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地名のマッピングがおもしろい。東京周辺の地名の末尾1文字を地図にプロットすると、地形や土地利用が浮かびあがるのではないかという試みだ。

新潟では、砂丘列に「山」という地名をつける。新潟の人にはわりと知られているのだが、それをマッピングするとどうなるかを、同じ方法で試した。

【作り方】
位置参照情報ダウンロードサービスで任意の地域の地名をCSVでDL
→CSVを「地名・緯度・経度」のみにする
 →地名は「○丁目」「○ノ町」「○番長」「町」などを削除する
 →さらにright関数で地名を末尾1文字だけにする
→Googleのマイマップで開く
→KMLで書き出し
→KMLをカシミール3Dで読み込み

ざっとこのようになる。(一部、修正漏れがある)
 
(カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図/ぜひ拡大してご覧ください)

・地形で浮かび上がる砂丘列に「山」が並ぶ
 ・「ツ」は「山二ツ」
 ・「山木戸」などは「戸」になってしまう
・新潟島に並ぶ「番」「通」は同じ意味で、すべて1~14まで整然と並んだ碁盤の目状の地名
・「岸」「端」は川端
・「島」はかつての中洲(埋め立てなどで陸続きに)
・「浜」も多い

砂丘の位置を明示する。
 
(カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図+シームレス地質図/ぜひ拡大してご覧ください)

砂丘は「7」と数字がある範囲。半透明の赤で強調した。「山」と重なっているのがわかる。なお「6」は自然堤防の堆積物。そこにも「山」が当てられた地名がある。


【2019.6.30追記】
 
「砂」「浜」の地名のみを抽出。略さずにプロットしてみた。


「砂山」「砂岡」「砂崩」地名が集中する、亀田の袋津の東の砂丘列。









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鳥取県の地図を眺めていて気がついた。県界がすべて分水界である…? 米子市街地も、すぐ尾根が迫っているため、分水界だ。平野部だけは、さすがに分水界ではないようだが。


(拡大したりして、ずっとなぞって見てください)

小縮尺の地図を見ていると、県界はすべて分水界のように見えたので、2万5000図相当で丹念に見ていくと、しかし、1個所だけ破れていた。米子市に南接する南部町と島根県安来市の界だ。

 
(Kashmir3D+スーパー地形+地理院地図に加筆)

赤い線が分水界。これが県界ならパーフェクトだったが、なぜかここだけが安来市になっている。

しかし、島根は「日本でもっとも県界が分水界である県」であることがわかった。他の都道府県界を見ると、いずれも一目見て河川が界になっているところや河川が貫流しているところがわかる。詳細は見ていないが、次点が石川県のようだ。


HEYANEKOの棲み家(へき地ブログ)の記事「宮崎県小林市(旧須木村)田代八重」で、熊本県多良木の、太平洋側に注ぐ大淀川水系の集落・槻木が紹介されていた。2017年GWの九州の林道取材時に近くまで行っていたな…と思ってGPSログを見ると、東シナ海側から峠を越え、少しだけ太平洋側に入って折り返していた。アクソー林道とそれにつながる林道群だ。いずれもピストンではっきりしなかったので、『林道ツーリングガイドブック2017~2018』には掲載しなかった。

地図で示すとこうなる。紫が分水嶺。
 
(kasimir3D+スーパー地形+地理院地図)

さらにアップ。
 
(kasimir3D+スーパー地形+地理院地図)

赤いラインは私のGPSログ。一瞬だが、宮崎県側に入って引き返している。

『ツーリングマップル九州2016』に掲載されている「湯前飯盛林道」に槻木峠から入り、道なりに行ったら地図とはまったく違うルートとなり、北側に抜けることができなかった。道路地図の山間部がいい加減なことはよくあるし、ツーリングマップルの情報が相当に古い場合もよくあるが、これはその顕著な例。

 
槻木峠。尾根を北に向かう。

 
槻木峠から北に上がり、送電線付近ではこんな展望が広がる。

 
尾根の西側を走る。南を向いている?

