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羽幌線天塩川橋梁:300フィート分格ワーレントラス(追記)

羽幌線天塩川橋梁:300フィート分格ワーレントラス(追記)

分格ワーレントラス

羽幌線天塩川橋梁:300フィート分格ワーレントラス
羽幌線天塩川橋梁:300フィート分格ワーレントラス(2)で見た天塩川橋梁の、ポンツーン工法にて架橋中の写真が『写真集 国鉄北海道ローカル線』(北海道新聞社編)に載っていたので転載する。

同じ写真は(1)論説報告「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(藤井松太郎/土木学会誌21巻10号、1935年)の22図に載っているのだが、より鮮明なものとしてここに掲載する。

なお、元写真の著作権は切れているので、ここへの転載は何の問題もない。




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第二武庫川橋梁(福知山線廃線跡)

第二武庫川橋梁(福知山線廃線跡)

分格ワーレントラス



IMG_4659_R.JPG1986年、福知山線の生瀬-道場間が複線電化の新線に切り替えられた。近年、その廃線跡が遊歩道として整備され、それはそれは賑わいをみせている。私が尋ねたのは「廃道ナイトin大阪」の翌日、5月の日曜だったが、おそらく300人くらいにはすれ違っていると思う。

ここにはいくつかの廃隧道と廃橋がある。また、道中についても、遊歩道であるためにさまざまなレポートがネット上にあるので割愛するが、とても気持ちのいい道であった。

さて、ここを尋ねたのは、上記地図にある武庫川第二橋梁を見に行くためであった。この橋が分格ワーレントラスであることは歴史的鋼橋集覧などで知ってはいたが、例外なく、「分格」であることがほとんどわからない、真正面からの写真ばかりしかない。上の写真を見ればわかるとおり、隧道を出るといきなり武庫川第二橋梁であるため、写真の撮りようがないのだろう。

そんな話をnagajis氏にしたら、こっそり(?)この第二武庫川橋梁を横から撮った写真を見せてくれた。ああ、行こうと思えば行けるのか。それを見て、ここに行こうと決心した。



その、隧道を出たところにドーン! という構図は、こんなである。
IMG_4679.jpg橋梁そのものは枕木も取り外してあり、向かって右の保線用通路が開放されている。向かって左側は、柵はあるのだが施錠などされておらず、ここから橋台づたいに河原に下りることができる。たいてい、こういう場所は下に下りられるように足場が切られているものだ。事実、ある場所には犬釘が2本打ち込まれ、そこに足をかけるようになっていた。

まずは保線通路を通り、対岸へ。途中、分格部分。
IMG_4668_R.JPG
南側。
IMG_4673_R.JPG
ここから先は興味がないので、ここで戻り、河原へ下りる。
IMG_4684_R.JPG
この橋台に向かって右を下りてくる。

河川敷をいくと、これこのとおり、ほぼ横位置を見ることができる。

まずは下流側(地図でいうと右)に行ってみた。地図をご覧いただければわかるとおり、下流側からなら、真横から撮れると思ったのだ。

IMG_4689.jpg橋台が見えない。そして、引けない。この画像は17mm(フルサイズ)で撮影している。

仕方がないので上流側へ行く。その前に裏側を・・・。

IMG_4682_R.JPGそして上流側から。

IMG_4709_R.JPGう~ん、やっぱりあまりそそらない。羽幌線天塩川橋梁を見つけた時みたいな感動がないのは、やはりピントラスじゃないからに違いない。

上流側を対岸に行けば真横から撮れるのだが、飛び越えるには微妙な間隔で岩が並んでおり、運動神経のない自分は自重した。また、いったん上に登り、対岸に渡ってからまた河原に下りる道を探す路言う方法もあったが、それにはちょっと時間が惜しかった。このあと余部まで300km近く運転してしかも陽のあるうちにつかねばならぬという時間的プレッシャーがあった。


・・・と、橋台のほうからバスン! バスン! と、なにかが落下する音がする。しばらくして、四角い何かを背負った男性2名がこっちに歩いてきた。ボートかと思ったら、岩登りのマットだった。ここらへんはそういう地域らしい。

