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軍艦島全景

独言・日記

コニカミノルタプラザで開催されている写真展『軍艦島全景』に行ってきた。

大きなパネルが3点。上記リンク先の案内図にある「Large Panel」の3点である。黒沢氏、大西氏、西田氏それぞれの作品で、順に、幾何的な模様の繰り返しである鉄筋コンクリートの建物、かつて人が住んでいた部屋と当時は時代の最先端だったものが取り残されてタイムカプセル化した部屋、廃墟の中、陽光が当たる部分に新たに芽生え、天に向かって伸びゆく生命。おそらく、各氏の軍艦島における原点といおうか、各氏が軍艦島に託して何を見ているのかの表現というような意味合いでそれらは選ばれたに違いない。

digital poto flameもよかった。明るい液晶で、適度な大きさでスライドショーとなる写真は、明るかった。人が住んでいた当時のものを繰り返すものもあった。

私が目を留めたのは、人が住んでいた時代に撮られた写真と同じ場所の現在を撮った、定点観測的な写真展示である。かつてそこに響いていた人声や足音は二度と戻ってこない、直接的にはその儚さを、間接的には時間軸が持つダイナミズムを見る。三才ブックス刊『軍艦島全景』でも一部その試みがあるが、ここではほぼ同じ場所で、40年(推測)を隔てて撮影された写真を並べることで、よりそのダイナミズムが際立つ。なぜか思い出すのは、手塚治虫の『火の鳥 未来編』である。


大きなパネルそれぞれに、三氏の軍艦島や廃墟への思いが書いてある。もちろん、三才ブックスの本にも同様のものがあるのだが、私は黒沢氏のそれに感じるものがある。引用する。
軍艦島のことを想う時に、その都度いつも感じるのは、東京生まれの自分にとって軍艦島が本当の故郷になることはない、ということだった。では自分の故郷は? と想った時に、それまで意識することもなかった生まれ故郷のことを知りたくなった。
これを読んだとき、涙が浮かんできた。私が廃道について感じている気持ちそのままである。鉄道も廃線も道路構造物も鉄道構造物もちろん好きなのではあるが、人の情念が入るのは廃道だと思っている。それも、集落を結ぶなど、生活に直結する廃道であって、高速道路やバイパスの廃道ではない。いわゆる「廃モノ」のなかでも、こうした廃道こそが、名もない人々の生活に直結しているのであり、意識することなく使われ、やがて忘れられていく。一方、鉄道は請願はするけれども結局は「会社」あるいは公共企業体が運営するものである。廃墟は、複数の人ではなく特定の個人の思いだけが宿る。

黒沢氏と同じ方向性のことを、西田氏も書いておられる。

軍艦島はあくまでひとつのシンボルだ。あなたの町の身近な場所にも知られざる歴史を持つ場所が眠っているに違いない。本書がその扉を開く一助になれば幸いだ。(改行・1行アキ)この活動をはじめてから、両親に昔のことや生まれ故郷の話を聞く機会が増えた。(後略)

この写真展を見た人が、たとえ故郷が東京都心部であっても、故郷を振り返り、ああ、実は自分は故郷のことをまったくわかっていなかったのだ、もうちょっとよく知ってみようか、と思うようになればいいと思う。

帰りがけ、写真好きらしいオバチャンが「廃墟も素敵よね。ぴかぴかのビルと違ってさ」と連れ合いに話していた。まあそういう見方もあるのだろうけれども、そうではなく、この写真展に込められた思いをもっと感じ取ってくれよ、と少し寂しい気持ちになって会場を後にした。



これだけの撮影をするのに、どれだけの回数軍艦島に渡ったのか、ちょっと想像がつかない。その労力と、三才ブックスの写真集『軍艦島全景』を考えたとき、写真展が無料で、写真集は2415円であることは、驚異的な安さだと思う。この写真集は、その2倍、3倍の価格でもおかしくないできばえだと思う。それは、ひとえにオープロジェクトの三氏の気持ちと、力と、三才ブックスの理解によるものだと思う。自分もこうした本を世に送り出すことができればと思っている。

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デジカメ解体日記

デジカメ解体日記

独言・日記

ゴミ捨て場で拾ったoptio M60を解体してみた。興味があったのは「見えない部分がどれだけチープか」ということと、「本体の1/3を電池とSDカードスロットが占める内部で、カメラたる部分はどれだけあるのか」ということである。

