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函館本線銀山駅。鉄道で訪れて駅周辺を歩いただけではきっとわからないと思うのだが、ここは集落に対して高い位置に駅がある。余市川沿いから約80m登ってこなくてはならない。

なぜこんな位置に駅があるのかといえば、単に、余市川沿いから岩内平野に至る「通過点」としてここが選定されているためだ。銀山集落のために駅の位置を決めたのではない。

理解するためには、地形がわかる地図が最適だろう。
 
(Kashmir3D+50mDEM+数値地図20万)

色分けはほぼ標高30mごと。右上が銀山(158m10)、右下が小沢(52m50)。左が岩内。函館本線が小樽から函館を目指すにあたり、ルート取りとしては「ここしかない」ということがわかるだろう。左上、積丹半島を横断することは、ありえない。

もう少し詳しく見る。

 
(Kashmir3D+50mDEM+数値地図25000)

北から、然別(25m)から、稲穂トンネル東側坑口(170m)に向かうために、こうして尾根の横っ腹に取り付いている。それぞれを細かく見ると、尾根から飛び出した支尾根や川を巧みに避けながら、銀山駅に向かっている。この計画を明治の半ばに考案した先達たちには驚嘆するしかない。


 
数年前、列車でここを訪れたとき、通学の高校生がここから列車に乗り込んだのを覚えている。小さな山間部の駅が、駅としての機能を果たしているシーンを見ると、とても嬉しい。





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(Kasimir3D+DEM5m+地理院地図)

今回の鬼怒川の堤防が決壊した付近。下妻市。標高50cm刻みで色分けすると、古い河道が浮かび上がってくる。かつての河道は田圃となっている。


(Kashmir3D+DEM5m+数値地図25000)
ここに掲げる数値地図は石下(H13.7.1)と上郷(H19.12.1)なので、行政地名が古いものになってい入るが、お見せしたいのは「元の地図で緑色だった部分」だ。ここは、古くから人が住んでいた場所、即ち「川の近くの高台」だ。

かつての洪水の頻度は現代からは考えづらいほど多く、高台かつ固い地盤は、長年の経験の上で知られていた。

こうしたことは、以前書いた沢海に見る阿賀野川の氾濫の跡でも見ることができる。



今回の水害はまだまったく収まる気配を見せないが、これ以上の被害が広がらないことと、一日も早い復旧を祈っている。



宗谷本線の最北部、「抜海-南稚内間」にある定番撮影地。そのすぐ脇をオロロンラインこと道道106号が通っているのだが、道道からは鉄道はほとんどわからない。

この夏、ちょっと探索というか、見定めようと思ってオロロンラインから足を踏み入れたら、線路は丘陵のかなり上のほうにある。おあつらえ向きに保線用の階段があったが、それは立ち入り禁止。とはいえ、枕木等を利用して相当しっかりと作られていた。これを利用して丘の上から写真を撮っていたのだな。

さて、なぜそんな高台を鉄道が通っているのかを、カシミール3Dで見てみよう。なお、ノシャップ岬につながるこの丘陵を「宗谷丘陵」と書いてあるのをよく見かけるが、おそらく別。



(カシミール3D+数値地図25000+10mDEM。クリックすると拡大へのリンク)

さて、北上してきた宗谷本線は、稚内の平野部…ここは最も新しい地層…に展開する稚内市街までの間に、丘陵を越えなくてはならない。よく見ると、なかなかサッと北の平野部に至るようなルートは見つからない。

眺めていると、よく考えられたルート取りだと感じてくる。勾配を押さえつつ、最大で標高46、47メートル程度のところをサッと越えている。他のルート取りでは、曲線半径がきつくなったりすることだろう。


(カシミール3D+数値地図25000+10mDEM。クリックすると拡大へのリンク)

