忍者ブログ
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
(このページの地図はすべてkashmir3D+DEM5m+数値地図25000。写真ともクリックで拡大)

新潟県の新潟市秋葉区…というよりも新津(左下角)の東には、阿賀野川が幾たびも川筋を変えた跡が明確に地形に残っている。南北に流れる太いのが阿賀野川、そこから北西に枝分かれしているのが小阿賀野川(かつての阿賀野川本流、信濃川に至る)、阿賀野川の西を北西に流れて小阿賀野川にぶつかるのが能代(のうだい)川だ。

河川が暴れる地は豊穣の地でもある。阿賀野川と小阿賀野川の分流点の北にある沢海(そうみ)地区には、全国有数の地主・小林家があり、その邸宅と民俗資料は日本初の私設博物館である「北方文化博物館」となっている。書き込むと下記のようになる。

 
北方文化博物館では「沢海まちあるき」を開催している。2015年からガイドつきのウォーキングツアーを開催するとのことで、そのモニター的街歩きに参加してきた。その後、上の「旧河道」と「旧旧河道」を見に行ってきた。

まずは旧河道。
(1)地点より(地図中はマル数字だが、表示の互換性を考えて文章では括弧書きとする)。少し道路が高くなっていて、その左右に田が広がる。写真右、奥に向かう未舗装の道はかつての左岸で、その右は畑で一段高くなっている。上記地図ではわかりづらいので、さらに別の地図を。

 

「阿賀野(一)」「阿賀野(二)」となっている部分が「焼山地区」で、畑だ。ここだけ高台で水がとれないから畑なのだろうか。旧河道が田。その高低差は2m近くある印象だ。

旧河道に黄色を乗せてみると、こんな感じになる。

旧河道の中央には用水路がある。
おもしろいのは、ここが行政界になっている。同時に道路の管理も変わる。「道路管理界」という標識とともに、左(左岸)は新潟市で道路は新潟市江南区建設課、右(右岸)は阿賀野市で同じく新発田市地域振興局の管理となる。

次いで、(2)地点から、旧河道を挟んで右岸側を見る。
赤い矢印は流路方向。ここに来ると、両側には堤防があるために、川底にいる気持ちになってくる。おもしろいのは、旧河道を横切る形で用水路が設けられていることだ。正面の堤防をアンダーパスしているが、堤防の上には次の写真のように用水路があるので、立体交差していることになる。しかし、25000図では接続しているかのように書いてある。

  旧河道の右岸の堤防上には用水路があり、歩いていくとこれが越えられない。川の水はなくなって川を横断できるのに、堤防上を横断できないのだ。

さてこの旧河道はいつから「旧」になったのかというと、1924年(大正13年)だ。1913年(大正2年)の「木津切れ」による水害を契機に1915年(大正4年)に改良告示、1918年(大正7年)に着工した。そして沢海地区は現在の本流により分断された。そのため、現在も沢海から見て対岸の「焼山地区」(地名は沢海)が阿賀野市に取り囲まれる形で新潟市江南区となっている。

* * *

次に、旧旧河道に向かった。

(3)地点、旧旧河道の右岸から。対岸に見えるこんもりした部分が「京ヶ島」である。

当日同行していたN氏が近くで畑仕事をしていた方に声をかけると、「おじいさんなら知ってるかもしれない、家にいるから聞きにいったらいい」と言ってくださった。図々しくも大きな家の玄関で「ごめんください」と声をかけると、70代の男性が出てきていろいろとお話をしてくださった。

男性はかつてそこで材木商を営んでおり、その祖父の代には旧河道を利用して流送していたとのこと。河道の切り替えの話をすると「写真があるから上がって見てみろ」とまでおっしゃり、さらに厚かましくも木の香り漂う邸宅にお邪魔した。そこには祖父、父などの遺影とともに一枚の写真が額となって掲げられていた。写真の額には筏を詠んだ短歌の色紙が入っていた。

河道が切り替えられた後、堤防を切り崩して干拓をしたそうだ。そしてできた新しい土地は周辺の住人に払い下げられ、田になった。家によって払い下げの面積は違ったが、その基準はわからない。

また、ここには渡し船があった。ある暴風雨の日に渡し船が転覆し、あわや溺死しそうになった人がいて、その人を祖父が助けたという。その表彰状も額装されていた。

諏訪神社。

(4)地点。
旧河道の右岸堤防を歩く。画面右は旧河道、左は旧旧河道。

さて、旧旧河道の右岸を遡る形で、京ヶ島の「川岸」を歩く。
(5)地点から。右は住宅地、道路が旧旧河道の堤防、左は旧旧河道。

旧旧河道に黄色を乗せてみる。ここはいま、水田だ。

途中から県道27号になる。こうして歩いていると、左の家並みの向こうに大河があったとは信じられない。

  京ヶ島の諏訪神社。ここには「町道記念碑」があった。「大正二年五月再建」「従二位伯爵源重明書」等とあるが、この旧旧河道左岸に道をつけた、ということなのだろうか。また「再建」というのも気になるが、それ以上の情報はない。

