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(PD)
仕事で、1935年(昭和10年)の土讃線全通記念・南国土佐大博覧会のことを調べていて、パンフに描かれた蒸気機関車が気になった。明らかにアメリカ式のものだ。それはさておき、では当時、高知にはどんな機関車がいたのか。これが難しい。
 
twitterにてそんな疑問を書いたところ、彩葉さんから下記のレスをいただいた。

高知は、46都道府県の中でも中央(ここでは高松方面)と鉄道が直結したのがもっとも遅い県庁所在地。土讃線で高松方面と繋がったのが1935年であり、それを記念したのが冒頭の博覧会である。

20120210_14.gif(この2図は、1872年から5年ごとにまとめているので、2枚目は高知開業時の1935年ではなく1937年時点の地図となっている)

高知周辺だけ孤立して営業していた頃から全通後にかけてはB6と2800がいたとのこと。
RM付録の『機関車表』を見ても、たしかに1933年現在、4両のB6と6両の2800がいる。抜き出すとこうだ。

2240 1933高知
2281 1933高知→1954軽井沢
2287 1933高知→1955廃車酒田
2288 1933高知→1950廃車秋田

2801 1933高知→1948廃車
2802 1933高知→廃車
2803 1933高知→廃車
2804 1933高知→1946加古川
2805 1933高知→1937播但鉄道
2806 1933高知→1946加古川

「1933」は「1933年現在」のことであり、1933年に配置になったという意味ではない。1927年に須崎~日下がまず開業し、同年のうちに高知まで東進している。徐々に建設が進められ、それまで高知側で独立していたものが高松側まで一続きになったのが1935年だ。


(のちの2802:PD)

その全通後はどうなんだろう。折しも国鉄の近代制式機が続々と誕生していた時代だ。四国といえばC11と8620。C11は後年、高知に配置されている。また、1955年時点では8620も多数配置されている。

C1185 1936製配置不明 ?高知→1949浜川崎
C11105 1937製広島局→?高知→1949浜川崎
C11106 1937製広島局→?高知→1949浜川崎
C11273 1944製配置不明→?高知→1949浜川崎
C11339 1946製門司局→?高知→1949浜川崎
C11381 1947製美濃太田→?高知→1949浜川崎

では「後年」ではなく「全通時」はどうなのか。そこが一番知りたいのだけれど、確証がない。ただ、8620形の最若番・8620をはじめ、多くの機が1933年時点で高松にいて、1955年時点で他区にいる。四国の機関区は、高松・松山・高知くらいなので、ということは、高松の8620が高知まで来ていたということか。

まったく土地勘というか「運用感」がないので、ひどい憶測になっているかもしれない。1935年時点で高知を走っていた機関車をご存じの方はご教示いただきたい。


※機関車の同行はすべて『機関車表』(沖田祐作著;レイルマガジン2008年9月号付録)からの抜粋

【追記】公開後、きーぼーさんとしばしげをさんより下記の情報をいただきました。ありがとうございます。
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20120903_004.jpg今日は9月1日。ちょうど89年前、1923年(大正12年)に起きた関東大震災に関する労作である。ページを繰るのがもどかしくなる良書。「○○と鉄道」というタイトルの本がいくつかあり、いくつか読んだが、その多くがなかなか本題にとらわれて迷走する内容が多い中で、本書は的確に関東大震災と鉄道に関するいままでない(わけではないがメジャーだったり常識になったりはしていない)切り口で記述している。帯にはこうある。「89年前、激震と猛火に立ち向かった鉄道員たちの機転と勇気」。

関東大震災については一般的には被害だけが採り上げられることが多い。記録とはそういうものであろう。しかし、実際に大変なのは「その後」であり、完全復旧までの道のりである。そうしたことを採り上げたものとしては『人物国鉄百年』(青木槐三著)『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)がある。とくに前者は本書と同じ「関東大震災と鉄道」という一節がある。これらを読んでいたので、ある程度の流れやエピソードは把握して本書に取り掛かったのだが、著者は『日本鉄道旅行地図帳』に関わっているだけに、評伝と記録をバランスよく記載している。

