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紅林章央さんから「多摩川大橋には、建設院の銘板がある」と教えていただいたので、見に行った。


左岸の下流側にある。

昭和弐拾参年
建設院建造
内示(昭和拾四年)壱等橋
製作 日鉄八幡製鉄所 工務部(←たぶん)
太平工業株式會社

建設院は、6カ月と1日しか存在しなかった、建設省の前身となる行政機関。たしか、橋梁銘板としてはこれしかないと紅林さんにうかがったような…。

 
左岸上流側の橋詰、交番の向かいには「TAMAGAWAOHASHI」というロー目地の銘板。これは珍しい。「O」は長音表記。

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十勝港の柵は、一目見て、プレートガーダーを転用したものだとわかる。

 
向かって左は添接板があり、垂直方向の補剛板の間隔が狭い。対して、向かって右は、補剛板は2枚しかない。

また、補剛板はおろか、フランジまでもが曲がっている。どれほどの衝撃があったのか。もしかしたら、落橋するなどの被災桁かもしれない。


1枚のプレートを切断したのか。写真左の「板」の他端が、下記のものだ。

 
やはり溶断されている。







水郡線の西金-上小川間にふたつある、久慈川を渡る橋梁のうち、南側のもの。下り向きで左にカーブしながら渡っている。

橋脚は石積み…に見えるが、それが剥げたところから骨材である河原のと思しき丸い石が見えるので、コンクリート製だろう。1925年の開通なので、時期的にも合う。

橋脚の基部はコンクリートで補強がなされている。橋脚の側面上部についている鉄のプレートのようなものはなんだろうか。かつての点検用設備の名残か。


柏崎市 鵜川の改修跡と元・氾濫原で書いた鵜川にかかる橋。写真は右岸。対岸左(上流)のこんもりしたところがかつての「大久保陣屋」跡で、そこに柏の木があり、海上から見えたところから「柏崎」の地名が生まれたという説がある。また、対岸右には、柏崎ぎおんまつりの八坂神社がある。もちろん京都の八坂神社を勧請したものだが、この名称になったのは1872年(明治5年)とのこと。その名がつけられた橋だ。かつては最下流の橋だったが、いまはさらに河口側にひとつ、橋が架かっている。

イメージとしては、柏崎の西本町の商店街がここ鵜川で途切れ、渡って西側に行くと、いかにも「海辺の住宅地」という風情になる。

おもしろいのは親柱内側につけられた銘板で、ローマ字表記だ。それも日本式の。「YASAKABASI」と「SHI」ではなく「SI」になっている。

もうひとつの銘板は道路名が入っているのだが、「市道拍崎1の2号線 昭和五十九年七月竣功」とある。「柏崎」の文字が誤っている。どうしたらこんな間違いが起こるのだろうか。県外の人が製作したのだろうか。また、埋め込む前に気づいた人がいないわけはないだろうが、なぜ作り直させなかったのだろうか。

また、道路名は掘り込まれ、竣功年は陽刻になっている。文字の形も違う。どうしてこうなったのか知りたい銘板だ。





高萩駅付近の跨線橋(歩道橋)その1の続き。

高萩駅のホームからも、跨線橋(歩道橋)が見える。写真はホームの東側。けっこうなスパンをとばしているプレートガーダーだ。左側の桁、よく見ると扉のようなものがある。

ここに階段をつけようとしたのだろうか? 開口部は桁の上3分の2くらいで、下3分の1は構造として生きているように見える。いや、それよりも桁の下部にある補強が気になる。ここを開口部としたことで大きく損なわれる強度を補っているのだろう。

写真左端、橋脚は「その1」のフィーレンデールトラスト同じくラーメン構造だ。

ホームを挟んで西側。橋脚の上には「その1」の東側と同じように小さなコンクリート床版が載っている。

そしt、こちらも開口部と、その下部の補強がある。ただし、補強の形は前述のものと異なり、細い。これは、開口部より外側(橋脚側)が短いからだろう。






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