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11月15日は、私にとっては特別な日付。昭和57年の「佐渡8号」の記事を書こうと思ったら、それは11月12日のことだったので、翌13日のことを書く。合わせて下記もご覧いただきたい。

11月14日によせて ~昭和57年11月14日から28年~
11月14日によせて。昭和57年から30年。



昭和57年11月12日(金)の夜に新潟を出た私と母は、「佐渡8号」で早朝の上野駅に着いた。そして、この「国電フリー乗車券」を買い、私の目論見では全駅に下車し、全駅で硬券入場券を買うつもりだった。

どういう順番で回ったかは覚えていないが、手元には、券面のうち、一部を除く全駅の入場券がある。そんな好意に付き合わされた母は、総武線のどこだかの駅で「一人で行ってこい」と行って休んでいた記憶がある。また、最後は私も疲れたのと、「快速」「緩行」がわからなかったので、回りきれなかった駅がある。

上の「国電フリー乗車券」、唯一の途中下車印は東京駅。東京駅は、ラッチ内の新幹線改札口で、新幹線ホームへの入場券としてのみ、赤いインクの硬券があった。それを買った印として押されたものだ。鋏痕を入れる場所がなくなり、券を折って内側に入れられはじめたので、途中から見せるだけでパスしていた。ふたつのそれは、当該の位置にある駅のような気がして鋏痕データベースを見てみたけれど、該当する駅は違った。

当時、私は手書きの看板である鳥居形の駅名標と、硬券入場券が大好きだった。この、東京の入場券は、新潟で買えるのとは仕様が異なる。ちょっと忘れてしまったが、当時九つだかの印刷所があり、微妙に仕様が異なるのだ。この関東の仕様は「旅客車内に立ち入ることはできません。」が、長体がかった書体で1行で納められている(活字なので「長体」ではないが)。

このとき買った入場券は、このような形でいまも取ってある。いま見返すと、下記のとおり。

●硬券
東京駅(赤。新幹線改札口)、有楽町、新橋、浜松町、品川、大崎、恵比寿、渋谷、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、巣鴨(料金変更)、駒込、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野/板橋、十条/上中里、王子、東十条、赤羽/御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、信濃町、千駄ヶ谷、(中)大久保、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪/松戸/市川/大森

●窓口のマルス券しかない(という応対)
田町、五反田

●券売機しかない(という応対)
目黒、御徒町、秋葉原、神田

それぞれ、駅の窓口で「硬券入場券ください」と告げて買っていたのだが、マルス券か券売機しかない駅に、実際になかったのかどうかはわからない。予備で持っていたとしても、それを使わずにマルス券を販売されたり、券売機を推奨することは、業務としては当然ではあるからだ。

ここにない駅は、行かなかったか、窓口で自動券売機券しかないと言われて買わなかったかのどちらかだ。

いまから33年前の今日、私はこんなことをしていた。
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実家は1981年に建て替えた。元の家は昭和一桁の築で、私の家族、大叔母とその息子、別の大叔母(独身)の3世帯同居、家の中に階段が三つ、台所が三つ、トイレが二つ、風呂がひとつあった。当たり前だが、全部和室だった。

廊下との仕切りは全てガラスの入った障子戸か襖だった。そのガラスは、戸によって違っていた。割れたら取り替えるからである。

ガラスは近所の人…たぶんガラス屋さんというわけではない、建具屋さん? 内装屋さん? とにかくその人に来てもらって、あり合わせのガラスを入れてもらった。戸のガラス押さえは木枠であり、金色の鍋頭の細くて小さいメクギを抜いてガラスを入れ替えていた。

…いまのいままで「メクギ」は「女釘」だと思っていたが、変換したら「目釘」と出た。それでは刀の用語になってしまう。果たして?


さて、ガラスが戸によって違っていたという話である。いま地方で空き家を見かけると、ガラスを見る。懐かしい、見覚えのあるガラスがはまっていることがあるのだ。新潟市内で採集したいくつかのガラスを紹介する。

多数の立方体に見えるこれは、こちらのサイトでは「キララ」となっている。

これは「銀河」というようだ。八方位みたいな模様の間を細かな砂利模様がびっしりと埋め尽くしている。

これはなんだろう? 子供の頃は「鵜の足」という貝を連想させるものだと思っていた。


いまの家はすべてアルミサッシであり、ガラスも破損時に飛散しないように線入りになってしまった。そしてとても頑丈になった。古いガラスは少しぶつかるだけでよく割れたものだ。







タイミングよくゴールデンウイークに10連休をとることができた上に、ひとりででかけてもいい状況にもなったので中国地方に行ってきた。ログは上記の通り(dakota20で取得、kashmir3Dで日付ごとに編集、KMLに書き出してGoogleEarthで表示)。

走行距離3190km、累積標高4万4957m、移動時間110時間48分19秒。まあ、こんなものだろう。1日にもっと長く走る人もいると思うが、距離を競っているわけではないし、沿道で出会うものが多いほど、距離は減っていく。道中すべて車中泊。

