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あふれこぼれる水路橋と樋曽山隧道
新樋曽山隧道
新々樋曽山隧道に関連して。

それらの隧道群の西にあるのが矢川放水路トンネル。樋曽山隧道・新樋曽山隧道とまったく同じく、矢川の水を日本海に排出するものだ。

 
道路からすぐ見えるどころか案内のサインがある。

 
訪ねたのは7月中旬。水路トンネルへの排水はなされておらず、逆に冷気が霧となって吹き出していた。とても暑い日だったが、トンネルの真正面にいると、冷たい霧が涼しい。

 
振り返っての新潟平野。放水路はかなりの急勾配。矢川との分岐点に固定堰があり、洪水時にのみ越流し、こちらに流れ込む。そのため、矢川放水路トンネルに水が流れ込んでいる姿を見ることができるのは、洪水時のみのようだ。






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第3期・第4期真人沢水路橋(小千谷発電所用)の続き。

 
真人沢水路橋(まっとさわ)を過ぎ、道なりに1~1.5車線の県道を進む。写真右にあるように、県道は山裾をなぞるように敷かれ、谷側には田が広がる。

 
そんな真人沢をまたぐ、マッス感あふれる橋。これが「第5期真人沢水路橋」だ。

 
こちらの水路は、第3期・第4期真人沢水路橋よりもはるかに高い、標高150m付近にある。

 
近代的な外観。この中を水が……

 
上から覗いてみたくて、道を歩いて上る。

 
鋼製なので塗装標記がある。

 
コンクリート部分についていた銘板。

真人沢水路橋
設計 信濃川工事事務所
施工 日産建設(株)
設計荷重 53.0t/m
 けた自重 5.5t/m
 水荷重  42.8t/m
 雪荷重  47t/m
基礎 直接基礎
基礎根入 けた座面から2.5m
着手 昭和63年3月
しゅん功 昭和63年10月


(カシミール3D+地理院地図+スーパー地形セット)

第3・4期、そしてこの第5期真人沢水路橋の走る導水ルートは、地形図ではわかりにくい。右下からきている青い破線は第3・4期のもので、一見、山本第二調整池に入っているように見えるが、第二調整池の湖面標高は140mほど。水路より40mほども高い。つまり、山本第二調整池の下をくぐり、山本調整池に入る。そして小千谷発電所に至る(二つある発電所マークの左のほう)。一方、左下から来たこの水路は第二調整池に入り、新小千谷発電所(二つある発電所マークの右側)に入る。


 
国鉄小千谷発電所(→JR東日本小千谷発電所;千手発電所、新小千谷発電所と総称して「信濃川発電所」という)のために作られた真人沢水路橋。「まっとざわ」と読む。重厚なコンクリートアートが2本、完全に田しかないような1~1.5車線の山道をまたいでいる。

写真手前(東側)が「第3期」、奥(西側)が「第4期」のものだ。

 
第3期から第4期を見る。

戦前から平成まで都合5期まで実施された首都圏の鉄道用発電所の計画のうち、1939(昭和14)年に運用を開始した千手発電所の計画が第1・2期で、発電後の水をそのまま再利用して小千谷発電所で発電する、というのが第3・4期だ。

地形図から読み取ると、水路の標高は100mほど。地形図では水路隧道の真上にため池が書かれていて、調整池かと誤認しそうになるが、それは地上部の別のものだ。

 
左が第3期、右が第4期。

 
第3期の銘板。表面が波打っている。通常の、鋳造の銘板ではないように見える。

信濃川水力発電第三期
真人澤水路橋
昭和26年5月竣功
設計者 國鉄信濃川工事々務所
施工者 前田建設工業株式會社

 
第4期の銘板。

信濃川水力発電第4期
真人沢水路橋
開きょ 163M20
開さくずい道 千手方20M70 小千谷方20M10
ずい道 小千谷方10M00
設計 信濃川工事局
施行 第2工区共同企業体(飛島建設株式会社)
しゅん功 昭和44年11月

 
第3期の千手方(上流方)。こういうふうに、山腹から飛び出し、山腹に突っ込んでいる。

 
開渠部はどうなっているのだろうか。第3期の小千谷方に登ってみたのだが、時期は8月、草がすごい。

 
早朝だったので、草に靴から腿までびしょ濡れにされながら、やっとここまで到達。これ以上近づくのは無理だった。

手すりがあり、その支柱としてレールが使われているのがわかったくらいで、水流は角度的に見ることができなかった。実は8月上旬に2回出向いているのだが、今度は草のない晩秋か春先に改めて来なくてはならない。

