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根川貝殻坂橋/主塔が木製の斜張橋

根川貝殻坂橋/主塔が木製の斜張橋

斜張橋

20121106_000.JPG多摩川を渡る日野橋の北詰にある立川公園、の北側にある橋。多摩川の支流である根川を渡る。ご覧のように、主塔が木製である点で珍しい。「タマサイ」の一部であり、ひっきりなしに自転車が通っていく。写真は右岸から。

20121106_001.JPGところが、人がすれ違える程度の幅しかないので、けっこうきわどい。床版が板なので、「ボコボコボコッ」と音を立てて自転車が渡っていく。

20121106_002.JPG上流側から。真横から見ると、勾配があることと、主塔が桁方向のセンターでないこと、ケーブルが向かって左に2本ずつ・右に1本であること、左のケーブルは桁にかかるが右はアンカーに至っていること、などがわかる。

20121106_003.JPG桁は、鋼製フレームに床版の仕上げとして板を張ってある。ケーブルがかかる部分の横桁は太い。

20121106_004.JPGアンカー川には銘板がある。

根川貝殻坂橋
1990年3月
立川市
立体横断施設技術基準(1979)

上部工:
形式 2径間連続斜張橋 
橋長 21.0m 幅員3.0m
橋格 歩道橋
材料 SS41、レッドウッド材

下部工:
基礎 直接基礎 特殊重力式橋台
構造 逆T式橋脚 重力式橋台

施工:三井造船株式会社


20121106_005.JPG左岸から。木が邪魔、ということは自転車や歩行者にも邪魔なんだろうな。

20121106_006.JPG1歩前へ。

幅員3mは、欄干含めてなのだろうな。


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丸善石油 発掘されたペイント

丸善石油 発掘されたペイント

大協石油・丸善石油・キグナス・ガソリンスタンド全般

20121105_001.JPG丸善石油のツバメマーク。かなりきれいに保存されている。しかし、これがあるのはれっきとした現役のENEOSの給油所。丸善は、今のコスモ石油につながるブランドである。

20121105_000.JPGまったく別のものを画像検索していたら、偶然、2012年に撮影された写真で日野市内にこのツバメマークがあることを知った。「日野市のはずれ」というヒントが書かれていたのでGoogleのストリートビューで探してみると、上の写真にある価格看板を備えたENEOSがあるにはあったが、ここには建物があった。このように。

20121105_005.JPGどうやら産廃会社のブロック塀があったため、防火壁の裏側は塗装されることがないまま20年以上がたち、産廃会社の施設が取り壊されてそれが露わになったようだ。ストリートビューの撮影は2010年だから、露わになってまだ2年以内だ。

ckt-74-16_c30_20.jpg国土画像情報より転載・トリミング)
1974年の空中写真を見る。中央道に架かる左端の橋の南西にあるのが給油所。その左は黒い土、すなわち畑で産廃会社はまだない。

話はずれるが、こうして見ると、中央道と、この日野駅前から石川工業団地に行く道が、畑の中に突如割り込んで建設されたのがわかる。畑の中にあった小道がそれぞれ分断されている。

さらに、空中写真の中央下、ロータリーの存在。これは帰宅後にきづいたので行っていない。ログを残しておきたい場所だ。

20121105_004.JPG話を戻して、防火壁。このようになっている。小口というか妻面というか断面というか、そこまでは通常のENEOSカラーになっている。

20121105_002.JPG真正面。秋晴れのもと、ゆったりした給油所周辺はとてものんびりした空気が流れていた。



FS106形台車 本物のゲルリッツ式

FS106形台車 本物のゲルリッツ式

鉄道車両の台車

20121104_005.JPG東武博物館に保存されている5700系の台車を見て驚いた。私はもともと私鉄車両のことはほとんど知らない。台車は私鉄におもしろいものがたくさんあるのだけれど。