 
GPSログ左上の行き止まりはこんな感じ。

 
GPSログ右上は、舗装路になっているので引き返した。

 
道中、いくつかの表示や通行止めを意味するロープがある。林道は生きている。

* * *

このエリアの西側、熊本県錦町とあさぎり町にも、やはり大淀川水系のエリアがあり、以前「熊本・宮崎県界と分水界」という記事を書いたのでどうぞ。





新潟本町遊郭跡 1958~1967(?)の住宅地図と1980年代の違い(1)の続き。

 
 (クリックすると拡大表示。現代の社会的な基準に照らして、当時商売をしていた家以外をボカした。東交出版社版。パブリックドメイン)

いまや休日には1時間に2本しかバスが走らない時間帯もある横七番町通。1980年代は最低でも1時間5本あり、古町からこちらは、郊外の路線のバスが回送される間合い使用もあって(行き先方向幕は「附船町行」ではなく、ある幕とある幕の間、つまり表示していなかった)、けっこうな本数があった。

いまや更地が目立つ通りだが、かつては商店も多かった。江戸文政期には「熊谷小路」として色街もあり、後年、本町遊廓の大門に接する通りだったことは、その理由の一つだろう。『新潟の花町』(藤村誠)によれば、願随時の裏手に貸座敷を集める計画もあったという。その横七番町の、1980年代の姿を書き留めておく。

●むげん社…幼少時から通った模型店。店舗は2坪くらいだったろうか。戦車や戦艦、ガンダムなど、実に多くのプラモデルや塗料を買った。工作部品も多くそろえていて、ムギ球や電池ボックス、スイッチなどを、店主にアドバイスをもらいながら買った。店主は中学の同級生のおじさん。サイト「失われた模型店」の記述によれば「店主は戦車兵として大陸に従軍したという」。ミリタリーモデルは非常に充実していた。店構えは装テンに小さく「むげん社」とあった。

遠く郊外から通ってくる方もいたと聞いた。鉄道模型も扱っており、アトラスのNの線路や有限会社時代の関水金属の車両をけっこう買った。TOMIYAMA時代のTEEも展示してあった。16番のペーパーモデルもおいてあった。1987~1988年ころ?閉店時にもずっとデッドストックになっていたはずで、それらはどうなったのだろうか。

横七を東に進んだ右側、住所でいえば元祝町に「金星堂」という模型店もあった。こちらはプラモデルの箱絵のような立派な戦艦が描かれた看板があった。ここは中年男性が二人いた。しかし、見に行っても、気に入ったものがないと買わないこともあったぼくら。買わない子供たちに「買わないなら来るな」と言ったことが知られたからか、1980年頃には閉店。閉店後も店舗はそのままあり、カーテンが引かれたショーウインドウには水飲み鳥が残っていた。


●おおとり劇場/第四銀行本町北支店(現・セブンイレブン)

サイト『消えた映画館の記憶』によれば、1956年7月開館、1966年3月頃閉館と、あまりふるわなかったようだ。ここに、斜向かいにあった第四銀行本町北支店が移転する。いまセブンイレブンがあるところだ。かつて第四銀行があったところは、いまの山本時計店。住宅地図を見る前は「本町遊廓の大門の前だから、立派な時計屋があったのだろうか」と思っていたが、全然違った。


●三九二自転車店(みくに、と読む)

ここは「三九二輪店」といったはずだ。後年、対岸の三国自転車店」の隣に移っている。両店は兄弟だと聞いたことがある。容貌は全然違っていたので、正確なところはわからないが、競合店が隣に来るのだからなんらかの関係はあったのだろう。うちはここで自転車を買っていた。高校3年間の通学にも使ったロードマン・コルモも、浪人時代のARAYAのMuddy Fox エキスパートオーバーサイズもここで買った。


