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松村大輔さんの『電話マーク展』と、それに伴う藤本健太郎さんとのトーク第一部『電話マーク拾番勝負』、hacoさん×猿田妃奈子さん×松村さん×藤本さんのトーク第二部『テレフォン☆メモリー』を堪能してきた。



第二部で、みんなの携帯電話履歴とその思い出話が展開されたので、もう何の機種を使っていたかも覚えていないのだけれど、覚えている部分のみ、書いてみるす。すべてNTTドコモ。画像は公式サイトよりリンク。●=本流=いまに続く電話番号、○=並行所有。

●デジタル・mova N103 HYPER
 

1996年初夏、友人たちとキャンプツーリングに行ったとき、道中でエンジントラブルに見舞われた有人がいた。20台ほどだったけれど、携帯電話を持っていたのは二人。それで便利さを痛感し、購入。当時はストレートが一般的で、折りたたみは(たしか)NECのみ。ちょっと前まで10万円でしたが、かったときは8万円強。しかし、秋口に、バイクのタンクの上に載せて(←バカか…)環七を走っていたとき、ちょっとしたサスの上下動で路上に落ち、真っ二つに。数ヶ月の命だった。

● デジタル・mova N202 HYPER

1996年夏、仕方なく、再度購入。もう5万強まで下がっていた。

○デジタル・mova P202 HYPER(?)

1996年秋、そのN202が壊れた。なぜか電源が入らない、とかだったと思う、当時有楽町にあったドコモのサービスセンターに行き、メーカー預かりになった気がする。結果的に新品と交換となったのだけれど、預けている既刊にも携帯は必要だったので(代替機の貸与などなし)、当時、つきあいのあった携帯電話加入窓口業者に頼み、融通してもらったのがこれ。もちろん新しい電話番号。

まだ携帯を持っていなかった友人と『白山』で新潟に行くことになっていた。ぼくが切符を持っていた。上野駅の特急ホームの改札で待ち合わせとして、何かあったら新しい電話番号にかけてくれと伝えていたのに、相手が現れなかった。ぼくはといえば、まだ携帯を持っていなかった友人の留守電に何度も吹き込んだ。当時は、留守電を出先から聞く、というのが当たり前だった。

ところが現れないので、やむなく一人で『白山』に乗車して、長野経由で新潟に向かった。ぼくは改札が二つあることを知らず、相手は新しい電話番号のことを忘れていた。相手はいったん帰宅後、新幹線で新潟に来た。

この端末は、N202の修理があがってきたら即解約した。本来なら違約金が発生するはずだが、出入り業者がかぶったのか、ぼくのところには請求はこなかった。

●デジタル・mova N206 HYPER(?)デジタル・mova N207 HYPER(?)

1998年。次はN206かN207。N202が壊れたのかどうか覚えていないが、買い換える必要があったのだろう。この頃には1万円台になっていたと思う。N206かN207かわからない。


●デジタル・mova N503i HYPER(?) 

2001年頃から使っていた気がする。N501やN504という型番も記憶にあるが、時期的にあわないので、家族の誰かがそれを使っていたのかもしれない。

●mova N211iS(?)


211という数字は覚えているので、おそらくこれを使っていたと思う。2005年1月、只見線沿線で除雪車の撮影をしている時に、アウターのポケットから落としたらしく、撮影場所からクルマで移動後、気がついて戻ったら、道路をロータリー車が除雪した後だった。つまり、端末は木っ端微塵となって雪とともに遠くに投げられてしまった。

●mova D253i(青)



2005年1月頃、代替として購入。もうNにこだわらなくなったのは、安さのほうをとったのだ。ところが、軽量で、スライドの感触もよく、すごく好きになった。この頃から「D=フリップ式」ではなく「D=スライド式」となる。

 
『やれたかも委員会』で登場した。2017年のマンガである。びっくりした。文末の写真のとおり、この端末はいまも家にある。

●FOMA D903iTV

2007年頃。おそらく通信速度の都合かなにかで、movaからFOMAに切り替えた。たぶん安かった。この頃はワンセグが流行っていて、この機種はテレビがウリだった。ぼくは全然テレビは見ないのだが、2011年の東日本大震災の時もこれを使っていて、町田市内で仕事をしていて地震にあったぼくはこれでテレビを見て情報を把握するようにした。

 
1280×960のカメラの画質はこんな。晴れの屋外で、である。

ガラケーはこれが最後。2012年に次項のSH-03Aを会社に返却したため、ようやくスマホに切り替えた。

○docomo PRIME series SH-03A(たぶん)

2008年、仕事用として勤務先で購入。ぼくが管理していた。2012年まで、iモードサイトの動作チェック等に使用していたが、パケホーダイだったので、私的にも便利に使わせてもらった。twitterは「Yubitter」を愛用していた。

●Xperia acro HD SO-03D

2012年、仕事の都合で「パケホーダイ」だったSHがなくなったので、ようやくスマホに。9万円くらいしたはず。2013年末、出張先の小倉で「バチッ」という音とともに起動しなくなった。

