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魵穴(えび穴)の水路の立体交差群(1)の続き。


(カシミール3D+地理院地図+スーパー地形)

③の新程ヶ崎橋付近。
 
この新程ヶ崎橋そのものはどうということはないが、その東に立体交差がある。この新程ヶ崎橋は「昭和53年11月」と銘板にあるので、魵穴大橋と同時に改良されたのだろう。

 
渡るのは御新田川。写真は西側(②側)。地図とは違う形になっている。暗渠化されているのか、埋め立てられたのか。

 
東側。写真に見える黄色い水管の位置で、竹野町用水路(水管ではない)が上を横切っている。

 
 
このように。下が御新田川、上が竹野町用水路。

 
竹野町用水路に設けられた水門。その向こうに見える赤いハンドルのところにも水門があり、竹野町用水路から、「下」の御新田川に水を流す流路がある。

 
 
こうした、非常に細かな用水路・排水路の整備やそれぞれの連結は、「必要以上に水が来てしまうと、田は水没してしまう」ということに対しての、それをどこにどう流すかの歴史である。とにかく、平野部の用水の「量」を調整するのが非常に大変だということが感じられる。





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(カシミール3D+地理院地図+スーパー地形)

新潟県弥彦村に「魵穴(えびあな)」という大字がある。明治になったころは独立した村だった。のちに合併して矢作村、さらに弥彦村となって今に至る。

その魵穴を西川がかすめるが、ここにたくさんの水路が合わさり、ここで分かれる。まずは①②を。


①魵穴大橋のすぐ北。

 
これが魵穴大橋、渡っているのは御新田川(排水路)と、矢作排水路から御新田川に落とす水路。写真は北詰から。左(東)に小さな旧橋が見える。昭和53年3月竣工(←親柱の標記に合わせる)なので、旧橋はそれ以前のものだろうが、1974~1978の空中写真を見ると、この魵穴大橋はなく、旧橋から続く土手に道がついている。

 
(国土地理院の空中写真に加筆。紫が現在の県道223号)

 
南詰右側の親柱には「広域農業幹線九号道路」とある。供用当初は「県道223号」ではなかったということか。

現地に建つと、地形図やGoogleMapsの衛星画像、ストリートビューと合わない。
 
このように、御新田川の、御新田橋より北側が埋め立てられているのだ。写真の左上に見えるのは、御新田排水機場。写真下から上に流れていたので、そのまま旧橋が渡る水路に流しているのかもしれない。

こちらは2014年8月のGoogleストリートビュー。


続いて②の、水路の立体交差。

②の南側から北側を見る。「下」を水路が通る部分、「下」の水路がカルバートのようになっているのがわかる。

 
別の角度。

 
下の川から上の川を見る。立体交差部分、下の川の「天井」はこんな形をしている。






あふれこぼれる水路橋と樋曽山隧道
新樋曽山隧道
新々樋曽山隧道に関連して。

それらの隧道群の西にあるのが矢川放水路トンネル。樋曽山隧道・新樋曽山隧道とまったく同じく、矢川の水を日本海に排出するものだ。

 
道路からすぐ見えるどころか案内のサインがある。

 
訪ねたのは7月中旬。水路トンネルへの排水はなされておらず、逆に冷気が霧となって吹き出していた。とても暑い日だったが、トンネルの真正面にいると、冷たい霧が涼しい。

 
振り返っての新潟平野。放水路はかなりの急勾配。矢川との分岐点に固定堰があり、洪水時にのみ越流し、こちらに流れ込む。そのため、矢川放水路トンネルに水が流れ込んでいる姿を見ることができるのは、洪水時のみのようだ。






第3期・第4期真人沢水路橋(小千谷発電所用)の続き。

 
真人沢水路橋(まっとさわ)を過ぎ、道なりに1~1.5車線の県道を進む。写真右にあるように、県道は山裾をなぞるように敷かれ、谷側には田が広がる。

 
そんな真人沢をまたぐ、マッス感あふれる橋。これが「第5期真人沢水路橋」だ。

 
こちらの水路は、第3期・第4期真人沢水路橋よりもはるかに高い、標高150m付近にある。

 
近代的な外観。この中を水が……

 
上から覗いてみたくて、道を歩いて上る。

 
鋼製なので塗装標記がある。

 
コンクリート部分についていた銘板。

真人沢水路橋
設計 信濃川工事事務所
施工 日産建設(株)
設計荷重 53.0t/m
 けた自重 5.5t/m
 水荷重  42.8t/m
 雪荷重  47t/m
基礎 直接基礎
基礎根入 けた座面から2.5m
着手 昭和63年3月
しゅん功 昭和63年10月


