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北越急行の高架橋

北越急行の高架橋

土木一般

20100826.jpg鉄建公団!
なんというシンプルな構造!


本当は石手川橋梁について書くつもりが、眠気のため延期。

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英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(7)六郷川橋梁

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(7)六郷川橋梁

ポニーワーレントラス

IMG_5997_R.JPG愛知県の、博物館明治村に、この30フィート複線ポニーワーレントラスはある。東京・神奈川県境の六郷川(多摩川下流の別称)に6連の複線桁として架かっていた。右75度の斜橋である。1875年、イギリスのハミルトン製。

のちに列車重量の増大等とあいまって、1915年に3連が御殿場線(当時は東海道線)の第2酒匂川橋梁下り線に、3連が上り線に転用された。『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状第2報 英国系トラスその2』(西野保行・小西純一・淵上龍雄)によれば、下り線に「六郷川より1連」という注釈がついているが、おなじハミルトン製の複線桁が3連あった現地のうち、1連だけが六郷川で、残り2連の素性が不明、ということはあるまい。おそらく、3連とも転用桁だったのだといまは思っている。

第二次世界大戦中、御殿場線は単線化されたが、第2酒匂川橋梁のうち残されたのは下り線で、上り線は1944年に撤去された。行方は知らない。下り線も、1965年に現在の桁に架け替えられた。御殿場線の橋梁群については経緯を追いづらいので、過去に書いた記事を参照していただきたい。


桁の話に戻る。上の写真のように、複線桁のうち片側にレールが敷かれ、片側は歩道になっている。レールの上には尾西鉄道1号機関車が保存してある。こちら側には銘板があるが、複製品だとどこかで読んだ記憶がある。
IMG_6000_R.JPGこれが向かって右。

IMG_6003_R.JPGこれが向かって左である。


この桁の最大の特徴は、レールが敷かれているということと、そこに縦枕木が再現されていることだろう。

縦枕木とは、レールの真下にレールと並行して敷くもので、橋全体の構造として、両サイドのトラス桁の下弦に横桁を渡し、その上に長手方向に縦枕木を敷き、その上にレールを敷くことになる。

このような感じになる。

IMG_5988_R.JPG

横桁は、上の写真でわかるとおり、魚腹型だ。

IMG_6011_R.JPG



また、レールは一部に双頭レールを使用している。



IMG_6022_R.JPGIMG_6032_R.JPG移設の際なのか、御殿場線として供用されていた際なのか不明だが、相当に補修の手が入っている。リベットがボルト留めに変更されている部分が多い。リベットでないと、非常に目にうるさい。

そう思いながら見ていて、ふと気がついた。横桁の腹材は帯板1枚ではなく、継ぎ足されている!

IMG_6022-1.jpg

そして、道路側を機関車側から眺めると、なぜか1本だけ、この継ぎ足しがなされていない横桁がある!

IMG_6004-1.jpg
いままでレポートしてきた横桁のうち、原型をとどめるものでも、継ぎ足されたものはない。これは、複線桁で幅が広かったためにこのようにせざるを得なかったのだろうか。製造する部材の寸法の制限によるものなら、横桁中央部で接合してもよさそうな気もするが、この場所ならば応力が小さくなる、などといった効用があるのかもしれない。


トラスの端部、端柱の上のピン部分はこうだ。
IMG_6038_R.JPGピン周辺のリベットの打ち方の差は、今後の研究課題。おそらく、メーカーにより差異があるのだろうとは思うが、サンプルがあまりに少ない。


IMG_5978_R.JPG反対側から見る。

IMG_6067_R.JPG外側から(道路側)から見る。こうしてみると、下弦とピンを接続する部分の、ピンを締めるナットの下の板の形が、それぞれの場所で異なる。回転してしまうようなものでもあるまいに、径間中央部は左右対称で、端部に行くほど端部側が長くなっている。




こうしてみてきたが、実はトラス桁だけでなく、鈑桁も保存されている。

IMG_6043_R.JPGこの鈑桁が、はたして六郷川にかかっていたものが酒匂川に転用され、そのままここに至ったものなのか、それともどこかから紛れ込んでしまったのか、現地には解説がなかったので不明だ。


