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大糸線に残る、アメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス。なかなか訪ねる機会がなかったが、ようやく現地に行けた。鉄道写真の定番ポイントでもあり、鉄道ファンにも馴染みのある橋梁。奥に見える朱色のトラスドランガー橋は、通橋(かよいはし)。

 
姫川第二ダムの前に架けられており、上2点は姫川の左岸からダムに向かって撮ったもの。点検通路があるため、華奢で美しい姿の全貌は味わえない。

 
こんどは右岸、通橋側から。こちらなら全貌が拝めるかと思いきや、点検通路はこちらにもあるし、右岸側の橋脚は見えないし…。

しかし、手前に旧橋の橋脚がある。このトラスは1954年の架橋だが、旧橋はどんなものだったのだろうか。橋脚の形からして、トラス橋だと思うのだが。

 
このように見える場所まで行ける。銘板はついているようだが、そこまではちょっと近づけない。ここに来たとたん、多くはない電車が警笛を鳴らしつつ、トラスに入っていった。




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20120617_013.JPG久しぶりに、アメリカン・ブリッジのピン結合200フィートプラットトラス。福井県の越美北線の柿ヶ島駅のすぐそばにある。暴れ川である九頭竜川を200フィートのプラットトラス1連と短いプレートガーダー計7連、橋長214mでまたいでいるのだが、こうして見ると、上流なのに川幅がこれだけ広いというのが実感できる。これは、南側の国道158号から見下ろしている。

場所はここ。



20120617_000.JPG反対側から見る。写真左が柿ヶ島駅。

20120617_010.JPG下唯野側の鈑桁。22.3mの6連。

20120617_011.JPG拡大すると「第一九頭竜川」と書いてあるのだが、文字の高さが揃っていない。「第一/頭」「九/竜川」でそれぞれ段差がある。

20120617_012.JPG美しい、9パネルのプラットトラス。

20120617_001.JPG真横。斜材を叩いてゴイーン…ってしてみたい。

20120617_009.JPG下弦。このアイバーの並びが美しい。

20120617_008.JPG柿ヶ島駅からはこの近さ。

20120617_004.JPGここに銘板があるが…

20120617_003.jpg上が、アメリカン・ブリッジの銘板、左右が欠けており、「(AMERI)CAN B(RIDGE)」「(CO)MPAN(Y)」「(N)EW YO(RK)」「(US)A 19(11)」。

その下には国鉄の銘板。
「日本国有鉄道/1962-3/TTR462-1/**** **** /株式会社宮地鉄工所/********」

1962年?

越美北線が、この区間を含む勝原まで開通したのは1960年(昭和35年)12月15日。しかし、ここには1962年の銘板がある、ということは、架け替えられているということだ。

冒頭で、トラスで流路を、鈑桁で溢流部を…というようなことを書いたが、開通時には9連の鈑桁で構成されていた。それが、開通翌年である1961年9月14日から16日にかけて日本各地に甚大な被害をもたらした第二室戸台風による増水で橋脚3基が倒壊、鈑桁も流失した。台風による福井県の被害は、流失・家屋損壊125戸、農地及び宅地の浸水面積3264Ha。この台風により、全国で194名が亡くなった。

復旧工事には、東海道本線の大井川橋梁からの桁を転用した。それが、このプラットトラスだ。宮地鉄工所で改造し、流路部分に架けた。柿ヶ島寄りの1スパンは、コンクリート桁に置き換えた。そのため、9スパンだったものが8スパンになった。

…これは帰宅後にわかったもので、もし事前にわかっていたら、鈑桁やコンクリート桁の銘板類も撮ってきていたのだが…。

ディテール。
20120617_006.JPG20120617_005.JPG20120617_007.JPGさて、どこが改造された部分か。

20120617_002.JPG自分の過去の記事(カテゴリー「アメリカン・ブリッジ」をご覧ください)と見比べても、ちょっとよくわからない。不勉強ですみません。


<参考>
歴史的鋼橋集覧
水害と治水事業の沿革(PDF)