この手の本といえば、資料や既刊本からあらすじをまとめ直すだけでおしまい、ということも多い。しかし、本書は実際に丹念な取材をした上で書かれている。巻末に取材協力者の名前があることからわかるように、ルポライターのように(と私は感じる)地道な取材をしたと聞いている。そうした裏付けが厚みとなって出ている。また、ドキュメントの要素を含んだ本にありがちな、登場人物に会話をさせたりするようなことがほとんどない。リアリティを出すための会話調の部分は当時の新聞を引用するなどして、うまく、創作にならないように留意しているようだ。

私がもっともおもしろく読み進んだのは、第6章(最終章)「避難列車」所収の「救援に駆けつけた関釜連絡線」だ。その「勝手な行動」は感動的である。第6章は、全般的に東日本大震災後に三陸鉄道が復興の象徴として無料で運転を開始したというエピソードに重なるものである。そういえば、そのことを描いた漫画『さんてつ』も新潮社だ。

* * *

20120903_003.jpg本書には電子版が用意されている。いまのところアップル製品のみ対応しているようだ。うまくダウンロードできなかったので問い合わせ中なのだが、地図が表示され、そこから各ページに飛べる。各ページには、多数の写真といくつかの動画が埋め込まれている。内容は本書に関連したものではあるが、別物である。

写真を見るにつけ、被害のひどさを実感する。現在は地震対策が進んでいるため、関東大震災と同じことが起こってもここまで破壊されることはないだろうし、各地を襲い、被害者を倍増させた火災もいまほど起きないだろうとは思うが、果たして…?

ほぼ同時に、災害と鉄道を扱う新書が刊行され、それも読んだが、各社が講じている対策に「十分ではない」と難癖をつけているだけにしか見えなかった。そういうあげつらい方なら、災害対策にどれだけ投資しても「まだだ、まだ不十分だ」と言い続けることができるようなあげつらい方。内容も、土木や災害の専門家ではない人が調べて一所懸命書きましたという印象を含めて水増し感がとても大きい。この著者はこの本でもブログでも他者や同業者に対する嫌みを書いており、ちょっと見方が変わった。読まぬが吉。

* * *

本書の主旨とはまったく異なるのだが、おもしろい記述がある。のちの御殿場線の第二酒匂川橋梁の下り線で仕様されていた100フィート英国系ポニーワーレントラス2連が、タイのクワイ川橋梁に転用されたというのだ。まとめは御殿場線の橋梁群(1)3つの酒匂川橋梁概説を参照されたい。



本書のような、鉄道専業のライターではない著者が執筆した、鉄道に対する新しい視点を与えるものが、今後も続々と刊行されることを期待する。もちろん、鉄道ライター諸氏には、愛好者のための本を存分に書き続けてほしい。
 
20120309_000.JPG待望の本だ。小野田滋氏の記事のためだけに『鉄道ファン』を買っているくらいだ。小野田氏の頭脳にある膨大な蓄積と考察を、講義のような形で我々後世に与えてはくれまいかといつも思っている。

本書の捉え方はいろいろあろう。個人的には、交通新聞社新書の帯のキャッチ「軽~く読んで、長~く本棚へ」は嫌いだ。もし私が著者なら、怒る。なにが「軽く読んで」だ。著者の、途方もない研究の成果を馬鹿にしているのか、と一人憤っている。

