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20101201-06.JPG都心からもっとも手軽に行ける、アメリカン・ブリッジ製200フィート下路ピントラスが、この村田川橋梁ではないか。

歴史的鋼橋集覧のページはこちら


場所はここ。



ここは川沿いに歩くことができるので(釣りをしている人がいるくらい)、至近距離で眺めることができる。さわることもできる。一見華奢なアイバー(下弦を構成する、◎==◎型の部材)が実は分厚い鋼鉄であるのを確認できる。

さてと。
20101201-01.JPG道路が平行しているので、好きなように撮れる。だが、道路から見て西側にあるため、午後になると逆光になる。

上の写真は道路から撮ったもので、画面奥が蘇我側、左が市原側。蘇我側に踏切があるので、列車が近づくとすぐわかる。また、どこで入換をしているのか、ホイッスルもよく聞こえる。

この村田川橋梁は、典型的なアメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス。9パネルのうち中央3パネルの上弦が下弦と平行になっている。縦桁(枕木が乗る、長手方向の部材)が目立つが、いままで見てきた同型のトラスよりも目立つ感じがするのはなぜだろう。普通は見上げるのでアイバーに隠れて目立たなかったり、点検用の通路があるために目立たなかったところ、ここでは見下ろすので目立ってしまう…というところだろうか。

比較1><比較2

20101201-02.JPG南側の支承と端部。八幡運河橋梁でも書いたとおり、元々は東海道本線の大井川橋梁上り線として1958年頃まで使われいたトラス桁を転用し、1963年にこの地で開通させたものである。よって、桁そのものの作りと橋台がマッチしていない。

端梁から端柱に延びる部材や、ピンに記したマーキングが気になる。ピンは塗装で塗り固められている。

20101201-10.JPGさらに寄る。枕木の下部が縦桁にあわせて切り取られているのがわかる。逆凹型。橋台のレール受け部も凹型になっている。

20101201-09.JPGそのまま端柱を見上げると、「ょ」のあたりに不自然にザラついた部分がある。ボルトの位置からしても、以前はここに銘板があったのだろう。対岸にも銘板はないが、どこへ行ったのやら。

ん? その銘板を留めていたボルト下部の左右にあるはずのリベットが、ボルトになってる?

20101201-05.JPG目を降ろして端梁をふたたび。画像右下、縦桁下部のアングル材が、ほとんどボルト留めに交換されている。

20101201-04.JPG真横から見るとこんな感じ。どうせなら全部交換すればいいじゃん…と思うが、リベットを撤去する作業がかなり大変だからか。

20101201-03.JPGピン結合部を見る。まずは第1パネルと第2パネルの間。下弦となるアイバーだけしかない部分だ。横桁がピンを避けている部分のカーブが美しい。

20101201-08.JPG斜材がある部分はこうだ。1組の下弦材のアイバーの内側に、斜材が入る形になっている。ここで下弦だけの部分を見返すと、斜材が入るスペースにはスペーサーがかましてある。

20101201-13.JPG横から見るとこう。ピンにはマーキングがある。

20101201-07.JPG裏側に潜ってみる。こうしてみると、ピントラスの主役は断面方向の横桁であり、縦桁は横桁に接続されるサブキャラだというのがよくわかる。

20101201-12.JPG西側から全体を。

20101201-11.JPG塗装標記。


日暮れが心配だというのに30分もいてしまった。ピントラス万歳。

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20101118-02.JPG南海の紀ノ川橋梁はふたつある。ひとつはここ、紀ノ川河口にかかる南海本線の橋、もうひとつはもっと上流、橋本付近で高野線が渡る橋である。今回は河口側の橋について書く。


上の写真は左岸(南側)から。向かって左が上り線、右が下り線。簡単に書くとこうだ。

1903年(明治36年)、単線で開通。現在の上り線。ピン結合のプラットトラス。
1922年(大正12年)、複線化。現在の下り線を架設。ガセット結合のワーレントラス。

目的は上り線のピントラス見学だったのだが、上り線は見えづらく、さらにピン結合部分は川の上。近づいて見ることができないので、永居のしようがなかった。間近で見てハァハァしたいのに。