<関連項目>
[西勝原第三発電所の水圧管路と九頭竜川第二橋梁]
[無表情な戦後型のポニープラットトラス]
[小舟渡橋 その1 (福井県)]
[小舟渡橋 その2 (福井県)]
@level_7gさんから教えていただいたこの動画。ひたすらすごい。



東海道本線富士川橋梁として架かっていた、クーパートラス。1908年アメリカン・ブリッジ製で、9連が下り線として使用されていたものだ。それが、使用停止され、2連が転用され、残りはそのまま放置されていた。その撤去の模様である。トラス桁が、橋脚に置いてあるだけ…というのがよくわかろうというものだ。

1975年の航空写真を示す。
20110908map.jpg国土画像情報より転載・トリミング)

3本の橋梁が並んでいる。上から、現在の上り線、現在の下り線、上記動画の廃橋だ。この時点では、まだ全9連が残っている。



富士川橋梁の経緯はこうだ。

・初代桁(単線→上り線)…200フィートダブルワーレントラス、9連
 (1888年9月完成・1889年2月1日開業~1915年)
・2代目桁(下り線)…上記動画の橋梁。200フィートプラットトラス、9連
 (1908年製作、1910年3月6日下り線として開通<=複線化完成>、1956年使用停止。
  1982年8月2日に2連が流失)
・3代目桁(上り線→下り線)…初代桁の架け替え。200フィートプラットトラス、9連、現在の下り線
 (1915年開通。架け替え時、単線運転していたのかどうかは不明)
・4代目桁(上り線)…現在の上り線、200フィート中路鈑桁(3径間連続が3連?)
 (1955年供用開始)

富士川の氾濫の被害にはたびたび遭っており、3台目桁は、1917年の洪水で第8連と第9連の間の橋脚が損傷したため、橋脚を別の場所に作り直し、そのために第8連が150フィート、第9連が250フィートの曲弦トラスになっている。さらに、第4連と第5連は1982年に2台目桁とともに流失している。そのときの写真がある。
20110908-1.jpg富士市のサイトより転載)

この部分は、その後、平行弦ワーレントラスが架けられている。


●参考文献
・『歴史的橋梁を訪ねて 富士川橋梁』(塚本雅啓、鉄道ジャーナル2009年8月号)
・『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一、西野保行、淵上龍雄)
・『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁その2』(小西純一、西野保行、淵上龍雄)


20110601_000.jpg久しぶりにアメリカン・ブリッジ製200フィートピントラスを見に行った。東武佐野線の渡良瀬川橋梁。全18連、うち第15・16連が、クーパートラスである。他の桁はすべて東京石川島製で、スパン等は不明である。写真は上流(西側)から。

20110601_001.JPG美しい。9径間の、典型的なクーパートラス。極めて華奢に見える。それがいい。

20110601_002.JPG大きさ比較用。電車が1両20m、よってちょうど4両編成が1スパンにおさまる。

反対側から。
20110601_004.JPG上流川は点検通路があるので、下流川から見たほうがスッキリしている。

20110601_009.JPG上流側から。


アイバーのディテールなど。

20110601_010.JPG20110601_011.JPG20110601_012.JPG20110601_013.JPG
20110601_014.JPG桁の裏。

20110601_015.JPG橋脚。

桁の幅と橋脚については次回。

20110208-02.JPG


20110208-01.JPG先に紹介した東海道本線上淀川橋梁と、新大阪駅を中心に点対称にした位置にあるのがこの上神崎川橋梁である。

ここはJRの4複線。上の航空写真の右端から、
1)この上神崎橋梁(下り内外線/単線ポニーワーレントラスの並列/1912年●月●日開通)
 #内外線=東海道本線の電車線・列車線の下り。
2)上り内外線(複線ワーレントラス/1930年10月15日開通)
3)梅田貨物線(上下/複線ワーレントラス/1930年10月15日開通)
4)北方貨物線(上下/単線プレートガーダーの並列)。
うち、2)3)は同型である。

