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2021年2月27日(土)、切通理作さん主宰の阿佐ヶ谷・ネオ書房で開催された『丸田祥三の日本風景論・令和編〜東京物語〜』。刊行準備中の『日本風景論・令和編』のベースとなるもので、既に数回開催されている。今回は「東京論」的な部分となった。

話は多岐にわたるが、特に私が聞き入ったのは、「人の故郷感」を、東京の生まれ育ちの丸田さん、そして参加者の方々からうかがえたことだ。丸田さんは町田での暮らしが長いが、丸田さんにとっては12歳まで過ごした新宿の大京町が故郷、「帰ってきた」感じがするとのこと。とても便利な場所で、まだ都電もそこここが徒歩圏内で、東京の距離感も起伏もそこで培われた。

ここで、二つのポイントがある。「故郷感」と「東京観」だ。(
「故郷感」「東京観」という言葉は便宜的に私が作ったものです



まず「東京観」から。まだ都電がいまの外苑東通りや新宿通りを走っていたころで、電車といえばそれ。長じて東京郊外や地方出身者の持つ東京都心の距離感…地下鉄などの駅で把握していることを知ったときに、その差に驚いたそうだ。「駅で把握している」というのは、例えば「西銀座から東京駅まで歩けるという感覚を持っておらず、電車に乗る」というようなことだ。切通理作さんは阿佐ヶ谷の方でなので、電車といえば中央線。後者だ。

参加者の方々の東京観は、とても個人的なものが多く、これまたおもしろいのだけれど、幼少のころの印象が強く尾を引いている方が多かったようだ。



そして「故郷感」。丸田さんは、国立競技場周辺がまったく違った姿になっていても、故郷感があるという。そういうものだと思う。もし仮にそこが飛行場になってしまったくらいにまったく変わってしまったら違うのかもしれないが、建物の更新くらいでは故郷感はなくならない。この故郷感は、私の関心のあるところだ。

森鷗外は、津和野を出てから一度も戻っていないのに「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したことはよく知られている。人によって、出生地と育ちの地が異なるのに出生地を意識して記載する人もいる。この意識の根底を、いろいろな人に聞いてみたい。

「故郷感」といえば、東京の人は帰る故郷がない、地方出身者がうらやましい…というような、ステレオタイプの観念がある。これは地方出身者による対東京人マウンティングでしかない。東京を「故郷たる価値がない」というのはとてもひどい見方だ。しかし、こういう観念は無批判に受け入れられている気がして、そして、それがマジョリティだとも思っている。文脈として理解しやすいし、物語も描きやすいのだ。もちろん東京の人にとっては東京が故郷だ。

ふと思ったのだけれど、近年の漫画作品で郊外…埼玉県の武蔵野線沿線が舞台になることが多いのは、そういう郊外生まれ育ちの人の「故郷感」が反映しているのかもしれない。そこには「新興住宅地だって故郷たりうる」という念が埋め込まれている気がする。




「故郷感」「東京観」を合わせて考えると、「東京」というのはあまりに広い。浅草生まれ育ちと渋谷生まれ育ちが同じく「東京生まれ育ち」というのはちょっと無理があると思う。一方で、東京では都内で転居するのは当然のことで、生まれ育った家で死ぬまで暮らす人はほぼいないのではないか。
また、親の職業の都合で、短期間で全国を転居している人も少なくない。そういう人の「故郷感」もまたたくさん聞いてみたい。

「故郷感」「東京観」も、おそらくほとんどの人にとっては一つではないだろう。私にとっての「故郷感」は一つだが、「東京観」は、子どものころの印象、上京したころの印象、そしてさまざまな知見を得た現在の印象でどれも異なる。こういうことを考え始めてだいぶ経つので、ナチュラルに東京をどう感じていたかを思い出すことができなくなってしまったが、一つではない「東京観」のうち、印象の強いものを整理していきたいと思っている。きっとこれから得る知識でそれはどんどん変わるとしても。



丸田さんと切通さんによる
『日本風景論・令和編』は、毎回、我々が「当たり前」のこととしていることについて、「ちょっと立ち止まって、それがなんなのか考えてみる」というきっかけをたくさん提供してくれる。私はそういうふうに考えることが好きなので、きっとそうしたものになる書籍も楽しみにしている。

次回の
『丸田祥三の日本風景論・令和編』の日程はオープンになっていなけいけれど、3月末かな? 楽しみにしています。丸田さんと作っている『廃線だけ』は着々と進行中です。



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うかいさんの一連のツイート、ツリーまでご覧いただきたい。これに関してtwitterでは長くなるので記憶を記録する意味でここに書く。