20121104_000.jpgパッと見ると、枕バネを板バネとするウイングバネ台車に見える。しかし、よく見ると、軸箱の上に、レール方向に板バネがある。

中央上に見える横方向のシリンダーはブレーキシリンダー、下の棒はボルスタアンカーだ。

20121104_002.JPGいちばんの特徴である、軸箱の指示方式。板バネの両端は左右のコイルバネの上につながっている。上下振動を減衰できる板バネを介したウイングバネ台車、という解釈が正しい気がする。これがゲルリッツ式台車と通称されているものだ。

20121104_003.JPG下から。枕梁に結合されているボルスタアンカー。枕梁の下に枕バネ(板バネ)がある。このボルスタアンカーで、車輪が創り出す(と考えるとわかりやすい)牽引力やブレーキ力を、台車の側梁から枕梁に伝え、車体に伝え、連結器に伝える。

20121104_006.JPG前後面。住友のマークと「H2082」という陽刻がある。


東武博物館は、中こそ子どもがそこそこいるが、中庭は無人に近かった。近寄って鑑賞しても、だれの迷惑にならないくらい閑散としていた。趣味的にはとても素晴らしい環境だけれど、人が入るに越したことはないわけで、いや、これは余計なお世話でした。


飯田橋通り架道橋と、飯田町への線路の痕跡

飯田橋通り架道橋と、飯田町への線路の痕跡

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚

20121033_000.JPG飯田橋通り架道橋。この下の道路は1000回以上はクルマやバイクで通っているはずだ。客待ちしているタクシーの先には複雑な五叉路の飯田橋交差点(下宮比交差点だと思っていた)。なのに車線幅がイマイチ足りないので、夜の下り方向において渋滞の頭になる部分だ。こちら(西)から、総武線(中央緩行線)、中央快速線があり、かつてはその向こうに飯田町貨物駅からの引き上げ線(?)が1本があった。そのための橋桁もかかっていたが、それは後述する。まずは現役の4線を。

20121033_002.JPG総武線下り線(中野方面行き)の桁がこれ、右に見える桁はホームを支えている。対岸を見るとわかるように、線路の桁には鉄製橋脚(鋼鉄製?)があり、ホームの桁にはない。

20121033_001.JPG鉄製橋脚は、他の場所の橋脚よりもかなり太い。装飾がなく、補強の部材もやたらと太い。補強のブレースは、そこに使われているボルトやリベットの形状からして、後年の付加だろう。装飾がないのは、鋳鉄製ではないことにつながらないだろうか?

20121032_004.JPGこうしてみると、線路の桁(両端)とホームの桁(中央)の違いがわかる。ホームの桁の方が荷重の負担は少ないのだろう。

20121033_005.JPG左がホームの桁。右隣が総武線東行き(津田沼方面行き)の桁。その隣が、中央快速線用の3主桁の複線桁。桁ごとに橋脚があり、さらにそれらをまとめて補強がなされている。

20121033_003.JPG橋脚。

20121033_007.JPG複線桁の北側を見ると、乗せかけていた。桁の向こう側にはそうしたジョイント部は見えないので、橋台と桁を結ぶこの部分は三角形かもしれない。

20121033_008.JPG隙間から覗くと、複線桁の形状がわかる。また塗装標記もある。

橋りょう名 飯田橋通り架道橋
位置 飯田橋構内4K281M80
支間 30M100
塗装年月 2003年10月
塗装回数 4回塗
塗装種別及塗料名 下塗1層目・2層目 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料
中塗3層目 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料
上塗4層目 厚膜型ポリウレタン樹脂塗料
塗料メーカ 神東塗料株式会社
施工者 建設塗装工業株式会社

20121032_003.JPG複線桁は南側に銘板が見えるが、角度が悪い上に塗料が厚く塗られており、「鉄道省」がかろうじて読める程度だ。

20121033_006.JPG反対側(東側)。手前にグレーの新しい桁が見える。かつてはこの場所に飯田町からの引き上げ線(?)(向かって右が飯田町駅、左で行き止まりだった)があった。しかし、いま架かるグレーの桁は鉄道線用ではない。明らかに細い。