20101118-06.JPG少し離れると全体を見ることができるのだが、せっかくのトラスに木がかかってしまう。本当は河川敷に下りたいのだが、私有地のようになっており(実際はこうした高水敷は私有できないと思う)、さらに「中の人」らしき人がうろうろしていたため、そこに入るわけにはいかなかった。

パッと見、相当長い橋に見える。河口の幅が広いため、なんと22連。対岸側(右岸側、天王寺側)が第1連で、第1~16連と20~22連は径間(歴史的鋼橋集覧による)22.15mの鈑桁、第17~19連が支間(図面による)62.382m(203フィート9インチ)のプラットトラスとなっている。歴史的鋼橋集覧には、トラスについて「1899年A&Pロバーツ設計、1902年アメリカン・ブリッジ製造となっている。一見、トラスは設計と製造の会社が異なっているように見える。しかし、再三書いてきたように、A&Pロバーツは1900年にアメリカン・ブリッジが併合したので、実質は同じ会社である。鈑桁については、現地の桁に銘板はないし、歴史的鋼橋集覧にも記載がない。どこが製造したのだろう?

20101118-04.JPG背後の下り線のせいで、美しいシルエットがいまいち感じ取れない。

この10パネルの203フィートトラスは、アメリカン・ブリッジが大量に製造した単線型200フィートトラス、いわゆるクーパートラスとは異なるシルエットをしている。クーパートラスとは、セオドア・クーパーが設計した日本国鉄向けの標準設計トラスである。200フィート単線下路トラス橋の場合、9パネルで、中央3パネルの上弦が水平となる。対してこの紀ノ川橋梁の設計はA&Pロバーツ。10パネルで、上弦は曲線(格点で折れる)を描いている。また、ピン結合ゆえの下弦のアイバーは、クーパートラスでは下弦すべてがアイバーだが、このトラスは中央6パネル分しかない。

なぜ、クーパートラスではなく、わざわざA&Pロバーツ設計のものを採用したのかはまったくわからない。クーパーが日本国鉄の求めに応じて200フィート単線下路トラスを設計したのは1898年10月。この紀ノ川橋梁のトラスの設計は1899年。同じ「200フィートクラスの単線下路トラス」(支間で1フィートしか違わない)なのだから、すでにある設計をそのまま流用すればいいではないか。いや、正確には既にある「紀和鉄道紀ノ川橋梁(現・JR和歌山線、1930年撤去)」の図面を流用したのだが、そちらがなぜクーパートラスを使用しなかったのか。A&Pロバーツも、アメリカン・ブリッジも、通常のクーパートラスを多数製造している。だからこそ不可解だ。

20101118-03.JPGこうしてアイバーを見ると、多少の歪みがあるのがとても華奢で美しい。下弦が、板状の2枚のアイバーが連続しておらず、形鋼だったりしたら、こういう美しさは感じられないと思う。

20101118-05.JPG橋門構。踏切より。


次に下り線を見る。こちらも踏切より。下り線は8パネルのワーレントラス。ガセット結合だ。

まずは橋門構。
20101118-07.jpgトラスの高さは上り線と同じだが、開口部の高さはこちらのほうが大きい。冒頭の写真で見比べると、こちらのほうが1.5倍くらいありそうだ。ここまで開口部を大きくできるのは、構造がしっかりしているからか。

20101118-01.JPG上流側(左岸、南)から見るとこんな感じ。垂直材が入っていますが、全然萌えない。なぜだ。

この下り線は、歴史的鋼橋集覧によるとやはり22連で、第1~16連と20~22連が73フィート(22.25m)鈑桁、17~19連が62.382m(204フィート8インチ)のトラス桁となっている。どちらも、先に架けられていた上り線のものと微妙に寸法が異なっている。もしかすると、径間と支間が入り交じっているのかもしれない。こちらは、プレートガーダーもインチ表記で残っているのが興味深い。

この紀ノ川橋梁と同じ形の10パネルのピントラスは、ここに書いた例が史上のすべてである。和歌山線に1連、南海に3連。それしかない。和歌山線の1連は、のちに米原駅の跨線道路橋に転用され、1980年まで使われていた。

1975年の航空写真で見てみると、米原駅北東にある、これだろうか。
ckk-75-9_c13_3.jpg国土画像情報から切り出し)


話を戻して、南海本線紀ノ川橋梁の、ピントラスである上り線は、製造から100年を超えた。老朽化を理由に架け替えの話もあったが、結局は補修でいくことになった。そのあたりの経緯はこちら

