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パテントシャフト&アクスルトゥリー/小貝橋(真岡鉄道)

パテントシャフト&アクスルトゥリー/小貝橋(真岡鉄道)

橋梁(パテントシャフト&アクスルトゥリー)

真岡鉄道には古い転用ポニートラスがふたつある。そのうちのひとつが小貝川橋梁である。


20100124-1.jpg見てのとおり英国系の100フィートピントラスで、弦材と端柱でガッシリと台形の枠組を作り上げているスタイルが力強い。

画像は南側から撮影、左側は下館方面、右側が茂木方面となる。左側の鈑桁は12.6mである。

20100124-2.jpgさてこの小貝川橋梁、『歴史的鋼橋集覧』(以下「集覧」)惑わされてはいけない。というのは、そこでは「1894年製/1913年開通」となっているが、ここに陥穽がある。

『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状 第2報 英国系トラスその2』(西野保行/小西純一/淵上龍雄)
(以下「論文」)によれば、1894年製の100フィート単線ポニートラスは総武鉄道(のちの総武本線)が小岩-市川間の下り線として3連架けたものがあるのみである。その橋は「1926年撤去」とある。1894年製で1913年までに撤去された桁はない。

しかし、『歴史的鋼橋集覧』をよく見ると「設計:1947年」とある。つまり、どこにも断言されたものはないが、1913年に開通した際には別の桁が架けられており、それが1947年以降に現在の桁に架け替えられたと考えていいであろう。そうすれば、上記総武鉄道の桁が転用されたと考えるのも自然である。

以上、あくまで推測である。真岡鉄道(当時は国鉄真岡軽便線)開業時の小貝川橋梁の写真でもあれば、この推測の状況証拠となる。



さて、ディティールを見よう。
20100124-3.jpg横桁が魚腹型としている。荷重がかかる部分が太くなっている。本橋は、主構間、つまり幅が通常より広くなっているのも特徴である。

20100124-5.jpg桁は川に対して垂直ではなく斜めに入っているが、桁はそのまま使われている。後述する五行川橋梁のように、スキューさせてはいない。

20100124-4.jpg上弦材と端柱を結ぶ部分。ピンこそあるが、両者が一体化している。

20100124-6.jpg上弦材と斜材のピン結合部分。斜材に補強が入るのは、圧縮がかかる部材である。

20100124-7.jpg下弦材と斜材のピン結合部分。


この小貝川は、一級河川である。利根川の支流の中でも長さは2番目なのだが、ここではこれだけの幅しかない。下流へ行くに従い川幅を増し、取手市の南東部、利根町・我孫子市との境界で利根川に合流する。

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A&Pロバーツ探訪/向野跨線道路橋(愛知県)つづき

A&Pロバーツ探訪/向野跨線道路橋(愛知県)つづき

橋梁(A&Pロバーツ)

向野橋(こうやばし)が跨ぐのは、かつての国鉄名古屋機関区である。その名古屋機関区を煌々と照らす水銀灯が、かつては南側から4番目(北からなら5番目)のパネルの上に屹立していた。下記写真の黄色い丸(?)内である。

20100123ccb-82-2_c14b_8.jpg国土が増感ランシステム国土画像観覧システムをトリミング。昭和57年度、1万分の1)

私が閲覧した古いものでは、1950年撮影の写真にその姿はあった(鉄道ピクトリアルの今月号=2010年3月号に掲載されている)。その後、画像をググると2002年あたりまでは残っていたようである。

googlemaps、Yahoo!地図どちらの衛星写真も、ヤード灯は写っていない。


大きな地図で見る

『歴史的鋼橋集覧』に掲載されている写真は、なんとも中途半端である。お前は橋さえ写っていればいいのか、と問い詰めたくなるような撮り方である。その点、構技研の写真はさすがである。しかし、左記リンクは画像だけを表示したものであって、構技研の「一覧」ではサムネイルしか表示されない、これもどうしたもんかなあ、と思わないでもない。

No Image

鹿島臨海鉄道が常磐線をオーバークロスする部分

橋梁一般

ちと興味深い。




富士見付近の水系

富士見付近の水系

地図・航空写真・分水嶺

富士見付近はこのような地形である。黒線が県境、ピンクが分水嶺である。

20100120-2.jpg左端がマネキンの横顔に見えなくもないが、実はJTB時刻表の塩尻付近は(ry、もとい、長野・山梨県境が信濃川・天竜川水系と、富士川水系との分かれ目かと思いきや、そうではない。正確に描くとほぼこうなる。

