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3日目。
土合駅を始発(?)で出発し、自転車を置いた駅へ戻る。
あとは実家へ向かうのみ、気負いもなく走り出す。

小千谷のあたりで登り返しがあるが、あとはたいしたことはなく
淡々と17号を走り、長岡から8号を走り、
燕三条駅でちょっと長い休憩。
昼食をとった気もする。
バーハンドルに対した腕が痛かった。

8号をさらに東上し、いつしか知っている道に出た。
いわゆる普段着だったし、自転車に荷物を積んでるわけでもないので
新潟市内に入り込めば、「家から買い物に出てきた」程度の格好に見えただろう。
午後もそれなりに過ぎたころ、実家でペダルを止めた。


その後、東京に乗って帰る元気はなかった。
なによりも尻が痛かった。
トランクスのセンターの縫い目が、尻の割れ目の両側にこすれ、
あやうく尻の谷を挟んだ尻肉から血が出そうなくらいであった。

横浜から1泊2日で帰省していた友人Aは、
1週間ほどかけて横浜から京都経由で帰省していた。
腕がサンバーン状態で、蝋のようになっていた。
すごいとは思ったが、次回は自分も、とは思わなかった。
そう思うには、この3日間はちょっと辛すぎた。


結局、電車で帰京した。
それから1年、東京では自転車なしで過ごした。
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翌日は晴れた。
前日の体たらくから、その日のうちに新潟に着くことは不可能と考え、
目標を「三国峠を越え、行けるところまで」とする。

高崎を出てすぐ、コンビニで朝食と飲料を買う。
ウェルチの高級ブドウジュースを買ったことだけを、なぜか覚えている。

渋川、沼田と順調に通過。
月夜野あたりからいきなり上りが急になる。
前述したとおり、水筒を持っていない。
350mlの缶飲料を買っては飲んだ。
飲みすぎると下痢するとはわかっていながら、飲んだ。
最初はスポーツドリンクやウーロン茶、
次に柑橘系、たまにコーラ類。
時には500mlを飲み干した。

群馬県は三国コカコーラなので、「アクアマリン」の飲料が目につく。
「アクアマリン カボス」があったのに感動した。
懐かしい銘柄であった。
テレビCMの歌を思い出しながら飲んだ。

缶飲料を信じられないほど飲んだ。
20本は超したはずだ。
しかし、汗の量も信じられないほどなので、
ほとんど小用を足さずに下痢もしなかった。
ということは、7リットルもの汗が出たということだろうか?

まだ500mlのペットボトルが世の中に出回るかどうかの頃のことである。
水筒といえばエバニューのポリタンクが当然であり、
自分にとっての水筒とは720mlのグランテトラであった。
それさえ持ってきていれば……


猿ヶ京のあたりから、いよいよ峠らしくなる。
押したくなるような急坂をあえぎながら上った。
時折、自分を追い越すクルマこそあれ、自転車はなかった。
対向してくる自転車もなかった。

「ドライブイン国境」を通過し、三国トンネルに達した。
ここが標高1000mを超え、トンネルも長さが1km以上あるということは知っていた。
自転車にライトはついていたが、それが真っ暗闇で役に立たないのは
中学1年生のときに新潟県柏崎市の信越本線旧線のトンネル内探索で
経験済みであった。三国トンネル内は暗そうである。
歩道もない・・・・・・。

突入。

路肩は泥が堆積していた。
だから、少し車道にはみ出しながら走った。
全長1218mだから、時速20kmで走っても3.654分かかる。
クルマに追い越されるときが非常に恐怖であるのだが、
それが約4分続くいた。

突破。
「突破」というほどのことではないのであるが、
自分にとっては紛れもなく「突破」であった。
新潟県に入った。


なんという下り坂であろうか。
怖いくらいのスピードで下ってゆく。
左手に苗場プリンスホテルが見えた。
こんなバカでかい建物が、こんな山奥にあるなんて。
まだスキーの人気が非常に高かった頃である。

苗場プリンスホテルを過ぎると、すぐに右カーブで上り坂が始まった。
なんでまた上るのだ???
必死の思いで三国峠を越え、一気に下ってきた身にとっては
理解しがたい状況であった。
いまは、ここが清津川支流の浅貝川の水系であり、
それがいったん別の支流である二居川沿いに移り、
また清津川に戻り、今度は本格的に芝原峠を越えて
湯沢の街中、即ち魚野川水系に移る、ということを知っているが、
当時はまったく知らなかった。

上り坂に一人憤慨しながら火打峠を越え、二居川沿いに出て
下り坂で一息つき、二居トンネルを潜ると、今度はもっと本格的な上りである。
おいおいおい・・・
さらに憤慨するも、このあとの芝原峠ではもう諦観した。
もうどうでもいいや。

まさか、ここ二居にこんな道や橋があったなど、思いもよらなかった。


それから、石打まで走って、やめることにした。
ライトがあるわけでなし、まだ明るいうちに行動をやめたほうがいい。
と書いて、石打のわけがない。
たしか、平屋の無人駅だったはずだ。
でも大沢でもない。
となると塩沢か?
とにかく誤って記憶されていたようで、正確なことは思い出せない。