IMG_1550_R.JPGIMG_1554_R.JPGIMG_1553_R.JPG表面に見えているビスは、底面にひとつだけ。ストラップ取り付け部にも2本あるが、これは本体とは関係ない。

本体背面四隅にメクラ蓋があり、これをめくるとビスが4本現れる。

IMG_1555_R.JPGそれら5本のビスをはずすと、このように背面と前面に別れる。その間にはOリングが挟まっていて、防水機能を果たしている。しかし、両者を3本の多芯コードが結んでいる。コネクターではなさそうだが、ばらせないわけがないと思い、軽くひっぱたらすべてはずれた。極小のコネクターで連結されていたのである。

IMG_1556_R.JPG分離するとこんな感じ。さらに基盤を前面ボディからはずす。2本のビスをゆるめる。

d19f5158.JPGこんな感じに「プツッ」といった感触で外れる。

IMG_1564_R.JPG見えている2本のビスをゆるめても基盤は外れない。絶縁シートをはぐってみたら、そこにもう1本発見。

IMG_1565_R.JPG基盤がとれた。こっち側の面だけが、おそらくカメラの制御部のすべて。ここでモードにしたがって現像しているわけだ。

IMG_1566_R.JPG逆側はこんな。電池ボックスがいかに大きいか、わかろう。

IMG_1567_R.JPG次に、レンズ・シャッターユニットを取り外す。四角い塊の中に可動のレンズが3組とシャッターがある。シャッターは、、1枚のレンズと2枚のレンズの間に置いてあり、不動。

50fe27a9.JPGユニット。銀色に見えるのはレンズを駆動するモーターだ。合計3つついている。

IMG_1575_R.JPGこれが、私にとっての驚愕写真。なんと、レンズ・シャッターユニットは、内部で90度屈曲していたのだ!

IMG_1579_R2.jpg赤枠部分が動く。黄色部分はシャッター。

IMG_1585_R.JPG力業で外したシャッターとレンズ。そして撮像素子(CCD)。

IMG_1586_R.JPGこの電池はストロボ用。

IMG_1587_R.JPG本体前面のアルミパネル(?)は、接着剤で本体に留めてあった。

IMG_1593_R.JPGほぼ全バラの状態です。


ああああ、眠いので文章が書けない。これにて終了。


英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その3)港三号橋梁

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その3)港三号橋梁

ポニーワーレントラス

横浜のみなとみらい21に保存されている「港一号橋梁」「港二号橋梁」「港三号橋梁」のうち、「港三号橋梁」が英国系ポニーワーレントラスである。これらの橋がかかるルートは、下記の地図から分かるとおり、実際に貨物線が通っていたルートである。かつて、そのまま赤煉瓦倉庫の前に通じていたこのルートは、いま、「汽車道」という名称の遊歩道というか公園というか、開放的な空間になっている。線路も改めて(だったと思う)埋め込まれている。


しかし、実際にこの場所で鉄道橋として使われていたのは「港一号橋梁」「港二号橋梁」だけで、「港三号橋梁」は別の地から移設されたもの。そのため、埋め込まれている線路のルートに並行して架けられているのが、上記航空写真を拡大すればおわかりだろう。

20100426-1.jpg20100426-8.jpg

港三号橋梁は、ここに据えられるまでに2ヶ所で使用された。

まず、北海道の夕張線夕張川橋梁(紅葉山=現・新夕張-楓間。なお、どちらも後年、移設されている)として1906年に架設され、それが1928年に横浜港の生糸検査所専用線の大岡川橋梁(現在、当時の航空写真が閲覧できないため、場所を示せず)に転用され、1970年にお役ご免になっていた。これを短縮の上、1997年に転用したものが、港三号橋梁である。実際には、この地に来てから、この橋梁を列車が渡ったことはない。

現在は7スパン63フィートだが、大岡川橋梁時代は100フィートであった。そして、大岡川橋梁は、この桁のほか、総武鉄道江戸川橋梁(1907年架設)の2連とあわせた3連であった。先から引用し続けている『明治時代に製作された鉄道用トラス橋の歴史と現状 第2報』(淵上龍雄、小西純一、西野保行)によれば、「1907年製作、製造はブライスウエイト・アンド・カークBraithwaite&Kirk)となっているが、これは総武鉄道の2連(1894年開通、1926年撤去)を指すので、歴史的鋼橋集覧の製造年と異なったり、製作者が書いてなかったりしても矛盾しない。