私の捉え方は、こうだ。

「東京駅が完成するまで、計画から実に20年もかかっていることを認識させる本」

***

20年という時間の長さ。勤務先が銀座なので、よくビルが建つ。あるいは改築される。それらは、せいぜい3年もあれば、数十階建てのビルが建つ。ごく普通の人にとっては、それが「ビル建設」の実感だと思う。しかし、もちろん、その3年というのは着工から竣工であり、それ以前から、綿密に建築計画を練り、設計士、施工業者や資材を調達する準備期間が年の単位でかかる。そういうことに、改めて目を向けさせてくれる。それが、公共交通機関であれば、国家的な観点からさらに多岐に渡る調整を要するので、さらに時間がかかる。JR東海がリニアを東京から名古屋まで開通させるのに、発表から開業まで19年と発表したのを聞いて、気が遠くなる思いがしたが、それでも「発表から」である。これだけの長い期間にわたるプロジェクトは、土木事業以外には、そうないのではないだろうか。

東京駅には、20年という長きにわたる人の思いと時代の空気、そして国家の意図が込められている。

***

過去、何度かツイッターで書いたが、私は東京駅の復元工事には懐疑的だった。なぜならば、「3階建て・円形ドーム」の姿を憶えている人はごく少数であり、大部分の人にとって「2階建て・直線上の屋根」の姿こそ、慣れ親しんだ東京駅であり、それをわざわざお金をかけて変更することに意義を感じなかった。「3階建て・円形ドーム」の駅舎は、1914年(大正3年)から1945年(昭和20年)まで31年間、対して「2階建て・直線上の屋根」は1945年から現在まで66年もその姿であったのだ。

しかし、のちにフォロワーさんに教えていただいたのが次の2点。ものごとには理由があるものだとつくづく思う。

・屋根の傷みは相当なもので、復元せずとも補修費用は同じくらいかかる
・復元後の上部空間を他のビルに貸与(譲渡?)することによって生じる売却代金でその費用が捻出できる

***

東京駅のあるべき姿については、本書を読んで変わった。むしろ、積極的に「3階建て・円形ドーム」にしてくれ、と願うようになった。

前述の私の理屈に対して、こういう反論ができることに気がついた。例えば、あるカラー写真作品が雑誌にはモノクロ/トリミングありで掲載され、しかも大人気を博し、その写真家の代表作になってしまったとする。ほとんどの人は、原版がカラーであること、トリミングされていることを知らない。しかし、原版すなわち写真家が意図していたのはカラーであり、ノートリミングのものだ。モノクロを愛でるというのは、作者の意図を完全に汲み取らずに鑑賞していることになるから、機会があれば、カラー/ノートリミングで見せるべきだ。「作品の鑑賞方法は、鑑賞者に委ねられるものだ」という反論があるかもしれないが、それは、正しい場所で、正しく鑑賞したことを前提とすべきだろう。


ただ、せっかくの超良書なのに、不満がある。年表などの図版がないのである。仕方ないので、自分で作ることにした。後日、アップする。
 
オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(4)大正期(1913年~1927年)
の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。


【1928(昭和3)~1932(昭和7)】

各地で一気に延びている。北では釧網本線と室蘭本線が全通、本州では花輪線、上越線、因美線、伯備線、九州では豊肥本線、日豊本線が全通している。動画ではこの年号に「山陰本線全通」と書いてあるが、誤り。須佐~宇田郷間の開通をもって全通するのは翌1933年である。


【1933(昭和8)~1937(昭和12)】
20120210_14.gifさらに延伸が続く。「高知が鉄道網につながる」と書いたが、
最大のポイントは丹那トンネル開通かもしれない。

高知については、鉄道創業以来50年以上を経て、ようやく全国の県庁所在地同士が結ばれるようになったということだ。

1927年と比べると、相当、現在の路線網に近づいているといってよかろう。しかし、まだ、青い線(私鉄)が多くある。

【1938(昭和13)~1942(昭和17)】
20120210_15.gif戦時中である。津軽海峡を挟んで松前線と大畑線が開通している。戸井線(未成)も大間線(未成)も建設中である。

岩泉線、二俣線なども戦時下だからこそ開通した路線だ。

個人的には、深名線がこの時期に全通していることと、このすぐ後に昭和新山の活動で被災する、のちの胆振線が開通しているのが興味深い。




オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)
の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。