ぼくが初めて鉄道模型を買ってもらったのは、1980年5月、新潟の大和百貨店だった。当時の新潟では、デパートといえば古町の大和。金沢資本のデパートで、新潟市の「渋谷のスクランブル交差点」に相当する古町十字路にあった(いま、ここは完全に過疎化していて、なんとこれからマンションが建つ)。当時はデパート的な店舗は小林から転換した三越と、少し離れて本町に丸大、信濃川を渡って万代にダイエー。この4店舗が主だった。緑屋とイチムラの存在感は小さかった。

その大和に鉄道模型コーナーがあった。そのシマには専門の店員がいた。父がそこに連れて行ってくれて、店員の薦めるままに揃えたのが以下だ。

・関水 固定式線路 レイアウトプラン5(ブリックパック)
・宮沢のパワーパック
・関水EF65(貨物色;カタログにない;上写真の台車とモーターが残っている)
・トミックス ワム23000、ワキ5000(上写真の箱)、レ2900、ワフ28000
・900×600のパネル
・Nゲージレイアウトプラン集

合計19200円くらいだったと思う。見たことがあるのはワキ5000だけ。なぜ「EF65-1000と24系25形が欲しい」と言わなかったのか不思議でならないが、たぶん「買ってもらえるだけ」で嬉しかったのだろう。のちに、貨物色なんて不良在庫を押しつけられたのではないか、と思ったが。



店員曰く「動力車は関水にしたほうがいい。トミックスはダメ。レールもトミックスのものはすぐジョイントがダメになる。固定式がいい」。ぼくはそれが刷り込まれた。のちに、地元でさんざん見ていたEF81がトミックスで模型化されても、全然欲しくならなかった。

たしか大和には、中村精密のN蒸機や16番も置いてあった。レイアウトもあった。おそらく、うかいさんいうところの専門業者が入っていたのだろう。しかし、1~2年すると、専門の店員はいなくなり、無人となってしまった。そこからは売り場の縮小は早かった。そのころから、ぼくはダイエーに行くようになった。

* * *

ダイエーは、当時の関水のカタログによれば「鈴五新潟営業所」が担当していた。たしかNしか扱っていなかったと思う。レイアウトはなかったが、やはり専門のシマがあり、専門知識のある店員が中にいた。その店員さんの名前は知らないけれど、月に2回ほど通ううちに、ぼくの名前を覚えてもらった。ぼくは名札をつけていたし。そこでは線路とパワーパックをユニトラックに買い直し、お年玉をもらうとそこに買いに行った。

中学に入るころにはラジコン売り場も兼ねていて、というか鉄道模型は縮小されていた。同級生たちはそこにラジコンのパーツを買いに行っていた。ぼくもつきあった。ぼくはもう鉄道趣味の熱は冷めていたが、模型を見るのは楽しかった。

肝が冷えた記憶がある。小4のころ、あるところに「自分の写真を売ります」と気楽に投稿した。当時はそういうのがよくあったのだ。年齢などは書かれないので、マトモな写真だろうと思った方々が「リストをください、売ってください」という手紙がてっこう来てしまった。ぼくは強く後悔した。小学生が目測カメラで撮ったひどい写真だ。本当に困って泣きそうになりながらも、出した責任上、リストを送り、驚くべきことにある方は2回注文してくれた。それはそれとして、そのダイエーの鉄道模型売り場に、ぼくが撮ったDD51の写真が貼ってあったのだ。

その写真を送った相手は目黒区在住の大学生、Yさんといったのは覚えていた。あるとき、中学の友人と話していると「ダイエーのYさんがさ…」というではないか。おそるおそるフルネームを友人に聞いたら、まさにその人だった。おおお、では、店員さんは「おれが写真を買った相手は小学生だったのか…だからこんな下手くそな写真を…」と思ったに違いない。

閑話休題。「鈴五」は問屋だろうか。それとも(鉄道模型に限らない)模型店だったのだろうか。ダイエーの売り場は銀河のパーツなども扱っていた。使う当てもなく砲弾型ヘッドライトを買ったりして、それはいまも手元にある。

* * *

小6くらいかはら、ヤママル、今となっては何店か覚えていないのだけれど、そこに行くようになった。在庫がけっこうちゃんとしているのだ。でも、ほどなく鉄道模型を買わなくなった。たまに引っ張り出して走らせることはしても。

ほかのデパートやスーパーがどうだったかは、あまり記憶がない。置いてあった店もあったと思うが、専門の店員がおらず、単に「置いてあるだけ」だったと思う。

こうしたデパート内店舗とは異なるが、実家のすぐ近くにあった模型店「むげん社」には、トミヤマのTEEや16番のペーパーモデルが多数あった。兄はそこで固定式線路からEF65+20系までを揃えた。「むげん社」の話はこちらに。