* * *

さて、「信濃川工事事務所」「信濃川工事局」について。のちに信越地区の工事を担当する局となったが、そもそもは、この信濃川水力発電計画のために、東京・田端に信濃川電気事務所を開設したことに遡る。

島秀雄の前と後の国鉄技師長であり、のちに国鉄総裁となった藤井松太郎の評伝『剛毅木訥』(田村喜子)には、1931年に千手に設けられた信濃川電気事務所(田端のをいったん閉鎖したのちに新たに開設された2代目なのか、移転扱いなのかは不明)に昭和12年ころに着任した様子が描かれている。藤井は浅河原調整池の設計に関わったのち、翌年には本省に戻され、鉄道省派遣橋梁修理班として大陸に渡った。

帰国後、1945年春に上越線の電化も担当していた信濃川地方施設部(おそらく電気事務所の発展)副長として千手に転勤。1944年11月に休止となっていた「第3期工事」を手がけ、終戦後の1947年7月に本省に戻った。部署を移るうち、のちに政治家となり、建設大臣や国土庁長官を歴任、田中角栄派の大番頭となる当時電気局長だった西村英一とともに信濃川発電所の第三期工事再開に向けて動き出す。

1949年の国鉄発足とともに信濃川地方施設部は信濃川工事事務所となる。藤井は第8代所長となる。そのころ、田中角栄が事務所に顔を出している様子が『剛毅木訥』に物語として描かれている。この真人沢水路橋も物語では触れられるが、残念ながらモブの一つである。藤井は竣功後、48歳にして理事・技師長として本社に戻り、十河信二の新幹線に反対して更迭され、のちに認識を改め、島秀雄の後に技師長として返り咲いたのは有名な話である。


【参考】
にいがた土木構造物めぐり





あふれこぼれる水路橋と樋曽山隧道
・新樋曽山隧道のつづき。

 
3本ある水路隧道の、新潟平野側から見て真ん中のものが、新々樋曽山隧道。樋曽山隧道(初代)・新樋曽山隧道は(信濃川水系の西川から引かれた)矢川の水を日本海に排出しているが、これは大通川の水を排出している。見えているのは「大通川放水路」だ。


大通川は新川の上流部分であり、人工の水路で、信濃川の水を直接排水するのではなく、潟の水を抜いて田を改良するために掘られたものだ。3本の水路隧道が並び、それぞれ日本海に排水してはいるが、この新々樋曽山隧道だけ、流す水の出自・性格が異なる。

大通川放水路はいくつかの水路と立体交差しているが、その下流である新川は西川と大規模に下立体交差している。
西川水路橋(新潟県) 水の立体交差



さて、その新々樋曽山隧道の前にはゲートがある。

 
隧道側から。

 
新新樋曽山隧道の呑み口。

 
隧道からゲート方向を見る。

 
振り返って、矢川との立体交差。水路隧道になっているのが大通川放水路。矢川は写真でいえば左右に横切っているが、当然、見えていない。

 
もう一度、隧道方向を。左が新新樋曽山隧道につながる大通川放水路、右が樋曽山隧道(初代)に通じる矢川の排水路。右のほうが水位がずっと高い、それは、一つ上の写真の通りに立体交差しているので、当然といえば当然だろう。











あふれこぼれる水路橋と樋曽山隧道のつづき。



 
3本ある水路隧道の、新潟平野側から見て左端(南端)のものが、新樋曽山隧道。樋曽山隧道(初代)と同じく、矢川の水を日本海に排出している。

 
 
流れ込む水を制御する新樋曽山隧道水門。周囲の水田の標高が6~7mほどなので、水路の底は2~3mほどか。3門のうち右の1門は別の水路に繋がっているようだ。

 
反対から。

 
水門を抜けた水は、かなりの角度をもって新樋曽山隧道に流れ込む。

 
「新樋曽山隧道」という扁額が掲げられている。

 
 
近くにある新樋曽山隧道竣工記念碑。最初の樋曽山隧道からの経緯についても書いてある。文面を書いた一人は「新潟高等学校教官渡辺秀英」。

●関連項目
新々樋曽山隧道


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