現在地に移設する際の図面はここにある。


さて、本題の横桁である。こうだ。
20100426-2.jpg20100426-3.jpg20100426-4.jpg直線である。そして、端部にカバープレートがない。下弦材の各パネル間に2本載るというスタイルは変わりがない。

トラス桁の高さは、図面では上下現在中心間で2800mm。ということはもう少し大きいが、9フィート+4~5インチといったところか。また新たなパターンの登場である。歴史的鋼橋集覧には、設計は1874年頃イングランドによる、となっている。

ここは、ピンがよく見える。そして、奇麗に整備されている。
20100426-6.jpg20100426-5.jpg

ついでに、レーシング部分を。ボルト止めではあるが、ネジ側はリベットのような丸鍋である。もちろん、プラスマイナスなぞ切っていない。20100426-7.jpgこういうものは、どうやってねじ込むのだろうか。



さて、謎をまたひとつ増やしてしまった。本当にパターン化できない。


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スタイルが

独言・日記

なぜか画像サイズと1行あたりの本文文字数がおかしくなったのでスタイルを変更中・・・。

と思って調べたら、クーパー荷重の画像がおかしくなっていた。一度に表示するエントリの数を減らしてクーパー荷重の件を表示しないようにすることで後ろ向きに解決。


スーパーテネレの修理完了

スーパーテネレの修理完了

スーパーテネレ・テネレ700

YSP横浜南さんに預けていた、走行5万マイル(8万km)のスーパーテネレがあがってきた。お願いしたのは、始動不良というより異常の解決。自分でできること、すなわち吸気と電装までは既報のとおり見ていたが、これでダメならもうエンジン部分しかない。バルブタイミングの異常か、そうなったらもう自分の手には負えない。そう思って、思い切って預けた。ここから先はプロの領域だ。

20100425-6.jpg
結論から言うと、エンジンの圧縮がわずか3kg/cm^2しかなくなっていたことが始動不良を引き起こしていた。通常の数値はサービスマニュアルを見ても載っていなかったと思うが、12~13kgのはず。スタッフの方は、測り間違いじゃないかと思って再度やってみたそうだ。

圧縮が抜けていた原因は、バルブへのカーボンの堆積。また、バルブのリフト量が狂っているというか、常に少し空いている状態になったいたようだ。バルブタイミングに異常はなく、カーボンを除去したバルブは特に摩耗しているわけでもないので摺り合わせの上、再使用したとのこと。

20100425-1.jpg20100425-2.jpgカーボンは、バルブだけでなく、ピストン上面にも体積。目測で0.3mmとか0.5mmとかの量。触るとボロボロと崩れる。下の写真はカーボンが堆積した部分をこすってみたものだ。

ヘッドを開けたのだから、ピストンを交換していただいた。部品代6万610円中、ピストンだけで約2万円だ。

・ピストン 6000円
・ピストンリングセット 3070円
・ピストンピン 1050円
これらが2組。

20100425-3.jpg20100425-4.jpg

20100425-7.jpg屋内保管なのだが、屋内に入れるとガソリンの匂いが充満してしまっていた(コックをオフにするとしばらくして消える)が、その原因は右側コックにあった。で、交換していただいたのだが、コックアセンブリ5370円はこの内側のパーツだけなのね。

20100425-5.jpg奇麗にした外装とは裏腹に、エキパイだけは錆び錆びのまま。ここにCO濃度を測るためのドレンがあるが、なぜかこれがなめていたという。開けたことなどないが、タップ切り直し。

20100425-8.jpgゴムやプラの劣化が激しい場所は、部品を交換。明細には、OリングOリングOリングOリングOリングOリングOリングガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットといった案配で並んでいる。
今回の処理一連で、工賃込み約14万5000円。20万越えを覚悟したが、思ったより安くあげていただいたという印象だ。それもこれも、YSP横浜南さんにガルルがお世話になっているからかもしれない(アレ? お世話になってるのにさらに安くしていただくなんて逆じゃないか?  お世話になっているんだから高くなってもおかしくないのに??)