新潟本町遊郭跡 1958~1967(?)の住宅地図と1980年代の違い(2)
一昨年に父が亡くなるのに前後して、実家では思わぬものが出土したりしていた。そのなかに、ぼくの旧実家の、昭和5年に建てたときの間取り図があった。

その旧実家はおもしろい造りをしており、3世帯が住んでいた。ぼくの家族(祖母は二女・5人)、大叔母(五女)とその息子(2人)、大叔母(七女・独身、1人)である。風呂は一つ、トイレは二つ、階段は三つあった。加えて、実家は文房具や駄菓子、雑貨を扱う店をしていた。その建物は昭和56年に解体され、いまの家が建った。

とはいえ、ぼくが暮らした旧実家は、実は昭和42年頃に父母の結婚に合わせて内部を改造した後の姿。ここでご覧に入れるのは、昭和5年に新築した当時の間取りである。戦後に1階の表の部屋を店舗に改造している。

 
上の図でいうと、Aが磯部家、B・Cは親戚等に貸していた。いくつか入れ替わりがあったようで、最終的には上述の通り、B(2階のみ)に大叔母(七女)、Cに大叔母(五女)とその息子が住んでいた。

さて、単純に間取り図を見ると、14部屋ある。カッコ内は改造後の姿だ。6畳と4畳半が目立つ。押入は少ない。ぼくの家である「A」の廊下が広く、1間ある。たしかにそれくらいあった。余分なスペースは物置になっていたと思う。残念ながら、家の中の写真は残っていない

3月26日付の、新潟県による建築認可証の印が残っている、



ぼくは10歳まで旧実家に住んでいた。ふと気づいたのだが、新築後の家は浪人生のときまでなので、旧実家で暮らした時間のほうがわずかに長い。
 
(国土地理院の空中写真CB811-C7-2をトリミング・加筆)

新潟の日和山浜海水浴場の砂浜には、なぜか、場違いに大きなヤドカリが砂浜で干からびていた。オカヤドカリではない、海性のヤドカリだ。突堤から見ると、砂の海底を這っているヤドカリもいた。しかし、このへんは砂浜で、そんな巻き貝はまったくいない。だから、そんなヤドカリがたくさんいるわけがない。

突堤にはガザミもいた。そんなものがいる海域ではない。突堤には、せいぜい、甲羅の左右が数cm程度の蟹がいる程度だ。巻き貝だった1cmくらいのものだ。

あるとき、その謎が解けた。漁船だ。時々、砂浜の掘立小屋に(たぶん)網ごと揚げ、はずした魚をその場で売っていた。そのとき、ひっかかったヤドカリを捨てるのだ。ヤドカリは運がよければ海に戻る。運が悪いやつは、砂浜で干からびる。

その小屋は、たぶん上の空中写真で、砂浜の矢印部分にあった。漁船は、沖合のテトラ(いまはほぼ撤去され、砂浜が拡大したせいで、砂浜から10mくらいのところの海底にある)の切れ目から矢印のように入ってきて停泊し、網を掘立小屋まで持ってきていたのだろう。

一度、覗いたことがあるが、エイとかカレイなんかが、わりとざっくりと売られていた気がする。市場に出すのではなく、近所の人にうりさばくスタイルだったのだろうか。

「栄小学校」の裏の松林に、漁具を入れておく小屋があった。海風で錆だらけの2ストのジムニーも駐まっていた。いまは小屋はなくなってしまった。なんらかの既得権益ゆえの存在だったのかもしれない。

* * *

海岸線と並行にある、細長い建物は浜茶屋。東京の言葉でいうと「海の家」だ。「三八亭(さんぱちてい)」ほかいくつかが並んでいた。ぼくは自宅から水着で直接海にいく環境だったので、まったく利用したことがない。

いま、その位置には道路が走っている。砂浜は拡大され、突堤ももっと長いものがいくつか建設されている。


松村大輔さんの『電話マーク展』と、それに伴う藤本健太郎さんとのトーク第一部『電話マーク拾番勝負』、hacoさん×猿田妃奈子さん×松村さん×藤本さんのトーク第二部『テレフォン☆メモリー』を堪能してきた。



第二部で、みんなの携帯電話履歴とその思い出話が展開されたので、もう何の機種を使っていたかも覚えていないのだけれど、覚えている部分のみ、書いてみるす。すべてNTTドコモ。画像は公式サイトよりリンク。●=本流=いまに続く電話番号、○=並行所有。

●デジタル・mova N103 HYPER
 

1996年初夏、友人たちとキャンプツーリングに行ったとき、道中でエンジントラブルに見舞われた有人がいた。20台ほどだったけれど、携帯電話を持っていたのは二人。それで便利さを痛感し、購入。当時はストレートが一般的で、折りたたみは(たしか)NECのみ。ちょっと前まで10万円でしたが、かったときは8万円強。しかし、秋口に、バイクのタンクの上に載せて(←バカか…)環七を走っていたとき、ちょっとしたサスの上下動で路上に落ち、真っ二つに。数ヶ月の命だった。

● デジタル・mova N202 HYPER

1996年夏、仕方なく、再度購入。もう5万強まで下がっていた。

○デジタル・mova P202 HYPER(?)

