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橋梁銘板もない、東北電力の吊橋。少し上流にある世田米発電所取水口に行くための橋のようだ。こういう小規模な「無銘」のプライベートな橋は、おそらくほとんどの場合は記録に残らないだろうから、こうして記録しておく必然性を感じる。

 
鋼管を組み合わせた主塔、補剛のない、本当に吊られただけの床版。それに比してゴツいアンカー。重量制限は200kg。スパンは10m程度だろうか、それでもこれだけのアンカーを必要とする。

 
立ち入れないけれど、どれくらい揺れるものなのか、歩いてみたかった。これだけしっかりしていれば、人が歩いたくらいではほぼ撓まないのではないかと思うけれど。




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六甲山中に「猿のかずら橋」がある。かつて「猿のかけ橋」という名前だったものが、祖谷渓のかずら橋を真似て装飾され、名前も変更されたものだ。一見、吊橋だ。なので、このブログでも吊橋にカテゴライズしている。

 
主塔は木製電柱のような感じだが、鉄骨に木の表皮を貼ったもの。


 
トップの写真を見るとよくわかるが、この吊橋は、歩道橋の割には補剛桁が非常に厚い。もしかして、単純桁橋で、そこに装飾として主塔とケーブルを張ったのではないか。中央径間部分の主索の垂れ方が不自然な気がする。ケーブルは崖の垂直面にアンカーされている。


製造銘板がある。そこには「猿のかずら橋」ではなく「猿のかけ橋」とある。

猿のかけ橋
1982年3月
神戸市建造
道示(1980)道路橋示方書
立基(1979)立体横断施設技術基準
使用鋼材:SM50YA
製作:(株)神戸製鉄所





韮生川橋。「にろうがわ」と読む。大栃橋と同じく、永瀬ダムのダム湖にかかる吊橋で、こちらは上韮生川側になる。


左岸側。親柱はないが、それに相当する部分には銘板がはめこまれている。左は「昭和三十年四月竣功」、右は「韮生川橋」。

 
見ての通り、床版はグレーチングで、真下の湖面が透けて見える。


製造銘板。

昭和30年(1955)
建設省建造
活荷重9屯
製作 松尾橋梁株式会社

現在は高知県道217号であるこの道路の来歴を知らないが、ダム建設時に架けられた橋だから「建設省建造」なのだろうか。

 
ケーブルと補剛桁のトラス上弦は、ピンでつながっている。こういう、機械的につながっているという自称が大好きだ。

 

左岸側は藪の中なのでよく見えないのだが、右岸側のケーブルのアンカー…いや、その保護具合がすごい。「高架橋手前にある鉄骨のガード」のような三角錐が壁面から飛び出してケーブルのアンカー部分を守り、その下にはアンカーを堅固なものとするロックボルトを擁するコンクリートの塊。なお、こちらの親柱的な部分にある銘板も、対岸と同じく左が「昭和三十年四月竣功」、右は「韮生川橋」。

 
ここから少し進むと、堤高87mの永瀬ダムを右岸から眺められる場所がある。なかなかの近さであり、下を覗くとかなりの谷感がある。






 
 
長安口ダムの下流側にかかるのが長安吊橋。

国道195号から対岸に渡る道としては、もう少し下流に小浜大橋があるが、その旧道にあたるか。

 
 
 
主塔はコンクリート製、その内側に高さ3mのゲートがある。主塔の空間を考えると、3.8mでもよさそうなものだが…。

主塔につく銘板。「昭和二十七年十月四日竣工」。長安口ダムの竣工は昭和30年。

 
 
左岸側(国道側)のアンカー。壁面の覆工に穴が空き、その奥にアンカーされている。

 
その近くにある石碑。現地では読めなかったので書き起こす。石碑は、1行が長すぎ、行間が狭すぎ、そしてはるか目の上に文字があるので、非常に読みづらい。石碑設置者は、読む人のことを考えてもらいたい。