20121032_001.JPG北側の橋台。かつての桁が斜めに架けられていたのがわかる。グレーの桁の銘板がある。

20121032_000.jpg東日本旅客鉄道 
2000 群集荷重
EFTG29-1
春本鐵工千葉工場

「群集荷重」を採用しているならば、歩道橋だろうか? GoogleMapの衛星画像を見ると、JR線用の歩道橋のように見える。桁の上には配管が通っている。

20121032_002.JPG南側の橋台。やはり斜めに架かっていた跡がある。

* * *

飯田町に到着する貨物列車がなくなったのは1997年3月である。それまでの間、何度か中央快速線をDE10が走るのを見たことがある。いま思えば大変贅沢な経験だった。あのときに見たDE10、まだ現役だろうか、それともとっくに鉄屑だろうか?


 

上江橋の橋脚(国道16号西大宮バイパス旧道)

上江橋の橋脚(国道16号西大宮バイパス旧道)

橋梁一般

20121029_001.JPG国道16号西大宮バイパスを、R17から川越方面に走ると、眼下にひとつだけ橋脚が見える。上江橋(かみごうばし)の名残だ。ここは、入間川が荒川に合流する地点のすぐ上流で、新上江橋はふたつの川を連続で跨いでいる。

※以下の写真はすべて2010年10月撮影。このときも丸田祥三さんと『廃道 棄てられし道』の撮影。詳細は後述。

いまの橋は「新上江橋」となり、片側2車線の快適な道路である。ネズミ取りもあるようだ。最初は上流側に架設(上の写真の「奥」、いまの東行き線)、それと旧橋がどちらも使われていた。私はたぶんどちらも走ったことがあると思うが、記憶はない。

その後、現在の西行き線(上の写真の「手前」)が架設され、西大宮バイパスが完成してからのことははっきりと憶えている。下流側にあった上江橋を解体する作業が、徐々に進行していくのを、クルマの窓から眺めていた。上江橋は、その時に走っていた新道(新上江橋)と比べ、ものすごく幅の狭い、コンクリートの欄干を持っていた(と記憶する)。いつしか桁はすべて撤去され、アプローチの築堤だけになっていた。

20121029_002.JPGいま、上江橋のモニュメントとして、ひとつだけ橋脚が残されている。なんの整備もされていないように見え、後述の水路建設の邪魔になっているようにも見えるが、きちんと保存されている。昨2011年に、説明看板が立ったようだ。(ブログ:咲いた万歩に記述あり)


20121029_004.JPG東側の築堤はいまも残る。轍があるから、なんらかの作業がなされるのだろうか。

20121029_003.JPG先端まで行くと、橋脚が見える。橋脚の左(下流側)には、新たに水路が掘られている。

20121029_000.JPG水路は、いまのGoogleMapではまだ完成していない。少し古い衛星画像のようだ。

* * *

1974年撮影の航空写真を見てみよう。

ckt-74-15_c8_8.jpg国土画像情報に掲載されている画像をトリミング)

新上江橋の西行き線が建設中で、撤去された上江橋だけが現役の時代だ。入間川(左)と荒川(右)が合流する地点だということがよくわかる。

三つの橋が共存している写真は、大宮国道工事事務所のサイトにある。→こちら

上江橋が有料だった時代の料金所の写真、さいたま市西区のサイトにある。→こちら


上江橋が撤去中の画像はこちら

上江橋の由来の碑というものがあるそうだ。この碑は未見。詳細はブログ:川越雑記帳2(川越見て歩き)


市街地に架かるモニュメント的な橋だったわけではなく、意匠を凝らした橋だったわけでもない。それでも、荒川と入間川をパスするという大きな役割をもっていたためか、それなりに人々の記憶に残っている、幸せな橋である。

* * *

丸田祥三さんの『廃道 棄てられし道』にはここで撮られた作品が収録されているが、2012年、改めて撮影された作品が朝日新聞の連載『幻風景』に掲載された。その原版を丸田さんが公開されている。下記ツイートのリンクをクリックし、拡大してご覧いただきたい。