*  *  *

この第二武庫川橋梁は、2代目である。上の写真の橋台を見て不自然を感じ取った方もおられるだろう。いまの橋台はどう見ても後付けのコンクリート製。その奥というか地上側には切石積みの橋台がある。上の写真を拡大してみよう。
IMG_4711-1.jpg黄色い矢印を入れたところで石積みが異なっているので、ここから上数段(2段に見える)が初期の橋台の高さか。

では、ここに架かっていた初代の橋はどんなものだったのかといえば、明治時 代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラス桁その1(小西純一、西野保行、淵上龍雄、1988)によれば、250フィートの単線ペンシルベニアトラスだった。そのスケルトンもリンク先にある。支間253フィート5と1/2インチ(77.254m)、格間18フィート1と1/4インチ(5.518m)、高さ41フィート11と31/32インチ(12.801m)という巨大な鉄の塊である。1898年フェニックス・ブリッジ製、開通は1899年。フェニックス・ブリッジはアメリカの製鉄・橋梁会社ながら、アメリカン・ブリッジには統合されたなった会社だ。

その写真が『日本国有鉄道百年写真史』にある。そこから転載した写真がこちらのサイトにある。あいにく橋台は見えないが、1953年まで使用されたこの初代のトラス桁が、石積み橋台を使用していたのだろう。

このトラス桁は、巨大さと特殊なサイズゆえか、転用はされなかったようだ。同時期に架け替えられた120フィートのプラットトラスである第3武庫川橋梁、第4武庫川橋梁(ともにA&Pロバーツ製)は転用され、後者は短縮改造の上、弥彦線で現役なのは過去にレポートしたとおりである。

かつての姿は国土変遷アーカイブにもかろうじて写ってはいたが(左上)、縮尺が約1.5万分の1であるため、形はまったくわからない。

初代の桁は54年、この2代目は32年。新しいほうが寿命が短いとは、老朽化のため使用停止となったわけではないとはいえ、なんとも皮肉なことである。


第二和賀川橋梁/分格ワーレントラス

第二和賀川橋梁/分格ワーレントラス

分格ワーレントラス


2009年12月8日の「私家版・夜感鉄道」に掲載した北上線・第二和賀川橋梁の写真が出てきた。前出の写真を撮るために、昼間にロケハンしたときに撮っておいたものだ。今まで気づかなかったが、分格ワーレンではないか。

KITAKAMI3.jpg支間何mのトラスかは未詳。写真左の気動車は車長20mで、ざっとその6.5倍ほどある。ということは支間150m程度にも見える。

トラスを構成するのは直角三角形だろうか。そのため、端柱が45度くらいになっていて、非常にゆったりした配置に見える。

橋梁工学の本によっては、この角度は60度が適切、としてあるものもあったと記憶する。いずれにしろ、解説する人によって、斜材の角度も格間の寸法もそれなりに異なるものなので、専門外の人間はどれかを鵜呑みにしないようがよい。

kitakami4.jpg

夏の昼間の分。都合3シーズン、たぶんこの現場は20回は通っているが、分格ワーレンなんてものを気にしだしたのは最近なので、興味というのはつくづく不思議なものだと思う。

飯田線万古川梁(2)300フィート分格ワーレントラス

飯田線万古川梁(2)300フィート分格ワーレントラス

分格ワーレントラス

この橋梁は3連。豊橋方から、300フィート分格ワーレン、6.655メートル(インチには換算できなさそう)の鈑桁ふたつ。この鈑桁の全景は周囲が狭いために撮影できないので(APS-Cだし)、やむなく部分のみ掲載する。

20090112-1.jpgそれぞれの桁に「2」「3」と明記されている。写真でもっとも目立つ、「3」の手前に見える桁は、歩行用通路を支える桁であって、列車の荷重を受けるものではない。

20090112-5.jpg橋梁としての桁そのものは、非常に幅が狭い。主桁の間隔は、レール幅より少しだけ広い。シューは、桁が小さいためか、簡易な印象。

























珍しいなと思ったのは、3連の桁とも銘板が残っていることである。ワーレンの分は昨日掲載したので、ここでは第2連、第3連のものを掲げる。足場の都合で斜めっているのはご容赦。
20090112-2.jpg



















