北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設群の一群。 手前の流れが(旧)北上川。左の円筒が脇谷洗堰。川の対岸の施設が脇谷閘門。 脇谷洗堰。水面が穏やかなのが上流、白波が立つのが下流。洗堰の水面下に六つのオリフィスがあり、通常はそこから旧北上川に分流している。右岸側の欠き取りは魚道。上の写真に五つの点(?)があるが、その5ヶ所と魚道の下がオリフィスか。 増水の際には堰を越流する。河川ネットに越流時の写真がある。 上流側閘門を上流から。ゲートは閉じている。 かわいい小屋。 ゲート開閉用のカウンターウエイト。チェーン駆動。2組ある。 上流側の背面。大きな円のようなものはギヤの覆い。大と中がある。操作室内から2本のシャフトが伸びている。上側のシャフトが写真手前(下流面)用。シャフトの先に(たぶん)ベベルギヤがあり、回転軸が水平から垂直に90度変わり、中くらいの覆い内の(たぶん)スパーギヤでクラウンギヤを回す。同軸の小歯車は大きな覆い内の大きな歯車を回し、ゲートが上下する。 下側のシャフトは、回り込んでチェーンをかました上でゲート装置内部に入り、もう1組のゲートを操作する。 ゲートは上半分と下半分に別れている。だからカウンターウエイトも2組ある。 下流側の閘門。ゲートは開いている。桜が満開、でも見に来ている人はいない。ゲートの開閉装置は上流側と同じなので、割愛する。 小屋がかわいい。 その先、導流堤(?)の下流端。石積み。 説明板。 後年、追加された脇谷水門。 説明板。 * * *
さて、この北上川の分流地点。古い地形図を見ると、いまの「新」北上川の流路に市街地があって、「えっ?」と戸惑う。この事業ために、柳津はまるごと移転したのだ。 (今昔マップ 東北地方太平洋岸 1901-1913年に着色加工) これは分流前。 (今昔マップ 東北地方太平洋岸 1949-1953年に着色加工) これは分流後。左岸に位置していた柳津町の市街地が、新北上川の本流にかかるため、ごっそり 北側に移転している。 北上川・迫川・江合川の流路は伊達政宗の時代、あるいはそれ以前からたびたび改修されてきた。洪水対策でもあり、舟運のためでもあった。その記録に曖昧な部分もあることから、「旧」北上川の流路も開削されたものだとする説もあるが、どうもそれは信頼性が低そうだ。 北上川は、古くは北上川のもう少し上流、錦桜橋付近から西へ迫川のほうに向かい、迫川に合流していたようだ。現在の地形データでは、圃場整備のためか、そのルートが逆に微高地となって浮かび上がる。改めて探訪してみたい。 PR 北上川の改修…開削された「新」北上川が分流する地点に、北上川河川歴史公園がある。そこには、分流するための新旧施設のほか、北上川の歴史に関する土木構造物がいくつか保存されている。 北上川河川歴史公園はここ。この旧月浜第一水門は、「新」北上川の河口近く、皿貝川との合流点にあった。東日本大震災で被災し、いまは新しい水門ができている。 夜雀さんのご教示によれば、「蝶番堰」という大変珍しい形式。英語では「Hinged weir」。土木学会の選奨土木遺産にもなっているが、しかし、土木学会のサイトでも、現地説明板でも「希少な形式」としか書いておらず、「どう希少なのか」「なぜ希少なのか」「希少に価値があるのか」が書かれていない。 右に、橋梁の支承のような部品がある(蝶番)。ここをピボットとして、このように動く。 上部の水色の部分が水平のとき、その上に載っている円筒のカウンターウエイトは、本来左端にある。それが、徐々に(転がって)右に移動することで、水門の開閉が容易になる、という仕組みだ。ダメじゃん、展示の方法。(上の写真はカウンターウエイトなどを簡易的に加工しています) カウンターウエイト。これがゴロゴロと転がるのだが、それはウインチを使ったらしい。ならばウインチもいっしょに展示すべきではないか。これがゴロゴロ転がる様を見たかった。 現地説明板。 滋賀県にある分水。琵琶湖に注ぐ姉川から水を引き(その地点を「出雲井(いずもゆ)」という)、別項で紹介する小田分水を経由したあと、ここでさらに分水している。特徴的なのが、円筒分水ではなく直線状に五つに分水していること。 写真で言えば、右上から左下に流れる。そして、その分水地点には橋がかかり、それぞれに「川」の名前がつけられている。右岸から、朝日川・市場川・中村川・柏戸川・天満川。竣工は昭和30年4月。 朝日川のほうが市場川より太い。この2本は西へ向かう。 中村川と天満川は太く、挟まれた柏戸川は細い。下の写真は上の写真の逆方向から。中村川と柏戸川は南へ、天満川は東へ。 上流側から。轟々と流れてきた水を三つの整流板で水門に向かわせる。 ダムの自然越流式洪水吐のようだ。 現地解説。 いまにも雨が振り始めそうだったのだけれど、ドローンを飛ばしたら降ってきたのでじっくり撮れなかったが、動画を。
もうひとつ、両総用水北部幹線をくぐるカルバートを。
パッと見、鉄道の築堤とカルバートに見える。鉄道の場合、径間1m以上を「橋梁」と呼ぶのだが、これは両総用水としては「橋梁」にあたるのだろうか。 右を見ると、どう見ても鉄道の築堤とその側道だ。 「側道」をいくと用水の高さに上がれる。用水には近づけない。用水には金網があり、その外側には管理用の舗装路があってそこにも金網。右にみえるクルマは周辺の住人のもの。写真を撮ったすぐ右には住宅がある。 振り替える。写真奥がカルバートの「上」。一見、水に見えるのは用水の保守用通路で、雨のためにそう見えるだけ。用水はその右。 反対側。 * * *
(Kashmir3D+スーパー地形+地理院地図) カルバートの紹介順が、下流側(下の地図の○)→上流側(上の地図の○;今回の記事)となってしまったが、上流にあたる両総用水をくぐるカルバートの標高は21mほど。今回の記事のカルバートの標高は17mほど。その間は、いったん標高4mほどの平地がある。そこは、暗渠で通している(上の地図の□)。サイフォン式で、いったん低いところに下ろしてまた高さを上げているのだ。 下流側(南側)から上流側(北側)を見る。 spl.thnx @roadexplorer 一見、普通のトンネルに見えるが、写真を水平方向に横切っているのは両総用水の北部幹線。その下をトンネルのようにくぐっている。 用水には立ち入ることができないように金網で囲われている。坑門前の法面にはバルブがある。 何のバルブだろう。北部幹線は、途中で5カ所、分岐を設けているので、その一つだろうか。 反対側には階段。 カルバート内ではクルマは対向できない。反対側の坑門前が広くなっており、ここで待ち合わせする。 spl.thnx @roadexplorer |
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