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閉鎖されたコスモ石油の給油所。防火壁を見ると、丸善石油時代のツバメマークの円が浮き出ていた。

サインポールは、青と緑の色が抜けていた。


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なんとも珍妙なトンネルだ。ぐいぐいと坂を登っていくと、切り通しの向こうに見えるのは、高架下をくぐるような形のトンネル。上には道路が通っているようで、ガードレールには稲が干されている。すべて切り通して上に橋を架けるのが通例だと思うが、なぜ?

尖頭アーチといっていいのだろうか。セグメント(といっていいのだろうか、シールド工法ではないだろうが)は折れ線になっている。【同日追記:プレキャストのアーチカルバートであった。後述。】

抜けて振り返ればこの土かぶりとこの断面。

銘板も隧道内左右に2箇所ある。2006年8月の築だ。

隧道の上に上がると、そこにはやはり道があった。

2006年以前の地形図を見れば、この謎は解決するのだが…。

【同日追記】
市瀬克己さんより「プレキャストカルバートではないか。橋を架けるには橋脚下の杭を支える支持層が重要だが、それをしていないということから地盤の問題かもしれない」というご教示をいただいた。土かぶりの浅さは私も気づいてはいたが、関連語句で検索すると下記のことがわかった。

・かつてはここに在来工法の隧道があった
・中越地震で覆工に亀裂、急ぎ改築
・迂回路を設定できないので、改築することに。
・工事は通行止めを減らすために、従前の隧道を開削し、そこにプレキャスト材で躯体を作る
・埋め戻す

という手順のようだ。詳細はこちらのPDFにある

中山隧道、水路隧道を堪能したあと、国道291号を東に向かっていたら円筒が目に飛び込んできた。セル式の堰堤だ。

高さは14.5m、遠目に見下ろすのでそれほどでもないだろうが、もし直下に立ったらその塊感かるや相当なものだろう。

周辺は、新潟県中越地震で大きな被害を受け、そこかしこで斜面の崩壊や河道閉塞が生じた。その対策工事はいまもなお続けられているが、この神沢川第1号砂防堰堤もそのひとつ。上流に崩壊土砂が堆積したため、それを受け止めるために作られた。

貯水池の溢流部…とでもいおうか、高いセルの上面よりさらに高い位置なのだが、柵の向こう側に銘板が碑のように立っていた。




かの有名な、国道291号中山隧道を広神から山古志(いまの行政区分でいうと魚沼市から長岡市。ただ、しっくりこない)へ抜け、さらに東に少し行くと、北に入る上り坂がある。入口は狭いが、急坂を抜ければ高地にはのびのびとした棚田があり、とてもよく手入れされている。中山隧道も、その「上の方」に田圃や溜池がたくさんあるが、ここもそんな場所なのだろう。ひとつ違うのは、ここでは水を引けないのか、水路隧道がある。この水路隧道は、中山隧道の説明板に載っていたし、案内標識もあった。

国道から登ったところに広がる田圃から、さらに見上げる高さにも棚田がある。水路隧道への案内看板はないが、谷筋になっている場所に目星をつけて畦道をたどっていくと、奥にひんやりとした空間が見えた。

その手前には真溜池があった。ここを回り込むと水路隧道の前に行ける。この溜池から、冒頭写真左の田に導水している。また、この溜池は養鯉用の水槽も兼ねているようで、テグスのようなものが上部に張られていた。

水路隧道。ただし、坑口前の地面には土が溜まっており、排水はしていない。いささかかび臭い。ヨッキさんなら間違いなく入るだろうな。

これだけの棚田があるのは、水の確保ができるからだ。とはいえこの付近には水源は望めないようで、そのためにこうして水路隧道があるのだろう。では、この水路隧道はどこから引かれているのだろうか。
(クリックして拡大、以下同)
周辺を航空写真で見てみよう。国土地理院が2013年に撮影したCCB20135-C26-3に加筆し、トリミングした。こう見ても、北側の尾根の向こうに坑口が…どころか、この水路隧道すら判別できない。また、画面ほぼ中央に「高台」があり、そこに「水田A」がある(後述)。

(電子国土と5mメッシュ標高データをKashmir3Dで表示)
拡大しないと文字が読めないが、これがその周辺地図。右下が中山トンネル。上記水路隧道の位置をマークしてあるが、こうして見ると、尾根の向こうにはここより標高が高いところがある。こういうことは、水路隧道を彫る前から経験的に知っているものなのだろうか。やはり、ヨッキさんならば反対側も行くだろうな。

先述した「高台」へ。
このように、登る道があった。このまま国道291号に戻るのかと思ってたどってみたら、意外なことに田圃があった。「高台」だと知ったのは、登ってみてからだ。

そこにはこんな田圃が! 周囲を林に囲まれた別天地に見えた。

水害に遭う可能性がないからか、畦もない。段差のない道路から農機が直説田圃に入っていた跡があった。ここは隠れ里のような田圃だった。水はどこから引いているのだろうか。写真上の林の手前に水路のようなものはあったが、ここより低そうだった。

* * *

こんな場所、案内看板や導きがなければまず訪れない。偶然、周辺案内の看板を見たから来たのだが、予想外に素晴らしいものを見せてもらった。今回、棚田と水の関係をがよくわかった。先人たちがここまで切り拓いていて、しかも現役であることにも感激した。

なお、同行した友人に聞いたのだが、水は上から下へ流れるので、「上の田圃」でできる米のほうが上質とされるそうだ。








綾部橋国道27号を遡る形で東へ向かう途中に、給油所の跡があり(後述)、その隣に広大な車庫の跡があった。京都交通の綾部営業所跡だ。この「京都交通」は2004年に会社更生法を適用した会社で、一部の事業は現在、日本交通グループの「京都交通」が引き継いでいる。

広大すぎて、写真に収まらないが、上記の写真の右に切れている建物から。以下すべて敷地外(公道上)から撮影。
 
中央、空いているドアには「京都交通株式会社 綾部営業所」の文字。営業所の事務所棟だろう。その左のドアの向こう(室内)には「待」「←入」の文字が見えるので、左は待合室だったのだろうか。前の空間には残土が積まれている。敷地の管理者は(新)京都交通だ。

右の洗車機は「大型車・外車不可」とあるので、バス営業所内の給油所ながら、一般への給油もしていたのだろうか? 

次いでその左隣の建物。
営業所棟の左側につながっている整備場と事務所棟。事務所棟はこちらも入口の扉が開いている。整備場は大きなもので、10台くらいは同時に入れそうだ。チェーンブロックなどが残されている。

その左、直角の位置に、車庫。
ピットや、高台(なんと言うのだろう、ピットを持ち上げた施設)がある。

トップの写真の右にカメラを振ると、給油所がある。
 
サービスルームがあることから、一般営業もしていたように見える。

【参考】
サイト「一都物語」に、現役当時の写真が多数ある。
http://traffica.6.ql.bz/kyotokotsu/kyoko-list.htm




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