20090112-3.jpg




















ワーレンの天竜峡方のシューはこう。こちらが固定端。
20090112-4.jpg




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飯田線万古川橋梁(1)300フィート分格ワーレントラス

分格ワーレントラス

結局行ってしまった。18きっぷ万歳。
飯田線の万古川(ばんこがわまんごがわ)橋梁である。
読むときに躊躇してはいけない。


場所は、飯田線為栗駅の北すぐ。写真に見える橋梁の前後(画面でいえば左右)は隧道、右はその後為栗駅。
20090111-1.jpg

ズームイン。小さなカメラとズーム1本しか持って行かなかったよ。
20090111-2.jpg
正直なところ、パッと見ても萌えなかった。ピントラスみたに、見てるだけでにやつくようなことはない。期待していた分格ワーレンだったのに。なぜだ? 

おそらく、分格らしさが薄いのだろうと思う。これを見る前日に見た中央本線立場川橋梁に代表されるボルチモアトラスなどは、斜材に補入された分格材が美しい。

20090111-6.jpg分格部分を見てもなあ・・・。

20090111-4.jpg20090111-5.jpg為栗側の支承。


実はこの分格トラスよりも、温田側(北側)にある鈑桁のほうにちょっと惹かれた。それらについてはまた後日。
























20090111-7.jpg裏側。


20090111-8.jpg銘板(温田側)。これ撮るとき、足がすくんでしまった。高いところがどんどん苦手になっていく・・・。

昭和十年六月
三菱重工業株式會社
神戸造船所製作
-------
三信鐵道株式會社



なぜ、同じ分格ワーレンが、天塩川とこの飯田線(建設時は三信鉄道)だけにあったのだろうか? 川村カ子トが関与してたりすればドラマなのだが。川村は永山の生まれで藤井松太郎は北一已の生まれ。カ子トが10歳上であるが、どちらも旭川周辺である。


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No Image

羽幌線天塩川橋梁:300フィート分格ワーレントラス(2)

分格ワーレントラス

仕事で羽幌線のことを調べて書き物をしていたとき、ふと、藤井松太郎が初めて架けた橋梁は天塩川だったような記憶が突如よみがえった。それも、当時の国内ではあまり類例のなかったポンツーンだったはずだ。何線の天塩川かは覚えていなかったが、天塩川を渡る鉄道は、羽幌、宗谷、深名各線のみ。しかし、宗谷本線も深名線も上流の名寄あたりで渡ってしまう。ポンツーンを行うならば、そんな内陸部ではなく、ずっと河口に近い羽幌線なんじゃないか。そうだ、そうに違いない。思い込みが答えを急がせる。



藤井松太郎とは、十河信二の新幹線計画に反対して国鉄技師長職を追われ、後日その不明を反省し、島の後任としてと石田礼助に請われて再度技師長となり、のちに田中角栄に請われて国鉄総裁になった人物である。「トンネル松」と呼ばれるが、卒論はフィーレンデールタイドアーチ(フィーレンデールでさえ異端の感があるのに、それをアーチのリブに据えたものだろう)の設計であり、その指導は田中豊であるような人物である。たしか、土木学会の会長もしているはずだ。新幹線運行開始当初の「4時間運転」を提案したのも藤井だ。土盛が安定しなかったためである。


さて、「天塩川橋梁」で検索しても、同名の現在の橋やら深名線のそれやらが上位を独占するのだが、「藤井」を加えると、トップに出てくるじゃないか。思い込みが当たった。

(1)論説報告「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(藤井松太郎)…土木学会誌21巻10号(1935年)
(2)質疑「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(井山安蔵)…土木学会誌22巻8号(1936年)
(3)回答「天塩川橋梁構桁の艀式架設に就て」(藤井松太郎)…同


天塩川橋梁。
幌延側から、19.2m鈑桁6連+93m分格ワーレン+19.2m鈑桁4連、計292。63m。
分格ワーレンは、支間93m、全長94m、12パネル、格間長7.75m、最大高14.5m、主桁間隔5m、自重330t、沓と合計336.561t。設計荷重KS-15。

