「かしわざきまちあるき」と題した、柏崎の街歩きに参加してきた。主催は柏崎市、主たるガイドは市民のNさん、そこに東京スリバチ学会・皆川典久さんと、路地連新潟の野内隆裕さんが加わり、みんなでいろいろな発見をしながら柏崎の街を歩こうというものだ。スタート地点は喬柏園、かつての柏崎公会堂だ。
参加者は、市民40人近く、東京スリバチ学会と路地連新潟から十数人といった大所帯になった。 当日の様子は参加者各位に任せるとして、柏崎の地形を。(以下すべてカシミール3Dを使用) ![]() 柏崎は、駅から海に向かう駅通り、それと直行する形で旧北国街道だる本町通があり、駅通りを境に東本町(ひがしほんちょう)、西本町に分かれる。本町通は砂丘の尾根を少しはずれた部分につけられている。かつては東西には分かれていなかったとのこと。そのうち西本町周辺を歩いた。 さて、2時間ばかりの街歩きの途中で、偶然にも一級スリバチをみつけた。四方を高台に囲まれた完全な窪地だ。それをカシミール3Dを使って表示しよう。 ![]() ここには、東から西に向かって歩いた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 一級スリバチだ! 喜び勇んで皆川さんに「一級です!」とお声がけしたら、当然ながら気づいておられた。そしてそこでは「砂丘間低地」のお話をされていたが、果たして市民のみなさんにはこのスリバチ地形のすごさが伝わっただろうか…? この場所はGoogleのストリートビューもあるが、ストリートビューは超広角なため、たぶん一級感を感じられない。 * * *
柏崎は母方の実家があったのでよく行っていたのだが、その周辺数十m程度しか出歩いておらず、ここまで徒歩圏内にもかかわらず来たこともなかった。いま、大人になって地形のことも多少知るようになり、急に興味を感じている。 今回のことを母に話すと、なんと、小学校三年生まで喬柏園の近くに住んでいたそうだ。そんなことはいままで聞いたことがなかった。このまちあるきが縁で、母もいろいろと思い出したようで、覚えていることを話してくれた。それをガイドさんたちに伝えると、もちろんそれを肯定してくれた上でさらにいろいろなお話をしてくれた。とても貴重なまちあるきだった。 また機会があれば…というよりも、勝手にまた歩いて見たい。 ●関連項目 与助架道橋(信越本線/新潟県) 番神架道橋・番神トンネル 橋なのかトンネルなのか 屋根が飛んだ話 昭和41年3月20日 柏崎駅 柏崎駅前の鉄道情緒喫茶店 柏崎駅の0番線と跨線橋 PR ![]() 本書には、当時の職場の雰囲気の一部、追い詰められた側の声が綴られている。これは本当にそういう考え方の人たちがいて、そういう雰囲気だったのだろう。穏健な意見もあるが、それ以上に「闘わねば労働者ではない」というような、目的と手段が完全に逆転した意見が多い。単語も極めて政治闘争風で、中曽根はファッショであり動労は犬と言う人のいかに多いことか。 読んで思うのは、こうした考え方についていけなかった人が多いのだろうなということ。言い換えれば、こうした考え方が、逆に分割・民営化を促進したんだろうなということ。もし、国労も主張を転換し、分割・民営化に部分的にせよ認める方向に舵を切ることができていたら、いまのJRはどうなっていただろうか。 部外者には伝わりにくい当時の雰囲気を色濃く感じさせてくれる本書は貴重な一書である。 ![]() 歴史的鋼橋集覧によれば、1873年(明治6年)に心斎橋として架けられたあと、1908年(明治41年)に境川橋、1928年(昭和3年)に新千船橋、1973年(昭和48年)にすずかけ橋と転用を繰り返され、1989年(平成元年)にここに保存された。 PDF同人誌『日本の廃道』の2008年4月号には詳しい紹介があるのでそちらをぜひご覧いただきたい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
カレンダー
最新記事
(04/12)
(04/02)
(02/15)
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|