軽岡隧道

軽岡隧道

隧道・廃隧道

20121102_000.JPG2008年夏、永冨さんの旧道倶楽部の記事を参考に、岐阜県の軽岡隧道を訪れた。そして3年後の2011年秋、再訪した。これはそのときの写真。

軽岡峠は御母衣湖の東方向にある峠で、国道158号と東海北陸道も通っている。旧道は隧道がない「新軽岡峠」、旧旧道はここに行く道である。

東側、東海北陸道をくぐるあたりから旧旧道に入る。最初のうちは、クルマも通れそうな林道である。

20121102_001.JPGなかなかの切り欠き。こうした道をしばらく行くと、やがて雑草に埋もれる。とはいえ、雑草は毎年更新されるのか、天端が道幅に揃っているので、かきわけて進むのはたやすい。道もあまり迷わない。一部、道が崩れたところでわかりづらいところがあるが、慣れた人には見えてくるはずだ。

例に漏れず、ここも「そこを右に曲がると、あるな」という予感とともに、坑門が現れる。

20121102_002.JPG天井が抜け、坑門上部の土が流出しており、まるでアーチ橋のように坑門だけがそこにある。その向こうにはヴォールトもあるが、すぐに閉塞している。

20121102_004.JPG坑門の表面は崩れ落ちたのか、もともとこの仕上げだったのか。水平ではない状態で、柱のような木材が埋め込まれている。鉄筋の代わりか。坑門裏側に回ると、同様の木材が見えた。

このように潰れている隧道だが、電子国土にはいまだにきちんと隧道として描かれている。→こちら

20121102_005.JPG日が出てきた。坑門は北東を向いているため、ここには午前中に来た方がよさそうだ。

20121102_003.JPG坑門に向かって左には石積の壇がある。ここにはかつて「辻堂」があった。これも旧道倶楽部に詳報があるのでそちらをご覧頂きたい。



2008年に来たときは、ここで携帯が鳴った。1時間ほども廃道歩きをしたところなのに…と思ったが、東海北陸道とは数百m、国道とは1km少ししか離れていないのだ。電話に出ると、会社からの、自分の担当書についての問い合わせだった。休暇をとっているときに電話してくんな!と憤慨して電話を切った。

軽岡峠は、東側には2回行ったものの、西側には行っていない。機会があるなら、次は西側へ行こう。




 

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考番外編(3)東海道本線揖斐川橋梁

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考番外編(3)東海道本線揖斐川橋梁

橋梁(パテントシャフト&アクスルトゥリー)

20121101_001.JPG東海道本線が岐阜県の揖斐川を渡るとき、上流側にこの橋が見えるはずだ。200フィートダブルワーレントラスの揖斐川橋梁。いまは大垣市の市道となっており、歩行者用の橋として使われている。クルマは、少し下流の国道21号岐大バイパスを使う。

20121101_002.JPGイギリス由来の100フィートダブルワーレントラスはそこここに残っているが、ここではまとめて5連が残っている。しかも現役である。

20121101_005.JPG銘板が残っているのもうれしい。こういうものがイタズラされないことを切に祈る。

20121101_004.JPG美しい斜材の繰り返し。鉄道だからハンドル操作の必要もないのでストレスはないだろうが、もしクルマで、この道幅に歩行者などがいたら、相当疲れるに違いない。

20121101_003.JPG橋門構。

20121101_008.JPGさて、横桁である。100フィートポニーワーレントラスは、横桁の上に縦桁を置き、その上に縦枕木、そしてレール…というのがセオリーである。しかし、この揖斐川橋梁は、横桁と縦桁が連結している。しかも横桁は直線状だ。この横桁は、造りからして当時のものに見える。縦桁は、リベットで横桁と接合されている。

これは、山形鉄道最上川橋梁と同じ形式だ。ただし、縦桁の幅が違う。あちらは線路幅より広いが、こちらは…測っていないが、ほぼ同等に見える。となると、かつてはこの上に縦枕木があったのか…? 今度、現地に行ったら採寸してこよう。


