ここに、1枚の国鉄柏崎駅の入場券がある。私が生まれる6年前の3月。今は亡き母方の祖母から預かったものだ。祖母は柏崎に住んでいた。
「汽車が好きらろ? これ、持ってけっや。おれが持ってても、死んだらどうなっかわかんねっけの」 祖母はそんなことを言いながら、きっぷを集めていた小学生、たぶん6年生くらいだったと思う、その私にこの入場券を寄越した。祖母の家に遊びに行くのが最大の行楽だった、昭和50年代後半の話である。 祖母がこの古い入場券を持っていたのは、偶然ではない。ちゃんと、取ってあったのだ。十数年、仏壇の下の引き出しに入れて。 裏を返すと、ボールペンでこう書いてある。 41年3(月)20日 君代の見送り 「君代」とは、私の叔母の名である。当時18歳の叔母が、就職のために柏崎駅を後にするときの、その母による見送りの印であった。小学生とはいえ、私がそんなものを受け取っていいのかというためらいはあったが、「持ってれ(持ってろ)」と言われるがままに、大切にしまった。新潟の家に帰り、母にその話をした。 私はきっぷを手製のクリアファイルに貼って保存していたが、この入場券はそうする気持ちにならなかった。この裏面が見えるようにしたかった。といって、バラで持っていたらなくしてしまいそうだ。そこで、プラ板で挟んで、ファイルに綴じておいた。写真の下側、磨りガラスのように見えるのは、プラモデル用接着剤の刷毛の跡である。 * いま思えば、なぜ祖母は私にこれを託したのだろうか。孫は私を含めて10人いた。昭和41年に見送られた叔母も既に柏崎市内に戻って住んでおり、私と同世代の子どももいた。また、直系の孫も同居していた。なのに、なぜ私に? 理由などない、のが正解である気もするが、そうでもないかな、という自惚れた思いもある。 家族で祖母宅に遊びに行ったとき、いつも子どもたち同士で最大6人くらいで同じ部屋に寝ていた。親戚宅というのはそういうものだろう。しかし、ときどき、私だけが祖母の部屋で寝泊まりした。また、祖母宅に行けば、私が幼少の頃に亡くなった祖父のために、私が一番に仏壇に線香をあげていた。別に祖父に特別な思いがあったわけではない、実は名前すら知らない。ただ「そうするのが普通だ」と思っていただけだ。それを、祖母はとても喜んでいた。一度だけ、インスタントコーヒーを飲む祖母を見て、あまりに祖母と似つかわしくなくて、「コーヒーなんか飲むんだね!」と言ったら、「ちょっとつらいことがあったときに飲むんだわ」と言っていた。祖母は、私を少しだけ、ほかの孫たちよりも大事に思っていてくれたのかもしれない。そして、「汽車が好き」ということで、このきっぷを託していいと思ったのかもしれない。 それから何年か経ち、昭和63年に祖母は亡くなった。もし、この時点で私に託していなかったら、遺品としておそらく叔母の手元に渡っただろう。叔母ももういい年だ。昭和41年から47年も経っているのだ。いままで漫然とこの入場券を手元に置いておいたけれど、いつか、「預かっていたよ」と、渡さなければいけない気がするのだが、その時のことを考えると、なぜか涙がにじむくらいなので、笑って渡せる自信はない。 PR |
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