縦枕木は、敷設も、保存も手間がかかることだと思う。それでもこの形として見ることができるのは幸せだ。明治村は、平気で1日見学できる。また機会を設けて行ってみたい。


跨線橋におけるトラス構造

跨線橋におけるトラス構造

跨線橋

8月22日(日)・23日(月)と、東京から高崎・六日町・犀潟・富山・岐阜・天竜二俣・東京、というルートでぐるりと一周してきた。22日の朝、高崎駅のトイレを出たところでふと窓の外を見ると、そこには古い跨線橋があり、その骨組みはプラットトラスの構造ではないか。

6e8a9063.JPG跨線橋、とくに古レールを使ったものは当然、トラス構造であることくらい、誰もがわかっていることだろうが、そのトラスの組み方が突然、目に入ってきた。



跨線橋とて「橋」である。人が歩く部分の桁をどう支えるか、という観点で見ると、トラス桁のものとビーム桁のものがある。もしかすると最近は張殻構造なんてのもあるかもしれない(妄想)。また、横桁がどこにあるのかも意識するとおもしろい。

ここでプラットトラスになっているのはなぜなんだろう。活荷重は小さいので、構造計算しやすいとか。あるいは、レールみたいな軟らかい部材を使うから、斜材に引張力のみが働くプラットトラスになっているとか(ワーレントラスは、斜材にかかる力は引張力/圧縮力/引張力…と交互になる。レールは、5mもあれば、私が乗るだけでぐにゃりと曲がるくらい軟らかい)。そちら方面はまったくわからないので、なぜプラットトラスなのか、正確な理由は分からない。


そういう目で見ると、この高崎の跨線橋は、7パネルなのに、向かって左にズレて、中央パネル部分の斜材がクロスしている。ということは、向かって左側の向こうになおもう1パネル分、あったのかもしれな。この跨線橋は上弦材と斜材がレールで組まれ、下弦材は断面が形鋼(C型チャンネル?)に見える。なお、横桁がどこにあるか、写真からはわからなかった。



さて、高崎で突如目覚め、できる範囲でトラス桁の跨線橋の写真を撮ってみた。また、帰宅後、過去に撮った写真で跨線橋が写っているものをいくつか抜き出してみた。

P8230423nakakawabe_R.JPG高山本線中川辺駅な6パネルのプラとトラス。見事。屋根や側壁は、単なる雨よけで、構造物になっていない。

よく見ると、横桁は下部のガセットで結合されてはおらず、1パネルあたり2本の横桁が、なんらかの構造で下弦とくっついているようだ。


9aa54ccc.JPG
高山本線笹津駅。こちらは2連の構造となっていて、向かって右が4パネル、左が7パネル。左の方の中央格間の斜材はレールではなく帯板だ。たしかに、もっとも大きな力がかかるのは端部の斜材である。横桁は、下部のガセット部分に結合されているようだ。

橋脚は端柱を兼ねている、ということはこれはラーメン構造の要素もあるというのか? そういう分類をしていいかどうかは、私にはわからない。


9b172e20.JPG
この、すばらしく「まもなく消失する雰囲気」を醸し出しているのは富山駅の跨線橋。いま、富山駅は新幹線開通に向けての工事がたけなわであり、遠からずこの跨線橋も姿を消すだろう。

見事に古レールを大活用して作られた、8パネルの跨線橋。1パネルにつき2本、横桁(レール)が乗っていて、その上にコンクリートで床版が打ってある。木造の側壁は完全に雨よけに過ぎない。


IMG_7080shimodate_R.JPG水戸線下館駅。全体は写っていないが、ほぼわかろう。6パネルである。注目したいのは、斜材が対角線を通っていないように見えること。いや、正確には正方形に近い形で連続していて、垂直材が天方向に突き出してそれが屋根を支えている。これも、横桁は下部のガセット部分にはなく、下弦に1パネルあたり2本、レールを使った横桁が載っているという、100フィート英国系ポニーワーレンかのような構造をしている。