この上神崎川橋梁、上写真の右側(北側/右岸側)2連が1912年アメリカン・ブリッジ製である。左側(南側/左岸側)の2連は、のちに増設された桁で、1923年汽車製造会社製である。一見、4連とも同じに見えるがディテールが異なる。

また、橋台・橋脚も見ていただきたいのだが、橋台は煉瓦製、橋脚は鉄筋コンクリート製である。これについては後述する。



20110208-03.jpg手前(画像左)が汽車製、奥(画像右)がアメリカン・ブリッジ製。端柱と斜材が大きく違っている。

汽車線は、端柱も、引張力を負担する斜材(逆ハの字型、端部のみ)はアングル材+板材。アメリカン・ブリッジ製は、どちらもアングル材+レーシングである。汽車製のは、他の斜材は肉抜きの意味でアングル材を梯状につないでいる。

裏側に潜ってみる。

20110208-04.JPG外側線。下弦材の格点に、ガッチリと横桁が接続されている。その横桁の間を、縦桁がつないでいる。

橋脚はコンクリート製。

20110208-06.JPG内側線。外側線と変わらない。

20110208-05.JPGなぜか、並列する外側線・内側線それぞれのトラス桁の間に、レールが渡されている。なんのためかはわからないが、踏み板があるのかもしれない。

振り返って橋台。

20110208-09.JPG外側線の橋台。

20110208-08.JPG内側線の橋台。

見比べると、支承が異なる。外側線は、橋台側が固定で橋脚川がローラー式。内側線は逆で、橋台側がローラー式で橋脚川が固定。前述の、桁裏の写真も合わせてみると、それがわかる。

桁落下防止用の部材は外側線と内側線で高さが異なるが、これは単に「皿」型の上面の部材が干渉しないように少しずらしてあるだけではないか。

橋脚側には落下防止の部材はない。

橋台を斜めから。
20110208-07.JPG
橋台はイギリス積み。

視線を桁に戻す。見上げてみると……
20110208-10.JPG要所要所に補修の跡がある。ボルトがある部分は確実に後年の補修だ。


さて、ここから
吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か
で触れた、ルート変更の話になる。

上神崎川に架かる橋について、『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)はこのように書いている。
明治六年十二月、大阪・京都間起工せられ、同九年九月五日竣工運輸を開始せり(略)上十三川、上神崎川、茨木川、太田川、桂川等(略)孰れも錬鉄製ワーレン構桁(=ワーレントラス桁)径間百フィートのものを架せり。(句読点追加、原文カタカナのため書き換え)
ここに書かれている上神崎川橋梁のスペックはこうだ。

・1876年(明治9)年開通、1913年(大正2年)撤去
・100フィート単線ポニーワーレントラス
・下り13連

いまは4連しかないのだから、100フィート13連というのはおかしい。これは、ここでいう上神崎川橋梁は、現在の同名橋梁とは別の位置にあったためである。即ち、ここである。


いま阪急千里線が神崎川を渡るこの場所が、かつては官設鉄道東海道線のルートだった。上淀川橋梁の記事で触れたルート変更に際し、いったんこのルートは廃止され、それが阪急によって復活を遂げて今に至っている。

撤去された13連はどうなったかというと、兵庫県の有馬線(現在の福知山線)などに転用された。そしてさらに一部は群馬県の長野原線に転用され、それらは1960年までには撤去された。

『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、上神崎川には1899年(明治32年)に上り線として2連が開通したとある。鋼製らしい。まだルート変更されていないのになぜ2連なのか。調べを進めたいと思う。


<参考文献>
『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)
『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)
『地形図でたどる鉄道史 西日本編』(今尾恵介)
サイト『十三のいま昔を歩こう』内『官営鉄道と阪急千里線





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