前回、何を書いて何が消失したのかもう忘れてしまった。いったい何を書こうとしていたのだろう。多分横桁のことだと思うので、横桁について報告する。 このとおり、横桁は直線状である。そして、横桁のリブを利用して、縦桁が設置されている。 横桁の断面を見ればわかるとおり、エ型のクビの部分にL字型のアングル材を添え、その隙間を鉄板で埋め、さらにそこにL字型アングル材を縦に配置している。 ここに注目したのは、100フィートポニーワーレントラスの横桁に「カバープレート」があるものが初期のものだ、という記述を見かけたからだが、そのカ バープレートとはこのようなものではなく、単なる1枚の板であった。そのため、この、横桁端部の考察は意味のないものになってしまった。勘違いと思い込み で物事を進めようとしていた愚か者である>自分 絵に描いてみるとこんな感じ。 このようにして、横桁はトラスの下弦に乗っかっている。これのどこが特徴的なのかというと、基本的には格点(この橋でいえばピンのある部分)に横桁があるのが通常の形態だからである。 続いて支承。ローラーが見えている。そして、シューが極端に移動しないように両側にL字型のアングル材が添えられている。 上弦のピン。内部までペンキが塗り込められている。 下弦材のピン。残念ながらピンは見えない。下弦材に無数にあいたリベット孔が謎。 真横。とってもきれいです。これに見ほれ、私の中でのダブルワーレントラスの地位があがりました。 東側、県道11号がオーバーパスする跨線橋から西に向かっては、このように見える。美しい。 この桁から言えること: 1886年製のパテントシャフト&アクスルトゥリー製のトラス橋の錬鉄製横桁は直線。 この橋は錬鉄製である。興味をお持ちになったら、「錬鉄ってなんだべ?」ということをお調べいただきたい。きっと、知的好奇心を満たしてくれるはずだ。 眠い。。。 最近、なにをしてても寝落ちしてしまう。この記述もおかしなところがあるかもしれない。 PR 英国系ダブルワーレントラスのひとつ、山形鉄道フラワー長井線(旧国鉄・JR長井線)の最上川橋梁である。終点の荒砥駅のすぐ手前にかかる、3連のトラス桁と12連(多分。ここらへんの調査漏れが情けない)の鈑桁からなる、長大な橋である。このトラス橋も、横桁が下弦に載るというものなので、参考までに書く。 製造はパテントシャフト&アクスルトゥリー、現設計はチャールズ・ポーナル(建築師長)である。1885年頃にこのダブルワーレントラスが登場するまでは、国内で使用される鉄道用鉄橋は100フィートが最大で、それはこの考察の原点であるポニーワーレントラス(設計はジョン・イングランド/技師長;どの部局での称号なのかは不明だが、工部省か)であった。以後、約20年の間にダブルワーレントラスは112連が架設され、初期の錬鉄製が22連4橋あった。製造の経緯からして、おそらくすべてがパテントシャフト製である。 ・利根川橋梁 錬鉄3連 1919年撤去→水戸線鬼怒川橋梁に1連を、稲沢操車場の跨線橋に2連を転用 ・揖斐川橋梁 錬鉄5連 1913年用途廃止(道路橋として現存) ・長良川橋梁 錬鉄5連 1914年撤去 ・木曽川橋梁 錬鉄9連 1914年2連、1919年7連撤去 最上川橋梁はどの橋梁の転用かというと、歴史的鋼橋集覧では木曽川橋梁の転用と断定している。しかし、その断定のたる『日本鉄道請負業史』を参考とした論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一、西野保行、渕上龍雄、1985年)には「木曽川または長良川より」とある。どちらが正しいかはまったく不明である。 いろいろ時間が押しているので、これにて一時中断。写真でお茶を濁す。 小貝川橋梁と出自が同じと土木学会が推測している、五行川橋梁である。五行川は勤行川とも標記し、下館の南で先の小貝川に合流する。やがて利根川となる、一筋の河川だ。そこにかかるか細い橋が、この五行川橋梁である。 西側(下館側)に42フィートの鈑桁、益子側に100フィートの構桁がかかる。鈑桁はポーナルガーダー、構桁はイギリス式のポニーワーレントラスである。まずは鈑桁から。 さても奇っ怪なことに、スティッフナーの形状に2種類ある。J字形のものと、直線状のものだ。特に後者のものは、山形に沿って微妙に張り出しており、このような形式は1919年(大正8年)の「達五四〇号式」として制定された設計からである。 小貝川橋梁とは、スティッフナーの位置もリブの位置も数も、添接板も異なる。