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白川橋(岐阜県白川町)その1の続き。

中央径間の右岸側の銘板は「その1」に書くべきだった…。
20110704_008.JPG右岸上流側。

上は、左岸下流側と同じ。

大正十五年製作
大阪
日本橋梁株式会社

下は、

修繕工事
1978年12月
岐阜県
道示(1972)
使用鋼材 SS41
製作 日本橋梁株式会社

というもの。日本橋梁の銘板は、54年を経て少し大きさ等が変わったようだ。

20110704_009.JPG右岸下流側の「請負」も、左岸のものと同じ。同じ銘板が、中央径間中央部を支点にした点対称でついているというのは珍しいのではないか。

20110704_012.JPGさて、もう一度、右岸側に戻る。右側にある中日新聞販売店の前から、橋の下に降りることができる。

その前に、こうやって立っていると、新聞販売店からおばちゃんが袋を持って出てきた。そして、橋を渡り始めた。どこへ行くのだろう、日常的に使われているのはいいな…などと思っていたら! おばちゃんは、その袋を川に投げた。ゴミ袋を投げ捨てたのだった('A`)

ちょっとげんなりしながら桁裏へ。

20110704_014.JPG主塔が建つ橋脚は、円形ウェルを2本並べ、上部を結合したもの。大正15年(1924年)開通だというから、当時からあるものだろう。ただし、開通当時、補剛桁の床版は木製だった。それをコンクリート製に改装したのは、銘板のとおり昭和53年(1978年)。それまで54年間、木製床版でがんばっていた。もちろん、適宜、床版はとりかえていたことだろう。

20110704_015.JPG補剛桁の裏側をアップにする。鋼矢板のように見えるのが鋼デッキプレート、その上にコンクリートで床版が敷かれている。
から上が、昭和53年の改装時のもので、補剛桁そのものは開通時からのものである。


アンカーがどうなっているのか、見てきてなかったなー…と思ったら、うさ★ネコサンドさんに驚愕の実態があった。これを見てないなんて。無念(そんなのばっか)。

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