寝床をその駅にしようかと思ったが、落ち着かなかったのか、
土合駅で寝ようと思った。
土合駅は、高校2年のときに白髪門~朝日~清水峠~十五里尾根と歩いた際、
寝床になっていることを知っていたためである。

上越線の電車で土合駅に向かう。
おそらく着いたのは午後8時すぎ、すでに駅寝している山屋がたくさんいたが、
末席に転がった。
銀マットだけ持っていたような気がするが、これは定かではない。
新聞紙でもしいたかもしれない。
シュラフは持っていなかった。
1990年、浪人して新潟の予備校に通っていた。
夏休みに、高校時代の山岳部の仲間のAが
横浜から新潟まで自転車で帰ってきた。
自転車はミヤタのアルフレックス。
途中、法師温泉だかに泊まり、1泊2日だという。

彼が特別体力に秀でていた印象はない。
彼ができるなら自分にもできるんじゃないか、
いやむしろもっとラクにできてしまうんじゃないか、という
自惚れ、その実、嫉妬のような意識を持った。
小学生のころからママチャリで1日100kmくらい走っていたし、
当時、アラヤのMUDDYFOXに乗っていたということもあった。
その年は浪人中だったため、実行はできかった。


翌1991年から東京在住となり、自転車も東京に持っていった。
けれども、その年は登山やら音楽サークルの練習やら
初の北海道上陸やらで忙しく、自転車どころではなかった。
意識としては、高校の山岳部のOBとしてついていった
飯豊山縦走や、山岳部の友人といった北アルプス・表銀座と比べると
自転車で新潟に帰ることなど屁でもないと思っていた。
Aは、この年も前年同様、自転車で帰省していた。


さらに翌年、ようやく実現した。
荷物はハンドルバッグとショルダーパッドに詰めた着替えのみ。
水筒すらない。
地図もない。
「国道17号を行けばいいのだろう」
まだバイクにも乗らぬ当時、道はほぼ最短距離で
都市を結んでいるものだと単純に思っていた。

中野区の自宅を出たのはおそらく朝。
千川通り、笹目通り、新大宮バイパスを走行中、
ハンドルバッグのメッシュ部に入れておいたバンダナがなくなっているのに気づく。
これで汗すら拭き取れなくなった。

約100km、高崎付近で雨に遭う。
カッパなど持ってきていない。
尻も痛くなり、気分も萎えた。
Aの走行距離には程遠いが、まだ日のあるうちに宿に入った。
宿といっても、高崎駅前のシティホテルに濡れ鼠のまま飛び込みである。
風呂に入ってすぐ寝た。
中野区よりよほど遠い横浜から法師温泉まで1日で走るAをすごいと思った。
オープンリールのデッキが家にあったのは覚えている。
当時~おそらく1980年になるころ~でさえ
「古ッ!」というかレトロ感たっぷりというか、
そんなデザインのDCアダプタやマイクもあった。
HITACHIのロゴが妙に細長く、かつ字間も空いており、

H I T A C H I

いや、さらに各文字を天地方向に1.5倍に引き延ばしたような印象。

1982~1983年ころまでは、マクセルのテープとともに、たしかにあった。


ウォークマン。
初めて聴かされたときの衝撃といったらない。
たしか中1か中2のころだ。
それまで、ダブルデッキのラジカセを使っていたが、
ヘッドホンというもの(やたらゴツイのが家にあった)を使うようになった。
そうしてWM-20を買ってもらった。

小学生のころ、ササガワ君がよくウォークマンの絵や
ロゴをノートに落書きしていたのをよく覚えているが、
WM-20はその次の世代である。

高校生になる頃、おそらく壊れた。
そして、コンポのデッキもドルビーC対応になっており、
ウォークマンもC対応のものが出てきた。
そこで買ってもらったのが、WM-701Cである。
10周年モデルだ。
これは高校の登下校時の友となった。

ディスクマンを買ったのはいつだったろう?
大学に入る前か、入った後か。

このころまではSONYというブランドが好きだった。
他社の同等品が何割が安かろうと、SONYを買っていた。
しかし、いまではSONYの独自企画路線に嫌悪感を持つため、一切買わない。
この転向はいつごろだったのか、それだけが思い出せない。

忘れてしまわないうちに書いておく。
自分自身の、おそらく最古の記憶である。
それは、親も覚えているできごとである。

おそらく2歳かそこらであろう。
足でこぐクルマに乗って家を出てしまい、帰ってこれなくなった記憶である。
その足こぎクルマとは、おそらく内側にクランクのあるタイプ。
これで、自宅からわずか100mあたりまでひとりで出てしまった。
記憶にあるのは、見知らぬ(?)町をひとりでガラガラとこぐ景色である。

泣きわめいていたのであろう。
近所の人が連れてかえってくれたらしい。
このあたりの記憶はない。


いまでも、実家周辺は数百メートル先の家々まで知り合いであり、
もしいま、実家に住む私の姪や甥が同じことをしても、
同じ人が連れて帰ってくれるかもしれない。
そういう土地で育った。

この歳になって実家に帰省すると、そうした近所の機微を強く感じる。
そして、それがいま住む東京周辺の常識とかけ離れていることを感じる。

おかずをたくさん作ってしまったら、いちいち持っていく。
そんなコミュニティは、姪、甥の世代まで続くのだろうか?


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