連日好天に恵まれたため、およそ2000カットも撮影してしまった。撮影した橋や建物等については省略する。

●4/27(土)自宅→嬉野
移動。

●4/28(日)嬉野PA→大塔
『廃線跡の記録4』でLEVEL_7Gさんがレポートしている国見山鉱山の廃線跡へ。上部軌道にはおかしな橋がたくさんあった。偶然にも、土中に半分埋もれていたというD-507の解体作業を目にする。

●4/29(月)大塔→御坊→吉備
紀州鉄道に乗る。

●4/30(火)吉備→津和野
広島の橋等をめぐりながら。

●5/1(水)津和野→三次
観光地としての津和野ではなく、地形や集落について体感しに。

●5/2(木)三次→高梁川沿い→岡山

●5/3(金)岡山→倉敷→加茂川
岡山で開催されている『ピクトさん展』を見に。ここで内海さん、ポールさん、のむたいさん、小鳥遊さんとお会いする。岡山電気軌道、水島臨海鉄道も乗る。

●5/4(土)加茂川→津山→柵原→若桜
津山の機関庫と片上鉄道保存会の動態保存を見る。

●5/5(日)若桜→浜坂→余部→京都南→赤塚
若桜のC12運転→山陰のラティストラスへ。

●5/6(月)赤塚→東名→自宅
渋滞がこわいので午前10時前には帰宅。



撮ってきた写真を全部書くまで2ヶ月分以上の素材がある。お楽しみに。
20121125_000.JPGここに、1枚の国鉄柏崎駅の入場券がある。私が生まれる6年前の3月。今は亡き母方の祖母から預かったものだ。祖母は柏崎に住んでいた。

「汽車が好きらろ? これ、持ってけっや。おれが持ってても、死んだらどうなっかわかんねっけの」

祖母はそんなことを言いながら、きっぷを集めていた小学生、たぶん6年生くらいだったと思う、その私にこの入場券を寄越した。祖母の家に遊びに行くのが最大の行楽だった、昭和50年代後半の話である。

祖母がこの古い入場券を持っていたのは、偶然ではない。ちゃんと、取ってあったのだ。十数年、仏壇の下の引き出しに入れて。

20121125_001.JPG裏を返すと、ボールペンでこう書いてある。

41年3(月)20日
君代の見送り


「君代」とは、私の叔母の名である。当時18歳の叔母が、就職のために柏崎駅を後にするときの、その母による見送りの印であった。小学生とはいえ、私がそんなものを受け取っていいのかというためらいはあったが、「持ってれ(持ってろ)」と言われるがままに、大切にしまった。新潟の家に帰り、母にその話をした。

私はきっぷを手製のクリアファイルに貼って保存していたが、この入場券はそうする気持ちにならなかった。この裏面が見えるようにしたかった。といって、バラで持っていたらなくしてしまいそうだ。そこで、プラ板で挟んで、ファイルに綴じておいた。写真の下側、磨りガラスのように見えるのは、プラモデル用接着剤の刷毛の跡である。



いま思えば、なぜ祖母は私にこれを託したのだろうか。孫は私を含めて10人いた。昭和41年に見送られた叔母も既に柏崎市内に戻って住んでおり、私と同世代の子どももいた。また、直系の孫も同居していた。なのに、なぜ私に?

理由などない、のが正解である気もするが、そうでもないかな、という自惚れた思いもある。

家族で祖母宅に遊びに行ったとき、いつも子どもたち同士で最大6人くらいで同じ部屋に寝ていた。親戚宅というのはそういうものだろう。しかし、ときどき、私だけが祖母の部屋で寝泊まりした。また、祖母宅に行けば、私が幼少の頃に亡くなった祖父のために、私が一番に仏壇に線香をあげていた。別に祖父に特別な思いがあったわけではない、実は名前すら知らない。ただ「そうするのが普通だ」と思っていただけだ。それを、祖母はとても喜んでいた。一度だけ、インスタントコーヒーを飲む祖母を見て、あまりに祖母と似つかわしくなくて、「コーヒーなんか飲むんだね!」と言ったら、「ちょっとつらいことがあったときに飲むんだわ」と言っていた。祖母は、私を少しだけ、ほかの孫たちよりも大事に思っていてくれたのかもしれない。そして、「汽車が好き」ということで、このきっぷを託していいと思ったのかもしれない。

それから何年か経ち、昭和63年に祖母は亡くなった。もし、この時点で私に託していなかったら、遺品としておそらく叔母の手元に渡っただろう。叔母ももういい年だ。昭和41年から47年も経っているのだ。いままで漫然とこの入場券を手元に置いておいたけれど、いつか、「預かっていたよ」と、渡さなければいけない気がするのだが、その時のことを考えると、なぜか涙がにじむくらいなので、笑って渡せる自信はない。



西ゆうじさんが亡くなった。
昨日、告別式が執り行われたので、お別れに行ってきた。

近年では主として漫画原作者として活躍していた方で、連載中のものではテレビドラマになった『あんどーなつ』(ビッグコミックオリジナル)と『蔵の宿』(週刊漫画TIMES)、『華中華』 (ビッグコミック)がある。私は『週刊漫画サンデー』の編集者の頃に、前担当の先輩から引き継ぎ、『これで家族』などを担当し、異動に伴い同僚に引き継いだ。