20121101_009.JPG橋脚はレンガ積みの重力式。

* * *

この橋は初代で、供用開始は1887年(明治20年)。1908年にはアメリカンブリッジ製の二代目に取って代わられる。二代目も1961年(昭和36年)には現橋に代わる。二代目はちょっと写真の記憶がないが、鉄道写真で撮られているものがきっとあるだろうから、探しておくことにする。

ccb-75-27_c14_25.jpg国土画像情報より転載・トリミング)
上の写真は、二代目がまだあったころの1980年の空中写真である。上(上流側)から初代(ここで紹介しているダブルワーレン)、二代目(撤去済、複線桁)、三代目(現役、複線桁)である。

20121101_006.JPG二代目は、橋台のみが残っている。

20121101_007.JPG現役の三代目は、どうも形が気に入らない。上弦端部が端柱と接合する部分で飛び出しているのがどうにも不格好に感じる。これがなければスッキリとした印象になるのだが…。


<関連項目>
英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考の整理ページ
アメリカン・ブリッジの痕跡/東海道本線揖斐川橋梁
A&Pロバーツ探訪/揖斐川橋梁(岐阜県)


 

国道289号 駒止峠旧旧道に残るオート三輪

国道289号 駒止峠旧旧道に残るオート三輪

廃道

20121031_003.JPG会津田島から旧伊南村・山口に抜ける国道289号の峠付近は駒止バイパスという快適な道路になっている。その旧道は駒止湿原の南を通るが、さらにひと世代前の旧旧道が、現道の北側にある。地形図で破線になっているもので、『日本の廃道』2012年8月号(続編はこれからの号で?)でレポートされているものだ。

その途中に、このオート三輪はある。『廃道をゆく』でも紹介されているので、あるいは行った方もいるかもしれない。丸田祥三さんたちと写真集『廃道 捨てられし道』の取材として日帰りでここに出かけた。(「オート三輪」は三輪の「貨物」自動車を指すものではないが、ここでは代名詞的に使用する)

20121031_000.JPG谷側に置いたままになっている。道幅は広くはないが、もしここにクルマが入って来れてもちゃんと避けて通れるくらいの幅はある。ちょっと忘れてしまったが、ジムニー乗りならなんとかここまで来れるかもしれない。

20121031_002.JPGダイハツのCMまたはCOという型のようだ。屋根は雪でつぶれてはいるが、クルマの形を保っている。この微妙な水色は、いまの自動車にはない色だ。そういえば、私が子どもの頃は、まだこういう水色のクルマが存在していた気がする。

20121031_004.jpg荷台はほぼなくなっているので全長がよくわからないが、ひしゃげたフレームを見ると意外に長い。

20121031_001.JPG興味深いのは、フレームこそ鋼製だが、荷台は木製だったこと。フレームと結合された木の梁が少しだけ残っている。



この旧道で、きのこ採りの地元の方々に会った。少し話を聞くと、もちろんこのクルマのことは知っていた。「おれたちが子どもの頃からある。そうすると、もう40年も前からあることになるな」。


このクルマについては、こちらのサイトが詳しい。

CM8
CO13

サイトの写真の撮影時点で14~15年前のクルマである。現代に置き換えれば1997年式のクルマ、といったところだろうか。そう考えると、まだまだ1980年頃には比較的目にする機会があったのかもしれない。私が見た、唯一の現役(?)は、小学4~5年製の頃、地元・新潟でバスを待っていたら、目の前を走っていったものだ。たしかに6ナンバーだったのは憶えている。

 

瀬野八 もう一つのルート案(北方線)

瀬野八 もう一つのルート案(北方線)

地図・航空写真・分水嶺

『鉄道ファン』2012年12月号に「セノハチの後押し機関車」という記事がある(執筆は機関車研究家の関崇博氏)。そこに、セノハチ、すなわち山陽本線の上り線、瀬野~八本松間のルート検討のことが載っていたので、鳥瞰図にしてみた。こんな案が存在していたことは、この記事を読むまで知らなかった。(以下、記述は上り線を基準とする。また、画像はすべてDAN杉本氏のカシミール3Dと解説本地図を使用した。)

