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稲生川に並行する未成の水路隧道の横穴「幻の穴堰」

閘門・水門・水路


(カシミール3D+スーパー地形+地理院地図)

凸凹地図を見てもらったほうが早い。疏水百選の一つ、稲生川。十和田市の三本木原を潤し、太平洋に至る全長40kmのこの川は、すべて人工河川だ。火山灰の地質であることなどから稲作にはとても向いていなかったこの地に導水するために作られた。新渡戸稲造の祖父、新渡戸傳(つとう)である。

 
青森県道40号を走っていたら、交差点に「幻の穴堰」と書かれた小さな看板が目に留まった。いったん通過して、気になるので戻り、そちらに曲がった。すると道沿いに看板がある。

 

冒頭の地図のとおり、この地には2本の水路トンネルがある。幕末から明治末までに作られたのは稲生川のほうで、その北、標高差12mほど(らしい)高い位置を並行する「国営水路」は昭和に入ってからの建設だ。その国営水路の計画以前に、南側にもう1本を掘ろうとしたが、未成に終わった。その横穴が「幻の穴堰」して残されている。

 
すぐそこに穴が空いているらしい。しかし、予備知識皆無であり、盛夏・猛暑+水が流れ出てきているため、足元はぬかるむし猛烈に蒸し暑い。なので見学はできずに退散。

この穴堰や稲生川については、農水省のYouTube動画が2本ある。


参考/三本木原開拓の歴史

【こんな本も作っています】
 









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八沢浦排水樋門と古磯部の防空壕

閘門・水門・水路

 
福島県相馬市の海側のおもしろい位置にある樋門(左の水路トンネル)。このあたりの海岸線は写真左のように壁状になっているのだけれど、そこをトンネルで水を潜らせて海側にプールを設け、そこから海に排水している。内陸側は八沢浦といい、干拓地だ。

後述するようにここは東日本大震災で大きな津波被害を受けている。おそらく水門は嵩上げされ、上屋は新しくなっている。


地理院地図で水色は標高0m以下、青は標高マイナス1m以下。ここを干拓するために作られた水路と樋門(=堤防を貫通する水路トンネル)だ。


(今昔マップ on the web 東北地方太平洋岸1901~1916)

かつてここが沼沢地だった時代の地形図。

 
 
 
このプール部分から海にどう排水しているのかは、肉眼ではわからない。最初にできたときは海底を水平に掘り進め、干潮時にサイフォンの原理で海の中に排水していたようで、初期のころはすぐに詰まり、その除去作業で多数の人命が失われている。

これらはおそらく震災後に嵩上げされている。

 
樋門を上流側から。海際に立ちはだかる丘を潜っている。

 
写真中央に見えているのは八沢排水機場。この排水路と樋門のおかげで、八沢浦は300ha強を干拓できた。その経緯はこちらのPDFに詳しい。

周辺は、東日本大震災で津波に洗われ、甚大な被害を受けた。ここで集落がまるごと消滅し、亡くなった方も50人近い。現地はもともと干拓地で平たかったにせよ、現地に立つと、津波被災の平野部独特の、平たい印象がさらに強い。

 
 
銘板と記念碑。


***

 
一つ丘陵を越えた古磯部(こいそべ)地区に、福島交通のバス転回場がある。そこまでの道が砂利道というのも珍しい。そのさらに北の鴨部川に、防空壕の跡がある。

 
なんとなく、掘りやすそうな地質に見える。


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水門町の千町川大水門/千町川水門/千町大水門

閘門・水門・水路


岡山県岡山市水門町。地図で見ると、千町川の河口に中洲のようなものがあり、そこには家が建っている。その両側は橋と表現されている。

 
現地で空撮するとこうだ(もっと高く上げればよかったのだが、現地が制限区域だと勘違いして上げなかった)。中洲のようなところには家がいくつか建ち、その両側には水門がある。ここの地名は水門町。

ここに建つお宅は、かつては(?)水門を管理する役割を担っていたらしい。

 
左岸川の水門を下流から。

 
ゲートの柱に銘板がいくつもある。上から

千町川大水門

しゅん功 昭和47年3月
施工 大本組

千町川水門
扉体形式 鋼製ローラーゲート…
製造年月 昭和46年12月
製造者名 三井造船株式会社

一級河川千町川
千町川大水門
岡山県岡山地方振興局建設部

 
右岸側の水門を下流側から。

 
こちらの銘板は、上から

千町大水門

千町大水門
純径間×扉高 16.00m×4.60m…
製作年月 昭和59年12月
製作 三井造船株式会社

一級河川千町川
千町大水門
岡山県岡山地方振興局建設部

となっている。

ということは、左岸は「千町川大水門」または「千町川水門」、右岸は「千町大水門」という、微妙に異なる名称なのだろうか。それとも単純に誤記なのだろうか。





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田島・横島 坊地ノ瀬戸にかかる睦橋/内海大橋

閘門・水門・水路


尾道と今治を結ぶ「しまなみ海道」は有名だが、周辺には橋で結ばれた島がたくさんある。向島の南東にある田島は本土と内海大橋で結ばれ、横島が田島と睦橋で結ばれている。

 
内海大橋(うつみ)。周辺は「内海」と書いて「うつみ」「うちのうみ」「うちうみ」といろいろな読み方をするので、難しい。

普通、最短距離を一直線に架橋するが、ここでは中間地点に岩礁があったこと、海峡を大型の船舶が通航することから、岩礁を利用して二つのニールセンローゼを架けた。ここをバイクで走ったとき、何も持たずに歩いている年輩の男性がいた。日常的な買い物などだろうか。歩いてこの距離…。写真は田島から対岸の本土を見る。