* * *

2011年10月20日、入院先に伺った。大事には至らないだろう、ということで、お元気にお仕事されていた。病院の喫茶室で話し込み、屋外で(西さんが)煙草を吸い、…という、いつもどおりの西さんだった。ライカのM9を触らせてくれ、コレクションのクラシックカメラも700台を超えてしまった、というような話をした。そういうお元気な印象だったので、以後、ご無沙汰してしまった。

会社の先輩から突然の話を聞いたのは、2013年2月5日(火曜)だった。漫画原作の連載も普通に掲載されていたし、今年も手書きの年賀状をいただいていた。もうとっくに元気になり、普通に過ごしておられるのだろうと呑気に考えていたので、非常に驚いた。

その夕方、先輩とともに病室にうかがった。酸素吸入のマスクをしていたためにお話はできなかったけれど、私たちの話すことはきちんと伝わり、ときには私たちを見て、最後は手を挙げて握ってくれた。かなり厳しいとは聞いていたけれど、まさか、その直後にお亡くなりになるとは思わなかった。

ご家族と大切な時間を過ごすべきところに、我々のような仕事関係の者がお邪魔してよかったのか、と感じる。でも、あとから聞けば、西さんは、作品作り=人生でもあった方なので、関わった方々とのお別れの場をご自身でご用意されたようだ。そのお心遣いに言葉もない。果たして自分がそういう場面になったとき、「お別れの場」などを設けることができるだろうか? 無理な気がする。

* * *

1990年代後半、私は二十代半ば。まもなく終刊を迎える『週刊漫画サンデー』も当時はかなりの売れ行きで、会社の大黒柱だった。自分は、いま思えば愚かなことに、仕事面ではなにも考えずに毎日を送っていた。週末にバイクでどこに行こうかということばかり考えていた。西さんは、そんな私を、きっと「しょうがねえやつだなあ」と思いながらも、かわいがってくれた。毎週、「週末はどこ行ってたの?」と聞いてくれた。

漫画の原作というものは、要するに「原稿用紙」なので、当時は既にファックスでやりとりしている方も多かった。会社としてはまだメールの環境もなかった。しかし、西さんは、原作を、毎週、直接会って受け渡すことにしていた。待ち合わせの場所は、いまはなき池袋芳林堂の「栞」、芸術劇場の「こぶし」(いまは別の店になっている)、銀座「どんパ」などが多かった。

担当していた『これで家族』は、非常におもしろい原作だった。しかし、西さんのネームの多さもあり、作画担当の漫画家・杉江雅巳さんもそれを入れるのに苦労はしていた。勢い、顔が会話するようになってしまった。未熟すぎる私はそれをそのままにしてしまい、西さん、杉江さん双方の不満を聞くに終わってしまった。いま思えば、原因はページ数の少なさと、私が整理しなかったことにある。当時の漫サンは通常1本20ページのところ、『これで家族』は毎回16ページだったのだから、私はこれを増やすべきだった。また、いわゆる「説明ネーム」、状況を登場人物にしゃべらせるような部分を、どう圧縮するかは、私が整理し、西さんの承諾を得て、杉江さんにも意図を伝えなければならなかったのだ。私はそういうことをしなかった。

西さんは、原作者としては珍しく、だと思うが、漫画になった後まで気にかけている方だった。書きっぱなしではなかった。さまざまなことに精通し、それを誌面で展開しようとしている西さんには、漫画化されたときに「ありえない描写」が目についてしまうことがあり、それを漫画化の勉強不足、と指摘したことが、炎上気味になったこともあった。しかし、私が見て見れば、それはたしかに指摘の通りであり、あとは「言い方」の問題でしかなかった。

そんなことを思うようになったのも私が歳を重ねてからで、担当しているころには、そういうことがわからなかった。西さんのお話の半分も理解できてなかったのだろうし、原作を受け取るときも「打ち合わせ」にはなっていなかっただろう。申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それでも可愛がってくださったことに、強く感謝している。漫画編集者でなくなって14年たつが、いまでもおつきあいのある漫画関係者は西さんだけだった。

* * *

告別式の後、渡された手紙には、「じゃ、また」と書かれていた。きっと、生前、ご自身でご用意されていたものと思う。その言葉に限らず、「ああ、西さんらしいな」と思うことが、たくさんあった。小学館の片寄常務の弔辞、「西ゆうじという作品を演じ続けた」というのは、本当にその通りだと思う。

59歳という早すぎる逝去。謹んでお悔やみ申し上げます。


* * *

●西さんがシナリオを担当した、住友グループ広報委員会のサイトにある住友グループ誕生を描いた漫画が、オンラインで閲覧できます。作画は、西さんとはかなり古いおつきあいの長尾朋寿さん。台詞回し、説明などに、西さん節を感じます。製本した紙媒体版があるけれど、非売品かな?

http://www.sumitomo.gr.jp/story/index.html



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