P8220294yatsuo.JPG高山本線越中八尾駅。5パネルのプラットトラス。横桁はきちんと格点間をつないでいる。


IMG_0846yengaru_R.JPGこれは、外見の写真がないが、北海道の石北本線遠軽駅の跨線橋の内部。プラットトラスだ。きちんと上横構もある。


IMG_0829honbetsu_R.JPGいまはなき、北海道のちほく高原鉄道の本別駅にあったもの。これはワーレントラスだ。下弦は帯材、それほどの荷重負担は課せられてないようだ。横桁は下部のガセットに結合されている。

IMG_0796ochiai_R.JPG根室本線の落合駅の跨線橋内部。これはワーレントラスである。上横構がない。




P8140090saigata_R.JPG信越本線犀潟駅。形鋼を利用して桁をつくり、その上にプレハブのような通路がかぶさっている。


c60c9562.JPG7f2afd5d.JPG高山本線下呂駅。高山本線の跨線橋は大きく分けて3タイプあるようだった。先に紹介したプラットトラスのもの。近年設置されたらしい、このような形鋼を利用した者。もうひとつは、屋根もない、道路の歩道橋みたいなタイプである。

また、内部をご覧いただければわかるとおり、こちらも上横構がない、といっていい。曲線を描くのは、単に屋根を支えているだけではないか。


5db612a4.JPG高山本線角川駅。こちらも形鋼で桁を作っているので、よく似ている。



以上、手持ちの写真でつらつらと考えてみた。これからは跨線橋の写真を「きちんと」撮ってみようかと思う。膨大な数が、まだまだ間に合うはずだ。


新大橋(明治村)

新大橋(明治村)

プラットトラス

IMG_5938_R.JPG明治村に行ってきた。3時間ほどいたが、猛暑とあいまってまるで全部見ることなどできず、主要なもののみを見た。いくつかあったお目当てのうちのひとつがこれ、新大橋だ。

この橋は、1912年(明治45年)に木橋から架け替えるために新設されたもので、設計は樺島正義。

樺島は、日本橋、鍛冶橋、呉服橋、犬山橋、四ツ橋などを設計した、最初期の日本の近代橋梁技術者。東大卒業後にアメリカに渡り、1902年にワデル(日本の鉄道橋梁を、イギリス流からアメリカ流に転換させた張本人。磐越西線の橋梁群を設計)の事務所に入り、1904年にアメリカン・ブリッジに移り、翌年、またワデルの元に戻った人物。帰国は1906年、帰国後は東京市に奉職した。後年、鋼橋の設計がピン結合+プラットトラスからガセット結合+ワーレントラスに移行したあとも、プラットトラスを信仰していた。

この新大橋は、わずか8mばかりの一部が保存されているだけだが、実際はこんな形であった。

376d1f19.jpg
通常は、曲弦プラットトラス3連とするところ、3径間のうち両端は中央に向かってせりあがる形をしており、3連ということを意識させない形になっていた。そこに、明治末に橋梁デザインの意識の切れ端を見ることができるのだが、明治村の展示ではそれはかなわない。

おもしろいのは、この形に決定するまでに、樺島がいろいろな形の案を挙げていることである。ブレースドリブタイドアーチ、レンズトラス、吊橋などまであるが、そのあたりの考察は『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐)をご覧いただきたい。

IMG_5936_R.JPGこれだけとはいえ、よくぞ保存してくれたものだ。もちろん、ブツ切りにされているので橋としての役割は果たすことができず、コンクリート製の土台の上に乗っている。

ピンはこう。下弦のピン部分はフタがしてある。これは後述するアイバーの見せ方に関わってくる。

IMG_5947_R.JPGIMG_5945_R.JPG


驚いたのは、下弦部分のアイバーの連結方法である。全部がそうだったのかはまったくわからないが、この部分には6枚のアイバーがピンを結んでいる。その結び方に注目してほしい。

IMG_5951_R1.jpg
ひとつのピンに6枚のアイバーをつなぐため、垂直材側から見ると2-2-2、斜材側から見ると3-3にまとまっている。こうすることで、交互に重ねざるをえないアイバーを処理している。