中央本線のサミットは、富士見駅の西端だったと思う。そこを境に東は富士川、西は諏訪湖を経て天竜川となる。とはいえ、富士見駅付近に明確な稜線があるわけではなく、地形図を見ても曖昧な記号となっている。そこを県境とするならば、八ヶ岳の南側はすべて山梨県だったはずだが、そうもいかない。八ヶ岳は両線を挟んで東西で県が異なる。その東側、飯森山と赤岳とを結ぶのが分水嶺で、県境は飯森山の南である。なおかつ、飯森山と赤岳の間の沢は、信濃川水系の支流と富士川水系の支流とが水管で結合されており、水を融通しているのがわかる。

水系で(雑な)色分けをした地図をご覧にいれよう。

20100120-1.jpg水利権というのは調べれば調べるほど途方に暮れるが、この地図を見てもその一端が垣間見れるだろう。

日本海に注ぐ信濃川水系と、太平洋に注ぐ天竜川水系の境は、この北、八ヶ岳の北側で西に折れ、諏訪湖をぐるりと取り囲むようにして木曽駒に向かう。

こうしてみると、立場川は富士川水系としては西の端をかすめる川であった。

(現地地図、展望図はDAN杉本氏作成のカシミール3Dを使用した)


アメリカン・ブリッジ探訪/中央本線立場川橋梁

アメリカン・ブリッジ探訪/中央本線立場川橋梁

橋梁(アメリカン・ブリッジ)



18きっぷで出かけた際、ちょっと迷ったがやっぱり立ち寄った。有名な、旧立場川橋梁だ。JRから富士見町に払い下げられた後、結局保存する費用など捻出できず、そのまま放置されていまに至る……というのを何かで読んだ。出典を思い出せない話は、眉唾かもしれない。

下り列車の右側の車窓に、このように見える。
20090118-1.jpg立場川橋梁の向こうに見えるのは中央道、その向こうは八ヶ岳エコーラインの立沢大橋である。上記地図を「写真」にすると、後者はまだ建設中の姿である。


さて、今回は小さなデジイチと安ヅームだけを持って行った。腰痛がひどかったので、荷物を富士見の駅のコインロッカーに収め、カメラだけを持って現地へ行った。そのルートは次のようなものであった。途中、道があるだろう・・・と思って突っ込んだところで道がなくてあきらめたりして余計な動きをしているが、それでも富士見の駅から現地まで15分くらいだったろうか。
20100118-map.jpg


























そして、やっと視界に入ったのがこれだ。
20090118-2.jpgもちろん手前の大きな橋が新線。下り基準で微妙に左カーブしている。架線柱は通常50m間隔、ということはスパンはそれ以上なので60~70m程度か。その向こうに見える立場川橋梁は200フィート、62mである。

新線の「下」に見えているのは八ヶ岳である。左の白いのは阿弥陀岳、その右の黒い三角が西岳である。
20100118yatsu.png

















近づく。
20090118-3.jpg思っていたよりも錆びている。周辺の状況もよくない=じっくり見づらい。

手前側の橋脚にすら近づけず、手前に木が繁茂して視界を妨げる。

カメラが35mm換算28~70mm相当なので、あまり寄れない。それでもピンをのぞき込む。
20090118-6.jpg



















20090118-5.jpg





















この場所で、ふと「上」を見ると、若い男性が携帯で写真を撮っていた。こんなところまできて携帯???とも思ったが、話してみたら相当に若かったので、それもそうなのだろう。ここまで、旧隧道を経由してきたという。私なぞは、ハナから立ち入り禁止だろうと思い込んでいるので道路を歩いてきたわけだが、そのルートのほうが近くて早いのは確実だ。

ひとしきり話をした。ピントラスに興味をもってくれれば幸い。ごく一般的な廃線趣味というか「行ってきたよ」に止まらず、突っ込んでいってほしい。


20090118-7.jpg裏側=北側から見る。こちら側は雪が残り、しかも凍結している。

このあと、次の電車に間に合うべく急ぎ足で戻ったが、ここから10分ほどで駅に着いた。

18きっぷ旅行のアクセントにこうした「歩き」を加える楽しみを知った。それが、前述の万古川橋梁につながってゆく。

(現地地図、展望図はDAN杉本氏作成のカシミール3Dを使用した)

No Image

間違い探し/JR東海は反応早い

独言・日記

近々に修正されることでありましょう。

間違い探し/JR東海も反省しろ

間違い探し/JR東海も反省しろ

独言・日記

20090117-1.jpg20090117-2.jpg

第二和賀川橋梁/分格ワーレントラス

第二和賀川橋梁/分格ワーレントラス

分格ワーレントラス


2009年12月8日の「私家版・夜感鉄道」に掲載した北上線・第二和賀川橋梁の写真が出てきた。前出の写真を撮るために、昼間にロケハンしたときに撮っておいたものだ。今まで気づかなかったが、分格ワーレンではないか。