冒頭の鳥瞰図の位置から、レンズを50mmから135mmに変えてアップしてみる。もう「ここしかない」とうのがよくわかる。

昭和40年代以降ならば、もっと手前から長大トンネルを掘ってしまうだろうか。


『東京の鉄道ネットワークはこうつくられた』(高松良晴著/交通新聞社新書)に「大井工場は、1910年(明治43年)に品川の高台8万9000坪を切り崩して建てられた。切り崩した土は、品川駅構内の埋立拡張に使われた」(磯部注:8万9000坪=29.37ha)とあったので、地形をカシミール3Dと今昔マップで見てみた。私の世代にとっては「東京総合車両センター」というよりは、東側は「大崎電車区」あるいは「山手電車区」、西側は「大井工場」というほうがピンとくる。東側が、車両基地としては異例の2階建てとなっている。

まず、現在の姿から。
 
(Kashmir3D+地理院地図+5mDEM)

みごとに整地されている。5mDEMで読み取ると、敷地の北側は標高6mほど、南は8mほどだ。西側の車両基地部分の5mDEMを見ると、通常、「地表面の建築物等を除去した状態」で作られているが、ここでは車両基地の2階部分を「地形」と認識しているようだ。入出庫線、上の地図でいうと8本に分岐する線の左に細長い地形の欠き取りが見える、ここが「地上」であり、それにつながる1階部分(からさらに基礎などの建築部分を除去したところ)が「地面」になっている。

車両基地の1階部分の写真はほとんど見たことがないのだけれど、こちらのサイトにあった。
http://acafe.msc.sony.jp/photo/detail/item/000009022367E9



次いで、明治中期までに作られた「迅速測図」に、現在の5mDEMを重ねて見てみよう。
 
(Kashmir3D+迅速測図(農研機構)+地理院地図+5mDEM)

冒頭の通り、欠き取った部分は「8万9000坪=29.37ha」である。そのなかでも、赤く塗った部分が、地形を「大きく」欠き取った部分だ。カシミール3Dで測定すると、この赤く塗った部分だけで約16.5haある。また、17.78mの三角点がある、いまこの地点は7mほどなので、かなりの土を欠き取ったということになる。上の地図で欠き取り部分の左側、ちょっと高くなっているところが標高18mくらいだ。

迅速測図の等高線間隔は5mなので、上の地図の赤い部分には、10m、15m、20mの等高線が含まれることになる。大部分は標高15m以上だ。16.5haに渡って標高15mを8mまでに掘り下げたと(少なめに見て)計算すると、112万立米。500m四方を4.48m嵩上げするだけの土砂である。

欠き取った台地の北側、低地部分は、今昔マップで少し後の時代の地形図を見ると、当時は湿田の記号が描かれている。ということは、そのあたりにはそれなりに客土をしたに違いない。なにしろ重い鉄道車両が通るのだ。


さて、ではその欠き取った地図で整備した品川駅構内の変遷を。まず、迅速測図。

(Kashmir3D+迅速測図(農研機構))
鉄道は、上図の左右中央に2条線で描かれている。ここが、海に張り出した区間だ。

次いで、大井工場ができた後の地図。範囲は上図と同じ。
 
(Kashmir3D+今昔マップ1917-24)

見事に品川駅が拡張されている。実際の姿はわからないが、地図で見ると、港湾のような印象だ。欠き取られた部分は武蔵野段丘、それを、品川駅付近、立川段丘の下に持って行ったのだった。



(このページの地図はすべてkashmir3D+DEM5m+数値地図25000。写真ともクリックで拡大)

新潟県の新潟市秋葉区…というよりも新津(左下角)の東には、阿賀野川が幾たびも川筋を変えた跡が明確に地形に残っている。南北に流れる太いのが阿賀野川、そこから北西に枝分かれしているのが小阿賀野川(かつての阿賀野川本流、信濃川に至る)、阿賀野川の西を北西に流れて小阿賀野川にぶつかるのが能代(のうだい)川だ。

河川が暴れる地は豊穣の地でもある。阿賀野川と小阿賀野川の分流点の北にある沢海(そうみ)地区には、全国有数の地主・小林家があり、その邸宅と民俗資料は日本初の私設博物館である「北方文化博物館」となっている。書き込むと下記のようになる。

 
北方文化博物館では「沢海まちあるき」を開催している。2015年からガイドつきのウォーキングツアーを開催するとのことで、そのモニター的街歩きに参加してきた。その後、上の「旧河道」と「旧旧河道」を見に行ってきた。