(原文縦書き)
嗚呼美なる哉日野氏の行ひ美なる哉虎吉扇の心明治三十一年一
作氏の長南として旧下木頭村深森に生る質性温厚篤実夙に植林
事業の重要性を痛感し森林組合の創立に或は種苗圃の経営に将
又林道の開発に率先垂範孜々営々三十余星霜其の成果は既に
鬱蒼たる沃林を●成す翁は斯く植林事業に精進する傍ら若冠(ママ)三
十歳余にして村議会議員となり地方行政に挺身する事二十七年
後宮濱村長を経て初代上那賀町長となり自治行政に盡瘁しつつ
今日に及ぶ就中古屋川林道開発に翁の悲願にして粉骨砕身遂に
之を完成せしむ今回有志相謀り其の偉徳を頌し不朽の業績を讃
え以て萬世の師を仰がんため翁が偉業の一端を叙す
 昭和三十六年二月廿五日 阿南市議会議長 市瀬慶治郎 謹撰
              海部郡由岐町 名田八十一 謹書


要するに初代上那賀町長・日野虎吉氏を讃える文面である。深森とはここから県道36号を南下したところにある。古屋川林道とは、県道36号のことだ。


(おまけ)
 
下流側に造られた川口ダム。堤体正面側は撮れなかった。

石北峠の西側にある信号場。もともと列車交換を主たる目的として設置された駅だろうが、1975年に信号場化された。駅に至るには留辺志部川をこの吊橋で渡らなければならない。


鋼製の小さな主塔がある吊橋。当然、関係者以外立ち入り禁止とされている。周囲は蕗が生い茂る。

とはいえ、現在もいくつかの列車がここで交換している。信号場としての機能は立派に果たしているのだ。

『日本の駅』(1972年、鉄道ジャーナル社刊)より、現役時代の上越駅。写真左は吊橋のケーブルだろう。木の櫓のようなものはなんだろうか。駅前に頑丈な橋はなかったと思われるので、駅の建設資材は鉄道で運ばれてきたのだろう。

現在は出入り口は閉鎖して窓がつけられ、外板は更新され、窓も外側にサッシを付加されている。

駅として現役時代、この吊橋部分がどうだったのか、見てみたい。

* * *

(2015年9月27日追記)

このブログをご覧になった、私が生まれる前から鉄道趣味誌をはじめ各方面でご活躍されている大先輩・寺田牧夫さんから、「『日本の駅』の取材に参加していました」とご連絡をいただいた。上に引用した(※)写真はまさに寺田さん撮影のものとのことで驚いたのだが、さらに、「架け替え前の吊橋」のお写真をご提供いただいた。



寺田さんによれば、取材のときのお話が、『毎日グラフ』1972年10月15日号で特集されているとのこと。そのなかの「シンドかった駅」の一つとして、上越駅が掲載されている。これは『日本の駅』とは別カットで、この項目冒頭の鋼製主塔の吊橋の先代の吊橋がみごとに写っている。

主塔は丸太、π型に組んで斜めに補強を入れている。床版はきちんと板が敷き詰められ、手すりもしっかりとついている。当時とて周辺には民家は皆無のようだ、もっぱら職員がクルマで街へ出るときに使ったものか。また、川側の柵もよくわかる。これは動物よけか、冬に囲いを作るためのものか。

この貴重なお写真をご提供いただいた寺田さんには心から感謝申し上げるとともに、次回お目にかかったときにはその取材のお話などをぜひおうかがいしたいと思う。1970年代の北海道の道路事情というのも、ものすごく興味がある。


●寺田牧夫さんのサイト---『轍楽の道』

貴重な写真が無数にあるのでぜひくまなくご覧いただきたい。個人的には、大好きな9600の全機の写真が掲載されているところがとても嬉しい。なお、サイト内の写真等への直リンクは禁止されているのでご留意を。また、『カメラと機関車』はデザインの観点でもとても貴重なページ。友人のデザイナーが、偶然にもこのページを話題にしていてとても嬉しかったことがある。

(※)「引用」と「無断転載」の線引きはいささか難しく、私は主たる自分の文章をさらに説明するために「引用」したと解釈していますが、この掲載についてお目こぼしいただいたことにも心より感謝申し上げます。




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