●Xperia Z1 SO-01F

2013年末、代替品として購入。8~9万円したはず。カメラのレンズが徐々に傷ついたのでバックパネルを交換。また、電池を異様に消耗するようになったので電池も交換(いずれも自分で)。2017年秋まで。以降、HUAWEI端末に。

* * *


いま手元にあるガラケー2台。これ以外は、機種変更等の時に下取り的に渡している。右のD253iの内容はすべて飛んでいた。もともと取り出す方法もなかったので、写真が失われた。左のD903iTVは写真などが残っていた。


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11月15日は、私にとっては特別な日付。昭和57年の「佐渡8号」の記事を書こうと思ったら、それは11月12日のことだったので、翌13日のことを書く。合わせて下記もご覧いただきたい。

11月14日によせて ~昭和57年11月14日から28年~
11月14日によせて。昭和57年から30年。



昭和57年11月12日(金)の夜に新潟を出た私と母は、「佐渡8号」で早朝の上野駅に着いた。そして、この「国電フリー乗車券」を買い、私の目論見では全駅に下車し、全駅で硬券入場券を買うつもりだった。

どういう順番で回ったかは覚えていないが、手元には、券面のうち、一部を除く全駅の入場券がある。そんな好意に付き合わされた母は、総武線のどこだかの駅で「一人で行ってこい」と行って休んでいた記憶がある。また、最後は私も疲れたのと、「快速」「緩行」がわからなかったので、回りきれなかった駅がある。

上の「国電フリー乗車券」、唯一の途中下車印は東京駅。東京駅は、ラッチ内の新幹線改札口で、新幹線ホームへの入場券としてのみ、赤いインクの硬券があった。それを買った印として押されたものだ。鋏痕を入れる場所がなくなり、券を折って内側に入れられはじめたので、途中から見せるだけでパスしていた。ふたつのそれは、当該の位置にある駅のような気がして鋏痕データベースを見てみたけれど、該当する駅は違った。

当時、私は手書きの看板である鳥居形の駅名標と、硬券入場券が大好きだった。この、東京の入場券は、新潟で買えるのとは仕様が異なる。ちょっと忘れてしまったが、当時九つだかの印刷所があり、微妙に仕様が異なるのだ。この関東の仕様は「旅客車内に立ち入ることはできません。」が、長体がかった書体で1行で納められている(活字なので「長体」ではないが)。

このとき買った入場券は、このような形でいまも取ってある。いま見返すと、下記のとおり。

●硬券
東京駅(赤。新幹線改札口)、有楽町、新橋、浜松町、品川、大崎、恵比寿、渋谷、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、巣鴨(料金変更)、駒込、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野/板橋、十条/上中里、王子、東十条、赤羽/御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、信濃町、千駄ヶ谷、(中)大久保、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪/松戸/市川/大森

●窓口のマルス券しかない(という応対)
田町、五反田

●券売機しかない(という応対)
目黒、御徒町、秋葉原、神田

それぞれ、駅の窓口で「硬券入場券ください」と告げて買っていたのだが、マルス券か券売機しかない駅に、実際になかったのかどうかはわからない。予備で持っていたとしても、それを使わずにマルス券を販売されたり、券売機を推奨することは、業務としては当然ではあるからだ。

ここにない駅は、行かなかったか、窓口で自動券売機券しかないと言われて買わなかったかのどちらかだ。

いまから33年前の今日、私はこんなことをしていた。
実家は1981年に建て替えた。元の家は昭和一桁の築で、私の家族、大叔母とその息子、別の大叔母(独身)の3世帯同居、家の中に階段が三つ、台所が三つ、トイレが二つ、風呂がひとつあった。当たり前だが、全部和室だった。

廊下との仕切りは全てガラスの入った障子戸か襖だった。そのガラスは、戸によって違っていた。割れたら取り替えるからである。

ガラスは近所の人…たぶんガラス屋さんというわけではない、建具屋さん? 内装屋さん? とにかくその人に来てもらって、あり合わせのガラスを入れてもらった。戸のガラス押さえは木枠であり、金色の鍋頭の細くて小さいメクギを抜いてガラスを入れ替えていた。

…いまのいままで「メクギ」は「女釘」だと思っていたが、変換したら「目釘」と出た。それでは刀の用語になってしまう。果たして?


さて、ガラスが戸によって違っていたという話である。いま地方で空き家を見かけると、ガラスを見る。懐かしい、見覚えのあるガラスがはまっていることがあるのだ。新潟市内で採集したいくつかのガラスを紹介する。

多数の立方体に見えるこれは、こちらのサイトでは「キララ」となっている。

これは「銀河」というようだ。八方位みたいな模様の間を細かな砂利模様がびっしりと埋め尽くしている。

これはなんだろう? 子供の頃は「鵜の足」という貝を連想させるものだと思っていた。


いまの家はすべてアルミサッシであり、ガラスも破損時に飛散しないように線入りになってしまった。そしてとても頑丈になった。古いガラスは少しぶつかるだけでよく割れたものだ。







タイミングよくゴールデンウイークに10連休をとることができた上に、ひとりででかけてもいい状況にもなったので中国地方に行ってきた。ログは上記の通り(dakota20で取得、kashmir3Dで日付ごとに編集、KMLに書き出してGoogleEarthで表示)。