前みたいに年間2万kmも3万kmも乗ることがない今、「次」のこういう機会があるのかどうか見当もつかないが、大切に乗って行こうと思う。


『鉄道の旅手帖』類似品

『鉄道の旅手帖』類似品

独言・日記

丸田祥三氏が小林伸一郎氏を訴えた『風景剽窃裁判』(リンク先は、丸田氏の主張ブログ。公平に小林氏の主張を読んでみたいが、小林氏が主張するサイト等はない)は、かねてより話題となっていた。2009年初頭のことだったと記憶する。それが、さる2010年4月22日、東京地裁での尋問に、初めて小林氏が登場するということをツイッター上で知り、あわせて氏のブログも知った。

氏の『棄景』(1993年)には、大変なショックを受けた。その題材に、その表現に。私の廃もののルーツは過去に書いたことがあるが、そのころの心持ちで言えば、1991年に北海道に鉄道旅行に行った際、函館駅で購入した堀淳一氏の『北海道廃線跡を紀行する』(北海道新聞社)の内容に想像をたくましくしていた頃だ。そのころはインターネットも携帯電話もなく、すべての情報は紙媒体から得ていた。なにかの雑誌に、『棄景』の書評があった。講談社『VIEWS』あたりだったかもしれない。

欲しい、と思った。しかし、2800円もする。いまでも高価だと感じる価格である。毎日、大学のそばの弁当屋で300円台の弁当を食べていたような生活において、2800円は高い。しかし、この本は2800円出しても欲しいとおもった。そして、確か新宿の紀伊国屋だったと思うが、そこで購入した。いまでも大切にとってある。現在の宝島社が、まだJICC出版局と称していた頃の刊行である。

話が逸れてしまったが、丸田氏のブログの中の「混同されてしまうという切実な問題」におおいに共感するところがあり、ここに一文を記しておく。



2007年4月、私が作った『鉄道の旅手帖』が発売された。配本前から評判は高く、注文を非常にたくさんいただき、配本前にすでに重版を決定。5月、6月、7月と版を重ね、10月に7刷、翌2008円に8刷となった。2008年から2009年にかけて、類似の手帳タイプの商品が3誌刊行された。

類似商品の刊行は、とくに目くじらを立てるものでもない。むしろ名誉なことである。私が過去に手がけてきた仕事だって、他社で売れた本の「改良版」みたいなものもあった。しかし、それぞれに「前作を凌駕するもの」であれば、それはそれで刊行の意義もあるというものだ。そんな類書の中で、学研の『ぬりつぶし式鉄道地図手帳』は、許せない商品だった。


t1.jpg『鉄道の旅手帖』2007年4月刊。

函館市電の書き方にも注目してほしい。本書は1980年以降に廃止となった路線にはグレーの網掛けをしてある。

函館市電の停留所名や廃止区間の営業キロは、私が函館市交通局に問い合わせたところ、函館市交通局の方が手書きで解説したものをお送りくださったものを反映している。

市電の停留所間の距離など、市販の時刻表などには書いておらず、また函館市電に限っては参考となる資料も刊行されていなかったと記憶している。











g.jpg『鉄道地図手帳』2009年3月刊。

こちらは1987年以降に廃止になった路線に網掛けをしてある。

函館市電の各路線の並び順も同じ。営業キロも書いてある。

















3段組で駅のリストをレイアウトし、各段がチェック欄・駅名・営業キロ・メモ欄という体裁、空き部分がメモ欄になるという体裁まで同じ。「○年○月○日限り廃止」という文言も同じ。この文言は、校正をお願いしていたワイ・ワン・ワイの澤井弘之氏の助言により、このように表記することにしたことまで覚えている。

廃止日というのは、営業を終了した翌日である。だから、普通「3月末廃止」というのは「4月1日廃止」が正しい。wikipediaの記事もすべてそうなっている。しかし、これでは誤解を生じかねないため、「○月○日限り廃止」という言い回しにした。

そして、これである。
20100423-2.jpg
『鉄道の旅手帖』(2007年)。




20100423-1.jpg学研『鉄道地図手帳』(2009年)。






注目していただきたいのは、

「廃止線を含む総距離」
「現存線の距離」
という言い回し。

これは、私が考えたものである。こんな回りくどい言い回しは、「鉄道ファンお馴染みの言い回し」でもなければ「専門用語」でもない。誤解の生じないよう、回りくどくてもこの言い回しにしたのである。学研版だけに「乗車距離」があるように見えるが、『鉄道の旅手帖』では画面外に「私が乗車した距離」という欄がちゃんとある。