150フィート2連にすることも考えたが、天塩川の深さは7mであり、氷結あるいは流氷の被害もあるため、水の中に橋脚を立てることを厭った結果がこの300フィート分格ワーレントラスになったのである。


以下は田村喜子『剛毅木訥』に掲載されていたことを参考に肉付けして書く。この本は、間違いなく前掲論説報告を見て書かれている。数値は正確であり、鉄道路線名の書き方に曖昧な部分(事実とは異なる部分)があることまで一致している。

1903年生まれの藤井が帝大を出て鉄道省に入り、判任官の技手になったのは1929年。高等官の技師になったのは1933年。最初の任地、尾鷲から北海道建設事務所に異動したのは1934年である。その時代、道内の鉄道建設は槌音高く、藤井がまず手がけたのがこの天塩川橋梁であった。

前記(1)の報告に対して、(2)の質疑がある。これに答える藤井の(3)がまことにすばらしい。机上の学問的な(2)の懸念を、そんなことは考えたよ当たり前だろ、その上でこの方法をとったんだ、という言葉が行間からあふれ出る文章で吹き飛ばしている。(2)で懸念されたことは、すでに実験までしている。あるいは、考えただけで不経済だとわかる、と笑い飛ばす。

インフラは、建設期間が短ければ短いほど経済的である。建設中はその資産が死蔵されていることになるからだ。木を見て森を見ず的な、この橋梁建設に費用がかかろうとも全体を見ればそのほうが得なんだ、ということを藤井は喝破している。

(あんたのいう方法では、この冬に終わらなかったらまた来年の冬まで待つのか。)建設線に於ける鉄道橋の架設工事に於ては、其の工事の遅延は直らに全建設費の死蔵を意味するものであって、仮に天塩川架橋を1年間遅延したものとすれば、直ちに100万円程度の建設費が1年間死蔵される結果となります。故に工事計画に当っては、経済的観点から見ても、単に工事費の大小のみに止らず、其の確実性をも合わせ考えなければならないと思われます。

羽幌線(当時は天塩線)のこの区間の開通は1935年6月30日である。本来は1934年12月までに天塩川橋梁は竣工するはずだったが、まさかのトラス組み立て用ゴライアスクレーン倒壊により、1935年5月28日にずれ込んだ。まさに藤井の言ったとおり、工期の遅れが開通時期を遅らせることになった。もしこれが翌春まで持ち越されれば、その分、経済活動に~~当時の北海道のこの付近の経済活動=産炭と鰊漁に~~非常に大きな影響を与えたであろう。

この計画を指揮した当時、藤井は数えで32歳である。学士様の時代ではあるが、改めて驚嘆する。



同書中、機関車がトラスをバックで押したとあるが、ケーブルをトラス先端にかけて反転させ、それを牽引するという形であったから、9600形蒸気機関車が川と反対方向に走り出せば、トラス桁は川の方向に押し出されるという寸法であった。





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分格ワーレントラス

小学館の『勾配・曲線の旅 宗谷・』の天北線の項を読んでいて。天塩川橋梁の写真に驚いた。こんなところに分格ワーレントラスが架かっていたいのか!


歴史的鋼橋集覧
によれば、飯田線の為栗~温田間の万古川(まんごがわ)橋梁(場所は後述)が、この天塩川橋梁の図面を使った同型のものとのこと。万古川が300フィート桁なのだから、その元となったものも300フィートであろう。

国交省の航空写真を検索した。

20090105cho-77-5_c11_13.jpg<国交省の国土画像情報閲覧機能より生成。元画像=http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CHO-77-5&PCN=C11&IDX=13>これを見ると、右岸側(北側)に川の中に橋脚が立っている。左岸(南側)は、かろうじて河川敷に橋脚があるようだ。


せっかくのなので、万古川橋梁も検索したが、1万分の1の写真ではおぼつかなかった。
20090105-1.jpg<国交省の国土画像情報閲覧機能より生成。元画像=http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/ccb-76-12/c10/ccb-76-12_c10_27.jpg>この上側である(下の道路橋もこれまた・・・)。


場所はここである。

折しも週末、飯田線に乗る。途中下車しようかな・・・。





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