上越線 第一利根川橋梁(群馬県)
上越線 第二利根川橋梁(群馬県) 上越線 第三利根川橋梁(群馬県) 上越線 第四利根川橋梁(群馬県) 上越線 第五利根川橋梁(群馬県) 上越線 第六利根川橋梁(群馬県) 上越線 第七利根川橋梁(群馬県)の続き。 第七から踏切を挟んですぐの橋梁。名称は第七だったような記憶があるのだけれど、歴史的鋼橋集覧では第七は踏切より西のものがそれと定義されているし、他の資料を見てもそうだった。 川は渡らない。地形的な他にを跨ぐのみ。その下は、もしかしたら藤原ダム建設以前は河原だったのかもしれない。第七との境の踏切は、水上駅から国道291号に至る道。その道が利根川を渡る橋の竣功年を見ておくべきだった。そうすれば、その築堤がいつ築かれたのか推測できたのに。 橋梁名すらはっきりしないけれど、書く。 この橋は、対岸の桁下に道があるのでそこも行っておくべきだった。再訪しなければならない橋が、この名称すら不詳の橋だ。 架線と接触することを防止するガードが架線柱に見える。なんというトリック。 PR
上越線 第一利根川橋梁(群馬県)
上越線 第二利根川橋梁(群馬県) 上越線 第三利根川橋梁(群馬県) 上越線 第四利根川橋梁(群馬県) 上越線 第五利根川橋梁(群馬県)の続き。 沼田の手前、第五利根川橋梁で利根川の左岸に渡った上越線は、そのまま水上まで左岸を北上する。ここまでの上越線は、上下線がほぼ並行して敷かれているが、ここからは複線化の際に、新線をまったくの別ルートでつけた部分も多くなる。 水上に着く直線、車窓左手に諏訪峡、その向こうにホテル街が見えるが、そこは単線のように見え、上り線が見えない。上り線は山側を隧道で一直線に貫いている。 水上駅の「山間ぶり」はかなりいい雰囲気で、大好きな駅であるのはこれまでも繰り返し書いてきた。ここまでは、それでも人家と離れずに来たが、とここからは急に人気がなくなる区間を行く。水上駅を過ぎると、すぐに三回連続して橋梁を渡る。水上の手前からカーブが連続して、しかも橋を三回もかけなければならない(うち利根川を渡るのが2回)のは、線形を決める上で悩ましい選択だったろう。その一つ目が、この第六利根川橋梁だ。最初に開通したのが上り線、複線化で増設されたのが下り線だ。歴史的鋼橋一覧の記事はこちら。 こうして見ると、上り線も下り線も同じ淡緑色+コンクリート製橋脚なので、一見、どちらが古いのかわからない。古い桁(手前)の橋脚は円柱だが、対して新しい桁(奥)はT字型をしている。架線柱は、更新されることもあるので一概には言えないだろうが、古い桁が門型、新しい桁が1本型だ。 とくになにか特徴があるわけでもないの第六。川幅は50~60mくらいしかないのに、斜めに横断せざるを得ないため、橋長は約200m。前述の通り、線形選択の落としどころがこれだったのだと思うと、この、どこにでもある形の橋が愛おしく見えてくる。 写真右が加太駅。シェルターがちらりと見えている。 橋脚は、隅石を配した煉瓦製。上部がコンクリート製なのは、後から継ぎ足したのか、それとも補強したのか。
大正十三年
大阪鉄工所製作 LIVE LOAD:****-ER* E-** 鉄道省 (以下不明) 塗料が分厚く、判読できない。 この区間が関西鉄道として開通したのは1890年(明治23年)。桁製作の大正13年は1924年だから、開通後、まだ34年しか経っていない。鉄製橋梁、時代的に鋳鉄かもしれないが、それが34年しか使われなかったというのは腑に落ちない。以前の桁はどんなだったのか。 スパン割からして似たような桁が架かっていたのだろう。鉄製か、あるいは木…いやそれはないか。関西本線は官設鉄道に準じた鉄製桁を多数設置していたはずだし。 橋梁史年表によれば、データは下記の通りの、鈑桁とRC桁を組み合わせた8連の橋梁である。 ・開通年月日 1957年8月1日 ・橋長 108m ・詳細 RC桁(8.2m*か6.6m)+19.152m鈑桁×2(再用桁)+12.9m鈑桁×4+RC桁(8.2m*か6.6m)(小出方=画像左から) *『鉄道ピクトリアル』2010年11月号に掲載されている線路一覧略図(1982年)によれば18.2mとなっているが、それでは橋長が114mを越えてしまい、橋梁史年表および『田子倉発電所建設用専用鉄道工事誌』掲載の地図(の転載)にある「橋長108m」と矛盾するので、「18.2m」が誤記であると推測する。 