先のレイアウトや廃止路線の表現も含めて、偶然の一致だろうか? 自分なら、真似するにしてももっとうまくやるぞ。


そして冒頭に戻る。「混同されてしまうという切実な問題」だ。わからない人には、学研が正で、『鉄道の旅手帖』が真似した、と思われてしまうかもしれない。たまったものではない。しかし、学研版を先に手に取った人は混同し、そう思っても不思議ではない。

もちろん、版元として抗議するか迷ったが、これだけでは販売差し止めとまではいかないだろうことは容易に察しはつく。しかも、いろいろな手間を考えると、さんざん面倒な思いをした挙げ句、その間に学研版もそこそこ売れていき、利益を確保してしまうだろう……。放置するしかなかった。

幸か不幸か、ある取次の方から聞いた話では学研版は……な結果らしい。『鉄道の旅手帖』は、8刷である。書店からは「最新版を出せ」とのオファーが随分とある。


以下は自画自賛である。
『鉄道の旅手帖』以降、「乗りつぶしチェック」のための本は、手帳タイプの類書3種、B5判2種が刊行された。しかし、どれも現実的ではないか、情報量に難があるか、あるいは稚拙な作りになっている。

ほんのわずか数年前に廃止された路線さえも掲載されていないような本が、「乗りつぶし」のためになるのか? 鉄道旅行は「これから」だけではない、「過去」にもあった。国鉄時代からの鉄道ファンならば、国鉄時代に廃止になった路線に乗ったこともあるだろう。それを蔑ろにするな。民鉄や第三セクターも蔑ろにするな。

情報量としてもっとも多いのは、新潮社『乗りつぶしノート』である。これは『日本鉄道旅行地図帳』の派生商品なので、「全廃線・全駅(実際には漏れが多数ある。それは、森林鉄道の事情を考えれば無理もないことだと思っている)」が掲載されている。次いで『鉄道の旅手帖』。1980年以降、つまり国鉄合理化での廃止が加速して以降の国鉄・私鉄の廃止路線を掲載している。他の本は、すべて廃止路線・駅は無視している。

また、エリア分け。『鉄道の旅手帖』は、鉄道ファンの行動範囲や、乗り継ぎ駅等を基準に綿密な地図割りを考えた。それだけで1週間かかった。しかし、他の本は、適当。本当に適当。県別のものもあるが、鉄道は県別に乗り分けることなどないので、これはユーザー視点ではない。

刊行から3年たっても、コストの面から妥協せざるを得ない部分がたくさんあった『鉄道の旅手帖』がもっとも使いやすいものであるのが不思議でならない。妥協せざるを得なかった部分というのは、京阪神付近の地図、大手私鉄と地下鉄の駅リスト等である。これらは紙数の関係から割愛してしまった。それでも、後発の類書と比較して、もっとも情報量が多いのが本書である。

長くなった。書店さんからは、いまだに『鉄道の旅手帖』へのラブコールがある。書泉グランデでは、刊行から3年経ってもレジそばに平積みである。このラブコールには、1ヶ月以内に応える予定だ。

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英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その2)木津川橋梁

ポニーワーレントラス

引き続き、ポニーワーレントラスの横桁について書く。
引き続き、リストと首っ引きでググったり画像検索したりしている。

ふと、関西本線木津川橋梁にあたった。ポニーワーレンを補強したランガートラスという異形の橋で、つとに有名な物件である。これならば、ネット上に写真が あるだろう、と思ってさがしたら、あった。

ぼうふらオヤ ヂの関西きまぐれ紀行 by TAAさん

なんだこれは。また横桁の新パターンじゃないか。まるで古い鉄道用台車の釣り合い梁のような凹字形をしている。この橋は1896年パテントシャフト製ということがわかっているので、ひとつ分類ができた。

1896年パテントシャフト製の横桁は、凹字形。
ただし、トラスの高さは12フィート。


残念ながら、これはイングランドの共通設計のポニーワーレントラス(トラスの高さは9フィート)ではないが、ひとつのヒントにはなろうかと思う。滋賀県の近江鉄道の愛知川橋梁も、高さ12フィートである。図面がないのでわからないが、設計活荷重か、橋幅が異なるのかもしれない。


ついでに、木津川橋梁と言えば大阪環状線の斜橋も有名。ググっていたら、これをNゲージ用に作ってしまった人がいた。ブログを読むと、鉄道模型関連商品 メーカーのCASCO(事業停止したWINのウレタン製車両ケースの中敷きを継続販売している会社。WIN製のウレタンは私もかなり持っている)がペー パーでの製作を依頼したものだという。