●皆川電工社→電化スーパー共電→そうご電器

共電時代以降しか知らない。「電化スーパー共電」は、初めてパソコンを見た・さわった店。PC6001やMZ80が展示してあった。こんな地域では需要はなかったろうと思う。


●大阪屋

これはバス停「横七番町二丁目」前にあった洋菓子の大阪屋(販売のみ)とは別だが、その本店のほう。新潟で著名な「大阪屋」は横七番町で創業、この住宅地図の地に移転し、ここに工場を建てたのは公式サイトによれば1957年。ここからさらに移転したのがいつかはわからないが、1980年代にはパチンコ屋「ニュー銀河」で、同級生の家だった。「ニュー」のつかない「銀河」は、上記第四銀行の旧店舗の向かいにある。
 
 (クリックすると拡大表示。現代の社会的な基準に照らして、当時商売をしていた家以外をボカした)

自分の出た小学校の校区内に遊郭があったなどとは全然知らず、知ったときの衝撃は相当なものだった。そして、いろいろなものに合点がいった。なぜストリップ劇場があったのか。なぜあんな場所に旅館がいくつもあったのか。なぜ格子や裳階のような構えの木造家屋が多かったのか。

新潟市立図書館にある「住宅地図1958~1967?」。「東交出版社」とある。この住宅地図は、地図としては正確ではなく、相対的な位置関係をメモしたもの、というくらいの精度。職務著作物として考えればパブリックドメインなので、全ページコピー可能。「~1968?」でなくてよかった。TPP発効で著作権保護期間が70年になるものに含まれるところだった。

それはさておき、上記地図の「本町通(十四)」と「横七番町(一)」あたりをみる。まずは「セントラル劇場」。これが、いまも営業している「福田旅館」の隣奥にあった。いまの「大岩ビル」のところに「キャバレー新招楽」とともに描かれている。「セントラル劇場」がここにあったと紹介されることも多いが、後年、「セントラル劇場」は一つ北の区画に移転している。私の記憶にあるのはそちらのほうで、1980年頃には、黄色時に赤い文字の看板が出ていた気がする。こどものころゆえ、そのたたずまいをきちんと見た記憶はない。

大岩ビルは、1階は小料理屋が入っているが、2階と3階はごく普通の住居である。同級生が2家族、ここに住んでいたので、中に入ったことも何度もある。

この住宅地図で黄色く塗ったところは「スタンド○○」「旅館」。向かいの「つるや旅館」は、いまも「つるや」と書かれた行灯が残っている。ほかは、当時と同じ名称を残す店はない。

福田旅館については、花町太郎さんのブログに、泊まったことだけでなく、ご主人のお話なども詳しく記されている。
旅館福田(本町十四番町遊郭)其の壹
旅館福田(本町十四番町遊郭)其の貳
旅館福田(本町十四番町遊郭)其の參



一つ東の区画に「旅館まつ葉」とある。子供のころから見慣れた廃屋だった。先ごろ解体されてしまったが、ここは常盤町遊廓の一角。『新潟の花町』(藤村誠)によれば、明治31年(1898年)に本町遊廓が火事で灰燼に帰した際、地代の値上げを宣告されたたために開かれたのが常盤町遊廓だ。その姿を私が最後に見たのは2015年の11月だ。2016年8月のストリートビューでは更地になっている。

 
 
侵入してみたかったと聞かれれば、したかったと答える。しかし、ここは住宅街。人通りも多いし、知人が行き交う可能性もある。

この通りは、先の『新潟の花町』掲載の地図には「横門前」と書いてあるが、いま検索してもそうした名称はまったくでてこない。さらに横七番町を下り、願随時の参道との交点に、新潟信金横門前支店があり、そこに名前を残すのみだ。



ほか、赤枠で囲った部分を思い出として見ていきたいが、それはまた後日。


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