大正期は、技術の大発展期である。鋼鉄がようやく日本の技術となり、煉瓦がコンクリートに取って代わられつつあった。土木工事の一部には機械力が使われ始めた。


【1913(明治45)~1917(大正6)】
20120210_10.gif全国的に、少しずつ広がっている。

大径間の橋梁技術が日本のものになるのがこの時期である。この時期に建設された各路線で架けられた200フィート(約63m)トラス橋は、この時点ではアメリカン・ブリッジ製のものがほとんどだ。しかし、1910年代を最後に、国産の桁となっていく。ただし、アメリカン・ブリッジのようなピン結合のプラットトラスではなく、剛結のプラットトラスである。この時期、徐々にピン結合からガセット結合に移行しつつあった。どちらもプラットトラスである。しかし、プラットトラスとピントラスは相性がいいものの、ガセット結合だとそうでもない。むしろ、さらに部材が少ないワーレントラスへの移行が始まる。

少し時代が下った時の話になるが、アメリカ製ピン結合トラスを見てきた樺島正義が、このガセット結合時代になってもプラットトラスを作り続けたのは興味深い。たしか、すでにその弟子・太田圓三、そして来るべき次代を担う田中豊はその樺島の考えとは一線を画していた。

●北海道

根室本線が釧路に達し、かつ滝川から富良野に向けてのルートも一部が開通している。石北本線は、北見から留辺蘂経由で常紋を越えて遠軽、そしてその先湧別に出るルートが開通。

●東北

東北本線・奥羽本線を縦軸とすると、横軸たるルートがいくつか開通している。陸羽東線が羽前向町(現・最上)まで開通している。これは1922年版を見るときに話がつながるのでご記憶いただきたい。

南端の磐越西線・磐越東線も開通。これで、関東~新潟のルートが信越線にプラスしてもう1系統できた。新潟とを結ぶルートが、他の北陸の都市より優先されているように見えるのはその通りで、地理的に日本海に抜けるには新潟が一番ということと、港湾整備と同時に物流ルートも確保するということである。道路も、東京と新潟を結ぶ「清水国道」は、明治初期(1878年=明治11年)の伊藤博文による七大プロジェクトに端を発するものである。

●中国

芸備線(当時は芸備鉄道)が東進している。当時の三次の位置づけがわかろう。山陰側はいまだに完全ではない。

●九州

大分・宮崎エリアへ、北と南から延び進んでいる。


【1918(大正7)~1922(大正11)】
20120210_11.gif
全国各地で、ニョキニョキと枝が伸びるように延伸している。幹線筋は、北海道では稚内、根室に達し、九州では日豊本線があと少しというところまで来ている。

●北海道

前述のように稚内と根室に達したが、稚内へのルートは、のちの天北線である。また、名寄本線が湧別から北上する形で全通している。

●東北

北上線、田沢湖線が、奥羽山脈を挟んだところまで工事が進んでいる。

●中国

山口線、美祢線が南から延びている。山口には、防府からの防石鉄道が1920年に開通し、山口の南側、堀に達している。

●四国

遅々として…

【1918(大正7)~1922(大正11)】
20120210_12.gif
羽越線の開通で、その後長らく「裏縦貫」「日本海縦貫線」と通称される、青森から日本海回りで関西とをつなぐルートが完成する。また、日豊本線、鹿児島本線も全通現在の路線図と見比べると、山岳地帯のルートがまだまだ少ない。

●北海道

宗谷本線と地と戦線が開通。士幌線も北上している。

●東北・関東

上越線の建設が本格化する。この時期にはすでに清水トンネルに着工している。それまでの最長トンネルだった中央本線笹子トンネル(4670m、1903年開通)を、一気にダブルスコアで抜き去る延長(9702m)となるのだが、その間、約25年。

●中国

山口線の全通で、京都から山陰回りで山口県に至るルートが形成された。中国地方内陸部と沿岸部を結ぶルートも徐々に延びてきている。



(続く)
 


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