なお、上の写真に写っている方とお話をしたけれど、何の調査をしていたかは聞いていない。 西側から見て行く。RC桁を撮っていないのは、なんというか…。いかんな。 設計 新橋工事局 施工 佐藤工業KK 設計荷重 KS-15 基礎工 コンクリート 基礎根入 天端から9.5M 着手 昭和31年9月5日 しゅん工 昭和31年10月11日 第7連の銘板。 川崎造船所○○(品川?)工場製作 LIVE LOAD COOPER`S E33 鉄道省 --------------- MATERIALS (以下判読不能) その第7連と同じ、第6連。 桁の下端がRを描いているのが時代がかっているというか。 この区間の施工が橋脚の銘板の通り昭和31年頃なのに、桁の製造は大正8年。40年弱の間、この桁はどこで何をしていたのだろうか。 只見線の会津川口以西、田子倉までは、電源開発田子倉専用鉄道として建設されたもので、『鉄道ピクトリアル』2010年11月号の只見線特集における『電源開発 田子倉専用鉄道沿革史』(澤内一晃)によれば、「ガーダー橋のかなりの分が飯田線水没区間からの転用であるのは知られた話である」とある。しかし、飯田線の水没区間(佐久間~大嵐間)の(三信鉄道としての)開業は1936年(昭和11年)であり、第7連の銘板にある、大正8年(1919年)製造とは時期が合わないし、なにより「鉄道省」という陽刻がある。ついでながら「レールについても飯田線と士幌線の水没区間から転用され(略)30kg…」とある。 第7連(左)と第6連(右)。 第6連(左)と第5連の架け違い部。 橋脚の銘板に記載事項は、前述のものと基本的に同じ。異なるのは基礎根入の深さで16.5m、また工事着工が9月10日で竣功が10月25日となっている。 電源開発株式会社 活荷重KS-12 ○○では212 株式会社宮地鉄工所製作 昭和31年 ---------- L. 日本鋼管株式会社 ○. 日本鋼管○○○○ ○○ 富士製鉄株式会社 下のマークはなんだろう。Aとあるように見える。富士製鉄のマークは「S」である。 この塩沢川橋梁については、ネット上にはほとんど情報がない。列車を撮影するなら、西の第8只見川橋梁はじめ、知られた場所が多数あるからだろうか。それでも私は、こうした地味な橋梁にとても引かれるのである。 桁の流失はないが、橋脚が移動し、桁も水平方向に移動してしまった橋。写真は伊南川の左岸で、右が上流、左が下流。欄干が、見かけ上「>」型になっているので逆かと思うが、伊南川の流れは「←」である。 路面の継ぎ目がどうなっているか見たかったが、自重した。 橋脚の上端のコンクリートが欠けている。そこまで水が来ていたということか。 反対、右岸側。 【関連記事】平成23年新潟・福島豪雨で被害に遭った橋梁群の記事 (金山町側) 西部橋(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) 国道252号 二本木橋(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) 田沢橋(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) 只見線 第五只見川橋梁(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) 只見線 第六只見川橋梁(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) 只見線 第七只見川橋梁(平成23年新潟・福島豪雨で落橋) (只見町側) 只見線 第八只見川橋梁(平成23年新潟・福島豪雨で被害) 小川橋(平成23年新潟・福島豪雨で被害) 福島県只見町 楢戸橋(平成23年新潟・福島豪雨で被害) 福島県只見町 万代橋(平成23年新潟・福島豪雨で被害) 福島県只見町 五礼橋(平成23年新潟・福島豪雨で被害) 福島県只見町 |
カレンダー
最新記事
(04/12)
(04/02)
(02/15)
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|