元国道なのに、総重量4t以上は通行禁止。橋の両サイドにそれぞれ標識があり、それとは別にそれぞれ看板がある。さらに「注意/徐行」という掲示もある。 見て分かるとおり、この橋の本来の欄干は既にあてにされていない。そして、新たな手すりが追加されている。これでは、クルマがすれ違えないではないか。しかし、トラック野郎なら積荷40tを背負った勝負の途中できっと現在の国道4号から離れ、この橋に入ってくるに違いない。そして、橋を渡りきる直前に桁が崩壊し、かろうじて渡りきるのだ。 上の写真は西側(右岸)である。親柱はしっかりと残っている。 右側の親柱。「せいがんばし」。 渡って左側。 渡って右側。 では、トレッスル橋脚を見てみよう。 支承はこんな案配。ボルトで固定されている。 鈑桁と、トレッスルの接合部。桁はその上でスライドするようにも見える。 青岩橋についてはここまで。ただ「見てきた」という記事である。 さて、上の地図では地名は表示されていないが、ここは西へ向かっていた馬淵川が突如反転し、東をめざす場所。反転した内側は「舌崎」という地名である。まさに人の舌のような形状をしている。カシミール3Dで確認してみた。 縦位置写真を使うと改行がおかしくなる。こまった。。。
4月9日の記事『万世橋架道橋』を書いたときに気づいた、開通時と桁架設時の時期の違いの理由はいまだに不明だが、『鉄道ファン』の不定期連載「東京鉄道遺産をめぐる」が東京-万世橋間市街高架線を採り上げ始めたので、きっと明らかになるに違いない。wktkして待つ。
中央本線の万世橋架道橋である。今後長い時間をかけて、鋼製橋脚をめぐっていきたいと思う。ただ「見てきただけ」であり、写真を提示するだけで、考察はほとんどないと思う。
場所は、かつて交通博物館があった場所の神田寄りである。御茶ノ水-神田間の短絡線上にあり(という表現は「文字通り」ではないな)、中央通り(国道15号)をひとまたぎしている。神田川と、区画整理されていないような歪な区画に挟まれ、苦渋の選択のようにカーブしながら道路を跨いでいる。 そして、中央通りの中央分離帯に立てられた橋脚はトラ塗りになっている。両側に柵があるので、ここにぶつかるのは至難の業なのに。 この桁は1928年横河橋梁製で、設計は黒田武定による。黒田は田中豊と同年代の人で、昭和14年には『鉄道工学』という書物を著している(共著)。通常、橋桁は直線状とするが、ここでは橋台の位置からして曲線桁を架けなければならなかった。そこで、黒田が設計したのが、日本初(であるらしい)の曲線鈑桁であった。 黒田はおもしろい人で、国鉄の「操重車」、クレーンを持つ業務用車両として、橋桁架設用の車両を提案し、実現している。その発展形というべきソ300は、碓氷峠の麓の横川鉄道文化むらに保存されているし、ソ1形が稼働している写真は土木学会の中にたくさんあったと記憶する。 この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928円(昭和3年)。関東大震災のためだろうか、文献には心当たりがあるのでこれは後日。 そのまま北東に歩き、振り返って撮影。万世橋架道橋の北東面。 この橋脚が、この時代にして鋳鉄なのである。圧縮力がかかるだけであり、鋼鉄にするまでもないとでもいうのか。鉄製橋脚はもっと古いものかと思っていたら、意外に新しかった。 支承部上り線。 |
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