やがて国道460号にぶつかると旧旧河道の痕跡はわかりづらくなった。そのまま京ヶ瀬駅に向かった。


Spcl Thnx to Mr.I and Mr.N



PR
中央本線が七里岩に取り付く部分の妙味の続き。

上記記事で少し触れた、小海線の甲斐大泉~清里間のオメガカーブをアップで見てみよう。標高の色分けは上記記事とは別物で、50mごと。

(Kashmie3D+DEM5m+数値地図25000。上空167mから35mmレンズで撮影。クリックで拡大)

画面左手(西)が小淵沢、右手(東)が野辺山。こうして鳥瞰図で見ると、オメガカーブはよくあるように標高を稼ぐためではなく…いや、その意味合いもあるにはあるのだが、深い谷を上流まで遡り、渡れるようになってから渡るためのものだということがわかる。このようなルート選定は、道路では林道などでよく見かける。

画面を左右に分割する谷は川俣川といい、もう少し下流で東から大門川と合流したあとは須玉川となり、やがて釜無川に至る。小海線とぶつかるあたりは川俣川東沢と川俣川西沢に別れていて、小海線はそれぞれ橋梁で乗り越す。その間に舌状の台地がある。ここを、本当にうまく利用しているのだ。


(Kashmie3D+DEM5m+数値地図25000)

もしここを迂回せずに一直線に結ぶ場合、谷は幅約1.2km、深さ100m。そんなところに橋を架けるわけがない。それを解決するために西沢の右岸を北上する。右岸の台地上はどんどん勾配がきつくなるので崖をトラバースして、西沢がさらに二つにわかれる付近で、橋長わずか40mの第一川俣川橋梁で渡る。

舌状の台地はどうしようもないので455mの川俣トンネル(下り5‰勾配!)で抜け、今度は東沢を橋長50mの第二川俣川橋梁で渡る。そしてやはり崖にとりつき、トラバースしながら台地に這い上がり、清里駅に向かう。

なぜここにこんな深い谷があるのか。私は地質の知識が皆無なので、地図だけを貼る。
 
(Kashmie3D+DEM5m+シームレス地質図+数値地図)

川俣川本流(画像中下)の白い部分は「約1万8000年前~現在までに形成された最も新しい時代の地層。地質年代 : 後期更新世-完新世。岩相 : 堆積岩類(海成及び非海成層)」。

左、黄色の部分は「約170万年前~70万年前に噴火した火山の岩石(安山岩玄武岩類)。地質年代 : 前期更新世。岩相 : 非アルカリ苦鉄質 火山岩類」

右側、クリームの部分は「約700万年前~現在に形成された岩屑なだれの堆積物。地質年代 : 後期中新世-完新世。岩相 : 火山岩屑」。

すべて出典:シームレス地質図 https://gbank.gsj.jp/seamless/maps.html 


白、黄色の新しい時代のほうが「削れる地質」、という読み取り方でいいのだろう。あ左側はクリーム色のところが削れている部分が見えるが…。


最後に、鳥瞰図に書いたようなものを平面で。ご堪能下さい。

(Kashmie3D+DEM5m+数値地図25000)




中央本線の韮崎から小淵沢にかけての地形がおもしろい。電車に乗っていてもわからないし、単純な地形図を見ていても気づきづらい。しかし、標高データを与えて立体的に表現すると、この部分はおもしろい地形をしていることと、「中央本線は、こんな場所を通っていたのか!」ということにすぐ気づく。

(カシミール3D+DEM5m+数値地図50000。クリックで拡大)

少し右に回転させているので、北は1時の方向だ。真ん中の、舌のような形をした台地を「七里岩台地」という。細長い部分だけで、長さは約9kmある。中央本線は、甲府方向(画像のずっと下)から韮崎までは川沿いを走り、そこからこの七里岩台地を一気に駆け上がる。甲府駅の標高は274m、韮崎駅は354m、小淵沢駅は886m。

七里岩台地の西(左)に流れるのが釜無川(本流)、東(右)は塩川。その塩川を上流(上)にたどっていくと谷が深くなる。そこが、小海線のΩカーブである。

中央本線のルートを赤で示した。右へ左へとカーブで長さを稼ぎながら標高を稼いでいるのがよくわかる。韮崎までは緩急つけつつ最大21‰、韮崎からは延々25‰の連続勾配。韮崎、新府、穴山、長坂はスイッチバックがあった。中央本線に対して中央道は最初から東の山側を走り、徐々に徐々に高度を稼いでいる。

画像最上部は小淵沢、そこから時計回りで半回転した後で東(右)に行くのは小海線、その半回転も高度を稼ぐためだということも理解できよう。

このルート取りを見出した当時の人は、平面の地図から、どうやって頭の中でこの地形を立体に描いていたのだろうか。

2014年のGPSログを抽出した。相変わらずの東偏重、今年は新潟を重点的に訪ねたので新潟の密度が濃い。下北半島と丹後半島は一周しているが、電池切れでGPSログが欠落したのが惜しい。また行かねばなるまい。八戸-苫小牧航路も復路が欠落している。