この下弦のアイバー、わざわざ見えるように「フタ」をとってある。のべ8ヶ所、下弦のアイバーがあるはずなのだが、他の7ヶ所のフタは閉じられている。こんなところ、本当に「こんなところ」だ、だって説明がなにもないのだから、こんなところまで展示してあるところが、明治村の素晴らしいところだと思う。




「おんな――立ち止まらない女性たち」写真展

「おんな――立ち止まらない女性たち」写真展

独言・日記

P8190172.JPG東京都写真美術館で開催されている「おんな-立ち止まらない女性たち1945-2010」を見に行った。きっかけは、ここに丸田祥三さんの作品が展示されていると聞いたからだ。もっとも、こうした写真展を見るのは好きだ。あらゆる意味で、うまい写真を見るのは楽しいし、勉強になる。


この写真展、副題は「
立ち止まらない女性たち」だが、展示がそれに従っているかと言えば大きな疑問を持たざるを得ない内容だった。


写真展の意図がなぞられていない

今回の「おんな」はパンフレットにある言葉で言えば「ビジュアル女性史」である。つまり、それぞれ別個の文脈で発表された211点の作品を、「ビジュアル女性誌」という文脈に沿うように集め、展示者によって作品の方向性が制御された展示である。各作品は、それぞれの時代を切り取った作品として扱われている。もしかしたら、中には「こんな扱われ方は困る」という写真家がいるのではないかと思ってしまったほど、強い文脈が働いている。

その文脈とは、なぜか女性が「お母さん」から「若年の女性」に変化していくというものである。チケットには、こうある(下線部筆者)。
敗戦後の困窮の中で日本の家族を支えたのは、まさにお母さんたちの「生きる 力」でした。さらに女性たちは、世界中が驚くほど目覚ましい日本の復興と発展に、大きく貢献しました。またその力は、高度成長とその担い手を支え、近年は 世界を舞台に多くの日本人女性が様々な分野で素晴らしい活躍をしています。
「お母さん」の写真が確かに多数を占める1940~1960年代に比べ、1990年代以降は若者の文化の上っ面しか展示していない。展示されている写真を見ると、20代前半の女性は、1950年頃には「貧しいお母さん」だったのに、それが2000年代になると「まだまだ子どもで社会性もない少女」になってしまった、というような流れなのに、能書きはそうなっていないのだ。

ということで、私は前半は興味深く写真を見ることができたが、後半、とくに1990年代以降は自分が生きてきた時代でもあるからか、なんだよこのステレオタイプな切り取り方は、と思いながら見た。中には、時代の習俗、風俗を取り込まず、単なる絵画的ヌード写真としか思えないものも複数あり、そんな写真が「その時代のおんな」を象徴しているとはまったく思えなかった。扇情的な写真が並ぶ一角では、「見るに堪えない」と連れの男性に言って通り過ぎてしまった女性がいたことから、そう感じたのは私だけではないだろう。

(注)扇情的な、「見るに堪えない」と評された写真の価値が低い、という意味ではない。この写真展のテーマにはそぐわないと考えている。


「生きる力」がテーマなら、「お母さん」に読み替えて、一貫して「お母さん」でいいじゃないか。「ケータイと鏡」(こちらにもあり)などは、作品としてはいいものだと思うが、この文脈(「素晴らしい活躍」云々)には当てはまらないだろう。



さて、流れを思い出しながら書く。
一枚目は、長崎に原爆が落とされた翌日に撮影された母子の写真である。これを見た人は、「おんな」として見ることができるのだろうか。また、水俣病の被害者の女性の写真もある。これも同様。ものすごく力のある写真だが、これが「立ち止まらない女性」の「歴史をビジュアルに辿(ったもの)」だとはとうてい思えない。