なお、今回のポストにはwikipedia引き写しに見える部分が多々あるように感じる方もおられるだろうが、ご安心あれ、経緯を引っ張ってきたり元の文章を書いたのは私である。



参考文献
明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1(小西純一・西野保行・淵上龍雄)
明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2(小西純一・西野保行・淵上龍雄)

IMG_0395_R.JPG


米坂線は1926年(大正15年)から1936年(昭和11年)にかけて開通した。この時期には既に橋梁は国産化されている。それなのに、この地に1910年代初頭を最後に輸入されなくなったアメリカン・ブリッジ製の200フィートクーパートラスが架設されている。それは、この地に架けられていた橋桁が水害で被災したためだ。かといって、流失した橋桁が初代かといえばそうではなく、初代の橋桁は1940年に雪崩で流失しているので、このクーパートラスは三代目ということになる。なんだかややこしいが、順を追って書こう。

初代の橋桁(開通時~1940年3月5日)

初代の橋梁がどういった形式だったかはわからないが、水量の豊かな荒川を横切るのだから、現在とスパン割は変わらない200フィートだったのではないかと推測する。1940年3月5日、雪崩が初代橋桁を押し流し、そこにさしかかった列車が荒川に転落するという事故が起きた。橋桁は4~5年の命だった。事故の内容はwikipediaにある。現地には慰霊碑があり、私が訪ねたときでも、まだ添えられて日が経っていない花があった。ご遺族だろうか、保線関係者だろうか。

二代目の橋桁(1940年~1967年8月28~29日頃)

一昨日のエントリにも書いたが、1967年8月28日から翌日にかけての豪雨が「羽越水害」を招いた。羽越水害については小国町のサイトに詳細があるのでそちらを参照していただきたいのだが、このときに二代目の橋桁が流失してしまった。流出したあと、下記の写真のような状態になった。
(小国町のサイト「壊滅した米坂線」より転載)

残された橋脚の位置からして、二代目橋桁は上路トラスで、左手の隧道につながる部分にはプレートガーダーかなにかが架かっていたことがわかる。しかも、現在はトラス橋が第2連だが、この当時は第3連だった可能性もある。あるいは上路ゲルバートラスだったか、などとも考えたが、流失した初代の桁を復旧するという急を要する時に、専用設計のようにゲルバートラスなど架けるとは考えづらいな。ということで上路トラスではないかと想像する。

興味深いのは、隧道坑門の形状だ。これは、後述のスパン割から、隧道坑門ではなく、それをそのまま延長した落石・雪崩防止のヴォールトであろう。そのヴォールト内には地盤があるわけではなく、プレートガーダー橋がある。同じような例は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)の東端部でも見られる。

三代目の橋桁(1968年7月~現在)

さて、橋桁が流失したからといって、さっと別の橋桁を作れるわけではない。他の例でいうと、他の場所に架けようとしていた橋桁を転用したり、橋梁の架け替えで不要となった橋桁を転用したりするものがあった。ここ米坂線には、東海道本線大井川橋梁としてかつて使われていた橋桁を、宮地鉄工所で改造して転用することにした。改造内容は不明であるが、図面番号は「TTR462-2」である。

転用元について、かつて書いたことがある。こちらをご覧いただきたい。
→アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪)


要するに、廃止したまま放置してあったトラス橋の転用先が見つかったのである。架設中の写真が残っている。
(小国町のサイト「復旧から復興へ」より転載)

隧道前に新しい橋脚を設置している。流失を免れた橋脚はあるが、既に足場扱いだ。帰宅してからこの写真を見たので、現地では、その存在を調べなかった。

IMG_0404_R.JPG
(塗装標記に誤記。「支間」が「文間」になっているような気がする。)

第四荒川橋梁は、冒頭の写真で奥(隧道側)から1、2…と連を数える。

・第1連 KS12 スパン12.9m
・第2連 KS14 冒頭のクーパートラス
・第3・4連 KS18 スパン22.3m
・第5連 KS18 スパン12.9m
・第6連 KS18 スパン4.19m
・第7連 KS12 スパン6.70m