KITAKAMI3.jpg支間何mのトラスかは未詳。写真左の気動車は車長20mで、ざっとその6.5倍ほどある。ということは支間150m程度にも見える。

トラスを構成するのは直角三角形だろうか。そのため、端柱が45度くらいになっていて、非常にゆったりした配置に見える。

橋梁工学の本によっては、この角度は60度が適切、としてあるものもあったと記憶する。いずれにしろ、解説する人によって、斜材の角度も格間の寸法もそれなりに異なるものなので、専門外の人間はどれかを鵜呑みにしないようがよい。

kitakami4.jpg

夏の昼間の分。都合3シーズン、たぶんこの現場は20回は通っているが、分格ワーレンなんてものを気にしだしたのは最近なので、興味というのはつくづく不思議なものだと思う。

A&Pロバーツ探訪/揖斐川橋梁(岐阜県)続編

A&Pロバーツ探訪/揖斐川橋梁(岐阜県)続編

橋梁(A&Pロバーツ)

写真を漁ってたら、樽見鉄道に乗ったときに橋梁を通過している写真が見つかった。途中の連にも銘板があるのがわかる。
20100115.jpg

上り列車から撮っている。

渡ると、このように東大垣駅が見える。模型のようだ。

20100115-2.jpg


A&Pロバーツ探訪/向野跨線道路橋(愛知県)

A&Pロバーツ探訪/向野跨線道路橋(愛知県)

橋梁(A&Pロバーツ)


微妙な時刻だった。夏ならば、確実に明るい時刻ではあった。とりあえず、行ってみた。

名古屋駅から歩けば歩ける距離だ。電車に乗ってもそれなりに歩かなくてはならない。いつもなら、こういうときは歩く。しかし、荷物が重かった。近鉄名古屋線の電車に一区間 だけ乗ることにした。ところが、名古屋駅のJR改札を出ると、近鉄の乗り場は明後日の方向だった。急ぐ。切符を買っているうちに電車が行ってしまった。次 のは10分後。ああ、暗くなる・・・。

米野駅に着く。ホームから、向野橋は見えていた。しかし、もう感度を1600にあげても手ぶれしてしまうような露出しかない。そこから数百メートル歩く。途中、線路の柵にもたせてレリーズ。

20090114-1.jpg

















向野橋(こうやばし)は、280フィートのピン結合のプラットトラスである。アメリカン・ブリッジの前身のひとつ、。A&Pロバーツ製であり、京都鉄道が現・山陰本線の旧線の嵯峨野(現・嵯峨嵐山)~保津峡間で保津川(下流で桂川となる)を渡る部分に架けられていた。いま、同ルートは新線に切り替えられたが、旧線は嵯峨野観光鉄道としてトロッコ列車が走っている。下記の地図を写真とすると、まさにその保津川橋梁をトロッコ列車が走っている。

この向野橋は280フィート、当時最大スパンであった。他に同型の桁はなく、唯一無二の存在である。推定1899年製(小西・西野・淵上論文による)。これを超える300フィート桁は、そもそもクーパーの設計が完了したのが1903年10月、製造されたのは1907年以降で、架けられたのは中央西線の第1木曽川橋梁、第5木曽川橋梁、奥羽本線板谷峠の松川橋梁(いろんなところで話題に出るが、いずれ)の3桁。以後も創られた数は極めて少ない。

以前に触れたものとして、1911~1912年製の磐越西線釜ノ脇橋梁、徳沢橋梁、深戸橋梁、1921~1922年製の国産桁、北上川橋梁と羽越本線の三面川橋梁がある。

20090114-2.jpg東側から。三脚を持っていなかったので、欄干の上にカメラを載せてレリーズ。赤かぶりしているのは、撮影地点に信号機があり、その赤いライトが影響するため。

20090114-3.jpgどうだ。こちらはなんとか手持ち。

20090114-9.jpg美しすぐる。

20090114-6.jpgピン♪

20090114-8.jpgピン♪♪

20090114-4.jpgピン♪♪♪

20090114-7.jpgピン結合・・・・・・

20090114-5.jpgプラットトラスたる部分。叩けばバィィィィーーーーン・・・と振動する。こんな帯板が、橋の重さを支えている。

20090114-11.jpg20090114-10.jpg昭和5年6月竣工。ん? 歴史的鋼橋集覧や小西・西野・淵上論文では「1930年5月開通」とある。


保津川時代の橋梁は、1929年まで使われたらしい。『国鉄トラス橋総覧』では1934年までとあるらしいが、それでは本橋梁の竣工年よりもあとになってしまう。


連続している鈑桁のスティッフナーはJ字形である。


向野橋について、全方向を内側から眺められるサイトがある。すばらしい。
fromNAGOYA


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