一方、1940年代から1950年代の、野良仕事、農村風景、工場での風景など働く女性たちというのは、いい写真だった。つらい写真もあれば希望を感じる写真もある。働きながら乳飲み子に乳を含ませる写真もいくつかあった。「生きる力」を象徴するような、いい写真ばかりだった。チケットに掲載されている木村伊兵衛の「農村の娘」(秋田県)など、何時間でも見つめることができそうだ。
ストリップ劇場や街娼が、米軍兵士との私生児を集めた教育施設の写真とともに展示されているあたりなども「生きる力」だ。

しかし、1970年代頃から、おかしな展示になる。1980年代になると竹の子族、うんこ座りのレディース、シンナー遊びをする少女、そんな写真。10代の風俗になる。1990年代になるとジュリアナ東京のお立ち台、2000年代になるとケータイやネイルアートなど、これもまた10代、20代の風俗の写真が連続する。これらは、決して「おんなが持つ生きる力」の写真ではない。

スポーツ選手の写真も何点かあったが、「ママでも金」の谷亮子は「生きる力」だが、野口みづきや高橋尚子は違う。3人とも「世界」ではあるが、それがオリンピックだけというのもなんだかな、というところ。そして、パンフレットには、1996年から2010年の時代を総括する説明としてこうある。
高齢化社会、広がる経済格差・・・。日本はどこへ行くのか。一つだけ確かに言えることがある。難局を切り開くだけの力を、女性は持っている。
そんな写真はひとつもない。ただ、軽薄、幼稚化した10代少女の写真が続くのみである。この、最後の展示が、2000年代のお母さんの姿や、それを見守っている前世代のお母さんだったらよかったのに、と思う。


丸田さんの写真の位置

丸田さんの写真も、そんな文脈の中で展示されている。隣の作品は、文脈と無関係にしか思えないヌードである。そこに、荒廃した旧型客車の中に佇む少女の写真がある。展示者側としては、「過ぎ去った時代=旧型客車」の中に「無垢な、未来の可能性を秘めたもの=少女」を組み合わせたものとして丸田さんの作品をツナギ的に使ったのかな、と思った。だから、この作品以後、「過ぎ去った時代」をまとった女性の写真はなかったような気がする。丸田さんの作品は、移りゆく時代の、旧世代と新世代の両方を写し込んだ希有な作品であるからこそ、ここにこうして展示してあるのだろう。そして、もし仮に被写体が旧世代の女性だったら、ここには展示されなかったのではないか。テーマとはずれるが、被写体が男性だったら、確実にあり得ない。男性は、女性ほど、時代時代での変化を象徴しない。この作品は、被写体が少女であることに意味がある。

私は、写真展というのは組写真や写真集と一緒で、テーマがあり、順序があり、緩急があるものだと思っている。そして、ここに書いた感想は、そういう考えで写真展を見てしまう私の読み取り方に過ぎない。読み取り方は見た人それぞれ、作品の制作者(写真家)たちの見方や受け取り方もそれぞれのはずだ。どれが正しい、どれが間違い、というものはない。211枚もの写真を並べて、展示者側と閲覧者側の全員が同じ意識で見ることができるわけなどないのだ。

こんなことを考えたのも「丸田さんの作品を見に行った」からだと思う。「棄景IV」に掲載された写真が、どういう文脈で211点のうちの1点に選ばれたのか、ということに関心を持ってしまった。そうでなかったら、この写真展のテーマなどを考えることもなく、「いい写真だね」という鑑賞できたのかもしれない。



なお、図録。たしかにこれが図録なのかと言われると、なんか安いなあ、という気持ちになった。こういうのは2940円が3800円になってもいいから、もっと印刷ちゃんとしようよ。買う人は値段じゃないから。




「阿寺渓谷」と書いてある橋

「阿寺渓谷」と書いてある橋

プラットトラス

adera.jpg映画『トラック野郎 熱風5000キロ』の主題歌のシーンで映る、この橋が謎だ。

見たら、youtubeに動画があるので貼っておく。1分のところがこのシーンである。




場所はココじゃないかと推測したのだが、まったくわからない。航空写真を見ても、埒があかなかった。


@fusamofuさんが、昨晩からああでもないこうでもないと探してくださっているが、なかなかわからないようだ。

この橋は6パネルのプラットトラス。5パネル、7パネルは見るが、6パネルとはあまり見かけない気がする。また、斜材が45度(くらい)で、パネルが正方形に近いというのもあまり見かけない。物理的なことはまったくわからない(←それでいいのか!という叱責は甘んじて受けます)が、本によって経済的な斜材の角度を45度としたり60としたり、いろいろ数値はあるようだ。

