かなりのハイペースだ。

そんな時期の本だから、蒸気機関車が普通に出てくるし、戸井線(未成線)の記事も生々しい。なにしろ、建設中止から27年しか経っていないのだ。現代で考えれば、1983年に建設中止となったコンクリートの構造物がそのまま残っているわけで、そろそろ廃化が進むころかもしれない。


同時に、山海堂の『新・野宿ライダー』(寺崎勉著)があった。2007年に4刷だか7刷りだかまで重版していた。山海堂が倒産してしまったのはその少しあとである。


翌日、水郡線の山方宿駅に併設された交流館みたいなところに立ち寄ったら、そこはノベルスに特化した図書館の様相を呈していたが、1冊、1985年に刊行された『オフロード・ライダー』(晶文社)があった。このような本である。まだ『ガルル』が産声をあげる前であるが、それらがあろうがなかろうが、彼らはそこにいる。

風間深志氏、賀曽利隆氏、西田始氏らの文と、佐藤秀明氏らの写真と文で綴る本。ここにその断片がある。もう更新されなくなって久しい「ツーリングマップル」のページだ。見ているといろいろつらくなる。この断片は、もうそっと仕舞ったほうがいいんじゃないだろうか。

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