(カシミール3D+地理院地図+スーパー地形セット)

第3・4期、そしてこの第5期真人沢水路橋の走る導水ルートは、地形図ではわかりにくい。右下からきている青い破線は第3・4期のもので、一見、山本第二調整池に入っているように見えるが、第二調整池の湖面標高は140mほど。水路より40mほども高い。つまり、山本第二調整池の下をくぐり、山本調整池に入る。そして小千谷発電所に至る(二つある発電所マークの左のほう)。一方、左下から来たこの水路は第二調整池に入り、新小千谷発電所(二つある発電所マークの右側)に入る。


 
国鉄小千谷発電所(→JR東日本小千谷発電所;千手発電所、新小千谷発電所と総称して「信濃川発電所」という)のために作られた真人沢水路橋。「まっとざわ」と読む。重厚なコンクリートアートが2本、完全に田しかないような1~1.5車線の山道をまたいでいる。

写真手前(東側)が「第3期」、奥(西側)が「第4期」のものだ。

 
第3期から第4期を見る。

戦前から平成まで都合5期まで実施された首都圏の鉄道用発電所の計画のうち、1939(昭和14)年に運用を開始した千手発電所の計画が第1・2期で、発電後の水をそのまま再利用して小千谷発電所で発電する、というのが第3・4期だ。

地形図から読み取ると、水路の標高は100mほど。地形図では水路隧道の真上にため池が書かれていて、調整池かと誤認しそうになるが、それは地上部の別のものだ。

 
左が第3期、右が第4期。

 
第3期の銘板。表面が波打っている。通常の、鋳造の銘板ではないように見える。

信濃川水力発電第三期
真人澤水路橋
昭和26年5月竣功
設計者 國鉄信濃川工事々務所
施工者 前田建設工業株式會社

 
第4期の銘板。

信濃川水力発電第4期
真人沢水路橋
開きょ 163M20
開さくずい道 千手方20M70 小千谷方20M10
ずい道 小千谷方10M00
設計 信濃川工事局
施行 第2工区共同企業体(飛島建設株式会社)
しゅん功 昭和44年11月

 
第3期の千手方(上流方)。こういうふうに、山腹から飛び出し、山腹に突っ込んでいる。

 
開渠部はどうなっているのだろうか。第3期の小千谷方に登ってみたのだが、時期は8月、草がすごい。

 
早朝だったので、草に靴から腿までびしょ濡れにされながら、やっとここまで到達。これ以上近づくのは無理だった。

手すりがあり、その支柱としてレールが使われているのがわかったくらいで、水流は角度的に見ることができなかった。実は8月上旬に2回出向いているのだが、今度は草のない晩秋か春先に改めて来なくてはならない。

* * *

さて、「信濃川工事事務所」「信濃川工事局」について。のちに信越地区の工事を担当する局となったが、そもそもは、この信濃川水力発電計画のために、東京・田端に信濃川電気事務所を開設したことに遡る。

島秀雄の前と後の国鉄技師長であり、のちに国鉄総裁となった藤井松太郎の評伝『剛毅木訥』(田村喜子)には、1931年に千手に設けられた信濃川電気事務所(田端のをいったん閉鎖したのちに新たに開設された2代目なのか、移転扱いなのかは不明)に昭和12年ころに着任した様子が描かれている。藤井は浅河原調整池の設計に関わったのち、翌年には本省に戻され、鉄道省派遣橋梁修理班として大陸に渡った。

帰国後、1945年春に上越線の電化も担当していた信濃川地方施設部(おそらく電気事務所の発展)副長として千手に転勤。1944年11月に休止となっていた「第3期工事」を手がけ、終戦後の1947年7月に本省に戻った。部署を移るうち、のちに政治家となり、建設大臣や国土庁長官を歴任、田中角栄派の大番頭となる当時電気局長だった西村英一とともに信濃川発電所の第三期工事再開に向けて動き出す。

1949年の国鉄発足とともに信濃川地方施設部は信濃川工事事務所となる。藤井は第8代所長となる。そのころ、田中角栄が事務所に顔を出している様子が『剛毅木訥』に物語として描かれている。この真人沢水路橋も物語では触れられるが、残念ながらモブの一つである。藤井は竣功後、48歳にして理事・技師長として本社に戻り、十河信二の新幹線に反対して更迭され、のちに認識を改め、島秀雄の後に技師長として返り咲いたのは有名な話である。


【参考】
にいがた土木構造物めぐり







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