7月までは仕事漬けでほとんど休みがとれなかったので、まったく出かけられなかった。それでも刊行を遅らせざるを得ないタイトルがいくつかあったのは残念だが仕方がない。GWはなんとかカレンダーに近い形で休んで、たった二日間のツーリングとはいえ大いに息抜きになった。ブログの更新も前半は飛び飛びになっている。今月(12月)もそうだ。

特記したいのは次のログだ。

・竹芝-館山の会場ログ(ジェットフォイルの特別就航)
・21年ぶりの利尻、14年ぶりの礼文

* * *

仕事面では、下記の本を担当した。

・1月『電車の博物館・公園に行こう!』(実業之日本社編)
・3月『東京幻風景』(丸田祥三)
・3月『自衛隊イベント観覧ガイド』(大北浩二)
・3月『パンフレットで読み解く 東京メトロ 建設と開業の歴史』(東京地下鉄株式会社)
・4月『南極日和』(BS朝日取材班)
・5月『刑事ドラマ・ミステリーがよくわかる捜査現場入門』(オフィステイクオー)
・5月『ゼンリン 住宅地図と最新ネット地図の秘密』(内田宗治)
・7月『京都お散歩凸凹地図』(実業之日本社編)
・7月『空から見る戦後の東京 60年のおもかげ』(竹内正浩)
・8月『きっぷのルール ハンドブック』(土屋武之)
・10月『宮城「地理・地名・地図の謎」』(木村浩二監修)

実は12月にできあがっている本が2冊あるが、配本は1月なのでここには計上しない。前半で息切れして、後半の仕込みができていないのがよく見えてしまう。これは自分の来年の課題だ。

どれも、大変におもしろく仕事ができたのは幸いなことだ。来年もこうした形で仕事を続けることができることを願うし、さらに、もっと売れてくれることを願う。




(Kashmir3D+DEM5m+数値地図25000)

柏崎の一級スリバチ地形で柏崎市中心部の地形について書いたが、今回は駅前から鵜川(左側の川)のあたりについて。

上の地図では、濃い茶色は標高が低い部分で、2m以下。設定は左記の表組をご覧いただくとして、要するに、砂丘の手前かつ鵜川の東側に低地があり、おそらくそこは鵜川の氾濫原を抱えていたようだ。柏崎駅もその中にある。

鵜川はたびたび氾濫しており、1978年6月25日から28日の水害は大規模なものだった。とはいえ私の記憶にはない。


過去の被害と鵜川ダムのあゆみ(写真あり)


その低地帯、鵜川の河口付近をよく見ると川跡のようなものが目に付く。そこを
拡大してみよう。

(鵜川が砂丘を突っ切って日本海に注ぐのは人工的な開削の跡のように見えるが、古い地形図等も参照していないのでまだ調べていない。
(Kashmir3D+DEM5m+数値地図25000)

黄色い部分が元河道だ。では、いつまでそこが川だったのだろうかといえば、比較的近年で、前述した1978年の水害
を機に河川激甚災害対策特別緊急整備事業の対象とされ、改修が進められたもので、1984年3月には現在の流路に改修された。移転戸数は162戸。

私は1985年頃まではよく柏崎の親戚宅に行っていたので、古い川も新しい川も見ているはずだが、小中学生のころゆえまったく記憶がない。

* * *

その変遷を国土地理院の航空写真で見よう。


(Kashmir3D+地理院地図空中写真1974~1978)


(Kashmir3D+地理院地図空中写真現在)

* * *

現在、旧河道は道路として活用されている。

道路の向こうに広がる緑色の部分も含めて河道だ。赤い柵には「水道橋」という銘板があるが、かつてこのあたりいは2連の下路トラスの道路橋、「水道橋」が架かっていた。一部、その遺構かと思えるものがある。

周辺はその「水道橋」の名を取って「水道橋公園」として整備されている。

非常にしっかりとした説明板がある。

しかし、ここは旧河道であり、要するに埋立地だ。そのため、2007年の中越沖地震では被害が大きかったようだ。

2007新潟県中越沖地震被害調査(長岡技術科学大学)

* * *

この水道橋公園周辺に「大久保公園」とある。もちろん地名も「大久保(一丁目)である。
信越本線大久保隧道(新潟県柏崎市)に引っ張られて、「隧道があるような丘なのに、なぜ窪地の地名?」と、周囲の地名も見ずに疑問に思っていたのだが、然るべき場所が「大久保」だった。信越本線の大久保トンネルに名前が採用されたのは、近くの地名に引っ張られたか。古くは大久保隧道のあたりは中浜村、追って大洲村である。「番神トンネル」とでもしておけば、美しい番神岬の広報にもなるのだが。現在の行政地名では「番神一丁目」である。









Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カレンダー
08 2017/09 10
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 16
18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリー
twitter
twitter2
プロフィール
HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析