長さは20cmしか違わない、見るからに兄弟桁なのに、これはどういうことだろうか。これらの鈑桁の正体が、皆目見当がつかない。これらの桁制定時の図面を見比べれば、なにか思いつくことができるかもしれない。 対傾構はなく、「口」の字形のブラケットである。こういう部材の位置、数を調べておかないと、机上調査もできない。反省すべし>自分。 さて、構桁である。このように幅広い。そして、左右の主桁がずれている斜橋なのだが、横桁は主桁に対して垂直である。すなわち、上から見ると、主桁の片側だけがずれているように見える。橋台と主桁だけがずれている。 こんなならば、橋台も主桁も通常の形式にすればいいじゃないか、と思うが、これもねじりまんぽ同様、荷重のかかり方等の配慮のためなのだろうか。 横桁は魚腹状。これは小貝川と変わらない。 いまにして後悔しているが、両者を同じ角度で同じ部材で撮影してくればよかったと思う。そうすれば比較検討ができるのに。 これも、小貝川橋梁と同じく総武鉄道からの転用桁だと推測しておく。
ディティールつけたし。
横桁が魚腹型であることは前日述べたが、この角度で見ると、フランジも中央に向かってふくらんでいる。 つづく鈑桁はポーナル桁。内部は対岸だったので見ていないが、後述する五行川橋梁では対傾構がロの字形であることを確認している。この区間の開通時期は1913年。スティッフナーがJ字形をした最後の形式である(と思う)作37年式が制定されたのは明治37年=1904年。であれば、その形式で造られ、開業当初からここにあったと考えても不自然ではなかろう。 (2月4日追記) スティッフナーは、J字形のものと直線状のものが交互に取り付けられている。後述する五行川とも異なる。理由の推測がまったくできないが、ある程度の事情は五行川に記した。 (追記ここまで) 橋脚の上部がコンクリートになっているのは、初代桁に理由があるのではないか。 ネットで検索すると、昨日書いた「開通年と、桁の設計年の違い」に気づかず、「1913年に架橋された」的な記述が散見される。訂正の術はない。歴史的鋼橋集覧の備考欄に、その旨が書かれていればよかったものを。残念なり。
真岡鉄道には古い転用ポニートラスがふたつある。そのうちのひとつが小貝川橋梁である。
見てのとおり英国系の100フィートピントラスで、弦材と端柱でガッシリと台形の枠組を作り上げているスタイルが力強い。 画像は南側から撮影、左側は下館方面、右側が茂木方面となる。左側の鈑桁は12.6mである。 さてこの小貝川橋梁、『歴史的鋼橋集覧』(以下「集覧」)惑わされてはいけない。というのは、そこでは「1894年製/1913年開通」となっているが、ここに陥穽がある。 『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状 第2報 英国系トラスその2』(西野保行/小西純一/淵上龍雄)(以下「論文」)によれば、1894年製の100フィート単線ポニートラスは総武鉄道(のちの総武本線)が小岩-市川間の下り線として3連架けたものがあるのみである。その橋は「1926年撤去」とある。1894年製で1913年までに撤去された桁はない。 しかし、『歴史的鋼橋集覧』をよく見ると「設計:1947年」とある。つまり、どこにも断言されたものはないが、1913年に開通した際には別の桁が架けられており、それが1947年以降に現在の桁に架け替えられたと考えていいであろう。そうすれば、上記総武鉄道の桁が転用されたと考えるのも自然である。 以上、あくまで推測である。真岡鉄道(当時は国鉄真岡軽便線)開業時の小貝川橋梁の写真でもあれば、この推測の状況証拠となる。 さて、ディティールを見よう。 横桁が魚腹型としている。荷重がかかる部分が太くなっている。本橋は、主構間、つまり幅が通常より広くなっているのも特徴である。 桁は川に対して垂直ではなく斜めに入っているが、桁はそのまま使われている。後述する五行川橋梁のように、スキューさせてはいない。 上弦材と端柱を結ぶ部分。ピンこそあるが、両者が一体化している。 上弦材と斜材のピン結合部分。斜材に補強が入るのは、圧縮がかかる部材である。 下弦材と斜材のピン結合部分。 この小貝川は、一級河川である。利根川の支流の中でも長さは2番目なのだが、ここではこれだけの幅しかない。下流へ行くに従い川幅を増し、取手市の南東部、利根町・我孫子市との境界で利根川に合流する。 |
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