CASCO のブログ

製 作者のサイト

いやはやすごい。



英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(簡易版)伊達橋・小貝川橋梁・五行川橋梁

英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(簡易版)伊達橋・小貝川橋梁・五行川橋梁

ポニーワーレントラス

写真もあまりなく、あっても横桁など写っているものはさらに少なく、そもそも考察することに意味があるのかないのかわからないが、『日本の廃道』47号のTUKA氏の記事「伊達橋」(福島県)を見てからどうにも気になり続けているので、軽く調べが及ぶ範囲で調べてみた。対象は、イギリス系(イギリス製ではない)の100フィートポニーワーレントラスの横桁の形状である。

伊達橋のは、こうである。下部が曲線を描いている。『日本の廃道』47号より引用。
20100422-1.jpg





















この伊達橋が、鉄道黎明期のイギリス系ポニーワーレントラス桁の転用であることは確実だが、どこの何橋が転用されたかはわかっていない。『歴史的鋼橋集覧』は、日本鉄道(いまの東北本線)の名取川橋梁との関連性を指摘している。伊達橋の工事が1916年-1921年の間に行われているのに対し、名取川橋梁(7連)、名取川避溢橋梁(1連)はどちらも1917年に撤去されている。両者、計8連ともに1887年開通であり、伊達橋で使用された8連分(うち2連分に鉄材を継ぎ足して200フィート桁にしあげたのは『日本の廃道』ほかで述べられている通り)と、時期、個数ともにあう。場所も仙台と郡山、この距離感を現代の距離感で考えるのは非常に危険ではあるが、相対的に近いといえるだろう。名取川と阿武隈川の河口同士は10kmほどしか離れていない。水運で運んだのかもしれない。

転用した年度については、ひとつ注意しておきたいことがある。『歴史的鋼橋集覧』に「明治中期のイギリス系ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって」とあるが、これが本当に正確であるのなら、鉄道省は1920年に設置されたものであるから、8連のトラス桁は1917年の撤去後、1920年5月15日の鉄道省発足までどこかで保存し、5月15日以降に払い下げ手続き、そして伊達橋への架橋作業が行われたことになる。しかし、単なる「鉄道院」との書き間違いの可能性も十分にあり、私は「書き間違い説」と取りたい。



さて、伊達橋のトラス構は、見れば見るほど真岡鉄道五行川橋梁小貝川橋梁と同じだ。いまのところ、100フィートポニーワーレン橋のトラス構部分については製造所や年代についての差異を発見していない。詳細に見ればなにがしかの発見はあるかもしれないが、いまのところはまだ見つけていない。

この100フィートポニーワーレントラスは、鉄道を管轄していた工部省(1870年-1885年)主導で標準設計がなされていた。その設計者はEnglandである。もちろん、国家としてのイギリスのことではなく、人の名である。このEnglandなる人物は、1874年当時の「技師長」であったこと以外は残念ながらわからない。西野・小西・渕上論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラス2』によれば
このトラス桁は’’ポーナル形’’ポニーワーレントラスと呼ばれることが多いが、Pownallが設計した訳ではなく、適切な呼びかたではない。設計者は70ftトラスと同じEnglandであった
とあるので、おおかたポーナル直系のイギリス人なのだろうと推測している。ポーナルは、わが国鉄道黎明期の鉄道の土木工事を統括した人物で、プレートガーダー橋の標準形式などにその名を残している。のちに、ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデルを代表とするアメリカ流の設計に取って代わられてしまうのではあるが。この種のポニーワーレントラスを製造したのは、イギリスのBraithwaite & Kirk(ブレイスウエイト・アンド・カーク)、Cochrane & Co.(コクレーン)、Hamilton's Windsor Ironworks(ハミルトン)、Handyside(ハンディサイド)、Patent Shaft & Axletree(パテントシャフト)のほか、アメリカン・ブリッジ(アメリカ)とハーコート(ドイツ)がある。


話を横桁に戻す。そのイングランドが設計した、東海道本線六郷川橋梁(蒲田-川崎間)の100フィート複線ポニーワーレントラス桁の設計図が『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(土木学会誌第3巻第1号)に残っている。

