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国鉄小千谷発電所(→JR東日本小千谷発電所;千手発電所、新小千谷発電所と総称して「信濃川発電所」という)のために作られた真人沢水路橋。「まっとざわ」と読む。重厚なコンクリートアートが2本、完全に田しかないような1~1.5車線の山道をまたいでいる。

写真手前(東側)が「第3期」、奥(西側)が「第4期」のものだ。

 
第3期から第4期を見る。

戦前から平成まで都合5期まで実施された首都圏の鉄道用発電所の計画のうち、1939(昭和14)年に運用を開始した千手発電所の計画が第1・2期で、発電後の水をそのまま再利用して小千谷発電所で発電する、というのが第3・4期だ。

地形図から読み取ると、水路の標高は100mほど。地形図では水路隧道の真上にため池が書かれていて、調整池かと誤認しそうになるが、それは地上部の別のものだ。

 
左が第3期、右が第4期。

 
第3期の銘板。表面が波打っている。通常の、鋳造の銘板ではないように見える。

信濃川水力発電第三期
真人澤水路橋
昭和26年5月竣功
設計者 國鉄信濃川工事々務所
施工者 前田建設工業株式會社

 
第4期の銘板。

信濃川水力発電第4期
真人沢水路橋
開きょ 163M20
開さくずい道 千手方20M70 小千谷方20M10
ずい道 小千谷方10M00
設計 信濃川工事局
施行 第2工区共同企業体(飛島建設株式会社)
しゅん功 昭和44年11月

 
第3期の千手方(上流方)。こういうふうに、山腹から飛び出し、山腹に突っ込んでいる。

 
開渠部はどうなっているのだろうか。第3期の小千谷方に登ってみたのだが、時期は8月、草がすごい。

 
早朝だったので、草に靴から腿までびしょ濡れにされながら、やっとここまで到達。これ以上近づくのは無理だった。

手すりがあり、その支柱としてレールが使われているのがわかったくらいで、水流は角度的に見ることができなかった。実は8月上旬に2回出向いているのだが、今度は草のない晩秋か春先に改めて来なくてはならない。

* * *

さて、「信濃川工事事務所」「信濃川工事局」について。のちに信越地区の工事を担当する局となったが、そもそもは、この信濃川水力発電計画のために、東京・田端に信濃川電気事務所を開設したことに遡る。

島秀雄の前と後の国鉄技師長であり、のちに国鉄総裁となった藤井松太郎の評伝『剛毅木訥』(田村喜子)には、1931年に千手に設けられた信濃川電気事務所(田端のをいったん閉鎖したのちに新たに開設された2代目なのか、移転扱いなのかは不明)に昭和12年ころに着任した様子が描かれている。藤井は浅河原調整池の設計に関わったのち、翌年には本省に戻され、鉄道省派遣橋梁修理班として大陸に渡った。

帰国後、1945年春に上越線の電化も担当していた信濃川地方施設部(おそらく電気事務所の発展)副長として千手に転勤。1944年11月に休止となっていた「第3期工事」を手がけ、終戦後の1947年7月に本省に戻った。部署を移るうち、のちに政治家となり、建設大臣や国土庁長官を歴任、田中角栄派の大番頭となる当時電気局長だった西村英一とともに信濃川発電所の第三期工事再開に向けて動き出す。

1949年の国鉄発足とともに信濃川地方施設部は信濃川工事事務所となる。藤井は第8代所長となる。そのころ、田中角栄が事務所に顔を出している様子が『剛毅木訥』に物語として描かれている。この真人沢水路橋も物語では触れられるが、残念ながらモブの一つである。藤井は竣功後、48歳にして理事・技師長として本社に戻り、十河信二の新幹線に反対して更迭され、のちに認識を改め、島秀雄の後に技師長として返り咲いたのは有名な話である。


【参考】
にいがた土木構造物めぐり





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