 
こちらは、その田島と横島を結ぶ睦橋。陸続きにしか見えないが、ここには「坊地ノ瀬戸」がある。両島から伸びた砂嘴に道路と橋が乗っかっている。

 
前方の軽自動車が突っ込んでいるところが田島の端部。こちらに腹を見せている防波堤は横島。その間の海は、田島側からは見えない。

 
今昔マップ(1895-1898)より、まだ橋が架かる前の坊地瀬戸(「ノ」の表記がない)。




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一本松樋管

閘門・水門・水路


北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設。

 
現地では、古墳と羨道のように見えた一本松樋管。旧北上川の河口付近左岸にあった、堤防を潜る樋管。地元の「稲井石」を使った石積み。ここに移設・展示されている。

 
鉄材で補強されている。

 
説明板。

 
こちらは新北上川の河口付近の堤防の中から発掘された煙突。開鑿した当時の工事で使われたものらしい。

 
説明板。

旧月浜第一水門
脇谷閘門・脇谷洗堰
鴇波洗堰・鴇波水門・鴇波締切堤






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鴇波洗堰・鴇波水門・鴇波締切堤

閘門・水門・水路

 
 
北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設群の一群。

 
右の堤が鴇波洗堰。上部は道路になっている。左が鴇波水門。左から右に向かって流れる。

北上川分流の計画では、当初、この鴇波洗堰だけが考えられていた。その時はこの「上」に堤防を築くことが考えられていたが、地盤がよくないことから南側にもう一つ、脇谷洗堰を設置して、機能を分担した。どちらも竣工は1932年。鴇波水門は、洗堰の老朽化に伴い、2006年に設置された。

 
鴇波洗堰の上流側。18門のオリフィスが、常に一定量の水を下流に流している。右は魚道。
 
鴇波水門。下部に開口部がある。そこにライジングセクターゲートが設置されている。その動きは「横たわった円筒の外周に沿って動く」というイメージ。この方式が採用されたのは、景観対策のため。ローラーゲートのように上部に大きく張り出さないためだ。

ただ、雨が降ってきたこともあり、下流側をきちんと見ず、写真も撮っていないのは迂闊すぎる。

 
こちらは鴇波締切堤の説明。ここは広大な公園にただ道路が通っているだけのように見えるが(その道路を抜け道として使う地元の方にとってはそういう存在だろうが)、冒頭の地図のように、堤防であり、堤防道路である。

【関連項目】
旧月浜第一水門
脇谷閘門・脇谷洗堰


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脇谷閘門・脇谷洗堰

閘門・水門・水路

 
北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設群の一群。


手前の流れが(旧)北上川。左の円筒が脇谷洗堰。川の対岸の施設が脇谷閘門。

 
 
脇谷洗堰。水面が穏やかなのが上流、白波が立つのが下流。洗堰の水面下に六つのオリフィスがあり、通常はそこから旧北上川に分流している。右岸側の欠き取りは魚道。上の写真に五つの点(?)があるが、その5ヶ所と魚道の下がオリフィスか。

増水の際には堰を越流する。河川ネットに越流時の写真がある。

 
上流側閘門を上流から。ゲートは閉じている。

 
かわいい小屋。

 
 
ゲート開閉用のカウンターウエイト。チェーン駆動。2組ある。

 
 
上流側の背面。大きな円のようなものはギヤの覆い。大と中がある。操作室内から2本のシャフトが伸びている。上側のシャフトが写真手前(下流面)用。シャフトの先に(たぶん)ベベルギヤがあり、回転軸が水平から垂直に90度変わり、中くらいの覆い内の(たぶん)スパーギヤでクラウンギヤを回す。同軸の小歯車は大きな覆い内の大きな歯車を回し、ゲートが上下する。

下側のシャフトは、回り込んでチェーンをかました上でゲート装置内部に入り、もう1組のゲートを操作する。

ゲートは上半分と下半分に別れている。だからカウンターウエイトも2組ある。


 
下流側の閘門。ゲートは開いている。桜が満開、でも見に来ている人はいない。ゲートの開閉装置は上流側と同じなので、割愛する。

 
小屋がかわいい。

 
その先、導流堤(?)の下流端。石積み。

 
説明板。

 
後年、追加された脇谷水門。

 
説明板。
* * *

さて、この北上川の分流地点。古い地形図を見ると、いまの「新」北上川の流路に市街地があって、「えっ?」と戸惑う。この事業ために、柳津はまるごと移転したのだ。


(今昔マップ 東北地方太平洋岸 1901-1913年に着色加工)
これは分流前。

 
(今昔マップ 東北地方太平洋岸 1949-1953年に着色加工)
これは分流後。左岸に位置していた柳津町の市街地が、新北上川の本流にかかるため、ごっそり
北側に移転している。