ヒントはふたつ。
(1)「阿寺渓谷」の文字
(2)11tトラック+4tトラックが通行できる

阿寺渓谷とは、長野県の中央本線野尻駅付近、読書ダム付近、木曽川の支流である阿寺川の上流にある。実際の阿寺渓谷で撮影されたわけではなさそうだ。

この橋の情報をお持ちの方いらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。


(2011年5月6日追記)

解決!
阿寺川橋 顛末/『トラック野郎 熱風5000キロ』に捧ぐ


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めじろ

ゲシュタルト崩壊と言葉・文字

何を見たかは憶えてないが、「日」と「自」が近くに並んでいる文字列があった。たぶん、新聞に「ある日自分が」みたいな文章が書かれていたのだと思う。「目白」と空目した。「この先生きのこる」と同じだ。しかし、目白ではなかった。似ているかと思って、並べてみる。

ぜひ凝視してほしい。きっと、すぐに目白だとかはどうでもよくなり、何か別のものに見えてくるに違いない。


日自
   自日
目白   白目

「自」「白」の上の「点」が原因に違いない。これがあるから、いろいろなものに見えるのだ。ためしに除去してみる。

日目

目日


ほら、あまりおもしろくないでしょう。せいぜい、カラーボックスにしか見えない。動き出す感じがしない。

元に戻って、並べてみる。アンダーラインも引いて見よう。すべてHTMLテキストでできる。


日自目白


タイトルをつけてみよう。

立ち並ぶ雑居ビル。あるいはヤマダ電機に並ぶ炊飯器か湯沸かしポットの棚。
あるいは事務用書類整理棚の陳列。





そういえば、漢字では、横棒が建てに5本並ぶことはないような気がする。「倶知安」の「倶」は正字だと「目」と「一」がくっついて表現されるが、これはフォントによる誤差かもしれない。


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航空写真検索

アーカイブ/資料/自分用メモ

航空写真画像情報所在検索・案内システム
http://airphoto.gis.go.jp/aplis/Agreement.jsp


石川初さんのツイートで知りました。

以前にも増して興味深い情報が溢れて流れ込んできていて
自分の処理能力が、土砂が堆積したダムみたいになってます。



『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)

『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)

橋梁一般

P8160150.JPG新潮社から、なんの脈絡もなく『余部鉄橋物語』が出た。1500円+税。著者は、土木技術者のドキュメントを多数執筆している田村喜子氏だ。私は、藤井松太郎を描いた『剛毅木訥』、田辺朔郎を描いた『北海道浪漫鉄道』など、いくつか拝見している。

有楽町の三省堂書店で、鉄道書コーナーなどを探したがなく、なんと普通の文芸書コーナーにあった。違うだろ。と思ったが、まあいい。前半が「第1部」として初代橋梁のことを、後半が「第2部」として現橋梁のことを書いている。


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いろいろと思うところはあった。それは後述するが、この本は「買い」だ。田村氏自身が聞き取った、貴重な証言が多数掲載されている。この本には、この本にしか書いてないことが山ほど盛り込まれている。それがなにか、詳細はぜひお手にとって読んでいただきたいが、次のようなことが事細かに書かれている。

●初代余部橋梁をPCスパンドレルブレースドアーチ橋で提案した、岡村信三郎に、直接話を聞いた下田英郎にインタビューしている

●初代余部橋梁は、7種の橋が検討された。
・200フィートトラス。側径間は80フィート鈑桁+築堤
・4連の200フィートトラス。側径間は80フィートトラス
・450フィートブレースドアーチ。側径間は170フィートアーチ。
・475フィートカンチレバートラス。張り出し桁は200フィート。側径間は40フィート。
・2連の25フィートのアーチ。側径間は築堤。
・40フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚。
・60フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚(初代余部橋梁)
(・これに上記岡村案が加わる)