1996年秋、そのN202が壊れた。なぜか電源が入らない、とかだったと思う、当時有楽町にあったドコモのサービスセンターに行き、メーカー預かりになった気がする。結果的に新品と交換となったのだけれど、預けている既刊にも携帯は必要だったので(代替機の貸与などなし)、当時、つきあいのあった携帯電話加入窓口業者に頼み、融通してもらったのがこれ。もちろん新しい電話番号。

まだ携帯を持っていなかった友人と『白山』で新潟に行くことになっていた。ぼくが切符を持っていた。上野駅の特急ホームの改札で待ち合わせとして、何かあったら新しい電話番号にかけてくれと伝えていたのに、相手が現れなかった。ぼくはといえば、まだ携帯を持っていなかった友人の留守電に何度も吹き込んだ。当時は、留守電を出先から聞く、というのが当たり前だった。

ところが現れないので、やむなく一人で『白山』に乗車して、長野経由で新潟に向かった。ぼくは改札が二つあることを知らず、相手は新しい電話番号のことを忘れていた。相手はいったん帰宅後、新幹線で新潟に来た。

この端末は、N202の修理があがってきたら即解約した。本来なら違約金が発生するはずだが、出入り業者がかぶったのか、ぼくのところには請求はこなかった。

●デジタル・mova N206 HYPER(?)デジタル・mova N207 HYPER(?)

1998年。次はN206かN207。N202が壊れたのかどうか覚えていないが、買い換える必要があったのだろう。この頃には1万円台になっていたと思う。N206かN207かわからない。


●デジタル・mova N503i HYPER(?) 

2001年頃から使っていた気がする。N501やN504という型番も記憶にあるが、時期的にあわないので、家族の誰かがそれを使っていたのかもしれない。

●mova N211iS(?)


211という数字は覚えているので、おそらくこれを使っていたと思う。2005年1月、只見線沿線で除雪車の撮影をしている時に、アウターのポケットから落としたらしく、撮影場所からクルマで移動後、気がついて戻ったら、道路をロータリー車が除雪した後だった。つまり、端末は木っ端微塵となって雪とともに遠くに投げられてしまった。

●mova D253i(青)



2005年1月頃、代替として購入。もうNにこだわらなくなったのは、安さのほうをとったのだ。ところが、軽量で、スライドの感触もよく、すごく好きになった。この頃から「D=フリップ式」ではなく「D=スライド式」となる。

 
『やれたかも委員会』で登場した。2017年のマンガである。びっくりした。文末の写真のとおり、この端末はいまも家にある。

●FOMA D903iTV

2007年頃。おそらく通信速度の都合かなにかで、movaからFOMAに切り替えた。たぶん安かった。この頃はワンセグが流行っていて、この機種はテレビがウリだった。ぼくは全然テレビは見ないのだが、2011年の東日本大震災の時もこれを使っていて、町田市内で仕事をしていて地震にあったぼくはこれでテレビを見て情報を把握するようにした。

 
1280×960のカメラの画質はこんな。晴れの屋外で、である。

ガラケーはこれが最後。2012年に次項のSH-03Aを会社に返却したため、ようやくスマホに切り替えた。

○docomo PRIME series SH-03A(たぶん)

2008年、仕事用として勤務先で購入。ぼくが管理していた。2012年まで、iモードサイトの動作チェック等に使用していたが、パケホーダイだったので、私的にも便利に使わせてもらった。twitterは「Yubitter」を愛用していた。

●Xperia acro HD SO-03D

2012年、仕事の都合で「パケホーダイ」だったSHがなくなったので、ようやくスマホに。9万円くらいしたはず。2013年末、出張先の小倉で「バチッ」という音とともに起動しなくなった。

●Xperia Z1 SO-01F

2013年末、代替品として購入。8~9万円したはず。カメラのレンズが徐々に傷ついたのでバックパネルを交換。また、電池を異様に消耗するようになったので電池も交換(いずれも自分で)。2017年秋まで。以降、HUAWEI端末に。

* * *


いま手元にあるガラケー2台。これ以外は、機種変更等の時に下取り的に渡している。右のD253iの内容はすべて飛んでいた。もともと取り出す方法もなかったので、写真が失われた。左のD903iTVは写真などが残っていた。




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