走行距離3190km、累積標高4万4957m、移動時間110時間48分19秒。まあ、こんなものだろう。1日にもっと長く走る人もいると思うが、距離を競っているわけではないし、沿道で出会うものが多いほど、距離は減っていく。道中すべて車中泊。

連日好天に恵まれたため、およそ2000カットも撮影してしまった。撮影した橋や建物等については省略する。

●4/27(土)自宅→嬉野
移動。

●4/28(日)嬉野PA→大塔
『廃線跡の記録4』でLEVEL_7Gさんがレポートしている国見山鉱山の廃線跡へ。上部軌道にはおかしな橋がたくさんあった。偶然にも、土中に半分埋もれていたというD-507の解体作業を目にする。

●4/29(月)大塔→御坊→吉備
紀州鉄道に乗る。

●4/30(火)吉備→津和野
広島の橋等をめぐりながら。

●5/1(水)津和野→三次
観光地としての津和野ではなく、地形や集落について体感しに。

●5/2(木)三次→高梁川沿い→岡山

●5/3(金)岡山→倉敷→加茂川
岡山で開催されている『ピクトさん展』を見に。ここで内海さん、ポールさん、のむたいさん、小鳥遊さんとお会いする。岡山電気軌道、水島臨海鉄道も乗る。

●5/4(土)加茂川→津山→柵原→若桜
津山の機関庫と片上鉄道保存会の動態保存を見る。

●5/5(日)若桜→浜坂→余部→京都南→赤塚
若桜のC12運転→山陰のラティストラスへ。

●5/6(月)赤塚→東名→自宅
渋滞がこわいので午前10時前には帰宅。



撮ってきた写真を全部書くまで2ヶ月分以上の素材がある。お楽しみに。
20121125_000.JPGここに、1枚の国鉄柏崎駅の入場券がある。私が生まれる6年前の3月。今は亡き母方の祖母から預かったものだ。祖母は柏崎に住んでいた。

「汽車が好きらろ? これ、持ってけっや。おれが持ってても、死んだらどうなっかわかんねっけの」

祖母はそんなことを言いながら、きっぷを集めていた小学生、たぶん6年生くらいだったと思う、その私にこの入場券を寄越した。祖母の家に遊びに行くのが最大の行楽だった、昭和50年代後半の話である。

祖母がこの古い入場券を持っていたのは、偶然ではない。ちゃんと、取ってあったのだ。十数年、仏壇の下の引き出しに入れて。

20121125_001.JPG裏を返すと、ボールペンでこう書いてある。

41年3(月)20日
君代の見送り


「君代」とは、私の叔母の名である。当時18歳の叔母が、就職のために柏崎駅を後にするときの、その母による見送りの印であった。小学生とはいえ、私がそんなものを受け取っていいのかというためらいはあったが、「持ってれ(持ってろ)」と言われるがままに、大切にしまった。新潟の家に帰り、母にその話をした。

私はきっぷを手製のクリアファイルに貼って保存していたが、この入場券はそうする気持ちにならなかった。この裏面が見えるようにしたかった。といって、バラで持っていたらなくしてしまいそうだ。そこで、プラ板で挟んで、ファイルに綴じておいた。写真の下側、磨りガラスのように見えるのは、プラモデル用接着剤の刷毛の跡である。



いま思えば、なぜ祖母は私にこれを託したのだろうか。孫は私を含めて10人いた。昭和41年に見送られた叔母も既に柏崎市内に戻って住んでおり、私と同世代の子どももいた。また、直系の孫も同居していた。なのに、なぜ私に?

理由などない、のが正解である気もするが、そうでもないかな、という自惚れた思いもある。

家族で祖母宅に遊びに行ったとき、いつも子どもたち同士で最大6人くらいで同じ部屋に寝ていた。親戚宅というのはそういうものだろう。しかし、ときどき、私だけが祖母の部屋で寝泊まりした。また、祖母宅に行けば、私が幼少の頃に亡くなった祖父のために、私が一番に仏壇に線香をあげていた。別に祖父に特別な思いがあったわけではない、実は名前すら知らない。ただ「そうするのが普通だ」と思っていただけだ。それを、祖母はとても喜んでいた。一度だけ、インスタントコーヒーを飲む祖母を見て、あまりに祖母と似つかわしくなくて、「コーヒーなんか飲むんだね!」と言ったら、「ちょっとつらいことがあったときに飲むんだわ」と言っていた。祖母は、私を少しだけ、ほかの孫たちよりも大事に思っていてくれたのかもしれない。そして、「汽車が好き」ということで、このきっぷを託していいと思ったのかもしれない。

それから何年か経ち、昭和63年に祖母は亡くなった。もし、この時点で私に託していなかったら、遺品としておそらく叔母の手元に渡っただろう。叔母ももういい年だ。昭和41年から47年も経っているのだ。いままで漫然とこの入場券を手元に置いておいたけれど、いつか、「預かっていたよ」と、渡さなければいけない気がするのだが、その時のことを考えると、なぜか涙がにじむくらいなので、笑って渡せる自信はない。





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