20121103-map.jpg(クリックで拡大)

赤が現在線(南方線)、青が「北方線(案)」である。記事によれば、北方線は10パーミル、南方線(現在線)は22.5パーミル(実際には22.6パーミルのところがある)で検討されたとある。

北方線は、西広島から現在の可部線に沿って上八木まで行き、太田川を渡って今度は芸備線に沿って下深川付近から上三田付近まで行き、そこから南転して八本松を目指すというもの。とはいえ、この現在線の開業は1894年、可部線(当時は大日本軌道)の上八木までの開業は1909~1913年にかけて、芸備線(当時は芸備鉄道)の志和口までの開業は1915年なので、「~に沿って」という書き方は正しくない。上図は、可部線・芸備線の位置に山陽鉄道が敷かれていたら…として描いてあるが、便宜上、そういう書き方をする。

可部線沿いは、太田川に沿っていることもあり、ほぼ平坦だ。渡ってから勾配が始まるが、芸備線の縦断面図を見ても、ほとんどが10パーミルで収まる。一部に16.7パーミルの区間があるが、せいぜい数百mであり、前後にレベル区間があったりもするので、そこは均すことができるだろう。上三田駅の標高は約107mである。しかし、問題はその先だ。

20121103-map2.jpg『鉄道ファン』に掲載されていた図は概念図なので、現実からの推測を交えてルートを描くと、上三田駅からは、おそらくこのルートで志和堀に向かうものと思う。

この区間の断面図はこうだ。
20121103-d.JPG水平距離9kmで標高を約100m稼いでいるので、約11パーミル。なるほど。上図では、上三田からいったん標高を下げ、3kmほどで10mくらいしか標高を上げずに一気に行くようになっているが、ルートをもっと山の中腹にかけておけば、勾配も均されるだろう。

記事では、工期と工費の都合で南方線に決まったとあるが、北方線とてトンネルは1kmに満たないものだし、その差がどれくらいのものなのか、知りたい。こういう資料はどこかにきっとあるはずだ。ご教示いただければ幸いである。


 

三崎橋/都心に残る下路プレートガーダーの道路橋

三崎橋/都心に残る下路プレートガーダーの道路橋

鈑桁(プレートガーダー)

20121028_002.JPGハーコート探訪:小石川橋通架道橋(3))(写真右に見えるトラス橋)に関連して。そのすぐ横にある道路橋である。

道路橋において、下路プレートガーダー(鈑桁)というのはあまり多くない。桁幅を広くしづらいからだろうか(上路ならば、道路の下に桁を増やせばいい)。視界にうるさいトラス橋が避けられるのと同じように、欄干のように見える桁が圧迫感を持つためだろうか。この三崎橋は、おそらく桁下高さの確保の観点から、下路桁になったものと思う。桁は、親柱があること、両脇に歩道橋が別途架設されていることから、あまり目立たなくなっている。

20121028_000.JPG西側・右の親柱。「三崎橋」。化粧の具合からして、かなり最近の設置に見える。

20121028_001.JPGその足下には銘板。

三崎橋改修 1987年3月
千代田区
床版打替工 橋面舗装工
沓座拡巾工 鋼橋製作(2基)
塗装工 鋼橋架設(2基)
鉄建建設株式会社

1987年に三崎橋を改修し、両脇に歩道桁を架設した、ということをまとめた銘板だ。親柱もそのときだろうか。

20121028_003.JPG西側・左は「みさきはし」。

20121028_004.JPG右の親柱の向こう、桁の橋。このR、そしてリベットがいかめしい。

20121028_005.JPG歩道の桁はこんなだ。

20121028_006.JPG20121028_007.JPG東側。親柱の銘板は、西側と同じで右が「三崎橋」、右が「みさきはし」。本来の製造銘板はなかった。



道路橋の下路桁はないわけではないが、みつけると「おっ!」と思ってしまう。そのほとんど、というか私が見たものはすべて古い。近年作られた下路鈑桁というものはあるのだろうか?


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