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twinleavesさんのお誘いで、山手トンネル(湾岸線~渋谷線)のトンネルウォークに参加した。トンネルのいろいろは、私などよりも大山顕さんの記事「世界一長い高速道路トンネルを歩く - デイリーポータルZ」をぜひご覧いただくとして。

私が気になったのは、トンネルの内側が違う…別の種類のセグメントが使われている場所だ。セグメントとは、簡単に言えば、シールドマシンが掘った穴を内側から覆っていく曲がったパネルだ。

左の灯りはプロジェクターで投影された映像。写真手前と向こうで、セグメントが違うのがわかるだろう。奥の方が、少し厚い。ここでは、奥の厚手のほうが色が明るいので「明灰」、手前を「暗灰」としよう。

写真左が明灰=厚いほう。

この日は開通前の体験なので、首都高の説明員の方がたくさんいる。シールドマシンや工法について聞いてみたところ、セグメントの材質が違うのだそうだ。明灰は鋼製で、暗灰はRC製。では、なぜ材質を変えているのか。

鋼製部分は、あとからシールド部分に加工を加える…大山さんの記事にあるように側面や上面を切り開くとかの加工をする部分だ。ここがRC製だと加工は容易でないので、鋼製にしてある。しかし、万が一、火災が発生すると、鋼製セグメントは熱で変形してしまう。そのため、鋼製セグメントの表面には耐火パネルが貼ってあり、その分、厚くなっているのだ。それが明るい灰色の部分である。

ここは非常口。その向こうは対向車線があり、緊急時に避難するために二つのシールドトンネルがつながれている場所だ。はっきりその部分だけ明灰になっている。



さて、大山さんの記事を読んだ後、私はこう書いた。


この件も聞いてみたのだが、残念ながら「名称があるのですか?」と逆に聞き返されてしまった。素人目には似ていても、まったく理屈が異なるのかもしれない。これに関してはとりあえずこのままで。


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なんとも珍妙なトンネルだ。ぐいぐいと坂を登っていくと、切り通しの向こうに見えるのは、高架下をくぐるような形のトンネル。上には道路が通っているようで、ガードレールには稲が干されている。すべて切り通して上に橋を架けるのが通例だと思うが、なぜ?

尖頭アーチといっていいのだろうか。セグメント(といっていいのだろうか、シールド工法ではないだろうが)は折れ線になっている。【同日追記:プレキャストのアーチカルバートであった。後述。】

抜けて振り返ればこの土かぶりとこの断面。

銘板も隧道内左右に2箇所ある。2006年8月の築だ。

隧道の上に上がると、そこにはやはり道があった。

2006年以前の地形図を見れば、この謎は解決するのだが…。

【同日追記】
市瀬克己さんより「プレキャストカルバートではないか。橋を架けるには橋脚下の杭を支える支持層が重要だが、それをしていないということから地盤の問題かもしれない」というご教示をいただいた。土かぶりの浅さは私も気づいてはいたが、関連語句で検索すると下記のことがわかった。

・かつてはここに在来工法の隧道があった
・中越地震で覆工に亀裂、急ぎ改築
・迂回路を設定できないので、改築することに。
・工事は通行止めを減らすために、従前の隧道を開削し、そこにプレキャスト材で躯体を作る
・埋め戻す

という手順のようだ。詳細はこちらのPDFにある

国道40号。旭川鷹栖と比布とを分ける尾根をショートカットする比布トンネルの旭川側坑口(上写真右)。その北側(上写真左)に旧隧道がある。写真左に写る建物は「ドライブイン路傍」。すでに国道の路傍ではなくなったが、営業している。写真に写る道路はかつての国道40号だ。

少し手前にはこのような看板が残っている。

もう少し進むと、きれいな制限標識と警戒標識があった。ここより向こうから、いきなり路面が荒れる。

高さ制限が3.8m。比布隧道が放棄された理由は、もしかしたらこれかもしれない。

比布隧道の旧道は閉鎖されていた。断面は尖頭アーチのようにも見える。高さ制限3.8mの上にこれではいろいろと厳しかろう。

「比布隧道」の扁額は残されていた。トンネル内は閉鎖されてい入るが、中央部は開口している。路面の中央線は白線。

入口から振り返る。切り通しの向こうに見える空間は旭川鷹栖の空。

反対側(比布側)。左が現道。右に見えるのが旧道…と思いきや、これはこんな形をした変電設備であり、背後の山とは接していない。

これが旧道。こちらの中央線は黄色だ。

坑口。東側ということで旭川側よりも木が繁茂する条件がいいのか、あるいは切り通しの法面との関係か、こちらのほうが廃道感がある。塞ぎ板も、ヴォールト内ではなく坑口とほぼツライチだ。扁額は旭川側に同じ。

振り返ると、道路は断絶している。その向こうには比布川。もちろん、かつては橋がかかっていたが、いまは跡形もなくなっている。







  佐渡の外周をぐるりと一周する新潟県道45号佐渡一周線を時計回りに回った。いくつもの新しいトンネルがあり、その影には廃道が見えた。この赤玉トンネルは1998年3月竣工、その海側に廃道がある。


その脇道はガードレールで閉じられているので、そこからちょと歩くともうこれだ。

藪をかき分けていくと、廃隧道となった赤玉トンネルがある。坑口は土砂で埋められている。


振り返れば、海と、海沿いの道が見える。そこを走るクルマはほとんどない。
 







JR四国牟岐線の海部駅に着く直前にある町内トンネル(まちうち)。ホームからこのように見える。大井川鐵道地名駅付近にあるような覆いではなく、こちらは本物のトンネル。かつては山があったものが、開削されて躯体だけが残ったものだ。

この区間の開通は1973年10月1日。

空中写真で見てみよう。
(国土変遷アーカイブより。1975年11月2日撮影。CSI7513-C13B-23。リンク先をぜひご覧ください)
黄色いルートが牟岐線、矢印の先が町内トンネル。

線を除去する。
すでに開削されている(後述追記参照)。開通から2年後には、すでにトンネルではなくなっていたということで、ということは開通を2~3年待てば、トンネルを掘る必要がなかったということだ。

では、それ以前はどうだったのか。
(国土変遷アーカイブより。1968年10月2日撮影。SI685Y-C9-13。リンク先をぜひご覧ください)

1968年にも、隣接する国道55号は開削されているようだが、この町内トンネルの場所はまだ「山」だ。だからこそ、トンネルを通したのだろう。

それにしても、前述の1975年の空中写真を見ると、大きく開削されたものだと感じる。現地に経つと、ここに山があったとはちょっと想像できない広さだ。

【2014年1月5日追記】
サイト『轍楽之道』の寺田牧夫さんから、1975年8月の海部駅の写真を見せていただいた。そこには、ポータル上、数メートルの土かぶりしかなくなっている町内トンネルが写っていた。また、ライターの土屋武之さんから、宮脇俊三さんの『時刻表2万キロ』における海部駅の記述で、すでに開削されたことが描かれており、氏の訪問日が1976年5月7日だったとご教示いただいた。となると、1975年8月から翌年5月までの間に開削されたということがわかった。お二方のご教示に感謝申し上げます。







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