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草木に埋もれていた天北線の上音威子府駅は、2015年に整備された。駅名標は、幸いにも、よくあるように「方向幕フォント」や「JNR-L」ぽい書体ではなく、現役時代と同じ字形で再現されている。

1998年に訪問した際には駅名標はなかったと思う。現役時代に撮られた写真を見ても形が異なり、照明もないので、再建されたものだろう。

 
整備から8年、草木の侵食はけっこうな勢いだ。路盤はほぼ見えない。

 
ホームにはアンテナのようなものが1本。電源が引かれている。

* * *

  
 
1998年8月に訪問したことがある。駅名標はなさそうだ。「上音威子府通信中継機室」と書かれた小屋のドアには、現役時代に書かれたものだろうか、落書きがあった。「機」は略字。

 
駅舎だけの写真をなぜ撮っていないのか。まあ、当時は鉄道趣味からは完全に離れていたし、記録しようという気持ちもなかった。

ホームにバイクを上げて写真を撮っているけれども、当時は別になんとも思わなかったし、世間もそんな感じだった。いまならためらう、というか、たぶんしない。





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2023年3月末日限りで廃止になった留萌本線石狩沼田~留萌間。石狩沼田の次が、この真布駅だった。7月に通りかかったときには、線路もホームも待合室も残ったままだった。

 
駅名標は当然外されている。かつてなら放置だったのかもしれないが、いまならすぐ盗難に遭ってしまうだろう。待合室にも入ってみたかったが、ホームへのスロープが剥がしてあり、その手前には柵まであるので控えた。停止位置目標も支柱だけ残して取り外されている。

 
 
踏切跡。

 
 
2011年7月に乗ったときに車内から撮った写真。このころはほとんどガラガラだった。







 
2022年末に、邑久光明園を見学した。国立のハンセン病療養所だ。岡山県瀬戸内市長島には、この本土側の邑久光明園と、端部の長島愛正園が二つあり、この邑久光明園は、本来、近畿地区の施設で、西成にあったものが、1934年の室戸台風で甚大な被害を受け、移転してきたものだ。

そもそも国立のハンセン病療養所とはなんなのかは、ここで触れるにはあまりにも大きすぎるが、施設内では入所者たちが自らさまざまな仕事をして施設を維持し、ここにあるトロッコの線路は、その遺構である。

この存在は、@momoshima_jun さんのツイートで知った。

 
 

基本的に、長島は隔離されていた。本土との距離、わずか22m。そこに橋が架かったのは1988年だ。そんな最近まで、ハンセン病に対する無知と偏見があった、というか、いまも間違いなくありつづけている。

 
 
そのため、物資はいくつかの桟橋に船で搬入された。この薮池桟橋に搬入されたものを、入所者がトロッコで丘の上の施設まで運ぶために使われたのが、このトロッコ線路である。iPhoneの計測で軌間約44cm。

人力で、この角度を押し引き揚げていた。ウインチで引き揚げていたそうです。2023/4/3修正】どれくらいの物資の量かはわからないが、一度の便で到着した物資を運び上げるには、何往復も必要だっただろう。危険も伴ったはずだ。

* * *

光明園では、コロナ禍のために自由な見学はできなかったが、幸い学芸員さんに、ここを含めて見学できる部分に連れて行っていただき、解説をしていただいた。愛正園では長島愛正園歴史館などを見学した。

元々、岡山の方が療養所等について発信していたので、ごくわずかな知識はあったが、ここを訪ねたのは、このトロッコ線路がきっかけだった。

ハンセン病については、こうした施設がそこそこ近くにないと、知る機会すらないだろう。四大公害が、該当地域以外ではまったく忘れ去られているように。私も知っていたわけではない。ただ、WEB記事や文献で読むのと、現地に来て実際に見て学ぶことは、まったく異なる。後者のほうが圧倒的にリアリティを持つ。なにしろ、そこに収容されて70年以上…というような人生を歩んできた方を、この眼で見るのだから。


●上樋脇駅跡

廃止になった宮之城線上樋脇駅跡。ホームが残っている。線路跡はコンクリート舗装され、道路になっている。が、周辺の住宅のためにそのようにしてあるだけで、通り抜けることはできない。線路はこの先、樋脇川を渡っていて、そこ部分の橋梁は撤去されている。

 
ホームは、駅前だった住宅へのアクセスのためか、2ヶ所で欠き取られている。


 
市道?との交点には「上樋脇駅開設記念碑」がある。

●樋脇駅跡
 
 
そこから2kmほど西にある樋脇駅跡。「鉄道記念館」となっているが、特別な展示物があるわけではない。蒸気機関車の動輪がある、現地では大きく見えなかったのだけれど、C57のものらしい。宮之城線は簡易線でC57は入っていなかったと思うが。

 
廃止当時のものではないと思うが、駅によくあるタイプのベンチ。

 
1971年には荷物扱い廃止、無人化のようだが、窓口はサッシ化されている。後年の改造だろうか。

 
窓もサッシ化されているので、無人化以降もなにかしらの事務所として使われ、全体的に手を入れたのだろう。

 
 
ホーム側。線路が敷かれているが、嵩上げされている。大歯車のついた、電車の輪軸が置かれている。

 
写真左は「駅裏」だったところ。そこにバイパスができている。駅舎はバイパスに背を向けた形になる。





 
のと鉄道能登線の終端だった蛸島駅。こうして切り取ると、終端駅ぽさはない。1面1線だからか。三セク転換後から無人駅だったからか。

 
裏手。駅名標が転がされている。

 
ホームも現役当時のまま、時間が経っている感じだ。こちらは終端方向。

 
穴水側。この方向は、道路整備で線路が途切れいて、その先にMT102が留置されている。

 
10年以上、この場にあるようだ。







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