ということは、第1・7連はオリジナル、第3~6連は、KS18ということは架け替え済み。第2連は上述のとおりだ。

現在の米坂線第四荒川橋梁は、三世代の桁が同居した橋であった。


18きっぷで出かけた際、ちょっと迷ったがやっぱり立ち寄った。有名な、旧立場川橋梁だ。JRから富士見町に払い下げられた後、結局保存する費用など捻出できず、そのまま放置されていまに至る……というのを何かで読んだ。出典を思い出せない話は、眉唾かもしれない。

下り列車の右側の車窓に、このように見える。
20090118-1.jpg立場川橋梁の向こうに見えるのは中央道、その向こうは八ヶ岳エコーラインの立沢大橋である。上記地図を「写真」にすると、後者はまだ建設中の姿である。


さて、今回は小さなデジイチと安ヅームだけを持って行った。腰痛がひどかったので、荷物を富士見の駅のコインロッカーに収め、カメラだけを持って現地へ行った。そのルートは次のようなものであった。途中、道があるだろう・・・と思って突っ込んだところで道がなくてあきらめたりして余計な動きをしているが、それでも富士見の駅から現地まで15分くらいだったろうか。
20100118-map.jpg


























そして、やっと視界に入ったのがこれだ。
20090118-2.jpgもちろん手前の大きな橋が新線。下り基準で微妙に左カーブしている。架線柱は通常50m間隔、ということはスパンはそれ以上なので60~70m程度か。その向こうに見える立場川橋梁は200フィート、62mである。

新線の「下」に見えているのは八ヶ岳である。左の白いのは阿弥陀岳、その右の黒い三角が西岳である。
20100118yatsu.png

















近づく。
20090118-3.jpg思っていたよりも錆びている。周辺の状況もよくない=じっくり見づらい。

手前側の橋脚にすら近づけず、手前に木が繁茂して視界を妨げる。

カメラが35mm換算28~70mm相当なので、あまり寄れない。それでもピンをのぞき込む。
20090118-6.jpg



















20090118-5.jpg





















この場所で、ふと「上」を見ると、若い男性が携帯で写真を撮っていた。こんなところまできて携帯???とも思ったが、話してみたら相当に若かったので、それもそうなのだろう。ここまで、旧隧道を経由してきたという。私なぞは、ハナから立ち入り禁止だろうと思い込んでいるので道路を歩いてきたわけだが、そのルートのほうが近くて早いのは確実だ。

ひとしきり話をした。ピントラスに興味をもってくれれば幸い。ごく一般的な廃線趣味というか「行ってきたよ」に止まらず、突っ込んでいってほしい。


20090118-7.jpg裏側=北側から見る。こちら側は雪が残り、しかも凍結している。

このあと、次の電車に間に合うべく急ぎ足で戻ったが、ここから10分ほどで駅に着いた。

18きっぷ旅行のアクセントにこうした「歩き」を加える楽しみを知った。それが、前述の万古川橋梁につながってゆく。

(現地地図、展望図はDAN杉本氏作成のカシミール3Dを使用した)

1906年製の利根川橋梁。
この区間の開通は1907年8月27日。
複線化は、ずっと下って1992年9月21日である。
上記衛星写真に写っているのは、左が旧来の橋梁、右が増設部分である。

ここに、1974年度撮影の航空写真を持ってきてみる。
20091119ckt-74-18_c66_22.jpg(国土画像情報ckt-74-18_c66_22.jpgをトリミング)

なんと、複線化の18年も前に既に橋梁の工事は進められていた!

・・・などということはもちろんなく、右側の桁が
表題のアメリカン・ブリッジ製のプラットトラスの生き残りである。

開通時、ここには8連のプラットトラスが架けられた。
その後、1961年2月11日に200ft10連の現在線(画面左)が開通し、休橋はお役ご免となった。

いちいち見せないが、昭和55年度撮影のものにも、
昭和61年度撮影のものにもまだ写っている。
平成2年度撮影のものにて、ようやく姿を消している(橋の前後で複線化工事中)。



一番上の衛星写真でわかるとおり、現在線は連続トラスである。
本流部分でスパンを長くしており、常磐線利根川橋梁の緩行線複線ワーレンように、
スパンの変化する部分で橋高が拡大している。

撤去された橋の銘板等は、どうするのだろうか。
ただの鉄屑となり、再利用されるのだろうか。



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