白川橋(岐阜県白川町)その1の続き。
中央径間の右岸側の銘板は「その1」に書くべきだった…。 上は、左岸下流側と同じ。 大正十五年製作
大阪 日本橋梁株式会社 下は、 修繕工事
1978年12月 岐阜県 道示(1972) 使用鋼材 SS41 製作 日本橋梁株式会社 というもの。日本橋梁の銘板は、54年を経て少し大きさ等が変わったようだ。 その前に、こうやって立っていると、新聞販売店からおばちゃんが袋を持って出てきた。そして、橋を渡り始めた。どこへ行くのだろう、日常的に使われているのはいいな…などと思っていたら! おばちゃんは、その袋を川に投げた。ゴミ袋を投げ捨てたのだった('A`) ちょっとげんなりしながら桁裏へ。 から上が、昭和53年の改装時のもので、補剛桁そのものは開通時からのものである。 アンカーがどうなっているのか、見てきてなかったなー…と思ったら、うさ★ネコサンドさんに驚愕の実態があった。これを見てないなんて。無念(そんなのばっか)。 PR JR高山本線白川口駅の近くにある、飛騨川を渡る橋。鋼製主塔を持つ吊橋で、85年が経過している。現在は歩行者用となっている。場所はここ。 飛騨川と、支流・白川の合流地点である。白川はここから東に遡上し、東白川村、中津川市加子母に至る。その道筋を「白川街道」という。現在の県道62号と国道256号の一部である。同じ岐阜県ではあるが、白川郷とは関係がない。同じ県内に「白川町」と「白川村」があるのはよそ者には混乱を招きそうだ。 地図を見てわかるとおり、ここに白川橋がかけられたのは、白川街道の重要性と、国道41号(1953年より)の重要性からである。文章で説明するとまどろっこしいが、川が合流するところで橋を2本かけて済ませられるようになっている。 1960年、下流に飛泉橋(ランガー桁)が架けられて国道が換線され、こちらは県道となった。白川街道から国道41号に出たい人にとっては、飛泉橋を経由すると遠回りになるため、この白川橋が現役のころは重宝されたに違いない。 この白川橋がどんな橋であるかは下記に譲り、ここではディテールを見て行くだけにする。 ・wikipedia(写真がどこかで見たことがあるのは偶然ではない) ・歴史的鋼橋集覧 まず、東側からアプローチする。 さて、一歩踏み込む。 大正十五年製作
大阪 日本橋梁株式会社 とある。扁額は右書きなのに、銘板ひ左書きである。 請負
飛州高山 山本宗兵衛(と読める) 請負が銘板を残すのか! (続く) のぞみ橋 (岐阜県丸山ダムそば)の続きになる。 この角度だと、補剛桁の概要もわかる。 ふと思ったのだが、吊橋を撮るときは、アンカーも撮るようにしようそうしよう。 この手前には、ガードレールが設置されており、クルマは進入することができない。 渡って反対側(北側)へ。 そして、根本には… 施工 株式会社間組 製作 高田橋梁株式会社 という銘板がある。 コンクリート製の主塔のデザイン分類でも作ろうかな。 阿寺川橋 顛末/『トラック野郎 熱風5000キロ』に捧ぐなどに関連して。 『大桑村 写真で見る100年』を見に行ったときのこと。それがある、大桑スポーツ公園に行く途中に、木曽川を渡る廃橋があった。例によって吊橋は主塔だけが残されている。 (1947年の航空写真はこちら) さてこの主塔。見れば、所在げに銘板がついている。 左。 右。 この和村橋(旧)が賭けられた当時の写真が、前述の本にある。 補剛桁の材質はわからないが、対岸への重要な交通路だったはずなので、自動車も通れる規格だったろう。 さて現在、この吊橋に変わる(新)和村橋が架かっている。 昭和49年5月竣工。この時点で、吊橋の和村橋の役目は新橋に取って代わったはずだ。旧橋はいつまであったのか。少なくとも1985年までは、補剛桁もあることが、航空写真からわかった。 (国土変遷アーカイブより) 左が新橋、右が旧橋。 ものごとのはじまりは記録されるが、終わりは記録されることが少ない。航空写真のアーカイブはそれを解決してくれるものではないが、いくらかのヒントはくれる。もっと解像度を高くしたものだとなおいいのだが。 岐阜県の八百津町にはいろいろな珍しいものがある。丸山ダムはダム好きの人たちの間で相当に有名で、その「珍しいもの」も、ダムに由来するものも多い。この旅足橋(たびそこはし)も、そのひとつである。 通常、吊橋が吊っているのは床版ないし補剛桁である。その場合、ケーブルから垂直に垂れ下がるハンガーロープが補剛桁を吊るのだが、この旅足橋はケーブルが補剛桁の上弦を兼ねている部分がある。この構造は、アメリカの橋梁エンジニア、デビッド・バーナード・スタインマン(David Bernard Steinman)が考案したもので、「Florianopolis型」(フロリアーノポリス型。「Florianpolis橋」と誤記されていることもあるので注意、元はブラジルの地名である)という。目的は、タコマ橋崩壊に鑑みた耐風性の向上らしい(未確認)。 さて、先に側面を見せたが、まずは西から。 では、補剛桁とメインケーブル、ハンガーロープの関係を見ていく。 メインケーブルとはピンで結合されているように見える。この構造は後述する。 このように、ガッチリとクランプで留めている。 別角度。 こんどは/|\型の部分。 昭和29年(1954) 岐阜県建造 内示(昭和14年)二等橋 製作 株式会社横河橋梁製作所 『横河橋梁八十年史』にも、写真が載っている旅足橋。それでも、どういう構造だったかなどは「きわめて珍しい補剛トラスをもった吊橋」という程度なのがすごく残念だ。 旅足橋。見ると意外に(?)衝撃的だった。ダムマニアのみなさんもぜひ。 |
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