●2名の初代橋守(塗装担当)のうちの一人、望月保吉の義理の甥(望月の妻が、山西の叔母)にあたる山西岸夫が狂言回し的な役割をになっている。

●架け替えにあたり、相当な研究がなされたこと。それをあとから卓袱台返ししようとする輩がいたこと。

●ラーメン橋ではなく、エクストラドーズド橋になった経緯。


私は鉄道雑誌や交通ニュース関連から、そうしたところに掲載された余部橋梁に関することは、たいてい耳に入ってくる。しかし、本書に書いてあるような裏話やエピソードは知らなかった。


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「思うところ」

残念なことに、本書は帯にあるキャッチの通り「ノンフィクションノベル」、すなわち小説、作り話(あれ? ノンフィクション?)である。本書の冒頭は、1986年の「みやび」転落事故の場面から始まるが、ここが小説仕立てなのが実に残念だ。亡くなった被害者たちが会話しているのだが、だれがそれを聞いたのだ? こんな小説仕立て部分はフィクションに決まっているのだから、これが入ることで、全体の信憑性が落ちてしまうではないか。

ドキュメント小説というのは、えてして会話が説明調になる。萩原良彦『上越新幹線』(これも新潮社だ)ほどひどくはないにしても(萩原氏の著作は、エッセイ的なものは素晴らしいのだが!)、説明調の会話は、こんな感じだ。
「(戦後の橋守再開において)六年間も、まともなペンキが手に入らなかったんだ。日本では新潟と秋田で少しは出るが、石油はほとんど輸入にたよってきたんだ。それが戦争中は入らなくなった。だから、ろくに繕いケレンをやってなかったからなあ」(下線部筆者)
こんなに冗長になってしまう。地の文章で、普通に書けばいいのに。以前に少しだけ触れた、『近代日本の橋梁デザイン思想』ならば、この下線部のようなことにすら出典がつく。逆に、出典がないものは、まったく記述されない。

会話でなくても、余部橋梁を崇拝するような記述がそこかしこに見られ、それこそ「要出典」タグを貼り付けてしまいたくなる。

20100816.jpg


新橋梁の検討にあたり

橋梁架け替えは、風対策である。初代の鋼橋が老朽化したわけではない。風による遅延を減らすには防風板を設置しなければならないが、そうすると、橋梁の強度が持たない可能性があるためである。その検討の経緯をまとめる。

・1991 余部鉄橋対策協議会(谷洋一代議士の提案)
・1994 余部鉄橋技術研究会(京大防災研究所 亀田弘行教授が座長)…定時制確保の検討
・1998 余部鉄橋調査検討会(兵庫県ほか)…技術検討の深化
・2001 架け替え決定
・2002 第1回新橋梁検討会
・2003 第3回新橋梁検討会でPCラーメン橋に決まる
・2004 新橋梁デザインコンペ
・2006 架け替え事業の基本協定書締結(県市町村・JR西日本)
・2010 切り替え完了

この中で、地元もJRも、初代橋梁が、非常に優れた景観として定着していることを理解したうえで、それでもなお交通の途絶を解決するためには架け替えもやむを得ず、という方向で検討をしているときに、感情で物事をひっくり返そうとした人がいる。新橋検討会のメンバーでもあった佐々木葉だ。2004年にもなってから、こんなことを言い出した。
「筆者はこの検討会の委員であったが、コンクリート桁橋では景観的に魅力がなく、歴史性の継承もできないと強く反対し(た)」
あまりに主観。なぜコンクリート桁橋では魅力がないのだ? その理由が書かれていない。もし煉瓦+ガス灯だったら一も二もなく賛成してしまう人なのではないか。コンクリートは嫌われ者の代名詞的に使われる。明治期の橋梁設計者は「ヨーロッパは石のアーチ橋がたくさんあるから、日本の街の橋はアーチ橋たるべき」みたいに考えた人が多かったのだが、それを彷彿させる。
「橋を架け替えても風による遅延・運休はゼロにはならない。(略)二割程度までにしか減らせない。そのために余部鉄橋を架け替えるという。貴重な文化財を犠牲にし、約三十億円の費用を投入するだけの効果がこの事業に本当にあるのだろうか」
ものごとには妥協点がある。遅延・運休ゼロにはできないことは自明なのだから、最小限に抑えられるこの案で妥協しなければ、どこで妥協するつもりなのだろう。そして、そうしたことを費用で換算することのばからしさ。「費用対効果」という単語には必ず客観的な判断基準を添えなければならない。「費用」を測るのは数字の多寡だが、「効果」を測るのは結局主観だからな。仕事でも費用対効果費用対効果というバカがいるが、無視している。そういう奴は必ずセンスがない。センスは、もっとも「費用対効果」として測れないものだ。
「先端技術を用いれば現橋を生かしてもっと安価に風対策をすることも可能と思う」
それまで13年間にわたって検討されてきたことを、まったく聞いていないという愚かさよ。