まずは旧河道。
(1)地点より(地図中はマル数字だが、表示の互換性を考えて文章では括弧書きとする)。少し道路が高くなっていて、その左右に田が広がる。写真右、奥に向かう未舗装の道はかつての左岸で、その右は畑で一段高くなっている。上記地図ではわかりづらいので、さらに別の地図を。

 

「阿賀野(一)」「阿賀野(二)」となっている部分が「焼山地区」で、畑だ。ここだけ高台で水がとれないから畑なのだろうか。旧河道が田。その高低差は2m近くある印象だ。

旧河道に黄色を乗せてみると、こんな感じになる。

旧河道の中央には用水路がある。
おもしろいのは、ここが行政界になっている。同時に道路の管理も変わる。「道路管理界」という標識とともに、左(左岸)は新潟市で道路は新潟市江南区建設課、右(右岸)は阿賀野市で同じく新発田市地域振興局の管理となる。

次いで、(2)地点から、旧河道を挟んで右岸側を見る。
赤い矢印は流路方向。ここに来ると、両側には堤防があるために、川底にいる気持ちになってくる。おもしろいのは、旧河道を横切る形で用水路が設けられていることだ。正面の堤防をアンダーパスしているが、堤防の上には次の写真のように用水路があるので、立体交差していることになる。しかし、25000図では接続しているかのように書いてある。

  旧河道の右岸の堤防上には用水路があり、歩いていくとこれが越えられない。川の水はなくなって川を横断できるのに、堤防上を横断できないのだ。

さてこの旧河道はいつから「旧」になったのかというと、1924年(大正13年)だ。1913年(大正2年)の「木津切れ」による水害を契機に1915年(大正4年)に改良告示、1918年(大正7年)に着工した。そして沢海地区は現在の本流により分断された。そのため、現在も沢海から見て対岸の「焼山地区」(地名は沢海)が阿賀野市に取り囲まれる形で新潟市江南区となっている。

* * *

次に、旧旧河道に向かった。

(3)地点、旧旧河道の右岸から。対岸に見えるこんもりした部分が「京ヶ島」である。

当日同行していたN氏が近くで畑仕事をしていた方に声をかけると、「おじいさんなら知ってるかもしれない、家にいるから聞きにいったらいい」と言ってくださった。図々しくも大きな家の玄関で「ごめんください」と声をかけると、70代の男性が出てきていろいろとお話をしてくださった。

男性はかつてそこで材木商を営んでおり、その祖父の代には旧河道を利用して流送していたとのこと。河道の切り替えの話をすると「写真があるから上がって見てみろ」とまでおっしゃり、さらに厚かましくも木の香り漂う邸宅にお邪魔した。そこには祖父、父などの遺影とともに一枚の写真が額となって掲げられていた。写真の額には筏を詠んだ短歌の色紙が入っていた。

河道が切り替えられた後、堤防を切り崩して干拓をしたそうだ。そしてできた新しい土地は周辺の住人に払い下げられ、田になった。家によって払い下げの面積は違ったが、その基準はわからない。

また、ここには渡し船があった。ある暴風雨の日に渡し船が転覆し、あわや溺死しそうになった人がいて、その人を祖父が助けたという。その表彰状も額装されていた。

諏訪神社。

(4)地点。
旧河道の右岸堤防を歩く。画面右は旧河道、左は旧旧河道。

さて、旧旧河道の右岸を遡る形で、京ヶ島の「川岸」を歩く。
(5)地点から。右は住宅地、道路が旧旧河道の堤防、左は旧旧河道。

旧旧河道に黄色を乗せてみる。ここはいま、水田だ。

途中から県道27号になる。こうして歩いていると、左の家並みの向こうに大河があったとは信じられない。

  京ヶ島の諏訪神社。ここには「町道記念碑」があった。「大正二年五月再建」「従二位伯爵源重明書」等とあるが、この旧旧河道左岸に道をつけた、ということなのだろうか。また「再建」というのも気になるが、それ以上の情報はない。

やがて国道460号にぶつかると旧旧河道の痕跡はわかりづらくなった。そのまま京ヶ瀬駅に向かった。


Spcl Thnx to Mr.I and Mr.N





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