明治村に行ってきた。3時間ほどいたが、猛暑とあいまってまるで全部見ることなどできず、主要なもののみを見た。いくつかあったお目当てのうちのひとつがこれ、新大橋だ。
この橋は、1912年(明治45年)に木橋から架け替えるために新設されたもので、設計は樺島正義。 樺島は、日本橋、鍛冶橋、呉服橋、犬山橋、四ツ橋などを設計した、最初期の日本の近代橋梁技術者。東大卒業後にアメリカに渡り、1902年にワデル(日本の鉄道橋梁を、イギリス流からアメリカ流に転換させた張本人。磐越西線の橋梁群を設計)の事務所に入り、1904年にアメリカン・ブリッジに移り、翌年、またワデルの元に戻った人物。帰国は1906年、帰国後は東京市に奉職した。後年、鋼橋の設計がピン結合+プラットトラスからガセット結合+ワーレントラスに移行したあとも、プラットトラスを信仰していた。 この新大橋は、わずか8mばかりの一部が保存されているだけだが、実際はこんな形であった。 通常は、曲弦プラットトラス3連とするところ、3径間のうち両端は中央に向かってせりあがる形をしており、3連ということを意識させない形になっていた。そこに、明治末に橋梁デザインの意識の切れ端を見ることができるのだが、明治村の展示ではそれはかなわない。 おもしろいのは、この形に決定するまでに、樺島がいろいろな形の案を挙げていることである。ブレースドリブタイドアーチ、レンズトラス、吊橋などまであるが、そのあたりの考察は『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐)をご覧いただきたい。 これだけとはいえ、よくぞ保存してくれたものだ。もちろん、ブツ切りにされているので橋としての役割は果たすことができず、コンクリート製の土台の上に乗っている。 ピンはこう。下弦のピン部分はフタがしてある。これは後述するアイバーの見せ方に関わってくる。 驚いたのは、下弦部分のアイバーの連結方法である。全部がそうだったのかはまったくわからないが、この部分には6枚のアイバーがピンを結んでいる。その結び方に注目してほしい。 ひとつのピンに6枚のアイバーをつなぐため、垂直材側から見ると2-2-2、斜材側から見ると3-3にまとまっている。こうすることで、交互に重ねざるをえないアイバーを処理している。 この下弦のアイバー、わざわざ見えるように「フタ」をとってある。のべ8ヶ所、下弦のアイバーがあるはずなのだが、他の7ヶ所のフタは閉じられている。こんなところ、本当に「こんなところ」だ、だって説明がなにもないのだから、こんなところまで展示してあるところが、明治村の素晴らしいところだと思う。 PR |
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