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美幸線の廃線あとは道路に転用された部分もあるが、並行して残っているところもある。ここは健康回復村の近く、歌登辺毛内(うたのぼりぺんけない)。築堤が延々と見える。そこに、カルバートが一つ。

 
翼壁には「1969-8」の象嵌。型となった木片も残る。この「1969-8」は築堤の両側、道路から見ても両側、合計4カ所にある。この写真を撮ったのは2021年7月。52年前の完成。

 
カルバートを抜けて振り返る。この道は、地理院地図にもGoogleMapsにもないが、Googleの衛星画像を見ると、森林伐採のため?の道のようだ。どこかで行き止まっている。




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下関港には多くの廃線跡がある。下関駅の南東側にある第一突堤、第二突堤に向けての廃線跡をいくつか。これは第二突堤に行く線路。右が第二突堤。ここでその線路は分岐していたようだ。

 
逆…下関駅側を見ると、線路がビルに突っ込んでいるかのように見える。


そのまま南下すると道路を横切る。あいにくトラックが塞いでいる。

 
廃線跡は草に覆われている。レールはあるようだ。

 
上の写真の右側、バリケードすごい。

 
第二突堤。市営上屋が二つ? 金網で囲われている。中には入れない。

 
途切れ途切れで線路が残っている。この日は捕鯨母船の日進丸が入港していて、人が多く出入りしていた。そして、そういう意味での警戒もなされていた。

 
こちらは第一突堤への線路跡。この先(右側)にはゲートがあり、立ち入りはできない。この向こうに見えているフェリーは関釜航路の「はまゆう」。そこが下関国際フェリーターミナル。

以上、南東側の廃線跡。下関港といえばレサが発着していたことが有名だが、それは下関駅の西側。そちらも少しだけ廃線跡があるらしい。しかも下関漁港閘門(昇開橋)もある。下調べがまったくなっていない。また行く理由ができた。








 
三江線はまだまだ線路が残っている。いずれ撤去されるのか、それともこのまま観光資源となるのか。

 
香淀駅はきれいなまま残っていた。自転車置き場の3台は、放置のようだった。

 
ホームへの立ち入りは禁止されていた。

 
柵越しに1枚。



倉吉線の泰久寺駅周辺の廃線跡。軌道内に竹が育っていることで有名だ。ようやく行けた日は高曇りで、鬱蒼とした印象となった。

 
 
泰久寺駅跡にクルマを2~3台停められるスペースがある。駅跡には当時の駅名標がそのまま残っている。用意をしていると、そこに設置してある簡易トイレの清掃に地元の方がやってきた。きちんと管理がなされているのだ。

 
そこからほどなく、こんなふうに大樹が線路脇に伸びている。それだけの期間が過ぎたのだ。このあたりは蚊がまとわりついてきた。

 
泰久寺駅から歩いて5分ほどで、現場だ。

 
 
その先のトンネルまで行ける。トンネルの手前でレールは途切れている。

 
 
 少し倉吉寄りの民家の間にもレールがある。砂利に埋もれた曲線がとても表情があるが、たぶん実際は直進していて、この位置にあるものはなんらかの事情があると思われる。廃線跡も、ここだけでなく、線路が残るところは多数あるようだ。

 
いつもは青空と緑が迎えてくれる七谷駅。


魚沼には雪が積もっていたが、ここは雨だった。その雨もあがり、枯れきった草と、わずかに残った緑が濡れている。この七谷の、雪直前の空気は、まさに新潟の冬だ。

 
小学校6年生の時に、一度だけ乗り通したことがある蒲原鉄道。1月の冬休みだった。友達と3人だった。たしか雪が降っていたと思う。考えたこともなかった小型の電車の車内はロングシートで、横に3人並んで座り、前も見えず、車窓も雪。断片的なシーンの記憶しかないが、私の中での「新潟の冬の光景」というイメージは、この頃に私の中に形成されたものであり、その断片的なシーンは、その形成にも大きく影響を与えている。

 




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