20100422-2.jpg



















この六郷川橋梁は1875年ハミルトン製で、1877年開通、1912年撤去である。横桁部分を見ると、曲線ではなく直線状である。しかも、太い部分が長い。

20100422-3go.jpg真岡鉄道五行川橋梁は、このとおり直線状である。この桁は歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。

20100422-4ko.jpgこちら小貝川橋梁も直線状。歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。五行川橋梁とともに総武鉄道で使用されていた桁を転用したものと推測している。

秩父鉄道見沼代用水橋は、『鉄道のある風景』(猫が好き♪氏)の写真を見る限り、横桁は曲線状である。この桁は1885年-1890年の間に、イギリスのパテントシャフトで製造されたもの。ということは、

パテントシャフト製の、1890年ころまでに製造された100フィート単線ポニートラスの横桁は曲線状、1894年ころから製造されたものの横桁は直線状である

ということだけがわかった。

そのほかにも多数の画像や資料写真を見たが、横桁が曲線を描くものと直線状のものとの差の根拠となる手がかりは掴めなかった。

ネット上を徘徊しても、ポニーワーレントラスの写真は少ない。江ヶ崎跨線橋にしても、プラットトラスの写真は数多あれど、ポニーワーレン部分の写真は少ない。十条の跨線橋にしても、裏側を写したものはない。自分自身が裏側を撮ってこなかったということを恥じつつ、今後に待ちたい。


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楽しい工作シリーズ200えん

独言・日記

歯車がガッチリとかみ合い、恐ろしい力で回転している。速度をゆるめることなどできやしない。相手はウォームギヤ、こちらはスパーギヤだ。「ガッチリとかみ合う」ならスパーギヤ同士でなければならない気もするが、まあいい。関係はウォームギヤとスパーギヤなのだ。しかも、ウォームギヤが三つも四つもあり、かつ同調していない。それらは私が自分で配置しておいたものだが、勝手気ままに回転しているので、スパーギヤにかかる負荷は部分的に高くなったり低くなったりしている。いつか欠けるのではないかと心配だが、それなりに冗長性があるのでなんとかなっている。

冗長性のあるうちに、三つ四つのウォームギヤの同調をとらなければならない。動力源が複数あっても出力軸が1本というところに問題があるのだが、そのうちウォームギヤの捻り角を大きくして、逆回転させてやるからな。その仕込みをしているところだ。




何ヶ月ぶりかで『廃道本』『廃道をゆく』告知フラッシュを見た。あのころの気持ちに帰ろう。延ばし延ばしにしてしまったこの方面も、各方面から期待をいただいている。自分はいま猛烈に仕事だけに没頭したい。

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新新樋曽山隧道

地図・航空写真・分水嶺


生まれ育った地のことについて、実はなにも知らなかったのではないかと思うことが多々ある。小学校の社会で習うことなどたかがしれているのだが、それならなお、高校になってももっと地域のことを学んでおくべきではないかと思う。

小学校三年生のとき『わたしたちの新潟市』という副読本があった。四年生になると『わたしたちのくらしと新潟市』になった。それらには、いわゆる亀田郷の田植えの様子が載っており(田んぼというのは昔はこうだったということがわからないと、妖怪の「泥田坊」なども実感がわかないのではないか)、胸まで泥につかりながらの田植えの映画を何度も見せられた。「排水機場」のことにも触れていたはずだ。

しかし、小学生にとっては「排水機場」など現実感がなく、また、実際の排水機場も、そっからドボドボと水をどこかに流し込むところが日常風景になっているわけでもない。しかし、それらがないと、どこまでも広がる田んぼの風景、といった印象の新潟平野は単なる泥の海になってしまうわけで。そして、それは、新潟市中心部の排水機場だけではなく、新潟平野に広範囲にわたって各種の施策がほどこされているからこそ、維持できているのであって。そこに長い間気づかずにいた自分も不明なのではあるが、道路や鉄道のように人の目に見えない部分にどれだけの労力と資金が投入されているのか、それを把握できている人など専門家しかいないのではないか。こうした大切な事業は、もっともっと積極的に教育すればいいのに。

土木行政においては河川が一番力をもっている、という話があるが、それもむべなるかなと思う。実際に携わる人に話を聞くと、職場内にランクがあるのはおかしいという感覚だろうし、計画を見ると山の上まで砂防ダムを造り続けるようなことがあるらしい。しかし、道路や鉄道がなくても人は生きていけるが、川が氾濫したら、生きていけない。私は単純すぎるだろうか?

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