土木史の教授が、この程度の意見を述べるとは。『鉄道ジャーナル』の投書欄「タブレット」か、『鉄道ファン』の「リーダーズキャブ」か。



土木学会も、同じような申し入れをしているが、「申し入れを踏まえた上で、新橋案を進めようということなら仕方ない」というスタンスである。公共交通機関としての役割を放棄したものに価値を見出そうとしても、その所在地の人々にそっぽを向かれては、文化財の価値も相当に下がろうというものだ。私は、もしこの初代橋梁を文化財と見るなら、地域の意識とセットでなければならないと思う。

(2010年9月25日追記)
『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)追記ほか雑感もご覧ください。


本書の主題

本書で重要なのは、単なる橋の架け替えに、これほどまでに地元が真剣に考えた例があるか、ということだ。地元、とは余部集落、香住町のちの香美町だけでなく、兵庫県や鳥取県も巻き込んで、である。もし、荒川にかかる橋梁が架け替えられるとして、地元の人がなにか言い出すだろうか。保存しろとか。皆無だろう。

ところが、ここでは、橋梁デザインにまで地元が口出しをしている。そして、それを許容する優しさが、事業者側にある。「新橋が開通する前に、歩かせてくれ」という要望にも応える。ここに掲載している写真を撮影したのは5月だが、工事詰め所には、現場の方が書いた壁新聞的なものが貼ってあった。私はこんな人物です、よろしくお願いします、のようなことが書いてあった。こういうものを掲示してまで、地元と交流を深めようという姿勢は希有なものなのではないか、と思っている。



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(写真はすべて2010年5月17日撮影)

高速道路のトレッスル橋脚?

高速道路のトレッスル橋脚?

鉄製橋脚(鈑桁以外のトレッスル橋脚)

何十回どころか何百回と走っている新大宮バイパスを今日走っていて、ふと見たらトレッスル橋脚みたいなのが眼に入った。

DVC00269.jpg首都高はR17新大宮バイパスの上下線の間にあるので、これは上り線の「下道」から見ている状態。気がついたのは、下り線を走っているときだが、なぜか携帯のカメラが反応せず、取り損ねた。やむなく帰途、上り線で信号待ちしているときに携帯でパチリ。

場所はここ。Googleのストリートビューで見てみる。



大きな地図で見る

これは、「トレッスルによる壁形橋脚」という解釈をしてもいいのだろうか。単なる、架設の支保工であるようにも見えるが、この部分だけはRC桁ではなく鈑桁になっている(ように見える、実際に真下に入ったわけではない)し、桁にも、橋脚と接続する部分に、天地方向に補強が入っているように見える。

これ、どう分類したらいいのだろう? と思ってググっていたら、こんな2chの過去ログに出会った。

・過去ログ。

これによれば、暫定的に設置したICだから、撤去も容易な、あたかも支保工のようなトレッスル橋脚にしている……。そう考えていいのだろうか。途中にはRC製橋脚も挟んでいるのは、その橋脚はICが移動しても活用できる目算がある、ということだろうか。

機会があれば、至近距離に横断歩道があるので、じっくり見てきたい。


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