北上川・迫川・江合川の流路は伊達政宗の時代、あるいはそれ以前からたびたび改修されてきた。洪水対策でもあり、舟運のためでもあった。その記録に曖昧な部分もあることから、「旧」北上川の流路も開削されたものだとする説もあるが、どうもそれは信頼性が低そうだ。

北上川は、古くは北上川のもう少し上流、錦桜橋付近から西へ迫川のほうに向かい、迫川に合流していたようだ。現在の地形データでは、圃場整備のためか、そのルートが逆に微高地となって浮かび上がる。改めて探訪してみたい。


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旧月浜第一水門

閘門・水門・水路

 
北上川の改修…開削された「新」北上川が分流する地点に、北上川河川歴史公園がある。そこには、分流するための新旧施設のほか、北上川の歴史に関する土木構造物がいくつか保存されている。

 
北上川河川歴史公園はここ。この旧月浜第一水門は、「新」北上川の河口近く、皿貝川との合流点にあった。東日本大震災で被災し、いまは新しい水門ができている。

 
 
夜雀さんのご教示によれば、「蝶番堰」という大変珍しい形式。英語では「Hinged weir」。土木学会の選奨土木遺産にもなっているが、しかし、土木学会のサイトでも、現地説明板でも「希少な形式」としか書いておらず、「どう希少なのか」「なぜ希少なのか」「希少に価値があるのか」が書かれていない。

 
右に、橋梁の支承のような部品がある(蝶番)。ここをピボットとして、このように動く。

 
上部の水色の部分が水平のとき、その上に載っている円筒のカウンターウエイトは、本来左端にある。それが、徐々に(転がって)右に移動することで、水門の開閉が容易になる、という仕組みだ。ダメじゃん、展示の方法。(上の写真はカウンターウエイトなどを簡易的に加工しています)

 
カウンターウエイト。これがゴロゴロと転がるのだが、それはウインチを使ったらしい。ならばウインチもいっしょに展示すべきではないか。これがゴロゴロ転がる様を見たかった。

 
 
 
現地説明板。




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五川分水

閘門・水門・水路

 
滋賀県にある分水。琵琶湖に注ぐ姉川から水を引き(その地点を「出雲井(いずもゆ)」という)、別項で紹介する小田分水を経由したあと、ここでさらに分水している。特徴的なのが、円筒分水ではなく直線状に五つに分水していること。

写真で言えば、右上から左下に流れる。そして、その分水地点には橋がかかり、それぞれに「川」の名前がつけられている。右岸から、朝日川・市場川・中村川・柏戸川・天満川。竣工は昭和30年4月。

 
 
朝日川のほうが市場川より太い。この2本は西へ向かう。


 
中村川と天満川は太く、挟まれた柏戸川は細い。下の写真は上の写真の逆方向から。中村川と柏戸川は南へ、天満川は東へ。

 
上流側から。轟々と流れてきた水を三つの整流板で水門に向かわせる。

 
 
ダムの自然越流式洪水吐のようだ。

 
現地解説。

いまにも雨が振り始めそうだったのだけれど、ドローンを飛ばしたら降ってきたのでじっくり撮れなかったが、動画を。






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両総用水をくぐるカルバート(2)

閘門・水門・水路

もうひとつ、両総用水北部幹線をくぐるカルバートを。

 
パッと見、鉄道の築堤とカルバートに見える。鉄道の場合、径間1m以上を「橋梁」と呼ぶのだが、これは両総用水としては「橋梁」にあたるのだろうか。

 
右を見ると、どう見ても鉄道の築堤とその側道だ。

 
「側道」をいくと用水の高さに上がれる。用水には近づけない。用水には金網があり、その外側には管理用の舗装路があってそこにも金網。右にみえるクルマは周辺の住人のもの。写真を撮ったすぐ右には住宅がある。

 
振り替える。写真奥がカルバートの「上」。一見、水に見えるのは用水の保守用通路で、雨のためにそう見えるだけ。用水はその右。

 
反対側。

* * *


(Kashmir3D+スーパー地形+地理院地図)

カルバートの紹介順が、下流側(下の地図の→上流側(上の地図の;今回の記事)となってしまったが、上流にあたる両総用水をくぐるカルバートの標高は21mほど。今回の記事のカルバートの標高は17mほど。その間は、いったん標高4mほどの平地がある。そこは、暗渠で通している(上の地図の)。サイフォン式で、いったん低いところに下ろしてまた高さを上げているのだ。

 
下流側(南側)から上流側(北側)を見る。

spl.thnx @roadexplorer










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